風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

他人の記憶

2011-08-18 10:07:45 | 俳句、川柳、エッセイ
  人は貸した金品のことは忘れないが、
 借りた方はとかく忘れがちである。
 形のない恩義やちょっとした頂き物など、なおのことである。

  言葉のやりとりもそうで、
 相手の軽い冗談を、皮肉と受けて生涯忘れない……などという人もいる。
 言った方は忘れている。

  ずっと若いころ、食べざかりの子供がいるので家計が大変、
 牛肉なんかめったに食べない……と風子ばあさんは言ったそうである。
 自分では忘れている。

  それに、我が家は格別に肉好きな一家というわけでもないから、
 これはおそらく若かった風子の多少おおげさな話のなりゆきだったのだろう。
 ごくふつうのやりくりはしたが、とくに日々の暮らしに事欠いた覚えもない。

  しかし、相手は、牛肉なんかめったに食べないというそこのところだけを、
 くっきりと覚えているらしく、何年振りかに会ったとき、
 「このごろ、牛肉食べられている?」
  と真顔で訊く。

 「へっ?」
  こちらはすっかり忘れていて、なんのことかわからない。
  ああ、そういうことだったかと、
 「ええ、なんとか食べていますよ」

  と言ったら、次に会うと、
 「世の中厳しいけど、頑張ってね」
  などと慰めてくれる。

  風子さんは貧乏……のイメージは彼女の中で凝り固まってしまっているのだ。
 マア、この程度のことは一向に構わないが、
 他人は口に出さないあれこれをそれぞれの記憶に持っているのだと思うと空恐ろしい。
コメント
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