「おやじぃ」の日々つぶやき

日々の生活の中で見聞や体験したことを、その歳なりで感じる気持を綴ります。

昭和の記憶を辿って No.4 駅の「伝言板」 

2023年12月10日 | 思い出
2023年も、あと3週間ほどで新しい年を迎える時期になりました。我が旭川では先月11月25日(土)から翌日にかけてドカッと降雪があり、今季初の除雪車出動となりました。しかしその後は、ほとんど降雪がなく、家の窓から見渡す範囲でも、雪はすっかり解けてしまいました。

さて、この時期だと家の大掃除とか、いろいろなすべきことがあります。パソコンの不用データ整理とかもやっておきたくなります。そんな中で、削除を忘れていた写真がありました。3年ほど前に用事で「侍・士別」に行った時にJR駅に立ち寄り撮影してあったものです。



その時、この駅名のプレートの横に、これを見つけました。そうです「伝言板」です。



正に「昭和」そのものと言っていいのではと思います。個人対個人の連絡手段がなかったころ、駅での待ち合わせとかが多かったので、「待ち人来たらず」といった場合、これにメッセージを書いておいたりしました。多分、全国の駅の(場合によっては、バスステーションとかにも?)に設置されていたのではと思います。我が旭川の駅にもあったように記憶しています。
それにしても、士別駅ではよく残しておいたなぁと懐かしさと共にを感じた一瞬でした

昭和の記憶を辿って No.3 LPレコード 

2023年09月20日 | 思い出
TVのCMで数年前ごろからでしょうか、冒頭にアナログレコードを回して演奏を聴き、メインの商品を宣伝するというパターンを見かけることが多くなってきた来たように思います。先だって、サントリーのトリスウイスキーのCMの専属といっていい、吉高由里子のこのCMを見ました。右下にレコードプレーヤーがあり、その本体より大きめのレコードが回転しています。



これを見て、とても懐かしい記憶が蘇ってきました。約60年ほど前、私が中学2年ころだったか、形は違え同じようなものを親にねだって買ってもらい、これは自分の小遣いで買った何枚かのLPレコード聴いていました。ちなみにこのLPは、回転数を33.1/3に設定して聞くものです。


LPの思い出の二つ目です。1967,8年の高校2年生の頃だったか、男子同級生の自宅が学校校舎から近かったので、遊びに誘われました。その時に彼が見せてくれて、演奏を聴かせてもらったのが「ビートルズ」でした。「ビートルズ」は1966(昭和41)年6月に東京武道館で初来日公演をしました。私は外国のポップス、ロックにはまだ関心がなかったのですが、この後からすっかりはまったように記憶しています。その時のレコードのジャケットがこれだったのではないかと思います。



さて、もう一つはこの「ジョーン・バエズ」のジャケットです。彼女の初来日公演は、1967(昭和42)年2月でした。このころは、我が家もTVがあり毎日見ていました。何かの番組で「ジョーン・バエズ」が来日して、当時フォークソング歌手としてデビューしていた森山良子さんと対面し演奏するところを見ました。その頃、すでにフォークソングがかなり流行ってきていたように記憶しています。



私の人生にも青春時代があって、その時の楽しかったり、儚かったりした思い出を彩るものの一つです

昭和の記憶を辿って No.2 ステレオ

2023年05月10日 | 思い出
昭和の記憶を辿る続きで、今回は「ステレオ」の話しです。次の画像は1964(昭和39)年以前の雑誌(雑誌名は「ラジオ技術」?)の1ページです。左下隅に第18回東京オリンピックの広告があります。この五輪開催を迎える頃は、「昭和の三種の神器」と言われた電化製品が大きく販売を拡大していたそうです。五輪をTVで家で見ようというような広告宣伝が流れ、まずはTVが大いに普及したようです。(まだ「街頭テレビ」を見る人が多かった時期でもありました。)後二つは、「電気冷蔵庫」と「電気洗濯機」でした。そして、家計に余裕のあるお宅では、このような音響機器に関心を向けるようになっていたと思います。



私は中学1年生の後半から、新たに創設された吹奏楽部に入り、「チューバ」を担当しました。その低音部門で並んで「ユーホニューム」を吹いていた男子がいました。彼の家は町の商店街の「馬具店」でした。私の町の産業は稲作が中心で、その農作業の労力のメインが「馬」(ドサンコ馬)でした。馬を使うためには、色々な「馬具」が必要です。時には特注品もあったようです。そのため彼の家は大いに繁盛していたようで、ある時期に3階建ての店舗兼住宅を新築し、その3階はワンフロアのステレオルームにしていました。そこに、このステレオより更に上のクラスの機器があったと思います。私も1,2度訪ねて行ってレコードを聴かせてもらった思い出があります。



さて上のチラシの●の二つ目の行に、『FMのステレオ放送に備えたアダプターが接続できる端子付きです』と記載があります。まだステレオ放送が完全に普及していなかった時代でした。今から約60年前の思い出の一つです

昭和の記憶を辿って No.1 卓球

2023年04月24日 | 思い出
 しばらく記事のアップをしていませんでした。寒さが身体に堪える時期でもあり、外出を控えてかなり怠惰な日々を過ごしていました。3月に入ってからはWBCの中継をすべて観戦し、関連のニュースもかなり見てテンションが上がりまくりでした。その3月は全国的にも暖かったし、わが北海道・旭川も月末には積雪がほぼ消えていました。そして4月に入り気付けば今週29日は「昭和の日」の祝日で、いよいよゴールデンウィーク入りします。久々に行動制限のないGW、街中にかっての賑わいが戻るといいなと思います。

 4月になってからTVでこのCMを何回か見かけました。


「 ラーメンおつまみ」ですが、私の目が先に行ったのは、この卓球のラケットです。「ペンハンドラケット」というもので、昭和では多く使われていたようです。今では「シェークハンドラケット」が主流で、ほとんど使っている人は見かけないと思います。「ペンハンド」*1は、裏面がコルクになっているので「シェークハンド」のようにラケットの両面を使えるものとでは、バックハンドのレシーブなどで差が付くと言われています。私は、このバックハンドが苦手でした

(*1 「ペンハンド」には、片面ラバーの日本式と両面ラバーの中国式があるそうです。) 

 スポーツ音痴だった私が楽しんだ競技の一つが卓球でした。今は全くやりませんが、家の収納棚にかって愛用していた用具がありました。それがこちらです。


小学校生活で覚えていることは、5年生から部活動ができるようになっていて、私は「卓球部」に入ったと思います。ただ当時、学校の卓球台は3、4台しかなくて、6年生が優先使用だったので、新入りは球拾いばかりさせられました。今のように球止めのフェンスとかは無かったので、時には体育館の端から端まで走りまわっていました、余り楽しい思い出ではなかったです

 さて、「ベビースターラーメン」についてですが、私はこれを食べたような記憶がありません。インスタントラーメンと言えば、1958(昭和33)年に日清食品のチキンラーメンが発売されたようで、これは親から、ご近所の雑貨屋さんに買物に行かされたような情景が頭に残っています。ただ調べてみると、この「ベビースター」ですが、発売は1955(昭和30)年だそうでチキンラーメンより先行していたとか。昭和のまっただ中の話しでした








今年もプレゼント貰いました!!

2022年06月19日 | 思い出
今日は6月19日です。そう「父の日」です。今年もプレゼントをもらいました。やはり嬉しいものです



このウイスキーは、久々です。缶ビールは、製造者が網走ビール㈱ですが、麦芽(ドイツ製造)、小麦(斜里町産)ということで、「斜里町限定販売」となっているのがポイントで、希少性があると思います。出張の機会に買った来たそうです。大事に味わって飲みたいと思います

TDA(東亜国内航空)のYS-11

2021年03月29日 | 思い出
冬場は凄く寒いためほとんど使っていなかった「書斎」ですが、このところ春めいてきて朝から陽射しもたっぷりと入り込み暖かくなって来たので、散らかっている机のまわりを少し整理しました。そうすると、懐かしい写真を貼った紙が出てきたので、記憶を辿りながら記事にしました。

ザックリいうと戦後の昭和に地方空港路線を飛んでいた「東亜国内航空」の機種の内で、国産の機体である「YS-11」の写真です。ウイキペディアで見てみると、1988(昭和63)年4月に「日本エアシステム」(JAS)に商号を変更。その後、経営上のことなどで、日本航空(JAL)の傘下に入っています。

これは、旭川空港の搭乗口のすぐ前に駐機した機体です。まだ今のような「ボーディング・ブリッジ」はなく、「タラップ」で乗降してました。



YS-11が離陸するところです。


私はこのころ出張で上京することが何回かあり、この機体に乗りました。双発のエンジンは「ターボプロップ」というもので、羽田空港までの運行時間は3時間半くらいだったと思います。また、飛行高度も6,000メートルだったようで、気象の影響を受けやすく機体が揺れることが多く、かなり怖い思いをした記憶があります。なお搭乗した時期は1978(昭和53)年から3年の間だったように思います。そして、この写真もネガフィルムカメラで撮影しています。

今、旭川空港はターミナル、滑走路などの整備が進み、国際線も就航していました。しかし、昨年からのコロナ過で運航便が減少していて、やや寂しい状況になってるようです。一日も早く空港に活況が戻ってくることを願っているところです



私と「写真」の思い出

2020年10月18日 | 思い出
自分の古いアルバムには、小学生の頃に写して頂いた写真や、私が初めて自分の「カメラ」で写した写真が残っています。

その中で一番のものは、これではないかと思っています。自転車に乗っているのが、小学生4年?ころの私です。町中の自転車店で買ってもらって、まだ補助輪を付けています。
向かって右のモンペの人が伯母さん(父の姉)、左の人がその娘さん(つまり私の従姉)で、後ろの男の人がその夫の方です。Nさんと呼んでおきましょう。この方の趣味が写真で、自分で現像・焼き付けもやっていました。最初に見せてもらったカメラはいわゆる「二眼レフ」※1 だったと記憶しています。


このNさん夫婦は結婚して間もなかった?のか子どもがまだいなくて、それで私と姉をとてもかわいがってくれていたのではないかと思っています。

これは、私の生家裏の畑のブドウの木の前でNさんが写してくれたもので、お気に入りのものです。



そういうことがあったからだと思いますが、小学5年か6年の誕生祝いだったか、私が母にねだって玩具のような「カメラ」を買ってもらいました。それで写した写真の内で残っているのがこの2枚です。
これは、別に「流し撮り」をしようとしたのでなく、結果としてこんな写りになったと思います。


これは、家の軒先のツララです。



そんなことで、中学生時代は部活で写真部に入り、学校の暗室で自分の写したモノクロネガフィルムの現像と焼き付けをやりました。そして高校でも何かと写真を撮っていました。
その延長線上で大学生活でもいろいろ写してました。卒業・就職をし家庭を持つようになってからは、家族写真が主になっていきました。1970年代後半なので、カラー写真がメインになりました。カメラは一眼レフをなんとか買って、さらに交換レンズも買い揃えました。それもこれも、いい思い出です

※1 「二眼レフ」とは、こういう形をしていました。

2020年のお盆を過ぎてご先祖について思う(1)

2020年08月18日 | 思い出
2020年のお盆も過ぎて、今年もあと残すところ4か月半となりました。恒例のお墓参りは8月13日(木)に、陽ざしの厳しい中で無事に済ませました。
墓所に行くと草取りや墓石の清掃などの間に、今の自分の歳と「墓誌」に刻んだ父の行年を比べることになり、自分は父の年齢を僅かに超えているなあと、感慨のような気持ちを覚えます。そして、この先にあとどれくらい齢を重ねることが出来るのか?と思ったりします。

そうした気持ちの有り方の変化もあって、ここ数年来ご先祖を偲ぶことが多くなってきました。それで過去に収集した戸籍類を整理して、私の簡単な系譜を作って見ました。これを見ることによって道産子四代目としての自分の立ち位置を考える材料になるのではと思います。   

参考:1871(明治4)年4月 「戸籍法」

さて、これが曽祖父から私までの系譜になります。(まずいわゆる男系で辿っています。:exel2013で作成)



上の系譜の中の父の写真ですが、陸軍兵士の平時の服装のようです。おそらく、兵役に着いていた時のものでないかと思います。関連する年表を見てみると、次の2つがあります。
  
  1873(明治6)年 「徴兵令」 満20歳3年間   1927(昭和2)年 「兵役法」

これでいくと、父は1926年で満20歳なので、「兵役法」が施行されたあたりで入隊し、そのころに部隊内で撮影したものと思われます。そして約20年後の昭和20年には40歳を迎える年齢で、北海道内のどこかで終戦を迎えたと思います。この約20年の間に戦地に行ったかどうかは、特に話しを聞かされた記憶はありません。

次の写真は、同じく兵役に着いていた頃の真冬の写真だと思います。顔立ちからすると、向かって右の方が父でしょう。


父の若いころの写真は、これしか残っていません。

戸籍をながめてみると、父は終戦の前に結婚をしていて双子の女子を授かりました。ただ、二人とも病気?などで亡くし更に連れにも先立たれて、戦後直ぐのころは、所謂「男やもめ」になっていました。そして「系譜」にあるとおり、昭和21年に母と結婚し、姉と私が生まれました。この家族について私の記憶に残っている一番古いと思われることは、住んでいた家のことです。築年は相当古いもので、8畳か10畳ほどの居間の真ん中に囲炉裏があり、暖房には薪を使っていたようです。
ただ、今覚えているのは、石炭ストーブを使うようになっていたころです。その石炭ストーブはおそらくダルマ型で直ぐに燃えてしまうものだったと思います。それで、しょっちゅう石炭を補充する必要があり、その石炭庫は家に隣接した物置の中に入っていました。石炭のバケツが残り少なくなると、私たち子供が石炭を取りに行く役目だったので、真冬の外気温が20度以下でも一旦外に出て、その物置を往復していました。  ※つづく





「昭和」から「平成」の思い出の「マッチの小箱」(その1)

2019年09月11日 | 思い出
 久々に思い立って、家の自分の机周りを片付けました。その際に、棚の奥の方にしまい込んであった「マッチの小箱」類がまとまって出てきました。それぞれに懐かしき物で、眺めていると記憶の断片がよみがえってきました。

 主に旅行の際に訪ねたバーなどで記念に持ち帰ったものです。平成の初めごろのものが多いです。思い起せば、1970年代(昭和50年代)では、飲食店では喫煙がすべてオッケーで、カウンターやテーブルには灰皿とこの「マッチの小箱」類がセットで置かれていました。平成に入ってからは徐々に、マッチが使い切りライターに変って行きました。

それでは、順にマッチの小箱の思い出を綴ります。

これは、1991(平成3)年の初夏から秋にかけて仕事の出張で3、4回釧路に行った際に、飲みに行ったバーのものです。ここに足を運んだのは、当時TVでここのオーナーの娘さんが、まだ北海道内では珍しい女性バーテンダーとしてデビューしたと報じていたのを見たからでした。


お店は今も営業をされているようです。

これは、上と同じころ仕事の出張で初めて根室に行った時のものです。北海道では今では「炉ばた焼」を看板に掲げる居酒屋などが多くなりました。ただ、釧路でもそうでしたがここの「炉ばた」の作りは、お店の真ん中に大きな炉ばたがど~んと在って、その回りに360度の通路があり、さらにその回りにカウンターがあってお客が飲食する形でした。



これも上と同じころ、上司と二人で四国・中国方面に出張したとき、最初に宿泊した愛媛県松山市道後温泉の旅館のものです。歴史のある和風の風情が、何とも言えない安らぎを感じさせてくれたように記憶しています。



さて、こちらは21世紀に入ってのものです。2008(平成20)年10月に行った、東京銀座のバー ルパンのマッチです。



この時ちょうどルパンの創業80周年で、来客に記念のグラスを渡していました。私ももちろん貰いました。それは今、私の行きつけの店のバックバーに飾ってあります。そしてそのとき撮った写真の一部です。




これも2008(平成20)年10月23日に東京旅行の中で、ぽけかる倶楽部というイベント会社の「お茶屋で芸者さんの芸事と料理を楽しもう」といった企画に参加したものです。



こらは、その時参加者に配布された「向島花街マップ」です。



そして記念に撮った写真で、向かって右が芸妓のくる美、左が半玉の万てんです。



マッチの小箱はまだありますが、一度に全て掲載すると長くなるので、続きはまたアップします。



北竜町で広大なひまわり畑を満喫!!

2019年08月12日 | 思い出
お盆の入り前の日曜の山の日に、家族でのお出かけをしました。用事を済ませてから、北竜町の「ひまわり畑」に行きました。数年ぶりだと思います。日曜の午後なので駐車場に入れるか心配でしたが、タイミングが良く畑の間近の所に置けました。

まずは、世界のひまわりから観賞しました。







このひまわりは、とにかく葉っぱがデカい



こちらは、ここの名物ひまわり迷路です。



広大な畑の向こうから観覧用の車が向かってきます(展望台から)



トラクターがけん引する「ひまわり号」でした。これに乗らなかったですが、料金は大人五百円です。他に百円で乗れる自転車の貸し出しもあります。



ひまわりは漢字だと「向日葵」なので、やはり真夏の「花」とイメージさせてくれます。その花の上に夏の晴天の青空が見られれば、いう事なしです。この日の空は残念ながらうす曇りだったので、少々インパクトに欠けたかとも言えますが、気持ちをアップさせてくれるのには十分でした。



気持ちの良い夏の一日でした




改めて注目されている?神居古潭

2019年05月17日 | 思い出
私の友人、森脇啓好さんの写真展が今日から深川市で開催されるので、観賞に行って来ました。その帰り道に「神居古潭」に立ち寄って見ました。前回ここに来たのは、記憶では約20年前くらいかと思います。毎年国道12号線を何回か通っていますが、いつもスルーしていました。

この地名表示のポールは、以前設置されていなかったように思います。



そして左隣には、平岩弓枝氏の作品「旅路」の文学碑とその出来の看板がありました。これによると、NHKの連続テレビ小説で1967(昭和42)年4月~1968(昭和43)年3月まで放送されていたんですね。この時期だと、私はちょうど大学に進学した時でした。寮生活をしており、テレビというと食堂の休憩コーナーに1台あっただけで、観る機会はまずなかったです。



こちらは神居岩の解説看板です。説明には書いていませんが、標高は233メートルで、ハイキングコースとなっています。また、この崖でロッククライミングを楽しむ方がいるようです。



これは見たとおりの吊橋です。橋の注意書きには、通行人数100人以下と記されていました。



蒸気機関車3輌が展示されています。屋外展示なのでどうなっているかなぁと思いましたが、メンテナンスはしっかりされているようでした。



神居古潭の旧駅舎です。1960(昭和35)年前後にSLに乗って旭川に行ったように記憶しています。その時は各駅停車だったので、この駅舎を見ていたと思います。



旧駅のホームの案内板です。文字もかすれ掛けてかなり古びた感じでになっています。旧国鉄時代の物ならば、それはまた郷愁を感じさせるものかもしれません。



平日の午後3時過ぎころだったので、この時の来訪の人は3、4グループ?だったようです。たまに来て見るのもいいものだと思いました







私が登山好きになった原点?雨竜沼湿原

2017年09月21日 | 思い出
 私の趣味として挙げられるのは「登山」です。まあ夏山が主で、あとは秋口と山開きのころなど、スリーシーズン型でしょうか。冬山はやってこなかったです。

 でも振り返ってみると、生まれ育ったところは石狩川の流域で米作が主の町で、町域内に山というものがなくて、「山に登る」ということを考えたことは無かったと思います。

 きっかけは高校2年の1学期の前半に、登山部員だった同級生がいて休み時間に「面白いところがあるから行ってみないか?」というような話になったのだと思います。それが「雨竜沼湿原」で1965(昭和40)年の6月でした。

 ここは今は国定公園になっていますが、経過を調べてみると、まだ北海道立公園の時でした。



 例によって北海道新聞社刊の登山ガイドマップです。これは内陸側からのもの。暑寒別岳に登るルートで日本海側の増毛からもあります。



 ここに向かったのは、6月26日(土)の午後からで、チームは引率をお願いした先生1人と私を含めた男子5、6人でした。雨竜町市街から暑寒ダムまでは路線バスで行ったと思います。そこから今の南暑寒荘(当時は山小屋だった?)まで3~4時間歩いたと思います。小屋に到着したのは午後9時を過ぎていたと思います。

 さて、翌日湿原へ向かいました。この写真に「雨竜沼湿原半景」とメモしてありますが、おそらく「展望台」から撮ったものでないかと思います。



 そして、まだ残雪の残る暑寒別岳(右)と南暑寒岳(左)と、手前はあまたある湿原内の一つの沼です。



 これは、当日途中まで歩いた「山ガールズ?」です。私たちは展望台までと決めていたと記憶してますが、この方達は暑寒別岳まで行くと言っていたように思います。



 今回の記事をアップしようと思ったとき、そういえば亡くなった母が、職場の親睦行事で雨竜沼に行ったような話をしていたのを思い出しました。母のアルバムをめくったらありました。日付は1964(昭和39)年8月9日と記されていました。多分、その話と写真を見たのがきっかけになって、私も行ってみたいなと思っていたのかもしれません。

 ところで、以下の3枚(母の写真から)は何をしているところか? 実は沼の中には浮島があり、人が乗ってロープで引いてもらうと岸まで動いて行くというので、みんなで楽しんでいるところです。もちろん、今は沼の傍に近付くことも禁止されているので、これは絶対にできません。ただ、この様な沼の形成のされ方は、高山帯ならではのことかもしれません。 


 





 歩く行程と逆になりましたが、これが「白竜ノ滝」です。落差はさほど大きくないですが、水量が豊富なのと滝壺まで行けるのが魅力かもしれません。



 同じところの写真ですが、これは1988(昭和63)年7月初めころに中学生の長男と二人で行った時のものです。





 この滝の傍に、このような記念の石碑を見つけました。群馬とか昭和21(1946)年、「白瀧不動明王」などの刻印の文字が読めます。今も草に覆われていても残っているでしょうか。



 息子と二人で沼の一つの前で写したものです。この頃には、一部で木道が整備されてきていたように思います。



 雨竜沼湿原は、6月下旬~7月上旬辺りが野の花々の見ごろと言われています。この時も、まあまあだったと思います。





 雨竜沼にはこの後、2008(平成20)年8月にも、湿原巡りを楽しんでいる先輩と二人で訪れています。(この時は湿原の入り口手前まででしたが。)

 こうして振り返ってみると、なかなか思い出の詰まったところかと、懐かしい心境です。






雌阿寒岳登山記(1998.7.19)

2017年08月20日 | 思い出
 7月19日の朝、宿泊のテントから外を見ると、晴れ間があって、まあまあの天気だったと記憶しています。しかし、斜里岳はやはり雲の中で山容は見えませんでした。
 
 予定通り清里町を出発し休憩なしで一気に雌阿寒温泉の登山口に到着し、登山を開始しました。午前10時40分と当時のメモに記してあります。登山道は大きな木の根などが複雑にからまっているところもあり、やや歩きにくかったような感覚が残っています。

※北海道新聞社刊の登山ガイドマップです。



 この写真は、おそらく森林限界を過ぎてはい松地帯に出たあたりだったと思います。眺望が一気に開け天気も良いので気分が上々となりました。写真の奥にはオンネトーの湖面が見えています(^^♪



 ここは雌阿寒岳の噴火口のヘリ辺りから、火口の中が見えるところです。



 そして雌阿寒岳の噴煙です。その右側にチラリと阿寒富士の山肌が見えています。



 山頂(1499m)での記念写真です。



 これは、阿寒湖畔と雄阿寒岳だと思います。



 再び雌阿寒岳の火口と噴煙です。手前の丸い水面?は「青沼」です。太陽の位置とか見る角度によって、青い色の水面に見える時があるようです。



 ところで、この数年後だったか、この火口の噴煙の噴出が強くなって、入山規制が引き上げられました。その後はレベルの変更を何回かやっていたようです。
 直近の警戒レベルを調べてみましたが、2015(平成27)年7月28日に警戒レベル2へ引き上げ、7合目より上に立ち入らないこと、となっているようです。とすれば、この時になかなか貴重な景色を見られたのだと思います。


 戻りはオンネトーの登山道を使い、午後3時40分ころ登山口に下山。雌阿寒温泉まで徒歩で戻り、温泉に漬かりました。そして車でオンネトーのキャンプ場に向かい、テント泊をしました。

 この写真は、7月20日に三国峠経由で旭川に帰る時、阿寒湖畔沿いに車を走った時に撮ったものです。写っているのは雄阿寒岳だと思います。



 こうして思い出をたどってみると、天気に恵まれた登山行だったと思います。斜里岳に登れなかったのは残念ですが...この先に古希の記念にでもトライしてみるか、とも思いますが。




知床・羅臼岳登山記(1998.7.18)

2017年08月01日 | 思い出
もう約20年ほど前の登山の思い出です。いつもの山のパートナーのS君の企画で、7月20日海の日(月)の前の週末に加えて、金曜日を休日にし旭川を午後に出発して知床に向かう予定にしました。金・土・日・月の3泊4日で、羅臼岳他と雌阿寒岳に登る旅程です。

 ただ、当日S君は仕事の都合で休みが取れず、結局、出発は夕方になってしまいました。4時間半ほど休憩なしで車を走らせ、岩尾別温泉に到着したのは午後10時20分ころと、手帳にメモしてありました。

 ともあれ、無料の露天風呂に入り缶ビールを飲み干してから、ホテル地の涯(ちのはて)の前庭でテント泊しました。午前零時ころ就寝しました。

※北海道新聞社発行(1993年初版)の登山ガイドマップです。



これは7月18日に羅臼岳を下山した後に撮ったものです。ホテル地の涯のモニュメント?かと思います。ホテルは今もやっているようです。



7月18日の朝ですが、これは登山口の「木下小屋」です。前日眠りに着いたのが午前零時を回ってからでした。真夏なので午前4時過ぎころには周りがザワザワと賑やかになり、起きてしまったので、かなりの寝不足状態でした(~O~;)
 手帳メモには午前6時20分ころ登頂開始と記してあります。



ここは羅臼平で、後ろが目的の山の羅臼岳です。
 羅臼平には午前9時20分ころ到着ました。3時間ほどの登頂の疲れで眠気がピークに達していて、S君と二人して草むらに仰向けになり爆睡しました約30分くらいだったようです。その後なので、顔はスッキリしているはずです(^^)/



そして、午前11時25分に、羅臼岳の山頂に立ちました。天気に恵まれて、素晴らしい登山になりました🙌



 写真の奥に写っているのは、硫黄山です。その左には、オホーツクの海が見えました。今までは大雪山など内陸の山々に登って来たので、こういう山頂からの眺望は初めてで、とても感激しましたぁ



 さて、その後は約2時間ほどで下山。翌日の登山に向けて清里町に向かいました。その途中に見えた「斜里岳」の姿です。S君との話しで、これは明日ぜひ登ろうねと決めて、清里町内の斜里岳が眺められる場所で、テント泊をしました。



 そして翌日19日(日)の朝を迎えました...オホーツクの天候は気まぐれというか、甘くなかったです。テントはポツポツとかなりの雨音を立てていました。外を見ると斜里岳の雄姿は雲の中で全く見えませんでした。

S君との話し合いで斜里岳登山は諦め、天候の回復を期待の上で雌阿寒岳に登ることにし雌阿寒(野中)温泉の登山口へ向かいました。幸い天候は晴れのようで、期待感を持ちながら午前10時半頃から登り始めました。

つづく~





大雪山・お鉢平めぐり(1999・9・18)

2017年06月02日 | 思い出
 北海道・道北も初夏の季節となりました。アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれる大雪山も、今年は6月18日が山開き、夏山シーズンの正式な幕開けです。

 それで、季節は違いますが大雪山の中の名所の一つ、「お鉢平めぐり」を一人で歩いた思い出を振り返ろうかと思います。すでに約18年前の事なので、自分の歳も50過ぎでまだ足には自信があった頃でした。

 まずは、昭文社の案内図から。「お鉢平」へは幾つかのアクセスの仕方があります。ただ、やはり層雲峡ロープウェイとリフトを乗り継いで、黒岳7合目登山口から行くのが一番楽だと思います。ちなみに、案内図の黒岳山小屋の先からお鉢平を一周する距離は約10kmです。(大雪山の主峰旭岳ロープウェイを使って裾合平を歩いて行くコースもいいのですが、時間ははるかにかかります。)



 そして、これは私が作ったコース予想時間と実際の所要時間の記録です。



 さて、黒岳山小屋の先(北鎮・北海分岐)を歩き始めからの眺めです。これは、多分、凌雲岳?(2,125m)だったように思います。9月中旬なので、紅葉もピークを過ぎかかっています。





 ここは北鎮・中岳分岐の辺りだったと思います。(コースタイムでは北鎮岳のところに標識に霜柱」と記載していますが、後の北鎮岳の写真には写っていないので、記載違いかもしれません。) 大雪山の9月中旬は、いつ初冠雪を迎えてもおかしくない時期です。それを感じさせるように降雪?が強い風で標識の柱に凍り付いたようです。



 コースの周りの山肌には、小規模ながらいわゆる万年雪と思われる雪渓が見られます。



 まずは北鎮岳頂上に登りました。



 間宮岳に向かって歩き出したとき、遠目にやや大きい黒い塊が見えました。まさかクマ?と一瞬思ったかは忘れましたが、動かないので動物ではないだろうと近寄ってみたら、やはり岩の塊が風化したものでした。何となく針ネズミのようにも思えました。



 さてこれは、間宮岳です。(標識が逆光のため文字が読めませんが、画像を拡大して確認できました。)



 そして、北海岳の頂上です。




 この日は、歩きの方は約7時間半をかけています。さすがに9月の下旬に入るころなのか、それぞれのポイントで、人と会うことはなかったように記憶しています。いずれにしても、晴れの天気の中で、「黒岳」「北鎮岳」「間宮岳」「北海岳」とまとめて頂上に立つことが出来て、満足感一杯の山歩きとなり、良い思い出です。