「おやじぃ」の日々つぶやき

日々の生活の中で見聞や体験したことを、その歳なりで感じる気持を綴ります。

終戦の日・戦時下における父の家計資料から見えてくること

2023年08月15日 | 時の話題など
2023年8月15日、78回目の終戦の日を迎えました。我が国は、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃から「太平洋戦争」を戦って敗れ、この終戦の日となりました。この時期に、私の父は年齢35歳で、父親(私の祖父)と、初婚の妻と養女の4人で戦時下の生活を送っていました。その父が1975(昭和50)年に満70歳で亡くなったあと、私が遺品を整理・処分していたところ、この戦争末期頃の生活の様子を知ることのできる資料がいくつか残されていたので、とりあえず保管していて今に至りました。
マイブログを始めて15年余りになりますが、いつかはこの資料のことを記事にアップしようと思っていました。その内そのうちにと先送りしてきて、これ以上は先送りできないなと感じるところがあり、今回掲載する決断をしました。

【推察】この家計資料は、戦時下当時、父が直接保管していたのではなく、先妻の方が残していたと思います。その先妻の方が終戦のころに亡くなったので、父がそのまま持ち続けていたものだろうと思います。

まず、電気料金の領収書です。昭和18(1943)年9月のものです。集金は「北海道配電株式会社」が行っています。特に変わった記載はありません。


そのあとの昭和18(1943)年10月の領収書です。矢印のように、左側に「電力は戦力だ」というスローガンが記載されています。いわゆる時局の変化が伺える大きな変化ではないかと思います。領収書の書式もすっかり変わっているので、相当の期間前から準備された物であろうと考えられます。


上の領収書の書式は、昭和19(1944)年3月までで、翌月からは、「電力は戦力だ」が2行のゴシック文字になり、より強調されているように見えます。



次に、これは札幌市に納付していた「市民税」の領収書と思います。やはり左側の余白に昭和18(1943)年度のものには「税金は戦う祖国の血だ、肉だ」と記されています。


そして昭和19(1944)年度のには「必勝を誓う人に滞納なし」と印刷されています。市役所は行政機関なので当時の国策に従っていたとは思いますが、こういうところまで「気運」を盛り上げようとしていたのかと思わざるを得ません。



そして、日常生活に欠かせない衣料品の配給統制の関係です。この制度は、下記のように1947(昭和17)年から導入されました。(角川新版・日本史辞典1997年初版より)



その「衣料品点数表(昭和17年2月 商工省)がこれです。新日本史辞典の説明のように、一人背広2着分の点数となると、50点✕2=100点なので、これで年間の全ての衣類をまかなうのは、とても厳しいことだったのではないかと、推察されると思います。(※画像サイズが大きいため上下に分割して掲載しています。)  




衣料切符の現物が、これです。



切符の裏の注意書きです。「三、」の注意書きをご覧ください。『晒、ネル、タオル、手拭、靴下、足袋、綿縫糸などを買う時には小切符の外に「制限小切符」が要ります。』とされています。



上で指している「制限小切符」の現物はこれです。



裏側の注意書きです。こちらには「一、」の行の途中の傍線部分に注目です。「・・・・決戦下の衣料生活を戦い抜いて下さい。」 このような記載の裏側にどんな生活の現実があったのか?と思わざるを得ません。



父の残した戦時下の生活の家計資料は、これでおおよそのものをアップしました。それに当たって、個々の資料をしっかりと見て、新たに判ったこともありました。私は父が終戦後に再婚してから生まれたので、戦時下の生活の体験はありませんが、終戦の日を迎える毎にTVの特集映像などを見て考えることが多々あります。それにこのような身近な資料と合せて考えると、戦争と国民との関係性などに、いろいろと思い致すことがあると感じます。

今回、これらの資料をブログにアップしたのは、自分の「終活」の一つと考えて行いました。私は来年の誕生日を迎えることが出来れば、所謂「後期高齢者」になります。このような形でデジタル遺品としておけば何かあっても、概ね安心できると思っています。あとは、資料の現物すべてを出身地の役所に引き取って頂けないか、これからお願いしに行こうと思っています。









北広島・エスコンフィールド観戦記(2回目)!!

2023年08月03日 | 旅行
暑かった7月も過ぎようとしています。その30日に、エスコンフィールドで、対オリックスのカード第3戦を観戦しに行って来ました。日曜のデーゲームで「超夏祭り」開催中ということで、来場者もかなり多く、西口のシャトルバス乗り場は長蛇の列。それもあって、今回もJR北広島駅からエスコンまで歩行者道を使いました。ただ、この日は風が弱く蒸し暑かったです それでも今回は誘導員が配置されていて、人の流れに乗っていくとエスコンに向かう途中で、「BIGG BOSS橋」を通りました。

この日はドラゴン何とかという企画で、グラウンド他にこんなマスコットが飾られていました。



今回の観客席は1階の右バッターボックスの真裏に当たる所でした。すごく見やすい感じで、マウンドからホームまで18.44mの距離が近く見えたように思いました。なお、マウンド上は、先発のポンセ投手。投球内容は余り良くない感じで、失点したあと早めの交代でした。



さて、これは自分が座っている座席から1塁側ベンチの先の「ダグアウトクラブシート」の方です。グラウンドレベルより座席が低い位置になっています。この画像の1塁コーチの先に写っているボールボーイ(黄色の四角で囲んだ所※1)に注目しておいてください。


さて、試合内容が余り芳しくないので、docomo club loungeへ行って食事などを楽しんできました。ダグアウトクラブシートでの観戦はできないですが、立食で試合は観ることが出来ました。(テーブルあり)こちらはダグアウトクラブ席後ろの看板?です。


さて※1の画像のBBくんは、ここに居ました


ダグアウトクラブ席から見た大型モニターの画像です。何人目かの投手交代でちょうど「館野選手」が登板したタイミングでした。


さて、この日は土用の丑の日だったので、食事のメニューにウナギのかば焼ミニ丼が出ていました。いただいてみましたが、なかなか美味しかったです


試合も終盤に入り、ファイターズはどうも敗色の気配となってきたので、1Fの観戦席を引き払い、2階に行って「七つ星横丁」のお店を眺めてきました。(横丁入り口の提灯です)お店の中に、わがまちの「旭川 天金」がありました。


そして、ファイターズ敗北の場内アナウンスを聞いて、エスコンの「コカコーラゲート」から退出しました。シャトルバス乗り場は30分待ちと看板出ていました。帰りも徒歩と決めて、タワー11ゲイトの方に回りました。ちょうど盆踊り櫓の提灯に明かりが灯ったころでした。なかなかいい雰囲気です。TVでは、この櫓の上でファイターズ・ガールが、浴衣姿で踊っている映像を流していました。今日も3イニングの後には、グラウンドで浴衣姿の「キツネダンス」を披露していました。



今回2度目に行って、すれ違う来場者の姿を見て感じたことです。まずは、高齢者、障碍者の方の車椅子、加えてベビーカーを押す若い家族の姿も多いように思われました。あとは、男女とも何故か小さめのキャリーバッグを引いている方々が目に付きました。観光旅行の途中か、あるいはスタジアム内のホテル利用の方?かもと思いました。
この日はファイターズ敗退で悔しさが残りました。それで、9月3日(日)のオリックス第3戦を観戦することにしました。是非ともリベンジを果たして、ヒーローインタビューまでしっかり見たいと思っています