
淀川長治が興奮して解説にならなかったという「スペースバンパイア」を観る。1985年のSFホラー映画である。
地球からの宇宙船が、宇宙を浮遊する透明ケースに入った3体の人間を発見する。美しい二人の男と一人の女。三人とも全裸だった。
宇宙船はそれらを地球に持ち帰り、彼らが何ものであるか突き止めようとする。あまりにも美しい裸の女に興味を抱いた一人の研究員が、引き寄せられるように近づくと、女はいきなり目を開き、男を誘った。
女はその男の精気を吸い取り、ミイラ状態にしてしまう。だが、女の犠牲になった男は二時間後に自らも吸血鬼と化し、他の人間を襲い精気を吸い取るようになる。
そうして脱走した女は、街中をパニックに陥れる。
女バンパイアを演じるマチルダ・メイの美しすぎるヌードが評判の映画で、何度かテレビ放送もされている。解説の淀川長治がメイの乳房ばかりを解説して、映画の解説になっていなかったという。
ちなみに、DVDには「無修正版」とあるのだが、どこに修正の必要があるのだろうか、と思う程度である。
それはさておき、この映画で感心したのは、地球を侵略しようとする宇宙生命体が、地球に侵入するために地球人が好む姿で現れるというアイデアである。“見える”ということは、目が映し出した画像を、脳が解析して形を認識する。ということは、もし宇宙人が人間の脳をハッキングできるとしたら、自分の姿をどのような形にも見せられるということになる。
コンピュータは人間の脳を模したものだから、科学技術が発達すれば、脳をハッキングすることもできるようになるかもしれない。恐ろしい。
宇宙のことで人類にわかっていることなどほんのわずかでしかない。わからないことがあるのはもちろん、わからないということすらわかっていないことがほとんどである。それなのに、科学で証明できないことをあり得ないと決めつけたり、はては偽科学だなどと非難する。傲慢ではなかろうか。
科学で証明できないからといって頭から否定するのは、それこそ非科学的だ。
パラレルワールドや高次元世界がもしかしたらあるのではないか、と考えるほうが夢があるし希望もある。「海底二万里」を書いたジュール・ヴェルヌの言葉で「人間が想像することはすべて実現可能である」と言っている。そして「実現しないならば、実現させるのに必要な努力をしなかったからだ」とも。
発明も発見も、想像から始まる。壁掛けテレビに携帯電話。人工衛星、月ロケット、どれも半世紀前まではSFの話だった。
いずれは、超能力も普通にだれでもできるようになるかもしれない。
UFOも宇宙人も、あたまから信じないのではなく、もしかしたらと想像できるほうがずっと楽しい。
だけどどこに修正の意味があったのかよくわかりません。期待はずれ。
でも、淀川長治氏の気持ちはわかります。