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橋本毅彦+栗山茂久「遅刻の誕生」

2009年12月29日 | 本と雑誌
Chikoku
 
遅刻の誕生
橋本毅彦+栗山茂久 編著
三元社 刊

 「朝日新聞」の『天声人語』に引用されていて何となく興味があったので、図書館で借りて来た。
 実は購入しようと思ったのだが、あまりに高価(3800円+税)なので、大枚払って買うほどでもないと判断した。
 
 時間の経過速度について、以前このブログに書いたが、この本はまさにそれをテーマにしたものだ。
 
 明治維新前まで、日本人の時間に対する感覚は、かなり悠長なものだったそうだ。
 まえがきに、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々」から引用がある。
 
 「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」という文句が一言述べられると、その悠長さを示す事例が次々に紹介されていく。修理のために満潮時に届くよう注文したのに一向に届かない材木、工場に一度顔を出したきり二度と戻って来ない職人、正月の挨拶まわりだけで二日を費やす馬丁など。そして当時の日記には、「日本人は無茶に丁寧で、謙譲ではあるが、色々の点で失望させられ、この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、此所を去ってしまうのじゃないかとさえ思う」と暗澹たる思いで認めていたことが、感慨深げに記されている。
 
 日本人は、明治五年までは「不定時法」で時間を計っていた。
 「不定時報」というのは、日の出を明六ツ、日の入りを暮六ツとし、そこを基準に昼と夜をそれぞれ六等分にした計時方法である。
 この方法では、季節によって時間の長さが変わってくる。しかも、分単位、秒単位の計測は不可能だ。一刻は二時間で、それを分割しても半刻、四半刻までだから、細分化は三、四〇分までがいいところだ。
 約束の時間から1時間やそこら待たせるのは普通のことだったのだろう。
 近頃の若者は、待たされても15分だというから大変な違いである。
 つまり、よほど遅れない限り、多少時間がずれたからといって文句をいわれることはなかった。遅刻という概念はなかったといっていい。
 
 それが、明治五年、大政官達三三七号によって、明治六年からは「定時法」に改められた。これには理由があって、明治五年五月、品川・横浜間に鉄道が開業し、同年九月には新橋・横浜間まで延長され、運転間隔を一定にするために、これまでの「不定時報」では非常に都合が悪くなったからだ。
 
 現代の日本の鉄道は、世界有数の正確さの定時運行を誇っている。よくぞまあ、ここまで方向転換できたものだと驚くが、これには日本人ならではの几帳面さが働いた結果のようだ。
 つまり、その几帳面さのおかげで、遅刻なるものが誕生したことになる。
 日本人は、時代が下るのと並行して時間に追われ、忙しくなり、自ずと時間は駆け足で速く過ぎていく。
 
 「遅刻」とは、明治以降の「定時法」がもたらしたものと言えるようだ。
 たしかに、明治以降、時間は合理的かつ効率的になったことは事実で、それが文明の発展にかなり重要であったことは認めたい。だが、それがすべて良かったのかどうかとなると、首を傾げるところがなくもない。
 
 それにしてもこの本、内容からしてこんなばかばかしい値段を付けるような本ではない。もう少し簡潔にして二千円前後に価格設定をしたら、けっこう売れると思うのだが。
 
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