goo blog サービス終了のお知らせ 

ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

南京事件71周年 12・13集会

2008年12月13日 | 昭和史
過去と向き合い、

東アジアの和解と平和を


Nonaka2

 楽しみにしていた野中広務氏の講演に行ってきました。
 後半には笠原十九司さんと能川元一さんの対談があるので、もちろんそちらも目当てです。

Nonaka1

 野中氏は小学校6年生のとき、南京占領のニュースをリアルタイムで聞いているそうです。
 もちろんその時に、南京事件のような大虐殺が起きていることなど国民には知らされていません。

 国交正常化前の1971年にはじめて南京を訪問して、以降あわせて3回訪問しています。
 98年に訪問したときは、「公立南京大虐殺記念館」ができたということで訪問したものの、30万人という被害者数に納得できず、その表示を避けて「献花」をおこなったとか。
 当時の日本の新聞が展示されていたが、新聞社名はあえて表示せず、女性に対する残虐行為もあえてあらわされていなかったことに、日本に対する配慮が感じられたと語りました。
 「しかしそれでも、正しい史料がきちんと表示されていました」

 旧日本軍遺棄化学兵器の被害者訴訟で来日した少女に出会って。
 「政府は訴訟で争うのではなく、誠意を持って対応してほしい」

 自身が議員を退任したことについて。
 「この国をむちゃくちゃにする小泉純一郎と同じ時期にバッジをつけているのは恥ずかしい。家内にやめるぞ、と言った」

 はじめて生で講演を聴いた野中氏の印象は、頑固そうだけどユーモアにとんだ愉快なオヤジさん、という感じでした。

 自身冒頭で、「自民党の元幹事長が、なんでこんなところに顔を出すのかと非難を浴びそうですが」と語ったように、微妙な部分で同意しかねる内容もありましたが、しかし、平和に対する意識はしっかりしたものをもっており、OBとして自民党に影響を与えてほしいところです。
 80歳、まだまだ健在です。

【追記14日】
 この記事には、珍しくも何ともないことなのであえて書きませんでしたが、野中氏が記念館を後援会員とともに訪れた際、会員の一人から「南京で何人もの女子供を上官の命令で殺した」と告白したことが、ネット右翼の間でウソだでっち上げだと波紋を広げているようです。
 あいかわらず、「連合軍のプロパガンダである」とか「東京裁判ででっち上げられた」とか「70年代以降『朝日新聞』が捏造した」とか言っていますが、それらの論理がすでに学問的に破綻していることすら知らないのか、あるいは認めたくないようです。
 敗戦後に捏造されたものでない証拠はいくらでもあります。
 その一部を紹介すると、第11軍司令官として武漢攻略作戦を指揮することになった岡村寧次中将は、「南京事件の轍を履まないための配慮」と題した次のような回想を残しています。

 「十月十一、十二の両日、私は幕僚をともない、北岸の広済に第六師団を訪問した。(中略)もう一つの重大な目的は、近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第六師団をしていかにして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するにあった。ところが、稲葉師団長と第一線を承わる牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、すでにこのことに関し成案を立てていた。両氏が言うには『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢口市街に進入せしむるのは、師団中もっとも軍、風紀の正しい都城連隊(宮崎県)の二大隊にかぎり、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の連隊を逐次交代し、漢口前面に到達するときには必ず都城連隊を前衛とするようにする』と」

 要約すると、稲葉師団長と牛島旅団長が言うには、日本軍の兵隊たちは強姦罪が止まないから、漢口(現在の武漢)攻略戦で漢口市街への進入は、師団中で最も風紀の正しい都城連隊の二大隊に限るようにせよと言ったということです。

 また、支那派遣軍の総司令官だった松井石根は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監中、南京事件の事実を認めた上で、その責任は師団長にあり、自分には責任がないと弁明するとともに、その内容を獄中日記に遺しています。
 さらに、次のような記述も、松井石根が南京事件を発生当初から知っていたことがかいま見られます。

 「九日、読売新聞に石川達三なる者談話記事あり。南京当時の暴行事件を暴露せるものなり、小説家の由(よし)、困った男なり。わざわざ問題の種を邦人中より蒔くの愚、蔑(さげす)むべきなり」(一九四六年五月一〇日付)

 以上のように、南京事件は発生直後から軍中央で問題化されていたことであって、連合軍のプロパガンダでもなければ、敗戦後の東京裁判や朝日新聞の報道で捏造されたものでもありません。
 野中氏が講演会員から聞いたような話は、当時南京攻略に参加した日本兵の証言としていくらでもあります。それが少数であれば裏付けをとりにくく証拠としては弱かったかもしれませんが、現在までに大冊の本が何冊もできるくらいの証言が、日本側と中国側から集められています。
 証言や証拠類のすべてをウソだでっち上げだと言っていたら、広島・長崎の原爆投下も東京大空襲も消滅させることができるでしょう。

 まるで、おもちゃ屋の前でひっくり返って泣きわめいているだだっ子と同じですね、ネット右翼は。
 しかし、かといって放置しておくことは、彼の「言い分を認めた」ととられてしまいますから、ここにはっきりと誤りを指摘しておくことにします。(追記終)

Kasaharakumakawa

 後半は、笠原十九司さん(左)と能川元一さん(右)の対談形式で、南京事件の象徴としての「百人斬り競争」について、史料を示しながら概略が語られました。

 「新聞記者までが『これでチャンコロ(戦時中使われた中国人の蔑称)をぶった斬ってくるといって、取材目的で戦場に出かけるのに帯刀して行った。そういう時代だったんです」

Kasahara

 「地方の新聞記事には、戦場で地元の人間が手柄を立てると、写真と名前に親のコメントを載せて掲載していました」
 「新聞の見出しがすごい『愛刀に血の御馳走』、『和尚でも人を斬れる』。殺生しないはずの坊主が人を斬るわけです。まるで江戸時代。チャンバラの世界ですね」
 「(歴史改竄派は)日本刀は2、3人しか斬ることはできないといい、それを『百人斬り競争』はなかった証拠のように言っていますが、それは白兵戦でのこと、名刀は40人以上斬っても刃こぼれひとつしないことが実証されています」
 「論争は学問的には決着していますが、政治的な部分で、自民党右派を中心に不戦決議に反対するなど、相変わらず反論がでています」

 笠原さんは、現代の戦争は殺す側と殺される側の距離が開いていることを指摘し、それがゲームのように人を殺すことに対して心理的な抵抗がなくなることの危機感を訴えました。

 「『現代の感覚で過去をさばいてはいけない』という論理がありますが、しかし、当時も理性ある軍人は暴走する麾下の兵士に『スポーツ競争じゃないんだぞ』と戒めたと記録に残っています」

 「小中学生への教育で、もっと自我を知る教育をすすめ、それによって他者を知ることを学ばせなければいけません」

 いつものことながら、理路整然と話を進める笠原教授の講演はじつに説得力があります。

 閉会後、年明けに大学でお会いする約束をして、帰路につきました。

 開会の挨拶が俵義文さんで、閉会の挨拶が石山久男さん、そして会場には大江・岩波沖縄戦裁判の事務局長、寺川さんの顔も。
 メンバーがけっこうダブってます。

 しかしやっぱり会場は年齢層が高い。もう少し若い人に参加してほしいところですが。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆出版と原稿作りのお手伝い◆
原稿制作から出版まで、ご相談承ります。
メールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



『田母神論文』全文読んでみますか

2008年11月04日 | 昭和史
 田母神俊雄という自衛隊の航空幕僚長が、政府によって任命された役職であるにもかかわらず、真っ向から政府見解を否定する論文を発表し、国際問題を引き起こしました。
 この論文が公表されたのは、あのハデハデおばさんで有名になった、アパグループの懸賞論文で最優秀を受賞したことによります。
 「防衛省航空幕僚長」の肩書きで応募していますから、これは明らかに自衛隊法違反。
 しかも、航空幕僚長は政府から任命された政府関係者ということになりますから、政府の公式見解と異なる発言は許されません。
 日本政府は「過去の戦争を侵略と認め、アジア各国に多大な迷惑をかけたことを謝罪する」村山談話を後の首相も、つまり麻生首相も継承しています。
 すなわちこれは、ただでさえ今危機に立たされている自民・公明連立政権にとって、アジア外交に重大な支障を来しかねない、一大事であり、それ以前に、侵略戦争を正当化して戦争を美化するために歴史事実を歪曲した、非常に悪意に満ちた考えです。

 さらに、この論文が呼び起こす重要な問題点は、歴史認識上まったく事実とは異なる、空想・妄想が連ねられた虚構を、それを事実と認めるグループが存在するということです。

 アジア太平洋戦争は、中国、アメリカに日本が引きずり込まれた戦争なんだそうです。
 戦争のきっかけになった盧溝橋事件などさまざまな事件は、すべてコミンテルン(第三インター)の仕掛けたことなんだと言い切ります。

 アジア・アフリカは「もし日本があの 時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。」という一文にいたっては、小学生でも変だと思うでしょう。

 さてこの「論文」、批評に値しない駄文ではありますが、これだけ騒ぎになれば、どんなシロモノなのか読んでみたいと思われる人がいるのではと、余計なおせっかいをさせていただきます。

 【ここ】にアパグループのホームページにアップされた論文をリンクしましたので、全文を読んでみたい方はアクセスしてみて下さい。

 このブログに来る人でしたら大丈夫と思いますが、まちがっても感化されないようにご注意を。非常識人になってしまいますから。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆出版と原稿作りのお手伝い◆
コンサルティング承ります。
ご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



「靖国神社」の歩き方

2008年09月23日 | 昭和史
 中学生の娘に靖国神社を見せに行って来ました。
 文科省が「小中学校の授業として靖国神社の見学を奨励する」という非常に危ない通達を出したもので、先手を打ったわけです。
 社会科の先生の授業がおもしろいらしく、歴史には大変興味を持っているので、真剣に見学していました。
 まずは、入り口の鳥居から説明。

Yasukuni1

 靖国神社の鳥居は「護国鳥居(靖国鳥居)」といって、一般の神社の鳥居と異なります。
 特徴は、上段の横木が円柱状で両端にハネがなく一直線であることと、二段目の横木は角材で支柱から突き出していないこと。
 「立ち小便禁止」に描かれているあの鳥居の絵に似ています。
 護国鳥居とは全国の護国神社(招魂社)に用いられています。護国神社とは靖国神社に代表される、国家のために殉職した人を祀る神社です。

Yasukuni2

 鳥居をくぐると、大村益次郎の銅像がそびえ立っています。
 大村益次郎は戊辰戦争における功績をたたえられて、明治新政府の幹部となり、日本の陸軍の創始者とされています。頭が極端に大きな、宇宙人みたいな肖像画が有名。

Yasukuni3

 靖国神社にある戦争博物館「遊就館」のわきに、東京裁判のパール判事の碑ができていました。
 数年前に吉田裕教授主催の見学会で来た時にはなくて、その後G出版の社長と来た時には気付きませんでした。
 「平成17年建立」とありましたから、できてまだ三年です。
 なぜ、パール判事の碑があるのかと思う人もたくさんいるのではないかと思います。
 ラーダービノード・パール判事は、極東国際軍事裁判(東京裁判)におけるインド人の裁判官で、唯一被告人(A級戦犯)全員の無罪を説いた人です。
 パール判事は連合国による「勝者の裁きは」公平でないとした上で、アジア太平洋戦争における日本軍の残虐行為もアメリカの原爆投下も批判しました。
 「靖国派」はこれを都合良く解釈して、悪いのは米英であって、日本はまったく悪くないと主張しています。これはまったくパール判事の真意とは異なるものです。
 靖国派の考え方は田中正明の『パール博士の日本無罪論』という本によって補強されましたが、それに対して、判事の膨大な判決書を研究した優れた著作が次々に出版されたこともあり、靖国派がなんとしてもパール判事を味方に引きつけておきたいという宣伝行為の現れでしょう。
 田中正明は独自の「大東亜戦争肯定論」を展開する上で、『パール博士の日本無罪論』では判決文の改竄を行っていることが知られています。

Zuroku

 この日のメインの目的は「遊就館」見学です。
 今年の初め、「遊就館」は展示記述の一部変更を行いました。
 「大東亜」戦争のコーナーで、日米開戦の責任を一方的にアメリカにあるとしていたことに、アメリカ側から抗議があり、あくまでも政治的な理由からこれを受け入れたものです。
 「遊就館」が発行する図録には展示されている内容がほとんど納められていて、旧版と新版を比較すると違いがよくわかります。

 「【日米交渉】 日米開戦を避けるべく日本は日米交渉に最大限の努力を尽くすも、米国民の反戦意志の中対独参戦を決意し、英国・中国への軍事援助を粛々と進めるルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要する以外になかった」
 
 これは、旧版の「遊就館図録」に掲載されていたもので、同じ文章が館内に展示されたパネルにもありましたが、変更後はこれを含め、開戦にいたる詳細な説明は削除されていました。

 この戦争博物館「遊就館」では、日清・日露をはじめ第一次世界大戦からアジア太平洋戦争までに関する相当量の展示物がありますが、それはあくまで、「日本の兵隊はいかに良く闘ったか、中国や米英ソはいかに悪いか」を宣伝することに終始していて、それぞれの開戦にいたるプロセスについてはまったくと言ってよいほど述べられていない展示になっています。

 このような博物館をなんの予備知識もない小中学生に見せたとしたらどんなことになるか、恐ろしいものがあります。
 今の小中学校で、子供たちに正しい知識を伝えることのできる先生は極めて少ないでしょうから、慎重な対応が望まれます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




大田昌秀さん講演会

2008年08月31日 | 昭和史
M_ohota1

 「原稿、進んでません。ごめんなさい」
 「いやあ、ははははは」
 昨年お会いした時に、ぼくはある本を進行中で、原稿がアップしたら見ていただくお願いをしていながら、その後いろいろな事情で進行がとまっていました。
 だもので、まずお詫びから。
 一年ぶりの大田さんは、83歳でますます元気。

 この日は沖縄が抱えるさまざまな問題について、そして沖縄戦について語っていただきました。

 印象に残ったポイントは、基地が沖縄経済にどう影響を与えているかで、これは昨年からずっと綿密に調査を続けた結果についてです。
 沖縄の経済は、よく基地に依存していると言われますが、事実は沖縄の産業の主体は農業で、基地のある自治体の所得が必ずしも高くないこと。基地を農業用地に転用すれば、間違いなく住民の所得レベルが上昇することを、調査資料を元に証明しました。
 参考資料として手元に配られた表やグラフは大変参考になります。

M_ohta2

 「グアムのアンダーセン基地は、B52がそっくりアメリカ本土に撤退したために、がら空きになっています。それはグアムの経済を圧迫する結果になった。それで、グアムでは沖縄から米軍基地が移転してくることに大歓迎なんです。アンダーセン基地の許容人員は3500人で、沖縄から移転する予定の普天間基地は2500人。だとすれば、あと1000人分移転させられることができると思っていたら、日本の政府がそれをさせないのですね」
 「アメリカの有名な将軍の回顧録に、『戦争には勝者も敗者もいない』というようなタイトルの本があるんです。戦争に勝ったとしても、その犠牲に見合うような利益はないわけなんです。戦争に負けても勝っても兵士たちの心の傷は同じだって言うわけですね」

M_ohta3

 米国の公文書館で見つかった沖縄32軍司令官牛島満中将の「訓令」。大田さんは、今後さまざまな命令書が発見されることが期待できる、と言います。

M_ohta4jpg_2

 キャパ90名の会場に114人が参加し、そのため方々から急遽椅子をかき集めて大騒ぎでした。
 しかも、参加者の6割は初めて参加した人。
 特に若い人の参加が増え、参加者の高齢化が危惧されていましたが、これはうれしい傾向です。

M_ohta5_2

 恒例の「グルくん」での懇親会。まわりの気遣いをよそに、久米仙を重ねながらみんなからの質問に答え舌好調。
 「30度線というのがあってね。そこから北は本土守備軍、南は南西諸島守備軍。この時点で沖縄は日本から切り離されてるんです」

 先日、学生たちの前で7時間しゃべり続けたとか。
 「言いたいことはたくさんあるんだけど、(今日の予定の)1時間40分じゃあ短すぎるね」

 国会議員を辞め、政治から退いた大田さんは、ますます研究に熱が入って意気盛んです。
 まだまだこれから何十年も活躍していただきたいですね。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




大田昌秀さんと「鉄血勤皇隊」

2008年08月28日 | 昭和史
Ohta_masahide
「鉄血勤皇隊」の少年たちを慰霊する「健児の塔」の前の大田昌秀さん
画像出典=http://www.geocities.jp/unepeace/learn-park.html


 沖縄戦について考えるとき、本土と沖縄の間にそうとうな温度差があることを感じざるを得ません。
 沖縄では知らない人のいない「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」は、本土では「ひめゆり学徒」こそ知られているものの、ほとんど知られていないのが現状です。

 敗色濃厚な太平洋戦争末期、戦況の悪化と長期化で兵士が不足したために、兵役対象は大学生にまで及びました(学徒出陣)。
 沖縄では1945年3月31日、さらに若い少年たちがに「鉄血勤皇隊」として、1780人が動員されました。そして、鉄の暴風にたとえられる激しい沖縄戦で、少年たちの半数が戦死したのです。
「鉄血勤皇隊」とは、太平洋戦争末期、沖縄戦に動員された14歳から16歳の学徒隊です。

 大田昌秀さんは沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇隊員として沖縄守備軍に動員された体験を持っています。
 8月31日日曜日は阿佐ヶ谷地域区民センターで、大田昌秀さんのお話を直接伺うことが出来ます。
【詳細】

Chideaganatta

 大田さんの鉄血勤皇隊での体験を元にまとめた『血であがなったもの』(那覇出版社)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



平和のための戦争展 2008

2008年08月16日 | 昭和史
Senso_ten

 新宿のスペース・ゼロで行われている「平和のための戦争展 2008」に行って来ました。
 14日の木曜日から行われていて、今日はその最終日。

Senso_ten2

 日曜日ということもあって、なかなかの盛況。奥の講演会場はほぼ満員で関心の高さがうかがえます。

 三日間それぞれ、元日本兵の加害証言があって、14日は強制連行の小山一郎さん、15日は三光作戦の金子安次さん、そして今日は731部隊の篠塚良雄さんで、ほんとうは三日とも全部行きたかったのですが、運悪く膝の関節炎が出てしまって最初の二日間は満足に歩くことができず、残念なことをしてしまいました。
 しかし、篠塚さんの証言だけはどうしても聞きたかったのと、コーディネーターの高柳美知子さんに挨拶をしておきたかったので、まだ多少痛みは残っているものの歩ける状態になったので出かけました。

Shinoduka_0

 篠塚さんは今年85歳、15歳の時に731部隊の少年隊員として志願しました。
 学校の成績が良く、まじめで、しかし家庭の都合から進学できないでいる子どもたちに、満州医大やハルビン医大に進学できるとだまして志願させました。
 731部隊というのは、日中戦争当時中国のハルビン近郊にあった「関東軍防疫給水部」のことで、細菌兵器の研究を行い、生体実験によって何千人もの人々を殺害しました。
 少年隊員は直接生体実験にはかかわりませんでしたが、細菌を媒介するためのノミを培養したり、細菌そのものを作るのが仕事でした。

 生体実験の対象になるのは、マルタと呼ばれる中国人の捕虜や罪人でしたが、足りなくなれば住民を連行して来て実験台にしました。
 そして、実験台にされたのは中国人だけではありませんでした。
 篠塚さんにとって衝撃的で忘れることのできない出来事は、同郷の少年隊員が生体実験の犠牲になったことでした。
 過ってペスト菌に感染した少年隊員は、秘密保持のために病院に入れられることはなく、生体実験の材料にされたのです。
 この話をするときの篠塚さんは大変辛そうでした。

Takayanagi

 高柳美知子さんは、篠塚さんをはじめとして、日中戦争で加害の立場にあった元日本兵から、粘り強く証言を聞き取って記録しています。
 篠塚さんの証言は、『日本にも戦争があった??七三一部隊元少年隊員の告白』(新日本出版社)という本にまとめられています。
 「わたしね、出版社がこの本につけたタイトルを見てびっくりしました。『日本にも戦争があった』なんて、そんなことを知らない人がいるなんて信じられなかったからです。私たちの年代ですと『この前の戦争』というかんじなんですけど、若い人たちの中には本当に日本が戦争をしていたことを知らない人がいるんですよね」
 敗戦から63年、気をつけないと戦争はますます風化してしまいます。

 篠塚さんは最後に「憲法九条は何が何でも守らなければいけません」と精一杯の声を上げて会場に響かせました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



“敗戦”記念日

2008年08月15日 | 昭和史
Gyokuon
 1945年8月15日、昭和天皇によるポツダム宣言受諾の放送を聞く人々。(毎日新聞)

 「我国では終戦と言う妙な表現がある」と、元日本兵鵜野晋太郎が30年以上も前に出版された『ペンの陰謀』(潮出版社)に文を寄せています。
 8月15日を“終戦記念日”と誰が言い出したのかわかりませんが確かに変な言い方です。
 “終戦”とは、負けたのではなく「終わらせた」という驕りが感じられ、ひいては負けを認めない事で「アジア太平洋戦争は正しかった」と侵略戦争を正当化する余地を意図的に残していることが見受けられます。戦後すぐに“敗戦”だときちんと負けを認めていれば、戦争責任を明確にすると同時に、戦後処理ももっとスムーズに行われたでしょうが、敗戦の事実をうやむやにするところに、当時の日本政府の意図がうかがえます。
 この日の正午に行われた天皇の放送も、戦争の正当化と国民(臣民)にたいする言い訳に終始しています。
 鵜野晋太郎から30年かかって、最近ようやく、はっきりとこの日を“敗戦記念日”と呼ぶ人が増えてきています。

Shigemitsu
 1945年9月2日、ミズーリ号上で降伏文書に署名する重光葵(しげみつ まもる)。(毎日新聞)

 ところで、“敗戦の日”を8月15日とするにも疑問があります。日本が正式に降伏文書に調印したのは、9月2日の東京湾に停泊したミズーリ号上です。つまり、この日までは“戦争状態”が継続していたわけで、戦争が終わったとするなら9月2日にするべきなのです。
 8月15日は天皇が「ポツダム宣言」を受諾することを国民に伝えるために、言い訳と自己保身に満ちた放送を行った日であって、連合国に対して正式に降伏をした日ではありません。
 ではなぜなのか。
 戦局が不利になって以降、天皇とその周辺は、国体、すなわち天皇制を護持するためにやっきになっていました。これ以上戦争を続けては天皇自らの命が危ない、と「本土決戦・一億玉砕」を叫ぶ軍部を押し切って戦争終結に踏み切ったのは、国民の事を考えたというよりは保身だったのです。
 戦後は天皇自らが占領軍最高司令官であるマッカーサーと会見し、直接交渉に臨むなど、国体護持が最優先事項でした。戦後の混乱の中で国民が飢えようと何ら手を打つ事なく、国体護持に奔走していたのです。
 「国体は護持された、朕はたらふく食ってるぞ。なんじ臣民飢えて死ね」
 こんな言葉さえ生まれました。
 沖縄がアメリカに占領されたのも、国体護持との交換条件だったことが、日米両国の外交資料からわかっています。

 そんな日本国内の風潮に、GHQは天皇制を維持する事が日本を支配する上で有効であると判断しました。天皇が国民のためを思い、自らの意志で戦争終結を決断したと国民に見せかけた、いわゆる“玉音”放送は、GHQにとっても利用するのに好都合でした。
 米軍占領から6年経った1951年、それまで9月2日だった“降伏(敗戦)記念日”は、“玉音”放送が流れた8月15日の“終戦記念日”になり、政府主催の式典が行われるようになりました。こうして、“敗戦”はぼやかされ“終戦”になってしまったのです。
 天皇が放送を行った8月15日の終戦(敗戦)記念日とは、国体を護持したい日本政府と、現在まで続く米国の日本支配を滞りなく行いたいGHQとの目論見が一致した結果の一つです。

 参考までに、天皇が1945年8月15日に放送した原稿を以下に掲載しておきます。難解で、これを放送されても、ほとんどの国民は意味が分かりませんでした。

   詔    書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ玆二忠良ナル爾臣民二告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國二對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祗皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩二米英二國二宣戦セル所以モ亦實二帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ浸スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已二四歳ヲ閲シ朕力陸海將兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ方向各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻二無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞二測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦戰ヲ継續セムカ終二我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘン斯ノ如クムハ朕何ヲ以テキア億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心靈二謝セムヤ是レ朕力帝國政府ヲシテ共同宣言二應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共二終始東亜ノ解放二協力セル諸盟邦二對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域二殉シ非命二弊レタル者及其ノ遺族二想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク日戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙り家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ場へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲大平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲二國體護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠二信倚シ常ニ爾臣民ト共二在り若シ夫レ情ノ激スル所濫二事端ヲ滋クシ或ハ同胞擠互二時局ヲ亂リ爲二大道ヲ誤リ信義ヲ世界二失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傅へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重ク’シテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設二傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ淮運二後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
   御 名 御 璽
    昭和二十年八月十四日

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




63年目のヒロシマ(2)

2008年08月09日 | 昭和史
 今日、8月9日は長崎に原爆が投下されて63年目。
 平和式典が開催され、7月末までの1年間に死亡が確認された、3058人の名を記した原爆死没者名簿3冊が納められました。
 長崎の原爆死没者は合計14万5984人なりました。

********************

001dome

 広島ツアー報告の続きです。

 今回の広島ツアーの目的の一つ。「8・6ヒロシマ集会」に参加しました。

002shukai1_2

 全員で「原爆を許すまじ」を斉唱。
 最近歌われなくなりました。かつては反戦平和の集会の場では必ず歌われたものですが。

 この集会は、いわゆる「平和式典」ではなく、被爆の現実、日本の加害責任、韓国・朝鮮人差別、未解放差別などの問題を問い直すことを目的としています。

003shukai2jpg

 「これも差別!」
 沖縄から来た島田善次さんは、沖縄に集中する米軍基地に関連して、暴行事件や騒音被害など、また、普天間基地移転を口実にした新基地建設などは、差別意識が根源にあることを訴えます。
 とくに印象に残った言葉は、「“体験”なら誰でもできます。そこから学び“経験”にすることが大事です」。

 学ぶどころか、戦争体験はどんどん風化していきます。

004shukai_kumi

 集会のあと、呼びかけ人の一人、李金異(イ・クミ)さん(67歳)から話をうかがう機会を得ました。
 李さん一家は、戦争中広島市の福島町に住んでいて原爆を体験しました。
 韓国にいた李さんのおじいさんは、畑仕事をしている最中、いきなりトラックで連れて行かれて、そのまま行方不明だそうです。

 当時の広島は呉の軍港をはじめた数の軍需工場がある町でした。
 日本人の男はほとんど兵隊にとられてしまって労働者が足りなくなりました。
 そこで、朝鮮半島から男では招集され、自ら望んできた人もいましたが、強制的に連れてこられた韓国・朝鮮人が多数住んでいました。

 被爆した韓国・朝鮮の人々はその影響で働くことができず、母国からも日本からも排除されてしまいました。
 「国のない民族にはなんの権利もありません。国保も年金もないのです」
 そうした李さんたちに国から提供されたはずの住宅が、当初約束された無償提供が履行されないばかりか、家賃を値上げしようとしているのです。
 李さんはそれに反対する住民の界を立ち上げ、今裁判に臨んでいます。

     ◇◇◇◇◇

005aioi_hashi

 平和記念公園のはずれにある「相生橋」は個性的な形をしています。
 市内を流れる太田川が中州に遮られて本川と元安川に分かれるところに架けられたのがこの橋。
 川の両岸を結ぶ大橋の中央から中州に向かう橋が延び、T字型になっています。
 この橋は上空から判別しやすいために、B29爆撃機エノラ・ゲイの目標になりました。

006genbakunoko

 「原爆の子の像」
 原爆による白血病で死去した佐々木禎子さんをモデルに、同級生等が募金運動で資金を集め作られた像です。
 1958年5月5日完成しました。

007korea

 「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」
 労働力が足りなくなった日本は、朝鮮半島から強制、任意を含め多くの韓国人を工場や炭坑などで働かせることを目的に集めました。
 原爆が投下された広島にも、多数の韓国人がいて犠牲になりました。
 碑の台座が亀の形をしているのは、韓国では「死者の霊は亀の背に乗って昇天する」と信じられているからです。

008bosekijpg

 「慈仙寺跡の墓石」
 被爆前、慈仙寺というお寺があったこの場所に残された墓石です。右手前の丸い石は、四角い墓碑の上にあったのですが、爆風で飛ばされて落ちてしまいました。
 台風程度では飛ばされる重さではない石の塊です。
 これはその時のままの状態で保存されています。

     ◇◇◇◇◇

009yaki_1

 親睦を兼ねて夕食に入ったのは「みっちゃん」という、このあたりでは人気の店。
 けしば氏がタクシーの運転手に聞いて予約してくれました。
 店の名前からして、おばあちゃんがひとりでやっている小さな店かと思いましたが、どうしてどうして立派な店です。
 名物の「お好み焼き」は調理人がずらりと並んでオートメーション。
 具を並べ、隣に渡して焼きながら返す。
 さらに隣に送りながら、味付け、カットし、さらに盛る。

 「いいねえ、『広島風』お好み焼き」
 「『風』?……」
 「あ、ここは広島だから『風』はいらないか」

010yaki_2

 中にそばが入っているのが特徴で、ボリュームもすごい。
 「ウン、うまいね」
 「ところで、『みっちゃん』てどっかにいるのかな」
 「あそこでビール運んでるおばちゃんかな?」
 「でも、男だったりしたら笑っちゃうね」
 「ははは、まさか」
 そんなバカな話をしながら飲んで食べて、その「まさか」に直面しようとは。

 会計をしながら、「“みっちゃん”てどの人?」

 「はーい、ぼくです」

011micchan

 おもいっきりズッコケました。
 満夫さんだったのです。
 飲み屋の店名は女性の名前と信じ込んでいたわけですね。そんな根拠は何もないのですが。

 東京に帰って、7日付けの『朝日新聞』に目を通すと、同じ日の『中国新聞』とあまりの温度差に驚かされます。
 『中国新聞』が1面の大半を使って大きな写真入りで式典の様子を報道しているのにたいし、東京の『朝日新聞』は一面で扱ってはいるものの、写真はなし。記事としては「なでしこジャパン」がドローになったほうが写真入りで目立っていました。
 被爆は、広島・長崎の問題であると同時に、日本全体の問題でもあると思うのですが、この温度差は一体どうしたことでしょう。
 沖縄戦もそうですが、「日本の」戦争体験は、時の流れとともに「地方の」体験になってしまい、日本全体との温度差はますます開いています。
 「地方のイベント」化が進むことで、ますます戦争の風化が進んでしまう恐れを感じます。
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




紹介記事:毎日の本棚

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




63年目のヒロシマ(1)

2008年08月08日 | 昭和史
01dome

 8月6日と7日の2日間、さまざまな式典や集会が行われている広島に行って来ました。
 その報告の第1回目です。

 今回は、杉並区議のけしば誠一氏を中心に、被爆者差別と闘う未解放や韓国・朝鮮の在日の人々の集会に参加すること。そして、資料館や原爆ドーム平和記念公園の見学が目的です。

 新幹線「のぞみ」でお昼に広島着。
 まず、平和記念公園へ。

02sanpaikyakujpg

 式典は終わっていましたが、参拝の人々は途切れることなく慰霊碑の前に訪れています。
 外国人の多いのに驚かされます。
 インド人、イラン人、中国人、韓国人など、国際色ゆたか。
 しかし、アメリカ人らしい人は、やはりほとんど見かけません。
 英語を話している人も、イギリス人かオーストラリア人という感じです。
 どこの国からか聞けば良かったのですが、たくさんなので聞きそびれました。

 しかし、それにしても広島の夏は暑い。
 63年前の8月6日も、まだ温暖化とは無縁の時代であったはずなのに、朝から30度を超えていたとか。

03kinenhi

 ドーム型の慰霊碑の正面に、有名な碑文が彫り込まれた碑があります。
 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
 この碑文には批判もあります。
 「原爆を落としたのはアメリカだ! どうして被害者である日本が『過ちは繰返しませぬから』と誤らなければならないのか」
 このような碑文に対する批判的な考えは、「アジア太平洋戦争」は日本が起した戦争であり、日本は被害者である以前にアジア諸国に対する加害者でもあったこと。それが原爆投下という結末にいたったことを認めていません。
 非人道的な原爆投下は当然責められてしかるべきです。しかし、そもそも日本が「過ち」を犯したことによって、膨大な戦争被害者をだしたことを忘れてはならないとでしょう。
 この碑文は、被災した方々と現在を生きている我々との約束の言葉だと思うのです。

04member

 原爆ドームの前で、今回のツアーメンバー。中央の濃いブルーのポロシャツがけしば誠一氏。その右が前区議の新城せつ子さん。

05bell

 平和公園内にある「平和の鐘」。平和の鐘は全部で三つあって、一つは広島平和記念資料館東館に展示されていて、一年に一度、8月6日の平和記念式典で打ち鳴らされます。
 もう一つは「平和の時計塔」のチャイムに用いられている鐘で、毎朝、原爆投下時刻の8時15分に鳴ります。
 そしてこの写真の鐘で、これは公園を訪れた人が誰でも鳴らすことができます。
 ちなみに、この鐘の中に頭を入れてみると、どんなに強く打ち鳴らしても鐘の音は聞こえません。
 鐘はその中では音が相殺しあって聞こえなくなるらしいのです。

06dome_lightup

 ライトアップされた原爆ドーム。
 いかにも象徴的です。
 世界遺産になったからでしょうか、なんか勘違いしているような違和感がありました。
 「負の世界遺産」、ライトアップする性質のものなのかどうか。
 「わあ、きれい」って言うか?

07tohro

 「とうろう流し」は毎年8月6日の夜に行われます。
 この写真は、原爆投下の目標になった相生橋の上から撮ったもの。向こうが海側で、川は手前から向こうに流れているはずなのですが、この時間が上げ潮のせいなのか、灯籠は川上に向かって逆流しています。
 この日は8千~1万の灯籠が流され、夜遅くまで延々と続いていました。
 
 この一年で新たに死亡が確認されたのは5302人。広島の原爆による被災者は合計258310人になりました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




21日「沖縄と結ぶ杉並集会」報告

2008年06月24日 | 昭和史
 昨日(6月23日)は、沖縄戦が集結して63年目の「慰霊の日」でした。今日の『朝日新聞』朝刊に、「沖縄戦 警察、軍と一体行動」 「米軍文書で判明 偵察や破壊工作」という見出しでの記事が掲載されていました。
 警察が日本軍の士官らと連絡を取りながら、米軍に対する破壊工作をしたり、米軍に投降しようとする住民を抑えようとしていたことが書かれた文書を、林博史教授が米国立公文書館で発見しました。

          ◆◆◆◆◆

 6月21日日曜日、恒例の「沖縄と結ぶ杉並集会」が阿佐ヶ谷の産業商工会館で行われました。
 すでに21日付けのブログで紹介した通り、講師は琉球大学名誉教授の高嶋伸欣(たかしま のぶよし)さん。

0121shinjo
 会の冒頭、昨年6月14日に亡くなった平和運動家、高田普次夫さんの一周忌から1週間のこの日、新城せつこさんの追悼の言葉に続いて黙祷が捧げられました。

0321wada_kumiko

 和田くみ子さんからは、先月(5月)15日に行われた「沖縄県民大会」に参加し、その報告が述べられました。
 旧沖縄戦跡を訪ねたり、体験者の話を聞いたり、たいへん充実した訪沖だったそうです。
 「集団自決(集団強制死)」が行われたガマには携帯電話の液晶を懐中電灯代わりにしてはいり、そこに残されたさまざまな遺品に胸がつまされるものがあったと報告されました。
 チビチリガマとほとんどの人が助かったシムクガマの違いを見て、皇民化教育の恐ろしさを感じたと語りました。

0421watabe_hidekiyo

 「都教委包囲ネット」の渡部秀清さん。昨年12月、北区の王子で「立たないとクビ!」改悪教育基本法の撤回を求める集会についての報告です。ここでは、沖縄戦の教科書検定意見撤回の意見書も採択されたそうです。
 君が代斉唱時の不起立で停職処分になり、裁判には勝ったものの来春には免職の危機にある根津公子さん支援の運動も高めていくことを通して、教育問題のさまざまな反動的な流れをせき止めていく力を強めなければなりません。

0521takasima

 この日のメインゲスト、高嶋伸欣名誉教授による講演。
 ものすごく、内容が豊富でしたが、印象に残った問題点をかいつまんで報告します。

●文部省の姿勢大転換
 昨年9月29日の沖縄県民大会に11万6千人が集結して、教科書検定意見の撤回を求められたことは、文科省にとっても見過ごせない出来事でした。このときから、強固だった文科省の態度が多少和らぎ、再修正に応じるようになっていきました。
 しかし、今なお撤回には応ぜず、「検定は正しかった」と言っています。沖縄県民はこれに対して、完全撤回を実現し、文科省に謝罪をさせるまで運動を続けることが確認されています。
 産經新聞は『沖縄タイムス』や『琉球新報』に掲載された11万人大集会の写真を拡大し、専門家に何人いるか数えさせたそうです。「せいぜい2万人程度だ」と言っています。まったくご苦労なことですが、重なりあった人々や木の陰、写真のフレームに納まりきれない人々はまったく計算に入れていません。しかも、写真が撮影されたのは会の途中で、これからまだ続々と人が集まっている最中でした。
 「まるで小学生の遊びです」と高嶋さんは笑います。

●教科書執筆者にまで守秘義務を強要
 教科書検定は審議会の作業を原則非公開としています。これに対し、教科書執筆者や「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員会の関係者からは、審議会の公開を求める働きかけが盛り上がりを見せていました。
 ところが、こともあろうか、教科書会社でつくる「教科書協会」が「公開は避けるべきだ」「執筆者にも守秘義務を負わせるべきだ」という意見だではじめました。
 これは教科書意見の透明性を高める流れに逆行するもので、とても受け入れられるものではありません。
 「教科書協会」の構成員の多くが、文科省の天下りだとか。これは教科書協会と文科省によるとんだ茶番劇と言わざるを得ません。(『琉球新報』2008.6.17)

●「狙われる沖縄」論の台頭
 北海道に配備されていた自衛隊が、ぞくぞくと沖縄に移動しています。
 冷戦終結後、仮想敵国であったソ連が崩壊し、北海道に自衛隊をおく理由がなくなったからです。
 あらたに仮想敵国とされたのが、北朝鮮、そして中国。
 自衛隊は軍事力を増強するために絶えず仮想敵国を想定しておかなければならず「狙われる沖縄」の名のもとに、九州沖縄に自衛隊を集結しはじめました。
 (なんとしても軍備を拡大したい政府自民党の苦しい言い訳です)

●アジアと連帯強化へ??杉並の出番ですよ
 韓国ではアメリカからの輸入牛肉反対で大規模な抗議行動が行われています。
 「アメリカの言いなりになるな!」
 (それにくらべ、日本の国民はあまりにもおとなしい。自分たちの危機に無頓着なのかあきらめているのか。)
 今こそ、杉並から声を上げて、アジアの人々と連帯しましょう。

 藤岡信勝の秘密暴露については、21日付けのブログに書いた通りです。

0621kamiedamiyazawa

 高嶋さんの講演を熱心に聴く、上江田千代さん(中央)と宮沢一郎さん(右)。

0621henoko

 休憩のあと、高江と辺野古の基地反対運動のビデオが上映されました。
 前日森住卓さんの写真報告を見たばかりでしたが、こちらは音声つき。
 頭の上をかすめる大型ヘリのものすごい爆音で、会話はまったく聞き取れません。
 沖縄の人々は、日々このような騒音と危険に絶えながら暮らしているのかと思うと、胸が締め付けられる重いです。
 「人を殺され、海を汚され、山を削られ、その上まだ土地を取り上げようとするのか」と工事会社から派遣された作業員に抗議するおじいの声は、彼らにどう届いているのでしょうか。

 ビデオのあと、携帯電話をオープンにして、辺野古でヘリ基地反対運動を行っている安次富浩(あしとみ ひろし)さんが電話で現地報告とカンパの呼びかけがありました。

 会も終わりに近づき、けしば誠一区議から、「つくる会」教科書を採択させないための運動を強化する報告がありました。
 杉並の中学では本年度から、山田区長の圧力で扶桑社版歴史教科書が採択されました。
 「どうなることかと思っていましたが、まったく変わっていないので安心しました」
 先生はまったく教科書を使わず、自分で作ったプリントなどを教材に授業を進めています。
 (わが家の中学三年の上の子に聞くと、やはり、先生は自分で作ったプリントを配り、ノートに貼付けて整理させながら授業を行っている、ということです。〈この教科書は使えないから〉と言っていたとか)
 
 0821shukaisengen

 しんがき・あやねさんによる集会宣言。

0921kamieda_chiyo

 まとめの挨拶をする、この会の呼びかけ人で元ひめゆり学徒の上江田千代さん。ますますお元気。

1121takashima2

 閉会後、阿佐ヶ谷の沖縄料理店「ぐるくん」で行われた懇親会では、高嶋さんが集会で話しきれなかったことを話してくれました。
 印象に残ったのは、米軍の兵士一人ひとりはかならずしも軍国主義者ではなく、貧しい若者たちなのだから連帯できるはず、という意見。
 沖縄では、「奴らのために事故や事件が多発しているのになんということを!」とひんしゅくを買ったそうですが、しかし、感情的な部分を排除すれば、アメリカの若者たちもある意味で被害者。
 多くの犯罪は兵士として洗脳されたことによって起こるとも考えられます。
 米軍を支えているのは格差社会によって生み出された貧困層。これは、日本も対岸の火事と知らん顔はできないことです。(映画『華氏911』参照)

          ◆◆◆◆◆




7月12日の築地市場移転反対デモへの参加を!
築地市場を考える会からの6/18の道路工事説明会と7/12の市場移転反対のデモの情報です。
利権に絡む方々の土地転がしが、それ意外の大多数の人の安全と健康と経済活動に優先するはずがないことは明らかです。
オリンピック招致の幻想をもとにに乱開発を進めることをみすみす許すわけにはいきません。
五輪が来るか来ないかに関わらず、土地ころがしGOの判断が下ったと彼らは考えている恐れが大です。【全文を読む】

築地・市場移転に断固反対! デモ予定(7月12日)
日時;7月12日(土)12時集合、12時半出発
場所;築地正門前(集合)
交通;地下鉄大江戸線、築地市場

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆



来る6月28日(土)、『水はことばの鏡』出版を記念して、講演会が開かれることが決定しました。
【日 時】 2008年6月28日(土)15:00~17:00
【場  所】 IHMセミナールーム
江本勝氏のユーモアあふれる講演をお楽しみください。
詳細はこちら?http://www.hado.com/event/200806/emo-mizu4-0628.html


消される歴史の現場から

2008年02月23日 | 昭和史
JVJA沖縄現地報告
明治大学リバティータワー(地下1001教室)

Jvja1

 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会主催、JVJA沖縄現地報告「消される歴史の現場から」をG社からの案内で知って出掛けてきました。
 昨日の朝からひざ関節の痛みがひどく、どうなることかと思いましたが、今日はだいぶよくなってきたので、なんとか外出できました。

Zengakuren お茶の水駅に降り立つと、駅前で青ヘルをかぶった学生がチラシを配っていました。おそらく明治大学でしょう。「反戦・全学連 解放派」とありますが、最近のセクトはよくわかりません。
 昔なら青ヘルは社青同解放派。「がんばれよ」と声をかけて通り過ぎます。

 今日は風速27メートルの台風なみの春一番。明治大学に行く途中、楽器屋さんの看板やのぼりが吹っ飛び、危険きわまりなかったですね。小さなレストランの店頭に出してある、海老フライの見本が足元にすっ飛んできたときは驚いた!
 それでも、ぼく自身は風に飛ばされることなく、なんとか明治大学に到着。女子大生の髪の毛が逆立っていましたが、スカートをはいた人はいませんでしたね。ザンネン?!

Jvja2

 わかりにくいリバティータワーの1001号室に、学生に尋ねたりしながらようやく到着。
 資料代1000円を払い、とりあえず会場に入って、責任者らしい人に録音の許可について訪ねると、受付で使用目的と連絡先を書いて申し込んでくれと言います。
 で、入り口に戻り、受付に用件を言って名刺を出すと即オッケー。なあんだ。

 今日の報告は沖縄戦と集団強制死がテーマで、協会所属のジャーナリストが膨大な数の関係者から取材したなかから、主な証言を中心に行われました。

 報告者は、昨年発行の『世界』臨時増刊でもルポを発表していた國森康弘さんと、山本宗補さん、森住卓さん。

 ●國森康弘さんからは「日本兵が語る沖縄戦」~歴史認識の空白を埋める~と題して、取材意図と目的について、詳細な報告がありました。
 「沖縄戦」についてはこれまで、住民側の証言は多数ありましたが、日本兵の住民に対する加害証言はほとんどありませんでした。該当者が高齢化していく中で、また、探し当てても堅く口を閉ざす人が多い中で、それでも多数の証言を得ることに成功した貴重な成果です。

 元日本兵は、なぜ今になって語り始めたのかという理由について、「死ぬ前に残しておきたかった」「これまでは真実を話せば戦友を裏切るように思えたが、高齢化に伴って『箝口令』がやわらいできた」「小泉・安倍の鷹派政権で、また過去のような戦争が起きるのではないかと、きな臭さを感じた」「歴史教科書の改ざんに危機感を感じた」そして、自らが手を下した被害者住民に「謝りたかった」と言います。

 今まで旧日本兵の証言が少なかったために、歴史改ざん派が「集団強制死(自決)」に軍は関与していないなどと言っていたことが、これらの証言で撤回せざるを得なくなったわけです。(言わされてるとか捏造だとか言うでしょうが、悪あがきになります)

 ●二人目の山本宗補さんからは、八重山諸島の戦争マラリアで家族16人を失った人の話がなされました。
 八重山諸島へは米軍は上陸しなかったし、地上戦も行われませんでしたが、軍の命令でマラリアが蔓延している島に無理矢理疎開させられ、終戦後飢えとマラリアで3647人もの人が亡くなっています。
 ぼくはこのことについて、「戦争マラリア」という言葉は聞いたことがあるものの、実態をよく把握していなかったので、今日の報告を聞いて驚きました。
 戦争は実にさまざまなところで悲劇を生んでいます。
 この「戦争マラリア」を引き起こした元日本兵の一人に山下虎雄(偽名)という、陸軍中の学校出の工作員がいました。住民に疎開を命令する際、軍刀を引き抜いて脅したという話を琉球新報の記者が1990年に聞き取っていることがわかっています。

 ●三人目の森住卓さんは、日本全国にある米軍基地の75パーセントが沖縄に集中する中で、さらに6箇所のヘリパッド建設が進められていることについて報告しました。
 つづいて、非常によく撮れている座間味の「忠魂碑」の写真をバックに、「集団強制死」は軍官民共死共生の一体化がそもそもの原因で、住民を常にスパイではないかと疑っていたことにあると報告しました。
 スパイではないことが証明されるとそのしるしの腕章が配られ、それがただひとつ、『母の遺したもの』の著者、宮城晴美さんのお母さん、初枝さん持っていたものの写真を見ることができました。

 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の主催だけに、実に多くの貴重な写真や映像を見ることができて、たいへん有意義な報告会でした。
 このブログにそれらを載せられないことが残念です。当然ですが。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで




「ひめゆりの少女」宮城喜久子さん

2007年12月23日 | 昭和史
Aogaku

 12月22日、そぼ降る雨の中を、天候のせいか傷みだした足を引きずって青山学院大学へ。
 3日の「沖縄戦教科書検定意見撤回を求める全国集会」を逃してしまったので、今回はどうしても参加したかったのです。
 青山キャンパス11号館で行われる公演は、「ひめゆりの少女」と題するひめゆり学徒の生存者、宮城喜久子(みやぎ きくこ)さん。
 講演に先立って、金城重明(きんじょう しげあき)さんの映像証言があり、じつは3日にぼくが聞き逃してしまって、もっとも悔しい思いをしている人の話です。
 金城重明さんは1929年、沖縄渡嘉敷島生まれ。青山学院大学文学部キリスト教学科卒業のクリスチャンです。各方面で証言活動を行うとともに、大江・岩波裁判では証言台に立つなど大活躍中です。

 「米軍の艦砲射撃がはじまると、西山陣地に移動する命令が出ました。日本軍は住民を安全な場所に避難させようとはしません。軍隊と一緒にいれば危険だとわかっていて、行動をともにさせたのです。
 いよいよとなると、“玉砕”しろといいます。そのころはまだ、自決とか集団自決とかいいません、玉砕です。
 何人かのグループごとに、手榴弾が配られました。武器は天皇からの預かりものですから、一つたりとも粗末にはできません。当然配られた手榴弾も軍によって厳密に管理されていたものです。それが配られ、使い方も教わりました。
 からだを寄せ合い、ピンを抜いて石に打ち付ける。
 米軍が上陸してきたら、日本軍は攻撃し住民はともに死ぬ、そう教えられ、そういう心理状態になっていましたから、手榴弾が配られたとき「ああ、いよいよなんだな」と思ったわけです。
 自決がはじまると、方々で爆発音、悲鳴、子どもの泣き声が上がりました。でも、手榴弾で死んだ人は少なかったと思います。死にきれずに、その辺にある凶器になりそうなものは何でも使って殺し合いました。
 私の親戚に当る50歳ぐらいの男性の残酷な行いが私の目に飛び込んできました。1本の木をへし折って妻子をめった打ちにしているのです。“自分もあんなふうにして、愛する者を手にかけなければならないのだ”と感じ取りました。
 私は父親と離れ離れになってしまったものですから、“殺してくれ”と頼まれて、兄と2人で母親、弟、妹を手にかけました。
 生きていることが恐ろしかった。生き残ったら大変なことになると思っていました。
 逃げ惑って日本の兵隊に遭遇する、普通なら守ってもらえると思い、安心するものです。しかし、日本兵の口からは“どうして生きているのか、なぜ玉砕しない”という言葉がでてきました。
 “集団自決”は日本軍がいなかったところでは起きていません。それが何を意味するのか、ぜひ知っていただきたい」

 講演会では録音や撮影が禁止なので、一言一句正確ではありませんが、おおむねこういうことです。
 金城重明さんには『「集団自決」を心に刻んで』(高文研)という著書がありますが、今回の証言はこれまで公表されていなかった内容です。

 続いて行われた宮城喜久子さんの講演は、90分の予定が30分以上オーバー。講演会では得てしてこういう事態になります。話をしている側は伝えたいことが溢れていて、一日中でも話続けたいのでしょうが、主催者側は調整がたいへんです。
 講演者の目の前にカウントダウンのタイマーをおいて、時間が来たら終了のブザーが鳴るようにしないと行けませんね。
 それはともかく、宮城さんの講演の臨場感はすごいもので、今まで話を伺ったひめゆりの生存者の中でも出色です。

 宮城喜久子さんは1928年沖縄県勝連の生まれ。卒業間近の1945年3月沖縄県立第一高等女学校4年在学中に沖縄陸軍病院に動員され、同月29日に戦場で卒業式を迎えます。陸軍病院解散後の6月21日、喜屋武荒崎海岸に身を潜めているところを米軍に収容されました。
 戦後小中学校の先生を歴任し、退職後「ひめゆり平和記念館」の設立に力を注ぎ、現在記念館の運営委員・証言員。

 「ひめゆりの塔を見学に来られますと、亡くなった方々の名前が碑に記されています。みなさんなら文字が見えるだけでしょうけれど、私には顔が見えて声が聞こえるんです。
 遺骨収集(1985年)のとき思いがけないものが出てきました。赤い筆箱、黒い下敷き、弁当箱。当時は自分の持ち物にかならずカタカナで名前を書いておくんです。赤い筆箱を手に取って汚れを払うと“ナカザトミツコ”とありました。黒い下敷きには“ナミヒラセツコ”。弁当箱には“アラガキ”とあって、これは“ああ、新垣先生のものだ”って。
 私がいた陸軍病院は第三外科壕で、ケガをした兵隊さんが2000人も3000人もいました。ここに来るまでは後方の安全な場所で看護婦さんのお手伝いをしていればいいものと考えていましたが、とんでもない! 戦場のまっただ中です。すぐ近くに爆弾は落ちるし、機関銃の掃射はしょっちゅうです。
 私は引率の先生に“病院には爆弾は落ちないって聞いていたのになぜ落ちるんですか」と聞きました。先生は「おかしい、おかしい」というばかりです。先生も戦争がどういうものか知らなかったんですね。
 ケガ人がつぎつぎに運ばれてきて、それも普通のケガではありません。血みどろでどこに傷があるのかさえわからないのです。見ると手がなかったり足がなかったり、顔が潰れていたり。何をどうしていいかわからなくて立ちすくんでいると、軍医が「何をしている、ここは戦場だ、お前たちは看護に来たんだろう、しっかりせんか!」とどやされます。
 私たちは皇民化教育で、天皇とお国のために奉仕するのが当たり前と信じていましたから、一言のグチもこぼさずに“がんばろうね”と励まし合いました。
 ケガをした兵隊さんが“とってくれ、とってくれ”といいます。何をとってくれといっているのかと思いますと、傷口に白いものがたくさんついています。とても十分な手当などできませんから、ウジがわいているんです。そのウジが人間の肉を食べているんです。その音が聞こえるんですよ。

 私に戦場動員の命令が下ったときです、学校から親の許可を貰ってくるようにいわれました。
 私たちは皇民化教育が行き届いていましたから、天皇と国のために命を捧げることができるのを誇りに思っていました。とくに、沖縄の人々は日本人と区別されることが悔しかったので、これで正真正銘の日本人になれると思っていたのです。
 ですから、親もきっと喜んでくれるものと信じていました。ところが親のいうことは予想と違っていました。
 父親は“おまえを16歳まで育てたのは死なすためじゃない”といいます。
 母親は“戦場に行ったら死ぬかもしれないよ。みんなで逃げなさい”といって泣きます。
 私は“そんなことをしたら非国民にされる”と聞き入れませんでした。
 私たちには皇民化教育が心の底まで染み渡っていたのです」

Chosho

 これはほんの一部をかいつまんだものです。宮城喜久子さんの話は、当時の時代背景から記念館設立にまつわるはなし、そして未来への願いまでにおよんでいました。
 宮城さんには『ひめゆりの少女』(高文研)という著書がありますが、その本だけでは語りきれていないことがたくさんありそうです。さらに詳しい著書ができればと思います。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
詳しくはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



南京事件70年

2007年12月13日 | 昭和史
O_asahi371213

 今から70年前の1937年12月13日、松井石根(まつい いわね)率いる中支方面軍は南京市を攻略、その日からはじまった「南京大虐殺」は翌年の2月のはじめまでやみませんでした。

Yosuko
揚子江の川岸にはおびただしい数の死体が投げ捨てられていた。(村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線』より 【転載禁止】)

 南京事件で虐殺された中国人は10万とも20万以上とも言われ、いまだにその実数は確定されていません。
 南京事件については現在にいたるまで多数の文献が出版されています。
 南京事件を目撃した記者や作家は日本人だけでなく、当時の南京は中国の首都であり、多数の特派員によって世界に報道されました。
 しかし、日本本土の国民だけが、きびしい報道規制のためにその事実を知らされず、それが現在でも「南京虐殺などなかった」という極端な発言を生み出す原因の一つにもなっています。

 南京大虐殺事件は、日本軍が中国大陸で行った数々の残虐行為の中でももっとも大規模な住民殺害事件です。
 このときの司令官松井石根は戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受けています。

 南京事件に関する基本的なもっとも理解しやすい入門書としては、岩波新書の『南京事件』(笠原十九司著)をおすすめします。

 数ある南京事件に関する著作のうちには、ちょっと毛色の変わったものもあります。

Hotta_jikan 堀田善衛著『時間』
 この本は戦後10年経った1955年の発行で、中国人の目から見た南京事件さなかの南京市内のようすが描かれています。小説ですので、研究のための参考資料としては必ずしも最適とは言えませんが、当時の南京市内のようすをかいま見るにはよいでしょう。また、著名な作家による作品であることも興味深いものです。
 すでに絶版ですが、新潮文庫版が古書店で比較的多く出回っています。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
詳しくはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで



戦争体験者の証言を聞く会

2007年12月09日 | 昭和史
100nin1

 「戦争体験者の証言を聞く会」が12月8日、杉並産業商工会館で、元特攻隊員で画家の池田龍雄さんと、元朝鮮大学教授の琴秉洞(クム・ビョンドン)さんを講師に招いて開かれました。
 池田さんは特攻隊員としての訓練を受けた体験があり、その実態について、また琴秉洞さんからは従軍慰安婦の問題について貴重なお話を伺いました。

100nin2

 「終戦間近の特攻機は布張りに色が塗ってあるだけです。1発でも弾が当たったら撃墜されますから、目標に当たる前にみんな撃ち落とされます。
 スピードもえらく遅かった。せいぜい(時速)140キロ程度で、向かい風になるととてもゆっくりになって、ピストルでも撃ち落とせそうでしたね」(池田さん)

100nin3

 「軍が関与した証拠に、こんな文書が残っています。『軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』、陸軍省内での受領番号は『陸支密亜第二一九七号』とあります。この文書には、ミズーリ号上で重光葵(しげみつ まもる)外相と降伏文書に調印した梅津美治郎(うめづ よしじろう)や後の陸軍大将今村均(いまむら ひとし)の印も押されています。これは明らかに(従軍慰安婦に)軍が関与していたことを示す証拠です」(琴さん)

100nin4 今村均(1886-1968)という人は、当時の日本軍将校としては非常に珍しい温厚な性格の持ち主で、敵味方両方から慕われていた人格者であったと伝えられていますが、こんなところに印鑑を押していてはいけませんね。
 梅津美治郎(1882-1949)は、1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上で無条件降伏の調印が行われた際、当時の外務大臣重光葵とともに文書にサインしています。
 その後、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯として修身禁固刑の判決を受け、服役中に病死しています。
 両名の経歴を見ると、この文書が発信された1938年当時は、ともに関東軍(「満州国」を統治するためにおかれた軍隊)に所属していましたから、「満州国」内の慰安所を意識しての文書と思われます。(ひまわり博士私見)

100nin6

 質疑応答では山田宏杉並区長が区議会で、「副官より北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案」という文書を振りかざし、「この内容にある通り、軍は民間業者の横暴を止めていた」と言ったことが問題とされました。

 「これは反対の意味です。民間業者が横暴だから、(止めるのではなく)軍が取り仕切りなさい、ということですよ。だからこれは(従軍慰安婦募集に)軍が関与している証拠なんです」(琴さん)
 琴秉洞さんのこの回答には一同溜飲が下がりました。

100nin7

 最後は呼びかけ人の一人、元ひめゆり学徒の上江田千代さんから、会を維持するためのカンパの呼びかけがあってお開きになりました。
 午前中だけなので時間が短く、ちょっともったいない内容でした。この倍は時間が欲しかったですね。

 次回は来年、東京大空襲の3月10日をめざして開催の予定です。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの原稿を本にします◆
詳しくはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで

*掲載画像を転送・転載する場合は必ずご連絡ください。


沖縄と結ぶ杉並集会

2007年07月01日 | 昭和史
7/1沖縄と結ぶ杉並集会

 Mikan_1

 出かけようと思って自転車を取りに庭先に出ると、みかんの木になったたくさんの実がふくらんでいました。大きくなるかどうかわかりませんが、なんだか楽しみです。

 Koan

 会場に着くと、入り口前に「公安」のデカが3人。なんでだ?
 この集会の主催者は、もう過激派とは縁を切ったのですが、公安は信用していないみたいですね。
 開演時間のそうとう前から張っていたようで、このくそ暑いのにご苦労なことです。
 終演時間には、さすがに姿を消していました。大物があらわれなかったので諦めたのでしょう。

Chiyo

 呼びかけ人の一人、上江田千代さんは「ひめゆり」部隊の生き残り。お元気でご自身の体験を各所で語って回っています。
 帰りがけ、おしゃべりしながら2次会の会場へと向かう途中、昨日の久間防衛相の話になると、千代さんの声が高くなりました。
 「まったく、とんでもないことですよ。何にも知らないのね。だからあんなこと平気で言えるの」

Jugon

 この日のメインゲスト、石川元平さんは元沖縄県教職員組合委員長。博学で話がわかりやすく明解です。
 辺野古の米軍基地建設反対運動に力を入れています。
 「どこが攻撃してくるんですか、北朝鮮ですか、中国ですか。あり得ません。今世界で一番危険な国はどこだと思います? アメリカですよ」
 「基地があるから攻撃されるんです」
 「これがジュゴンです。赤く見えますけれど、金色になるんですよ。ジュゴンが棲むきれいな海を守ることは、沖縄だけでなく、日本全体を守ることです」

 久間防衛相の発言について、「もし、アメリカが原爆を落とさなかったら、ソ連が北海道に侵略して来て、ドイツみたいに分割されていたって言いますけどね、沖縄はアメリカのせいで27年間も分割されていたんですよ」

 石川さんの話から、次の本のテーマが見えてきました。

Asato

 沖縄のシンガーソングライター、安里正実さんが、弾き語りで歌ってくれました。ものすごくきれいな声です。主に戦後の沖縄をテーマにした歌で印象的な曲が何曲かありました。CDはないそうです。

Secchan

 扶桑社版「新しい歴史教科書」が出荷停止!?
 司会の新城節子さんが爆弾発言。いや、知らなかったのは僕だけらしかったようです。
 採択数が伸びないために、扶桑社は大赤字だそうで、もう印刷はしないと決定したようです。
 もともと「つくる会」は内紛で分裂。扶桑社は別に子会社を作って継続するつもりだったようですが、著作権問題も絡んでことは泥沼化。
 何が分裂の原因なのか外部の人間にはよくわかりませんが、どうも「形而上学」的な問題ではなく、なんやらドロドロしたいざこざだ、という噂も。…さもありなん。

Gurukun

 二次会は阿佐ヶ谷駅近くの「ぐるくん」で。わきあいあいと親交を深めました。

◆あなたの原稿を本にします◆
詳しくはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで