goo blog サービス終了のお知らせ 

ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

大田昌秀さん明治大学講演

2011年11月26日 | 昭和史
111125ohta
 
 アジア記者クラブの主催で、大田昌秀さんの講演が明治大学リバティタワーで開催された。
 タイトルは「若いジャーナリストと次世代に」ということだったが、集まった70人ほどの聴衆は平均年齢が高かった。
 それでも、会場が明治大学ということや、『沖縄基地問題の歴史』の著者でもある法政大学の明日川融さんが連れてきた学生たちがいて、いくぶん平均年齢を引き下げていた。
 大田さんに限らず、どうもアジア太平洋戦争中の話しになると、年齢層が高くなる。長く平和が続いて、戦争に対する危機感の薄れがそうさせているのだろうか。実際、20代の若者の多くは、日本が直接巻き込まれるような戦争は起きないと思っている。
 しかし重要なのは、戦争そのものもさることながら、それ以上に過去の戦争によってもたらされた現代への影響を学んでほしいのだが。
 
 この日も、大田さんが熱く語った沖縄戦で「鉄血勤皇隊」として体験した事実から、何が若者たちを戦争に駆り立てたのか、バックグラウンドである戦時教育と軍国主義のあり方を知る必要がある。
 実際の戦闘行為に結びつくかどうかは別にして、15年にわたるアジア太平洋戦争から連綿と続く非人道的な現代の日本の政治姿が垣間見えてくるのだ。
 
 しかし、この日集まった学生さんたちは、基礎知識がしっかりできているようで、終了後一人の学生に感想を聞いてみたところ、明快でわかりやすかったと答えた。
 
 講演の内容は、前回杉並で行なわれた講演会と大差なかったが、何度聞いても良い。自分の知識を確認できるからだ。
 
 ただこの日、懇談会の席上で福島第一原発事故における放射能の話題になったとき、長崎大学の七條和子准教授の研究が参考になると紹介された。あれから多忙でそのままになっているが、近日研究を拝見したいと思う。
 
 もうひとつ。
 立ち話だったが、沖縄独立運動について伺った。「R新報のM氏にそのことを聞いたら、居酒屋独立運動だと切って捨てられましたが」というと、「最近はかなり真剣に語られていて、盛り上がりを見せていますよ」とのことだった。
 沖縄独立が実現するかどうかはともかく、沖縄から米軍基地を一掃するには独立するのがいちばんだと思っているので、沖縄独立運動は応援したい。
 「居酒屋独立運動」などとばかにすることはできない。
 
 大田さんは、来月初旬に開催される丸木美術館主催のイベントのために、またすぐ上京されるそうだ。それについて以下のイベント情報をいただいた。


       ◆◆◆

「沖縄の若者たちによる舞台劇「フクギの雫」東京公 演と大田昌秀氏講演」

沖縄・宮森小学校ジェット機墜落から52年  普天間 基地撤去を求める沖縄の願いを東京で受けとめるため に
劇「フクギの雫」上演と大田昌秀氏講演(夜の部の み)の集い成功のために丸木美術館も取り組んでいま す!
前売り券を販売しておりますので、電話でお問い合わ せ下さい。0493-22-3266

2011年12月3日(土)
昼の部 - 15:00開場 15:30開演
大人:当日3,000円(前売り2,500円)
高校生以下(18歳以下):当日2,000円(前売り1,500円)

夜の部 - 17:30開場 18:00開演
フクギの雫と大田昌秀元沖縄縄県知事講演(19:30~)
大人:当日3,500円(前売り3,000円)
高校生以下(18歳以下):当日2,500円(前売り2,000円)

会場:文京シビック小ホール
・東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅>【直結】
・都営地下鉄三田線・大江戸線 春日駅(文京シビッ クセンター前)>文京シビックセンター連絡通路【直 結】
・JR中央・総武線水道橋駅>【徒歩約10分】

フクギの雫実行委員会のブログ「沖縄・宮森小学校米 軍機墜落事件から52年」練習の様子や現地の情報などの記事がアップされてい ます。ぜひご覧下さい。

詳細はwebで。丸木美術館

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
(PR)【GALLAPからのお知らせ】

自費出版承ります

●自費出版、企画出版、書店流通。
*編集から流通まで、責任持ってすべて引き受けます。
 ■ご相談は無料です。まずはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。

★ライティング & エディトリアル講座 受講生募集中★
●個別コンサルティング承り。当オフィス、またはスカイプ利用でご自宅でも受講できます。
 *1ヵ月2回コース~12ヵ月24回コース。(1回60~90分)
●出張講座承り(1日4~5時間)
 ■ご相談・詳細はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。 


朝日新聞「原発とメディア」

2011年10月28日 | 昭和史
Genpatsu_to_media
 「朝日新聞」夕刊に、10月3日から「原発とメディア」という連載コラムが掲載されている。新聞をはじめとしたメディアが、原発をどう報じ、どう論じてきたかを時系列に振り返ったもので、なかにはボツにされた記事や大きく取り上げられなかった重要な発言などが、あらためて紹介されていたりする。
 朝刊ではなく夕刊なものだから、連載小説と見間違えてつい見過ごし、気づいたのは連載が始まって一週間ほど経ってからだ。早速古新聞をひっぱり出して、連載のはじめからファイルにまとめた。
 なんだか突然始まった感じで、もしかすると前振りがあったのかもしれないのだが、探しても見当たらない。なかったのかもしれない。
 
 1950年代、世の中が原子力の平和利用一色だった当時に、「日本の電力飢饉なんか、原子力があれば一ぺんで解消するんですね」などと語っていた物理学者の武谷三男が原発批判に転じたことは知られているが、他にもノーベル賞受賞学者の湯川秀樹や朝永振一郎をはじめ、複数の学者が原子力に疑問を呈したり否定的であった。だがマスコミはこれを抹殺したり、掲載しても大きく取り上げることはなかった。
 しかも、海流を変化させたり台風の進路を変えることが可能だなどと、そうとうに荒唐無稽な夢を抱いていた。放射能の危険などは、時間があれば消せると楽観的な考えがはびこっていた時代に、「朝日新聞」を含むマスコミも、それに同調していたことがうかがえる。
 
 第五福竜丸事件のときに、それを取材に行った「朝日新聞」静岡支局の記者が、船の窓枠にたまっていた「死の灰」を、原稿用紙ですくって小さく包み、上着のポケットに入れて持ち帰ったという。放射能の危険性は新聞記者のあいだでさえ周知されていなかったのだ。
 
 原子力の危険が日本人のあいだで認識が遅れた原因は、まずGHQによる原爆被害隠しがあり、50年代に入り政府・財界による「原子力の平和利用」のかけ声が、マスコミを巻き込んだ国家政策となり、原子力の危険性を国民の目からそらしたことが原因である。
 
 現在連載は18回目。いつまで続くのかわからない。「今だから言える」的な懺悔記事の色合いは否めないが、原子力政策の流れをまとめたものとしては重要だと思う。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
(PR)【GALLAPからのお知らせ】

自費出版承ります

●自費出版、企画出版、書店流通。
*編集から流通まで、責任持ってすべて引き受けます。
 ■ご相談は無料です。まずはメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。

★ライティング & エディトリアル講座 受講生募集中★
●個別コンサルティング承り。当オフィス、またはスカイプ利用でご自宅でも受講できます。
 *1ヵ月2回コース~12ヵ月24回コース。(1回60~90分)
●出張講座承り(1日4~5時間)
 ■ご相談・詳細はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。 


戦場の万年筆

2011年02月09日 | 昭和史
Iohjima
Okinawa
 硫黄島(上)と沖縄(下)で発見された万年筆。いずれも従軍兵士の遺品と見られる。
 
 アジア太平洋戦争中における兵士の日記や手紙のほとんどは、万年筆、あるいはペン書きである。
 それらは、戦場における出来事をリアルタイムで記録しており、現代に生きるわれわれに、貴重な戦争体験、証言として残されている。
 日本軍の従軍兵士や軍属は戦後65年を経て高齢化し、記憶も表現力も曖昧で、インタビュー取材だけでは十分な情報が得られないことが多い。筆者が取材した中国帰還兵のS氏も、80歳を超えていわゆる「まだらぼけ」であり、話が同じところをぐるぐると回ったり、ある時期の記憶がすっぽりと抜けていたりする。
 その曖昧な部分や抜け落ちた箇所を補填してくれたのは、彼が誰にも見せることなく保管してあった従軍日記である。その内容は断片的な彼の記憶とも一致し、本来なら貴重な記録として出版されるはずであった。
 ある理由から出版の許可が下りず、日の目を見ることはなかったが、取材そのものは大変貴重な体験であった。
 
 さて、その日記も万年筆のインキで書かれている。従軍日記のほとんどはインキが使われ、遺品の万年筆は各地の平和祈念資料館に、また、靖国神社の遊就館にも展示されている。したがって、戦地で兵士が日記や手紙などを書くにあたっては、基本的に万年筆で書かれていたことがわかる。
 
 ところが、ある人からこのブログの「南京事件論争史」についての記事に書き込み(未公開)があり、「兵士が戦場でペンで日記を書いたと言うなら、それ自体、あり得ない」と言ってきた。であるから、ペン書きの日記は「ニセモノ」であると決めつける。
 このブログにはときどき右翼から反論や脅しの書き込みがあり、それらと戦うのは面倒だし時間の無駄なので無視することにしていて、この書き込みもあまりにもばかばかしい内容なのでほっておいた。
 しかし、この書き込みの主はネット上で持論を展開し、信奉者もいてそれなりの影響力を持っているようなのである。近現代史についてあまり知識のない人間が読んだら鵜呑みにしてしまいそうな危険をはらんでいる。
 
 私はこれまで戦場の記録が万年筆で書かれていたことに何の疑問も持たなかったが、インクの補充はどのようにしていたのかまで具体的に調べたことはなかったし、どのような場所で書いていたのか漠然としか理解していなかった。これでは突っ込まれたときに反論できない。
 そこで、ペン書き以外の日記は存在していたのか、またインキの補充はどうしていたのか、どのような環境のもとで兵士は日記を付けていたのか調べてみることにした。
 ところが、手元の蔵書をひも解く限り、具体的に戦場の筆記具に言及した書物は見つからなかった。ネット上にも見当たらない。それほど当たり前のことであって、論議の俎上に載せるほどのことでもない、ということなのであろうが、そこが歴史改竄派の狙い所でもあったのだろう。 
 このブログに書き込んだ主も、自ら足を使って多数の元兵士から取材したという形跡はない。つまりは、南京事件を「なかったことにする」ことを前提に持論を展開しているに過ぎず、最初から「事実」を見極めようとする立場にない。
 彼の理論はきわめて稚拙な創作ではあるが、その稚拙な創作を何の疑問も持たずに信じてしまう人間は少なくない。無視を決め込めば、悪意ある理論を野放しにすることになる。笠原十九司教授も、「歴史改竄派に対する反論はしなければいけない」と語る。
 そこで、膨大な人数の元兵士からの証言をとり、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』や『戦場の街 南京』などの優れた著作を出版している松岡環氏に、自らの浅学をさらしつつメールで質問し、丁寧な回答を得ることができた。

 ここに、松岡氏からのその回答を掲載させていただく。
 
          -----------■◆■--------------
 
 このメール(ブログへの書き込み記事)を読ませていただきますと、歴史を改竄したい意欲満々の皆さんと共通する部分がたくさんありますね。
 まず疑問に思ったら自分で足を運んで調べればいいのですが、思い込んだら、または思いこもうとしたら「頭の中で一途」の感があり、真偽はさておき、自論(持論)を言いたくて仕方がない様に見えますね。「嘘も百回言えばほんと!」を狙っているのでしょうか。
?
 まずご質問にお答えします。
1、私が250名の南京攻略戦の日本兵の取材から入手した日記原本3冊とコピー7冊、南京戦を含む2人の手紙50数通はすべてペン(万年筆)書きです。鉛筆書きは一人もおりません。同時期に南京以外の華北の戦線にいた元兵士2名(実際取材したら)の日記も拝見しましたがペン書きでした。かといって鉛筆書きは無とはいえません。
 
2、万年筆について。1940年には日本は世界の万年筆生産の半分は担っていたと「ウキペディア」に書いています。スポイド式万年筆は入手しやすかったのと、昭和の十年前後に書かれた日記を見ますと、市販の手帳や企業が配ったと思われる手帳など、実にバラエティーに富んでいます。書くことが多く、書く人も当然多かったと言うことですね。
 私が行った兵士の聞き取りでは、ほぼ全員に日記やメモ、写真の有無を聞きました。そして数十人の兵士が日記をつけていました。ただし、(帰還兵士は)敗戦と同時に戦犯になるという噂(があり、それ)を恐れて(従軍日記などの記録を)焼却した人がたくさんいました。
 画数の多い字(旧字体)を当時は使っていましたが、(筆記具は)それしかなかったので、書くことに(ことさら)不便(を感じることは)なかったでしょう。もっとも日記の中には崩し字がたくさん見られます。早く書くためですね。
 
3、インクの入手についてーーー手紙も日記もインク書きが常識でしたが、どこで買ったかは実際に聞いていませんのでよく分かりません。軍隊に入って酒保(営舎内の売店)での入手はできました。
 日本兵の聞き取りから考えられるのは、南京戦当時、占領地が都会なら街の中で徴発という略奪がほぼ自由にできました。また少ないながら憲兵、補助憲兵なども配置され、傀儡政権を樹立すると、文具店などから買うこともできたでしょう。もちろん金を払わない日本兵も多くいたようです。
 
4、日記の記入ーーー兵たちはたとえば無錫飛行場攻略中の何日間や、南京城攻略の数日など、弾が飛んでくる中では書けません。しかしいつも戦闘しているのでなく行軍が終わると「その日の出来事を数行小さい字で書く」と言っていた兵士も多くいました。戦闘中負傷をして、運び込まれた病院で(戦闘記録の)続きを書いた日記もあり、また(後日)日記を詳しく加筆して書きつづった人も、10人中2名おりました。
 
5、ペン先も軍に供出?ーーー日中戦争(満州事変、支那事変)当時は金属供出はありません。
 拙著『南京戦 引き裂かれた記憶を尋ねて』を誹謗中傷する人も、中国人集団虐殺のあと油(ガソリン)をかけて焼いたとの証言はあり得ない。なぜなら「ガソリンの一滴は血の一滴」だと言われた時代だから、ガソリンを使用するはずがないのでこの本は嘘だらけとネット上に書いていました。ガソリンも金属の供出も(1941年12月以降の)太平洋戦争の時代であって、1937年には事実上ありませんでした。
 
 調べもしないでうのみをして誹謗中傷文をまき散らすなんて、非常識な人たちだと思いました。
?
 どんな対応をされるにせよ、作話や虚言に対抗するにはまず検証が必要です。真面目に考えなければならない私たちはこつこつと資料を集めたり書いたりする時間を取られます。ちょっとばからしい気もしますね。
 こんな程度ですがお読みいただければいいかなあと思います。
 南京からの手紙に関しては、昨年出版の拙著『戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記』社会評論社をご参考に。
?
松岡環
 
 *文中(  )内は、筆者加筆。読みやすくするために、接続助詞や読点を加えた。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
(PR)【GALLAPからのお知らせ】
★ライティング & エディトリアル講座 受講生募集中★
●個別コンサルティング承り。当オフィス、またはスカイプ利用でご自宅でも受講できます。
 *1ヵ月2回コース~12ヵ月24回コース。(1回60~90分)
●出張講座承り(1日4~5時間)
 ■ご相談・詳細はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。
 
●自費出版、企画出版、書店流通。
*編集から流通まで、責任持ってすべて引き受けます。
 ■ご相談・詳細はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで。


ビキニ被爆から56年を語る

2010年03月28日 | 昭和史
元「第五福龍丸」乗組員

大石又七さん講演
 
 「戦争体験者100人の会」主催で、ビキニ事件被害者、大石又七さんの講演会が行われた。
 大石さんとは昨年、広島の原爆記念日に大久野島を訪れた際、ご一緒させていただいた。
 

Ohishi1
 
 大石さんの乗るマグロはえ縄漁船第五福龍丸は、魚群を追って中部太平洋のビキニ環礁付近で操業をはじめた。
 1954年3月1日未明、アメリカは世界に警告を発することなく、強大な水爆実験をビキニ環礁で行い、強い放射能を帯びた大量の原始灰が第五福龍丸の甲板に降り注いだ。
 14歳から漁師になった大石さんは、そのときまだ20歳。
 事件は大石さんの人生の方向を、大きく変えることになった。
 
 「大きいマグロを捕ろうと思ったら、大きな水爆をとってしまった」
 
Fukuryu
 
 焼津港に帰港した第五福龍丸の乗組員23名は全員急性放射能症で東京の病院に入院。無線長だった久保山愛吉さんはその年の9月に亡くなった。
 
 第五福龍丸のマグロはすべて廃棄されたが、他の漁船から水揚げされたマグロからも放射能が検出され、一部は市場に出回ったため「原子マグロ」と国民から恐れられた。
 寿司屋の店頭からも、一時はすべてのマグロが姿を消した。
 
忘れられつつある「ビキニ事件」
 年々ビキニ事件を知らない人が増えているという。事件の名前は知っていても、それがどういう事件だったのか知らない人はさらに多いという。
 その理由は、日米政府の密約によって早期決着が計られ、また暗黙の規制によって一切の報道がされなくなったことが最大原因だという。
 
 小中学校の教育者は、ビキニ事件を積極的に子供たちに教えることは政府の意向に反することとなり、教室では口をつむぐしかなかった。
 
 「真実は表に見えているところにはありません。権力者に都合のいいことばかりです。真実は裏にあります。子供たちには真実を伝える教育が大切なのです」
 
 敗戦間もない日本は、対米関係で不利な状態にあり、米国の望む「見舞金のみで保証はなし。それでこの事件はすべて決着を付ける」という一方的な条件をのまざるをえなかったと、大石さんは話す。
 
 しかも、この見舞金は「第五福龍丸」乗組員に限られ、他の船での被爆者には適用されなかった。そのために見舞金の配分を巡って保証されなかった被災者の怒りの眼が日米政府ではなく、第五福龍丸の乗組員に向けられることになった。
 その結果、被災者は事件の真実に口をつぐんだまま、半数がこの世を去っている。
 
日米政府間の密約
 この事件を長引かせることは、高まる反核運動によって米国の核開発に支障を来すと、当時の鳩山一郎(鳩山由紀夫首相の祖父)内閣は判断した。日本は米軍の軍事力に守られているという立場上、米国の核兵器の開発を支持しており、理不尽な提案に反対できなかったのである。
 
 大石さんは、ビキニ事件の本質をわかりやすく解説した本を2007年に出版している。
 
 この本には「ビキニ事件」のいきさつから、その後の補償問題や、乗組員の動向、核廃絶に向かうメッセージなどが、わかりやすく述べられている。
 「ビキニ事件」になじみのない人の入門編としては最適だろう。
 
Ohishi3
 
『ビキニ事件の表と裏』
大石又七 著
かもがわ出版 刊
 
 さらに詳細な資料を望む人には、2003年に発行された以下の本が良い。
 
Ohishi2
 
『ビキニ事件の真実』
大石又七 著
みすず書房 刊
 
 「1946年から(第五福龍丸が被爆した年の)1654年までの間に、67回もの原爆実験が大気圏で行われています。その威力は広島型原爆を19年間にわたって毎日落としていたのに匹敵すると言います」
 
 「そして、ガンなどを引き起こす27種もの恐ろしい放射能が地球上にふりまかれていました。その事実を世界中に知らせたのが、私達の「第五福龍丸」が持ち帰った「死の灰」だったのです」
 
関連記事→尾鹿和雄絵画展
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆本を出版したいが、どうすれば…◆
・『全国お郷ことば・憲法9条』『原爆詩集 八月』
『ひまわりの種は誰が食べた?』
坂井泉が主宰する編集プロダクション“GALLAP”が、編集から流通まで、責任持ってすべて引き受けます。
・納得の費用で最高の仕上り。
・自費出版、企画出版、書店流通。
・個別コンサルティング承り。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。

*大変恐縮ですが、いたずら防止のため、住所・電話番号はメールをいただいた方に、必要に応じてお知らせいたします。
Skype Name himawari091028


大江志乃夫さん死去

2009年09月23日 | 昭和史
S_ohe_p
 
 歴史家の大江志乃夫さんが、去る20日に亡くなっていたそうである。
 大江志乃夫さんは1985年、日露戦争後に起こった兵士の脱走事件をもとに、明治の軍隊を歴史小説風に書いた作品『凩(こがらし)の時』で大佛次郎賞を受賞している。
 日清・日露戦争を中心にした近代軍事史に詳しい。
 二部作である『東アジア史としての日清戦争』『世界史としての日露戦争』は、当事国だけの問題ではなく世界の趨勢による影響を受け、政治的錯誤の戦争であったとの視点から、日本の侵略戦争の構図を詳細に描いている。
 大江さんの代表作の一つに数えられる労作だが、版元の立風書房が倒産したために絶版となり、一時は古書でも入手しにくかった。
 立風書房は学習研究社に吸収合併されたものの、保守的な学研がこれらの著書を増刷するとは思えず、他社からの復刊が望まれる。
 
Shinobu_ohe
 
 大江さんの著作にはずいぶんお世話になった。○○について調べたいと思いつき、これがよいと買い求めると、それが大江さんの著作だったりする。
 気づけばこんなにあった。(撮影後、書棚に戻しながら、まだ何冊かあるのを見つけた)
 中公文庫の『張作霖爆殺』は、日中戦争の最初の頃を調べていた時に見つけて、このころはまだ、大江さんについてよく知らなかった。大佛次郎賞作家であることを知ったのは、後のことである。
 
 岩波新書の『靖国神社』はタイトルだけ見て買った本である。靖国にはただ反発していたので、その成り立ちも天皇との関係もまったく知らず、昭和史関連の本を作る上で、最小限のことは知っておいた方がいいと思って入手した本で、これも大江さんの著作であると意識していたわけではない。
 岩波書店が発行しているのだから、保守反動の本ではなかろうという、それだけの理由からである。
 
 失礼な話だが、自分が知らなければ著名人ではないと思い込んでいる人はけっこう多い。この頃の自分はそういう人間を笑えなかった。「ああ、この人けっこう近代史の本を出しているんだなあ」くらいにしか思っていなかったのである。
 
 びっくり仰天したのが、先の二部作である。これを読んで、すさまじいばかりの調査力と視点の斬新さに驚いた。それから立て続けに大江作品を読むことになる。15年ほど前のぼくにとって、大江さんと言えば大江健三郎ではなく大江志乃夫だった。
 
 本人は亡くなっても、著作は永遠である。これからも大いに役立てさせていただくつもりだ。
 81歳だそうである。現代の医学では、この年齢を長寿と言うか、もう少しと言うか微妙だが、ぼくの感覚ではもう少し生きていていただきたかった。
 残念ながら、一度もお会いしていなかったのだ。それが心残りである。
 
 ご冥福をお祈りする。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆あなたの本を待っている人がいます◆
・お手持ちの原稿を本にしませんか。
・自費出版から企画出版まで。
・きっとあなたのファンが出来る本作り。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。




「ひめゆり」上江田千代さん講演

2009年08月23日 | 昭和史
Kamieda1
 
 「戦争体験者100人の会」主催で行われた上江田千代さんの講演会にカミさんと出かけた。
 杉並区内の戦争体験者からの証言を聞くことを中心に始められたこの会は結成7年目を迎え、昨年あたりから大田昌秀さんや早乙女勝元さんなど著名人を招待して行われるようになった。
 上江田千代さんは杉並区天沼在住で、この会の代表の一人であり、沖縄でひめゆり学徒隊と同等の戦争体験をしている。
 ぼく自身は過去に二度ほど講演を聞いているが、この会の主催としては講演会を開いていなかった。
 「沖縄と結ぶ杉並集会」というのが年に一度あって、そちらのほうでは過去に講演があったと記憶している。
 
Kamieda2
 
 講演内容の大筋は著書の『ひめゆり 予科一年生』(文芸社)にまとめられているが、残念ながらこの本はあまり編集がよくない。肝心の戦争体験に関する部分は半分以下で、せっかくの写真の扱いも小さくなっていて伝わりにくい。
 したがって、話を聞くとともに本を読むのがよい。
 
Kamieda3
 
 上江田さんは「ひめゆり学徒隊」が招集されたとき、予科一年生だった。そのために多数の壮絶な戦死者を出した先輩たちとは行動を別にしている。
 学徒動員されたときは飛行場の壕掘り要員だった。
 
 「15歳の少女が飛行場の周囲に壕を掘るという土木作業をやったんです。でも皇民化教育で軍国主義少女になっていた私たちは、30度以上の炎天下を学校から飛行場まで8キロの道のりを通いました。私たちが乗り物を使うことは(物資節約のために)禁じられていました」
 
 写真はその頃に着ていた作業服で、父親の着物を作り直したものだという。
 実は、上江田さんは父親を日本兵に撃たれてなくしている。
 夜明け前、避難していた壕から移動するために外の様子をうかがいに出た瞬間に日本兵によって狙撃されたという。
 上江田さんは逃げていく日本兵を目撃しているが、母親には亡くなるまで撃ったのが日本兵であることを伝えられなかったという。
 
 「米兵は暗いうちはやって来ません。だから撃ったのが日本兵であることは間違いないんです。でも、私は間違って撃ったんだと思いたいです」
 
 この作業服は、父親の形見でもある。
 
Kamieda4
 
 やがて労働現場を指揮していた将校から、近くの病院壕で協力するよう依頼が来た。
 
 「連れて行かれた壕の入り口に足を踏み入れた途端、血と膿と尿の悪臭で初めは吐き気を催すほどでした。
 女性は私一人で壕の責任者の二人の将校との三人以外は全員重傷で歩ける人は一人もいませんでした」
 
 戦況が悪化して壕に解散命令が出たとき、歩けるものは移動しろと言う命令だったが、この壕の傷病兵たちは全員手榴弾か青酸カリで自決したという。
 
 講演会終了後、高校の役員をやっているカミさんが、学校での講演会が可能かどうか直接相談していた。
 しかし、東京の公立学校では実現が難しいということである。
 ご自身が主催する高校生たちとの懇話会も、年々人数が減って来ているそうだ。
 石原都政による学校教育の右傾化はこんなところにも影響していることがうかがわれる。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円~。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。




64回目の「終戦の日」

2009年08月15日 | 昭和史
 今日、8月15日は「終戦の日」である。
 今年は例年にくらべ、NHKをはじめとして、アジア太平洋戦争に関するテレビ番組が多く感じる。
 14日に放送された、中居正広司会の「忘れないで私たちの戦争」は何とも中途半端な企画で、ゲストの五木寛之が、日本人を犠牲者と見るだけでなく、加害者でもあることを忘れてはならない、と言ったことが、この番組の不十分さを象徴していたように思う。
 南京事件などの加害を表現すると、保守的な政治家からクレームが入ることを恐れたのだろうか。
 
 日本軍はアジア太平洋戦争において、アジア諸国の一般住民に多大な残虐行為を行っているばかりでなく、自国の国民に対しても、満州国や沖縄で非道の限りを尽くしている。
 敗戦後、連合国に知られることを恐れてほとんどの証拠となる書類や器物を処分してしまったために、日本軍による残虐事件はなかったとする意見がまかり通ったりもしている。
 
 しかし、ここに来てこれまで硬く口を閉ざしていた戦争体験者が口を開きはじめ、秘蔵していた従軍手帖などが公開され、また、各国の公文書館から関連する文書が発掘されたりして、日本軍だけでなく、当時の日本政府の実態もかなり明確になって来た。
 
 心配なのは、戦後64年も経つと、若者を中心にかなり危機感が薄れて来ていることだ。
 先の番組中でも、戦中世代のゲスト、五木寛之、奈良岡朋子、金子兜太と、20代を中心にした若者との温度差がかなり激しい。
 
 「こういうのは、見たくない」
 「大変だったんだと思う」
 
 他人事である。
 
 徴兵が来ても逃げればいいと思っているし、不合理な命令は断ればいいと思っている若者が多いことは周知の通りである。
 簡単に戦争など起こらないとも思っている。
 
 言っておきたい、「戦争は簡単に始まる」。日中戦争は、わずか数発の銃声がきっかけで始まった。そして、「終わらせるのにはその何千倍もの努力が必要になる」。
 
 ミッドウェーで、ガダルカナル島で、レイテ島で、なんども力の差を見せつけられ、やめるべき機会があった。しかし、とうとう沖縄に鉄の暴風が吹き荒れても、日本は勝てるはずのない戦争をやめようとはしなかった。原爆の投下で、壊滅的な被害を被るまで。
 
 ここにいたる15年間の戦争は、盧溝橋での数発の銃声がきっかけである。
 
 戦争とは、そういうものなのだ。
 
 敗戦から64年。証言者に残された時間は限られている。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円~。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。



09・8・6広島~大久野島③

2009年08月10日 | 昭和史
 広島・長崎の原爆の日は、それぞれの市長がオバマ演説支持と非核三原則の法制化を訴えた。
 しかし、自民党も今後政権を担うであろう民主党の一部幹部も、核廃絶にも非核三原則の法制化にも否定的だ。
 アメリカでは自身の持つ銃を奪い取られて射殺される例が少なくない。
 核を持つことは、それが「使われる」可能性があるということも考えねばならない。小学生でもわかる理屈である。
 
 2009年、原爆による死没者の数は、広島26万3945人、長崎14万9266人になった。
 あの日から64年、たった二発の核爆弾の被害はまだ終わっていない。
 
 奇しくも昨日夜10時から、NHK教育で毒ガスについての特集が組まれていて、大久野島で話を聞いた藤本安馬さんも、インタビューを受けていた。
 
 
 
 Usa

 島内にはシンボルのウサギがたくさんいる。しかも人懐っこい。
 手を差し伸べたらエサをもらえると思ったのか、伸び上がって来た。
 
 Shukusha
 
 国民休暇村宿舎の建物は、小さな島とは思えない規模だ。
 この島は現在環境省の管理下に置かれていて、住民はいない。休暇村を含む島全体を「財団法人休暇村協会」が運営する。
 
86h12
 
 「野ざらし貯蔵タンク跡」
 ドラム缶を倒したような形状の毒ガスを入れたタンクが、写真のような台座4基から8基の上に1本ずつ置かれていた。
 タンクの現物は残されていないが、そうとうな大きさだ。
 
 86h13
 
 「長浦毒ガス貯蔵庫跡」
 ここには100トンのタンクが6基置かれていた。内部が黒く焼けこげており、戦後、毒性を取り除く際に火炎放射器で焼き払ったためという。
 
86h14
 
 「北部砲台跡」
 大久野島は日清戦争の後、日露戦争にそなえて国に接収され、芸予要塞として8門の大砲が置かれた。
 毒ガス工場になってからはこの場所にルイサイト(びらん性ガス)タンクが置かれていて、それは戦後のガス処理で焼却された。
 しかし、1996年に、ここの土壌が砒素で汚染されておりことが発覚、1999年に土壌洗浄して芝生が植えられている。
 
 今年1月、この北方60メートルの海底に、「あか筒」と見られる物体が20個ほど見つかった。だれかが触れれば大変なことになる。
 環境省は当初回収に消極的だったが、しぶしぶ8月12日に引き揚げ作業を行う。
 しかし、海底に残された毒ガスは、まだ無数に存在するという。
 危険と隣り合わせの休暇村だ。
 
86h15
 
 「発電場跡」
 この島に残された最も大きな戦中建造物である。重油を使って発電した発電所だ。
 毒ガス製造が盛んになった1941年からは既存の発電設備では電力が足りず、広島電気忠海変電所から海底ケーブルで受電して併用することでまかなった。
 
86h16
 
 不謹慎かもしれないが、この戦跡は美しい。「廃墟マニア」にはたまらないだろう。
 過去にこの建造物が機能していた時にはおそらく、不気味ではあっても、なんら感動はなかったであろう。
 原爆ドームのようにクローズアップされることはない。それでいてすさまじい存在感をもたらすこの建物は、悲劇を伝える負の遺産として、永遠に残されるべきである。
 
Hatsuden
 
 暑さでダウンして休暇村で休んでいた長女を拾い、3時40分の船で忠海に戻る。
 なかなか機会がないかもしれないが、できればもう一度来てみたい。
 
 帰りの新幹線で、長女は元気いっぱいになっておしゃべりを続け、『運命の人』4巻を読了する予定ができなかった。

リンク→『ぼくは毒ガスの村で生まれた。』
    『原爆詩集 八月』できました!
 



 『原爆詩集 八月』朗読You TUbe
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円~。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
 
*出版を希望される方をご紹介ください。お礼を用意しております。
 
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。



09・8・6広島~大久野島②

2009年08月09日 | 昭和史
 朝7時半に広島のホテルを出発して、忠海に向かう。
 広島からは高速道路を使って1時間半ほどで到着。
 フェリーの出発が9時半なので、待ち時間の間に一昨年『ぼくは毒ガスの村で生まれた。』の制作でお世話になった、竹原市役所忠海支所長の堀川豊正さんに会う。
 『ぼくは毒ガスの村で生まれた。』は献本しているはずなので、その後出版した『原爆詩集 八月』を進呈する。
 
Okuno03
 
 桟橋から見る大久野島(いちばん手前)は、泳いで渡れそうなほど近くに見える。一周4キロほどの小さな島だ。
 大久野島は戦時中、島全体が旧日本軍の毒ガス工場だった。
 1925年にはジュネーブ議定書が結ばれ、国際法上毒ガスの使用は禁止された。
 しかし日本は調印したものの批准はしていない。(参考:『毒ガス戦と日本軍』岩波書店)
 
 だが、国際法で禁止されている毒ガスを製造していることを各国に知られることは、はなはだ都合が悪い。
 日本政府はこの島を含む周辺を地図から消し、海岸線に沿って走る列車は、忠海に近づくと海側の窓の鎧戸を降ろすことが義務づけられた。
 大久野島は、国民の目からも隠されたのである。(参考:『地図から消された島』ドメス出版)
 
 その島は今、国民休暇村になって年間4万人が訪れる。
 
Okuno02
 
 大久野島まではフェリーで10分ほど、本当に泳ぎの達者な人なら渡れるかもしれない。
 島内は許可された車以外は走行禁止である。島のシンボルであるウサギを保護するためだそうである。しかし、こんな小さな島に、観光客が何台も車両を持ち込んだらたまらない。
 
 シンボルのウサギは、1971年に小学生が8匹を放し、それが約300匹になったという。
 島の安全をアピールするにも役立っているだろう。
 実際、この島がかつて毒ガス工場であったことを知って訪れる観光客はほとんどいないという。
 
86h06
 
 到着してすぐ、「毒ガス島歴史研究所」顧問の藤本安馬さんの話を聞く。
 藤本さんは戦時中、この工場で働いていた体験を持つ。
 
 「当時、忠海町は不景気で、莫大なカネが落ちる工場の建設を歓迎した」
 「いい仕事があると誘われたが、それが毒ガス工場だとは知らされていない」
 「秘密を守るために、工場のことは家族にも話してはいけない。いつも監視がついていた」
 「やめるときは、ガスをあびて働けなくなったときか死んだときだ。イヤだと言えば憲兵になぐられる」
 「なぜ大久野島に工場を造ったのかというと、周囲が海なので漏れても迷惑がかからない。秘密が守りやすいなどの理由からだ」
 
 自身の体験から平和問題にまで言及したが、なにせ高齢。言語不明瞭で聞き取りにくい。
 残念ながら、1時間に及ぶ講演の半分も理解できなかった。
 字幕が必要である。
 若手を育て、体験を伝達することを考えねばならないだろう。
 
86h07
 
 「大久野島毒ガス資料館」
 何も知らずに島を訪れた人は、ここの展示品を見て驚くだろう。
 この島で、何が起きていたのか。
 
86h08
 
 「毒ガス冷却装置」
 発生したガスが周囲のパイプを通過する間に海水で冷やされて液体に変化する。でき上がった液化ガスは容器に詰められて保存される。
 
 86h09
 
 「毒ガス防護服」
 直接毒ガスの製造にたずさわる工員は、このような防護服を着て作業に及んだ。
 足元にある「装面」と書かれた赤いパネルは、装備が必要な施設の入り口に掲げてあった。
 しかし当時の防護服は性能が極めて劣悪で、隙間からガスが浸透し、被曝する人が後を絶たなかった。
 ある工員はただれた皮膚を工場内の診療所で医者に見せたところ、
 「これは治らない。治るようなら兵器ではない」
 そう言われたという。
 
86h10
 
 「あか筒」
 毒ガスは砲弾で撃ち込む場合もあったが、戦場の環境や目的に応じて、このような筒に毒ガスが詰められ使用された。
 毒ガスは重いので、空中に拡散しにくく、せいぜい人の身長程度の地上付近をただよう。
 日中戦争では実際に使われ、多数の一般住民を含む多数の人々が犠牲になった。(参考:『日本軍毒ガス作戦の村』北坦村事件 高文研)
 
 「あか筒」という名前は暗号である。
 大久野島で作られていた毒ガスは4種類あり、それぞれ暗号で呼ばれていた。
 イベリット(マスタードガス)は「きい(黄)1号」、ルイサイトは「きい(黄)2号」、青酸ガスは「ちゃ(茶)1号、ジフェニール・シアンアルシン(くしゃみ性毒ガス)は「あか(赤)1号、塩化アセトフェノン(催涙ガス)は「みどり(緑)1号」と呼ばれていた。
 液化したときの色で、このような暗号がつけられたと言われている。(参考:『隠されて来た「ヒロシマ」』日本評論社 ほか)
 
86h11
 
 勤労奉仕で勤務した学徒を含め、わかっているだけで1000人以上が毒ガス工場の犠牲になっている。
 しかし、日本政府は、国際法違反の毒ガス工場があった事実を諸外国に知られることを恐れ、「工場はなかったのだからその犠牲者も存在しない」と犠牲者に対する補償すら認めていない。
 中国からの「遺棄毒ガス補償裁判」などで、その製造使用が国際的に明るみに出て、ようやく重い腰を上げたものの、今だ犠牲者に対しては認めようとせず、支給されたのは「見舞金」であって「補償金」ではない。
 つまり、全貌を見せず、隠せるべきところは少しでも隠しておきたいという考えなのだ。
 
 
 
 大久野島と日本軍の毒ガスについて知っている人は限られている。
 以前いささか保守的な知り合いに中国の遺棄毒ガス訴訟について話したところ、即座に「やつらはカネが欲しいからね」と言ってきた。
 「すでに日本政府は遺棄された毒ガスが日本軍のものであることを認め、その撤去にあたっている」と説明すると、むっとした顔をして「調べてみる」と口をつぐんだ。
 残念ながら、彼らの味方である東中野修道や藤岡信勝などはこの件に関する書物は出していないから、「調べて」はいないだろう。
 
 原爆や大空襲に匹敵する戦争犯罪でありながら注目されなかったのは、日本政府が戦後も長きに渡って隠蔽してきたからに他ならない。しかしそれでも多くの研究者は存在していて、多数の著作があることを一昨年の出版にかかわって知った。

 明日は島の主な戦跡をまわる。
 
 今夜10時より、NHK教育で「大久野島秘密工場の実態」が放送。
 
 リンク→『ぼくは毒ガスの村で生まれた。』
 
 *掲載画像は毒ガス資料館の許可を得て撮影・公開しています。転送・転載する場合は必ずご連絡ください。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円~。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。




09・8・6広島~大久野島①

2009年08月08日 | 昭和史
 1週間前の予報では曇で、これは好都合と思っていたら、とんでもないピーカンだった。
 
 ただでさえ、広島の夏は暑い。
 シャーシャーというクマゼミの鳴き声が、セミシグレとなってふりかかる。
 64年前の広島も、きっとこんなだったのだろう。
 
86h01
 
 去年よりも人出が多い。
 式典が終わってだいぶ経つのに、焼香の列が長く続く。
 
86h05
 
 まるで魚のウロコを思わせる、整然と並んだ折りたたみ椅子が、参列者の数を想像させる。
 しかし、設置も片付けも大変な苦労だろう。
 
86h02jpg
 
 今回同伴した長女が未体験ということで、集会に参加する仲間とは別行動で、平和祈年資料館にいく。
 この日は、大人50円で、子どもは無料だ。
 ここも、昨年より格段に人が多い。
 小柄な長女は展示物を見るのに苦労していた。
 
86h03
 
 外国人の見学者が非常に多い。昨年はこれほどでなかった。
 沖縄の海兵隊員らしき若者が、思いのほか熱心に見学している。
 どんな気持で展示物を見ているのだろうか。
 これもきっとオバマ効果なのだろう。
 
 中国人らしい見学者がいた。東館から本館につながる通路にある、破壊された建物のレプリカに二人の若い女性がポーズを作って寄りかかり、記念撮影をしている。勘違いだろうこれは。
 インカムを借りれば中国語の案内がされるのだが、展示物には日本語と英語しか表示されていないので、意味がわからずに迷い込んだか。
 
86h04
 
 平和公園の中にあるさまざまな建造物を説明しながら原爆ドームまで行く。
 長女は暑さでそうとうへばって来た。
 休もうにも、この暑さで休憩所はどこも人でいっぱいで、しかもかえって暑苦しい。
 主なところを見終わった時点で早々に引き揚げ、遅い昼食をとってから、涼を求めて集会に合流した。
 
 集会ではちょうど、第五福龍丸乗組員の大石又七さん、大久野島毒ガス工場元作業員の藤本安馬さん、沖縄から知花昌一さん等によるシンポジウムが行われていた。
 しかし、暑さの名残がおさまらず、公演に集中できなかった。
 
 明日は、大久野島に渡る。
 
 『原爆詩集 八月』が再版だそうだ。ちょうど1年、この手の本としては、まあ順調と言えるだろう。
 リンク→『原爆詩集 八月』できました!
 ◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円~。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。



原爆落としたのソ連だって?!

2009年07月09日 | 昭和史
Genbakusoren
 
 
 
 書類を整理していたら、5年前の朝日新聞夕刊が出て来た。
 この記事内容があまりにもショッキングだったので、ときどき話題にするのだが、原本が行方不明になっていて、すっかりなくしたものと思っていた。
 この記事が事実だとするならば、日本の教育はえらいことになっている。
 
 先日、中学校の元社会科教諭の増田都子さんと集会でお会いした時にもこの記事の話をした。
 「そういう人はさすがにいないと思います」とおっしゃっていた。
 伺えば、今は学習指導要領で、現代史も最後まで教えなければいけないことになっているそうだ。
 この記事は5年前のものなので、当時は社会科教師が現代史を教えることを放棄していたのだろ。まあ、いいわけはいろいろあるだろうが。
 
 以下に記事を紹介しておくが、このレベルの人たちを前提に現代史を伝えていかなければならないとすると、かなり辛い。
 
 
            ◇◇◇
 
 
(出典:「朝日新聞」2004年8月28日夕刊)

原爆落としたのソ連だって?!

本橋信宏


 美浜原発の事故が起きたとき、聡明なスタイリストが私にこんなことを言った。

 「被爆国なのに、なんで日本ってゲンバク、持つのかしら」

 私が発音の間違いを指摘したら、彼女は不思議な顔になった。よく聞いてみると、彼女は原子力発電所とは原子爆弾を製造する核施設工場であって、どちらもゲンバクと発音し、混同していた。

 「広島と長崎に原爆を落とした国は?」と聞いてみた。すると彼女は涼しい顔で答えた。

 「ソ連よ。いまのロシア」

 彼女の歴史認識によれば??。太平洋戦争とは、日本とアメリカが日米安保条約を結び、ソ連と中国を相手に戦争をした戦いだという。頭の中で、日米安保と太平洋戦争、冷戦が同時代としてごっちやになっていたのだ。

 人当たりがよくて歴史に関心がある自動車セールスマンがいる。彼は、映画「パールハーバー」を観た後、私にこんなことを言った。

 「日本は真珠湾戦争で勝っても、太平洋戦争で負けちやうんだからなあ」

 私は「真珠湾攻撃]を言い間違えたことを指摘した。
すると彼はこう言った。

 「日本は真珠湾戦争でアメリカと戦争したけど、休戦して日米安保を結んで、ソ連や中国と太平洋戦争をやったんですよ。原爆? ソ連でしょ、落としたの。あ、中国だっけ」

 ジョークではない。困ったことにスタイリストも営業マンも、歴史以外の知識は豊富である。
 自虐史観だ自尊史観だ、ゆとり教育是か非かと論争する前に、中学高校の社会科が江戸時代ごろで3学期を終了してしまうことを憂うべきだ。社会科は、戦後史からはじめよ。

 もっとも、知ってるつもりで知らない分野は人それぞれだ。パソコンに詳しいはずだった私も、大学生に手取り足取り教えてもらい、最近やっとホームページを立ち上げたのだから、あまり偉そうなことは言えないのだが。(文筆家)


◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。



「田母神問題」学習会

2009年06月27日 | 昭和史
 けしば・新城の「でいごの会」主催で開かれた、学習会に行って来た。
 講師は、中学校の元社会科教諭での増田都子さん。
 増田さんは扶桑社版教科書を批判するなどしたために免職なった。
 正しい歴史や平和に関する授業を行うと今の日本では教師でいられなくなるらしい。
 2008年12月20日には、多田謡子反権力人権賞を受賞。
 今年6月13日、在日本大韓民国青年会などが主催した日の丸を人糞に模した旗を掲げて京都市内を練り歩く外国人排斥を許さない6・13緊急行動に賛同している。(Wikipedia)
 
 山田区長が支援する田母神の講演会が、7月13日に迫っていることもあり、急遽勉強会を開くことになったのだ。
 高井戸地域区民センターの会議室に集まったのは15人ほどである。
 
Miyako_masuda
「日本軍に感謝しているなんて教科書は一つもありません」と、タイの学校教材を示す増田さん。

 増田さんは教師ということで、しゃべりなれているとはいえ、2時間半を休まず一気に話し続けるスタミナには驚きだ。田母神俊雄の作文(あれは論文ではない)が公開されてからずっと研究を続けていて、実に詳細な検証がなされていた。
 
 あの作文がでたらめであることは周知の通りだが、国共合作や満州帝国の成立年を間違えているなど、極めて低レベルな誤りもあるいい加減な文章だ。
 
 国共合作 (田母神「1936年」正しくは「1937年~1946年)
 満州帝国成立 (田母神「1932年」正しくは「1932年は満州国建国で溥儀が皇帝になって満州帝国になったのは1934年)
 
 都合の悪いことは何でもコミンテルンのせいにしているが、そのコミンテルン(第三インターナショナル)は1943年に解散している。
 それにもかかわらず、その後も「コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた」とあるのには、何をか言わんや。
 
 これ以上はいちいち指摘しないが、全編妄想と思い込みのかたまりである。
 
 問題は、彼が講演や著作でもてはやされることで、このようにいい加減な作文を無批判で信じ込む人間がますます増えるということだ。選挙で有名人だからということだけで投票する人間が多いことでも、このことは証明される。
 「ウソも百遍言えばホントになる」(増田さん)例はいくらでもあるのがこの世界だ。たとえば、南京大虐殺などなかったと、本当に信じている人間が増えていることからも言える。
 つまり、このでたらめが一人歩きすることで、「定本」化する危険は十分予測できる。
 それには正常な感覚を持っている人々が多数派であるうちに、丹念に検証して伝えていくことが大切だと思う。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・単行本サイズ、ソフトカバー、約200ページ、500部で標準80万円。
・見積り無料、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、最高品質の仕上り。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・ひまわり博士が直接承ります。
■ご相談はメールで galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
*上のメールアドレスをコピーするか、右下の「□メール送信」をクリックしてください。




第7回沖縄と結ぶ杉並集会

2009年06月13日 | 昭和史
 毎年行われる「沖縄と結ぶ杉並集会」が阿佐ヶ谷の杉並産業会館で開催された。
 この日の講演者は、沖縄大学教授の新崎盛暉氏。。
 ゲストには、先日沖縄でお世話になった知花昌一さん。
 
Arasaki
 
 新崎教授は、何と杉並の天沼生まれだそうだ。しかし、物心づく前に熊本に引っ越したため、天沼での思い出はまったくないという。
 子どものころは軍国少年で、学校の教師が敗戦と同時に手のひらを返したように、反米から親米に変わるのに違和感を覚えたそうだ。
 
 「当時は右翼でしたね。それが変わったのは高校生だった1952年4月28日です。この日がどういう日かと言うと、対日平和条約と安保条約が発効した日なんです。学校では先生が『これで日本は独立できました、万歳をしましょう』といいます。しかし私は違うと思いました。これまでは、沖縄は日本でありながらアメリカに占領されていたわけですが、この日から沖縄は日本から引き離されて植民地になってしまったわけです。そのことに直面したとき、考えが180度変わりました」
 
 このような生い立ちから始まって、この後は『東アジアにおける沖縄の役割」と題し、米軍再編にかかわる問題を中心にうかがった。
 
 日米同盟はすでに手詰まり状態であること。したがって、グアム移転協定はまったく無意味な協定である。
 1. 反対派を恫喝する威喝的パフォーマンス。
   95年の住民の大反発に脅しをかけ、押さえ込むのが目的。
 
 2. 政権交代後の次期政権に縛りを掛ける。
   政権が民主党に移っても、前の政権が行ったことだと言わせない。
 
 3. 米軍再編のため、日本に金を出させることで、アメリカの議会に予算を承認させること。
 
 沖縄の負担を軽減するためとはまったくの欺瞞であることがわかる。
 沖縄の米兵1万2千人、グアム移転9千人。
 しかし、現在の人員は数万の欠員があるのだから補充するという。
 減るどころか増える。
 
 家族にいたっては現在7千人しかいないのに、グアムに移転する人数は9千人という。
 どういうことか。
 ようするに、移転を理由に辺野古や高江に基地を増やすということ。
 そんなまやかしに、日本政府は莫大な税金をつぎ込むことを決定した。
 
 続いて、基地を推進しているのはだれなのか、そして、沖縄が東アジアで果たしうる役割についても話をうかがったが、ここには書ききれない。
 
Chibana
 
 ゲストの知花昌一さんは、弾き語りを数曲。
 
Umaguwa
 
 終了後、中心メンバーだけで懇親会が行われた。
 西荻にある沖縄料理店「馬ぐわ」の狭いテーブルにぎっしりで、いささか窮屈である。
 中央が新崎教授、その左がひめゆり学徒の上江田千代さん、新崎教授の右一人おいて白いジャケットが知花昌一さん。
 
 この店はおかしな店である。後方の棚にクラシックなフィギュアがつまっている。
 中野のまんだらけの古川社長に見つかったら全部巻き上げられそうだ。
 
Atom
 
 鉄腕アトムがいっぱいあった。
 何故なのかは聞きそびれた。
 隣町だし、今度行った時に聞いてみることにしよう。
 
◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆「自費出版」は直接プロの編集者に◆
・発注先を決める前に、まずご相談ください。
・30年以上の実績を元にした、的確なアドバイスをいたします。
・中間マージンなど無駄な費用がかかりません。
・制作者との直接やり取りで失敗がありません。
・出版社の営業マンからはけっして聞くことのできない、有意義な情報が得られます。

■メールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで

*上のメールアドレスをコピーするか、右の「□メール送信」をクリックしてください。


証言 早乙女勝元さん

2009年03月14日 | 昭和史
ひたすら平和を!
3・14戦争体験者の証言を聞く会


東京大空襲被害と

  国家責任を問う



 東京大空襲の日から4日経った今日、3月14日、「〈戦争体験者100人の声〉の会」主催で、講演会が開かれました。

 早乙女勝元さんの講演とあればかなりの動員がのぞめるはずでしたが、あいにくこの日は悪天候で出足が悪く、実にもったいないことでした。

 余談ですが、3月14日は「数学の日」だとか。
 3.14159……、πは永久に割り切れません。
 しかし、東京大空襲をはじめとした無差別絨毯爆撃や、広島・長崎の原爆などの戦勝国による残虐行為も、早急に裁かれ割り切れて欲しいです。

01kamida

 開会の挨拶に立った上江田千代さん(元ひめゆり学徒)は今日の悪天候は東京大空襲被害者の涙雨だと語り、声をつまらせました。

02lee


 東京大空襲では、朝鮮半島から徴用された多数の朝鮮人も被害に遭っています。
 朝鮮半島は韓国併合で日本の植民地化され、「半島人も日本人」と呼ばれて義務ばかりが強要されました。
 自らの国とは何ら関係のない戦争を手伝うために、芝浦などの軍需工場で働かされていて、深夜、疲れて深い眠りについたとき、B29の大編隊に襲われたのです。

 犠牲者のうち61人が軍属として、宗教も母国も違う靖国神社に合祀されています。

 「日本政府は東京大空襲犠牲者の遺骨を、約9千体返還したと宣伝している。しかし、1948年2月と5月に、遺骨約800体と位牌約7千が返されただけで、それも実際は一部が遺族に返されただけで、残りは行方不明です」

 1948年は、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の両国が建国された年で、混乱のなかで遺骨の返却などできる状態ではなかったはずと、東京朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮側事務局長の李一満(リ イルマン)さんは語りました。

 紹介のみで発言はありませんでしたが、在日本大韓民国民団からも代表が参加していました。

03kimori

 東京裁判では敗戦国側の戦争裁判は裁かれましたが、戦勝国による犯罪行為が裁かれることはありませんでした。
 非戦闘員、しかも銃後を守る女性や子どもとお年寄りばかりが亡くなった東京大空襲は、広島・長崎の原爆とともに、明らかな国際法違反の戦争犯罪です。
 米軍の謝罪と補償を求めて、戦後60年以上がたってようやく法廷闘争に持ち込んだ人々がいました。城森満(きもり みつる)さんは,東京大空襲訴訟原告団副団長です。

 早乙女勝元さんを証人として呼ぼうとしたところ,「不必要どころか有害である」と被告側から拒絶され、体験者の証言も、すでに公表されていることばかりだから必要ない、と拒否されました。
 しかし裁判所は、審議を行なわずに結審することはあり得ないとすべての証言を認めたと,裁判の体験を証言しました。
 この裁判は現在審議が進められています。

04saotome
 作家で「東京大空襲戦災資料センター」館長の早乙女勝元さんの話の前に、早乙女さん持ち込みの18分のビデオを鑑賞。戦災体験者の証言を実写とアニメで構成したもので,素材は実にすごい。
 編集をもっとうまくやれば、さらによくなったと思えました。
 つまり、出来はいまいち。

 早乙女さんは個人的な体験を話すことはほとんどないそうで、今回は特別。
 敗戦の前年、昭和19年(1944年)の軍事費は,国家予算の85.5%もあったそうです。
 街に出れば「鬼畜米英」「一億火の玉」などのキャッチフレーズがあふれる、戦争一辺倒の時代でした。

 「ドイツは多数の国々と国境を接していて,侵略されたりしたりがありましたが、日本は歴史上,他国から侵略されたことはありません。戦争の原因は,すべて日本が他国に侵略したことによっておきています」

05kamikaze

 「これを若い人に見せると、カゼカミと読みます。これは「神風」なんですね。
 このはちまきはもらえるものではなく、買うんですよ。
 私たちは軍国主義教育で、この戦争は正しい、「聖戦」だと教えられました。待っていればそのうち神風が吹いて勝つと思っていたんです。ところが、「神風になれ」っていわれたんです。びっくりしましたね」

 「子どもでも工場に徴用されて働きました。そこでは大勢の朝鮮人と一緒になりました。朝鮮人も同胞だと教えられていたのに、日本人が彼らをリンチするんです。スコップで殴りつけたり……。もともと軍国少年にはなりきれていませんでしたから、そういうことを見てきて、だんだん「聖戦」に疑問を持つようになったんです」

06saotome

 「300機のB29が絨毯爆撃を行ない、10万人が亡くなった世紀の戦争犯罪は、これまでずっと、米国空軍のカーティス・ルメイの独断であったと言われて来ました。しかし、最近の資料では、1年以上前から東京の空襲が計画されていたことがわかっています」

 「焼夷弾は加速度がついていますから、ものすごいスピードで落下します。逃げる途中、一発の焼夷弾が肩をかすめて電柱に突き刺さりました。
 二つの踏切を越えていきました。カーンカーンカーンと焼夷弾が電車の線路に当たる音が聞こえるんです。あんな細いものに何発も当たるのですから、どれだけ落とされたか想像できますか」

 「私には絶対にゆるされないことがあります。
 それは、人々の命を「鴻毛よりも軽く見ろ」とおしえられ、臣民とか天皇の赤子などと言われて、民間人の命は兵隊の命よりも軽く見られていたことです」

 早乙女さんはこれまで150冊もの本を出版してきたそうですが「先生も子どもも本を読まなくなりました、だから本はまったく売れません。過去の戦争を語り続けるのがとてもむずかしい時代になりました」と困難を打ち明けました。

 「体験は60年で歴史になります。敗戦から60年以上が過ぎた今、記憶を記録にすることが重要です」

07kaijoh

 ぼくはまだ「東京大空襲線祭資料センター」に行ったことがありません。春休みには子どもたちを連れて出かけてみようかと思います。

 【リンク】東京大空襲64th.

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆出版と原稿作りのお手伝い◆
原稿制作から出版まで、ご相談承ります。
メールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで

*アドレスをコピーするか、右の「□メール送信」をクリックしてください。



「あれから1年、まだ解決していない」

2008年12月20日 | 昭和史
 「あれから1年、まだ解決していない」と題する、沖縄戦教科書検定問題の集会が府中で行われたので、行ってきました。
 講演は教科書執筆者で歴史教育者協議会前委員長の石山久男さんと、歴史学者で関東学院大学教授の林博史さん。
 小規模の後援会で、とくに林教授は自宅が近所とのこと、普段着でぶらりよ来た感じでした。
 石山さんは大江・岩波沖縄戦裁判首都圏の会で度々お目にかかっているのですが、名刺交換は初めて。
 林教授はまったくの初対面です。

Fuchu_ishiyama

 石山さんは、首都圏の会で話していた内容とほとんど同じでしたが、あらためて沖縄戦裁判の原告側の意図と、これまでの流れを時系列でわかりやすくまとめて話してくれました。

 原告側の意図は、今後「憲法を変えて戦争のできる国にする」ために、沖縄戦など日本軍の印象を悪くする内容の教科書だけでなく、あらゆる出版物をすべてなくしておきたい、自衛隊を日本軍にするときに兵士になる人間がいないと困る、ということにあると語りました。もちろんそれだけではないのですが、簡単に説明するにはわかりやすい話です。
 また、「あれから1年、まだ解決していない」という集会の表題の意味は、2006年度の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」には軍の命令があったという記述に検定意見がつき、削除されてからいまだに復活していないことにあるからです。
 沖縄県での県民大会をはじめ、激しい抗議の中で文科省は柔軟な態度を見せかけたものの、さらなる右派の圧力のために、記述を復活させるところまでいっていないという事実が残されています。
 沖縄戦裁判の二度の判決で右派原告側が敗訴したことを受けて、文科省としては右翼政治家の圧力との板挟みで、明確な態度を取れていないことなどが語られました。
 先日、検定内容を公開するというニュースが流れましたが、実は欺瞞で、公開は検定終了後に限られ、それではこれまでも閲覧可能だったので何ら変わりがないこと、それ以上に、検定途中での漏洩に厳しくなり、漏洩が発覚したら即刻検定を打ち切ると言っていることのほうに危機感が感じられます。今回の検定改革はマイナスこそあれプラスは何もないとのことでした。

Fuchu_hayashi

 初めてお会いした林教授は、著書での激しい論調からは想像できない温厚な印象でした。

 今回のはなしの目玉は、太平洋戦争末期におけるアメリカ軍の報道から、日本の新聞がネガティブキャンペーンを張ったことについて発表がありました。
 ネガティブキャンペーンについては1944年10月6日の閣議決定「決戦世論指導方策要綱」と同年12月5日起案の内務省通達「決戦世論指導方策要綱に基づく言論集会の取締方針再検討に関する措置概要」で、全国の主要新聞社に指示をする内容です。
 ネガティブキャンペーンとは、アメリカの雑誌『ライフ』に掲載された、ボーイフレンドの米兵から送られたとされる日本兵の頭骸骨の前で手紙を書く少女の写真を利用したものです。(現物写真はプリントが悪く、ここでは紹介できません)
 「屠り去れこの米鬼」という見出しで、アメリカがいかに残酷であるかを国民に宣伝しています。
 林教授はこの研究を発表することを、右派に利用される恐れがあると躊躇していたそうですが、自身の中でまとまりがついたので発表するということです。
 すなわち、戦争末期の時期にこのようなキャンペーンを張るということは、アメリカ兵の残虐性を喧伝することで、日本軍の残虐行為をカモフラージュする意図があったのだろう、ということです。

 林教授の話は、戦場における民間人の処理をどうするかという問題は、サイパン陥落の時からあったと言います。当時の日本軍は天皇の名のもとに命令をくだしていたので、民間人に自殺を命令するわけにはいかないが、自決するように誘導すれば天皇に罪がおよばないと考えました。
 その考えは沖縄においても同じで、具体的な言葉による軍命令はなくても、手榴弾を渡すなど自決への誘導があればそれは軍が関与した「命令」ということになる、と結論できます。

 大著『沖縄戦と民衆』に続く著作が来春発行になる予定で、おそらく今日の話の詳細が掲載されていると思います。
 『沖縄戦??強いられた「集団自決」』(仮)というタイトルで吉川弘文館より発行。
 「400字300枚くらいなので、前回より安いです」ということですが、今日は障りだけで詳しくは本を読んでほしいと言う雰囲気でした。

 林教授も石山さんも、みんなで一緒に後片付けをして帰りました。

◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆~~~~◆
◆出版と原稿作りのお手伝い◆
原稿制作から出版まで、ご相談承ります。
メールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで