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80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(25)

2010-10-12 06:38:04 | 家具
昭和51年の4月19日夫が会社組織にしたらどうかというので、何も判らないまま

夫の言う通り、株式会社を設立しました。

いろはの ”い”の字からわからないということと、初心を忘れずにと言う意味で、

”いろは商事株式会社”としたのです。

資本金150万円の名前ばかりの会社でした。 株式会社にするためには7人の名前が

必要でしたので、夫や私の兄弟の名前を借りました。

夫は経理の事も何も知らないで、ただ株式会社にしろと言っただけでしたし、私も、全く

わからないまま決めてしまったので、このお蔭でこの後、毎年自分で決算書類を書き上げ、

税務署に届けるのには本当に苦労しましたが、マア、自業自得で誰に文句を言う事も出来

なかったのです。

株式会社と有限会社では書類の質が全く違うので、有限会社にしておけば、決算書を作る

苦労をあまりしないですんだのでしょうが、経理の”ケ”の字もしらなかった私には

本当に苦痛以外の何ものでもありませんでした。

最初はいろいろと経理の本を買い揃えましたが、これは殆ど ”積ん読”だけで、たまに

読んでもちっとも頭に入らず、面白くも、おかしくも何ともないので、どなたがこんな

つまらない事を考えたのかなんて、八つ当たりしてはやめるのが落ちでした。

実家の父が会計マンだったので、少し教えてもらおうと父に頼みましたが

”自分で苦労しなければ身につかない。お父さんだって、若い頃、急に上司が刑務所入り

になって、仕方なく毎日、会社の経理を全部自分で調べてこういう風にやるのかと勉強

したんだ。 それがためになった。 自分で勉強するしかない。”とにべもなくはねつけ

られてしまったのです。

毎年決算期の頃になると、憂鬱で、憂鬱で、仕事をやめたくなりました。

もう体中が、なんだか、嫌だ嫌だと言い始めるのです。 3月決算にしたのですが、年が

あけると、もう頭の中は決算でいっぱいで、毎日、家具の事を考えている時は楽しいの

ですが、其の後は本当に、体のどこを切っても”嫌だ”という言葉が出てくるだろうなと

自分で思っていたくらいでした。

大体、私は日本の会社にお勤めをしたことがなかったので、日本語の書類は、あまり、ご縁

がなかったので、税務署からごっそり届けられる用紙を見ただけで、食欲がげんなりしそう

でしたが、儲かっている会社なら、専門の方をお願いできるのですが、赤字続きの会社では、

人頼み出来るわけもありませんで、ほっとくわけにも行かず、法人会に教えを請いに言ったり、

税務署に直接伺って教えをいただいたのですが、でもびっくりしたのは専門家のはずなのに、

皆さんお考えが違った事でした。

前年の決算書を持って、多分これでいいのかとお伺いを立てると、いつも、この記入の仕方

はまちがっている、このように書けといわれる事が多くて、びっくりしたものです。

(つづく)


家具と私(24)

2010-10-11 09:00:26 | 家具
そんなことがあって、私に対する少しは会社の方々の扱いが良くなるかと思ったが、

全くそんな事は無く、いつも私にきちんと対応してくださったのは、課長さんただ

お一人であった。

その翌年4月17日の発明記念日をはさんで一週間、三越本店での全国婦人発明

家協会の発明展に出品させてもらおうとしたのだが、協会側から、あなたのような

大きな物はカタログだけにして頂戴。場所をとってしまうからといわれて、私は毎日、

日本橋までカタログを持ってせっせと発明展に出かけていたのだが、其の間、ストライ

キで列車が止まった。私の記憶では、今迄にストライキでJRの列車が止まったのは、

たった其の日、一日だけのように思っていたのだが、運がいいの悪いのか、ちょうど中日

に、其のストライキがあって、私は如何しても行けなかったのだが、其の日、団地新聞

のファミリーに私の家具の記事が載っていたので、大勢の主婦たちが三越へ電話を

されたそうで、発明協会の人やら、三越の店員さんたちが其の電話を受けるのに大変

だったようであった。


 翌日、発明協会の人や三越の人に囲まれてなんで品物を持ってこなかったといわれ

 た。

私は

 ”持ってきたかったのだけれど、大きいから駄目だといわれました。”

と、其の通りに言ってしまったが、三越の人達はとっても残念がっていたのである。

しかし、三越側が4割、発明婦人協会が4割のマージンを取るのではとっても高くなって

買う人はいないだろうと思ったが、とにかく残りの日にはカタログを一生懸命に配り続け

た。

その後、問い合わせのあった人々に買っていただく事になり20本から製作を始めた。
 

 そんな事になっても、まだ、A 社の人々の反応はとっても冷たいものだった。

私は私なりに家具は一本で作ったら重くなるので、三つの部分に分けて運べるように考えて

いたのだが・・・。

 家具を運ぶ運転手さんまでが”こんな大きい物を考えやがって”と私に悪態をついたのだ。


 私の友達が何人か家事机を買ってくださったが、其のお一人が見るに見かねて

 ”あなたたちはこの家具の良さがお分かりではないようだけれど、これは主婦にとっては

  とっても価値のあるものなんですよ。”と、

 其の日お客様の反応が知りたいと、私と一緒についていった部長に言ってくれたのだった。


それでも、私に対する反応は”女伊達らに”だとか何とか、ひどいものが続いていた。


 
 伊勢原は茅ヶ崎から車で行けば3、40分ぐらいだった様に思うが、電車で行くと、結構

乗換えが多くて時間がかかるので大変だからと、夫や大学生だった長男が時間の許す限り

送って行ってくれたのだが、或る日のこと、家事机のことでいろいろ話し合いになって、

いつもの如くいろいろ私は腹の立つのをぐっとこらえながら、それでも最終的に自分の

言い分を通して車に戻ってきたら、車の運転席で長男がぐっと両手の拳に力を込めて震えて

いたのである。

もし息子が私のために怒り出したら、私に迷惑がかかるとジット我慢していてくれたに違い

なかった。 息子が待っていてくれた車からは結構距離があったのに、硝子窓越しに何かを

感じていたのだろう。

私は今までもそのときのことを思い出すと息子に厭な思いをさせてしまったなあと涙が

止まらない。

(つづく)

家具と私 (23)

2010-10-10 05:33:53 | 家具
神奈川県家具コンクールは横浜駅の西口の駅ビルで5日間おこなわれた。

第24回神奈川県家具コンクールでは人気投票が行なわれたが、駅ビルに足を

運んでくださった主婦の殆どが私の家具に投票してくださっていて今のところ

人気ナンバーワンですよと,A製作所の課長が聞いて来られて、一緒に喜んでく

ださった。

ところが、最後の日の主婦連の方の講評では、

”こんな複雑な家具はかえって使いにくいと仰って結局奨励賞にとどまったの

であった。

其処での家具の中で一番いい賞をとられたのは、無垢材を使った最高級品で

あった。

お値段も一千万円ぐらいだったと思うが、そんな家具に比べ様がないのが、

私の家具で、勿論一般の主婦が少しでも手が届きやすいようにと考えて合板

で作っていたし、比べる方が無理なもので、使い勝手で勝負してもらうより

しょうがない物だったのである。

でも、何時も、おしゃもじを抱えて主婦の味方を唱えておられるはずの主婦

連のおばちゃんが主婦のためになる家具を見捨てるのかと私はなんだか

がっかりしてしまったが、其処に来られていた工作社の女性記者の方が

私に小さい声で、”こんなに立派な物はどこの雑誌社やテレビなどのマスコミ

関係でもきっと取り上げてくれますよ。アタックして御覧なさい。”

とご親切に教えてくださったのである。私には其の方の優しい瞳が忘れられ

ない。時々思い出しては感謝している。

其の会場で読売新聞の男性記者の方にいろいろ質問されて、

”これは、すばらしいと思いますよ。私が記事に書きましょうと仰って新聞に

載る日を教えてくださったので、早速、A 社の社長さんにお話ししておいた

のである。

新聞に載った当日、私の友達から電話が次々とかかってきた。新聞に載って

いた連絡先はA社の方だから、さぞかし電話が鳴って会社の方々は喜んで

くれているだろうととっても嬉しく思いながら、いそいそと会社に出かけて

いったが、私を待っていたのは頭から湯気をぽっぽと出しているような社長

の怒声だった。

180センチはあろうかと思われる大男の社長がいきなり143センチの

私の前に立ちはだかり、大声を上げて

 ”なんで奥さん、前に知らせてくれなかったんですか?電話が鳴りっぱなし

でうちは全く仕事にならない。早く言ってくれていれば、それなりに対応でき

たのに!!!”と喚いたのである。

私はびっくりしたが、

 ”でも社長。私はこの前の土曜日に社長にこのことをちゃんと申し上げまし

 たよ。”

 と言ったのだが、社長は

 ”そんな事は聞いていない”の一点張りだった。

 後で、課長が私に、

 ”うちの会社で何度も新聞に宣伝を載せた事があるのですが、電話が一度も

 かからなかったのです。それでお聞きしたのにあんなに電話が鳴りっぱなし

 になるとは思っていなかったのです。すみませんでした。”

と言ってくださったのである。

(つづく)

家具と私(22)

2010-10-09 07:42:31 | 家具
 昭和52年の4月2日

団地新聞の一つである”The Key”の記者が、たまたま団地の騒音

問題か何かを取材しておられて、私の家に来られて、私の家具を見て取り

上げてくださった記事が上記のものである。

この記事の中に秋には市場にお目見得するとあるが、実は其の前にいろいろ

と家具をどこで作ってもらうかで苦労があったのだ。

私はできるだけ私が行くのに便利な神奈川県の家具工場で造ってもらいたい

と思い、まず神奈川県の家具指導センターを訪ねていき、そこで伊勢原に

あったA製作所を紹介されて行ったのである。

それは昭和51年の冬もそろそろ終わる頃であった。

私は自分が今こういう家具を作っていて、自分が使ってみてとても便利で

ある事などいろいろ書いて、御社で実用化していただけないものかと思って

おりますが、お目にかからせていただきたいという趣旨の手紙を送ってみた。

ほどなく会社から電話があり、是非お出掛けくださいと言って日時を指定

されたので、私は大喜びで出かけていった。

 ところが出てこられた社長さんは仏頂面で

 ”私も家事机は考えていた”

 といわれて工場の隅に置かれた机を見せてくださったが、それは机に毛が

生えた程度のものでしかなかった。

それから事務所へ戻ったが、今はやる気が無いということで終わった。

帰りに工場の入り口まで送ってくださったデザイナーで営業課長のH氏が

 ”社長はあまりにあなたのアイディアガすばらしかったので、ご自分も

アイデアを考えているので、やきもちを焼いているんですよ。

すみませんが、 もう暫くお待ちください。何とかしますから”

と、言って下さったのである。

 それから半年ほどして、思いがけず、例の会社からお手紙をいただいた。

どんな事になるやらと思いながらでかけていったが、今度は、社長が

 ”あなたの家具を作るために工場を整備しました。”と仰ったのである。

 見たところ何の変わりも無かったが、何でもいい、作ってくれるのならと

 思った。

 其の秋に神奈川県の第24回家具コンクールが横浜駅ビルで開かれるので、

 それに家事机を出品して下さる事になった。

(つづく)

































家具と私(21)

2010-07-11 00:18:38 | 家具
昭和44年3月31日に特許庁へ家事机に関する実用新案の出願を自分で書いて

出してから暫くたっても返事がないので、どうしたものかと神奈川県の

発明協会ご相談に行ったら、
 
 ”やっぱりプロに補正書を書いてもらって出した方がいい。

  出きれば顔なじみのある弁理士に頼みなさい。”とアドバイスして

 下さったので、夫の会社に出入りしている弁理士さんにお願いして

 手続補書を出したのが、昭和48年の11月12日だった。

 その後拒絶通知が届いたのが、50年の7月初めだった。

 その理由がなんだかよく飲み込めなかったので、又、県の発明協会に

 出向いて行ったら、

 ”こういう理由の時には通る可能性が高いから、

 もし、家事机のミニチュアでも作っているならもって行って見て

 もらった方がわかりやすい。其の通知書に書いてあるお名前の係官に

 あって直接説明してきなさい。”と丁寧に教えてくださった。

そこで7月のうだる様な暑い日に縦、横、高さを三分の一の大きさに

9ミリの厚さのベニヤ板を使って作った重たいものを持って汗だくになり

ながら、はるばる東京の特許庁まで出かけていった。

折りよく当の係官がおられてすぐ見ていただくことができたが、

其の翌日であれば夏休みに入られるところだったそうで、運がよかった。

家事机のミニチュアでよくよくご説明したら、

”なんだ。そういうことだったのか。よくわかった。これなら実用新案

に値する。”といってくださったのである。

昭和50年7月19日付けの証書が届いた。 出願してから、6年4ケ月近く

たっていた。

家具と私(20)

2010-07-10 10:04:40 | 家具
 家事机が放映された時、たまたま主婦の友の編集長さんが見ておられて

家事机はこれに限ると仰ったとか言う事で、お電話を頂き、編集の方が

取材に来られることになった。

 或る日、友達に電話していたら、主婦の友の編集長は女学校の同期生で

あると言われてびっくりしたが、編集長さんの方も私をご存じなかった。

同学年300人いるし、クラスもご一緒になった事はなかったのである。

お蔭様でこれも読者の反応がよかったようであった。

家具と私(19)

2010-07-09 10:48:40 | 家具
 昭和49年の2月19日に収録されたものが放映されたのは2月22日

であった。

 放映後15分が経過した時、電話がけたたましくなった。

NHKデイレクターのMさんだった。

 ”すごいですよ。電話が鳴りっぱなしですよ。どこかで売って

  いるのでしょうか? もしなかったら、図面を描いて送って

  あげて欲しいのですが?”

  と、興奮気味の声で仰った。

 ”以前全国優良家具協同販売でつくった事がありますが、その後

  どうなったか聞いてみましょうか。”と答え、すぐ

 電話をかけてみたら、

 ”50本作って福岡のお店で売ったが、こういう風に使いますと

  ご説明したらたちまち売れてしまって今はありません。”

 ”今後作られるご予定はどうでしょうか?”と聞いたのだが、

 ”その予定は全くありません。”

 と、いう事だった。

 しかし、後年、他のメーカーが作って、其処へ売り込み

 に行ったら、

 ”うちにも同じようなものがあるよ。”

 と、言われたそうである。私に内緒でつくっていたのである。

 とにかく図面を送らなければという事で描いたものをNHKに送ったが、

 NHKの各放送センターにも電話が殺到しただけでなく、手紙が300通

 あまりも来たので、一部送りましょうかといわれて送っていただいたが、

 全国いろいろなところから送られてきたものであったが、宮崎県だけが

 なかった。 私のいただいたのは約60通あまりだったので、残りには

 あったのかもしれないが・・・?

 (つづく)




 


家具と私(18)

2010-07-08 06:45:36 | 家具
 結局ジェフサ「全国優良家具協同販売)と契約してお金をいただいたのが

昭和47年だったのだが、その後、ずっと其の会社からは音沙汰がなかった。

私は次の会社を探していたが昭和49年になった2月のはじめだったかと思

うが、朝NHKテレビの”こんにちは奥さん”を見ていたら、暮らしのアイ

デアを募集しておられたので、すぐ、手紙を書いた。

数日後の夕方NHKのMさんというデレクターが茅ヶ崎の家まで見に来て

くださって、

  ”それでは大きいものだから、持って来られるのは大変だから写真を

   持って出演していただきましょう。”

  と話してそそくさと帰っていかれたが、其の後打ち合わせに来られた

  Aさんという別のデレクターの方が、

  ”これだけ立派なものを写真だけではもったいないし、他の方も皆さん

   品物を持って来られるので、私どもで車を手配しますから、お手数

   ですが、是非、この家具を持ってお出かけください。”と言われて、

 収録の前日に大きなトラックでやってこられた。


 家事机と中に入れるすべてのものをと言う事だったので、用意が大変

 だったが、私は嬉しかった。

 家事机が出て行ってしまった後の家は何だか急にがらんとしてしまった

 ような気がしたものだ。

 収録は昭和49年2月19日だったが、朝4時にお迎えの車が家の前に

 ついた。

 現場についてみると、もう数人の出演者が到着されていたが、私は家事

 机の中に、それまで入っていたようにきちんと、収納して置かなければ

 いけないので、ご挨拶もそこそこに汗だくになって、家事机の中にいろ

 いろ物を入れて整理していった。

 やっと整理がついてほっとしていた頃アナウンサーの酒井さんがやって

 こられて準備運動のような事を始められた。他の人とはあまり目をあわ

 さないようにしておられたような気がしたが、集中するためだったのだ

 ろうか、其のうち、

 ”皆さんご用意はいいですか? 所定の位置に御付きください。”

 と言われて家事机の前に立ったのだが、其の時誰かが落とされたちょっと

 大き目の紙屑が目に入った。

 どうしたらいいのか、どう考えたってカメラにあの紙くずが写らないわけは

 ないだろうと思った。一番近いところに立っていたのが私だったから、

 あそこまで行って紙くずをとって戻る事ができるかと考え思い切って飛び出

 してそれを拾って何食わぬ顔で立ち位置に戻ったが、間一発で間に合った。

 後で考えれば、それは録画だったのだから、きっと修正できたのに違いなか

 ったので、私が拾わなくてもよかったのだろうが、私はなんとしても紙屑な

 んかが写ってしまってはいけないだろうと思い込んでしまったので、きっと

 関係者をはらはらさせてしまったに違いない「笑い)

   (つづく)
 


家具と私(17)

2010-07-07 19:09:14 | 家具
 昭和46年の秋5社に手紙を出した。

其のうちの一社大手のデパート家具電気用品部からすぐ電話が来た。

”これは相当によく練り上げられた家具だと思いますので、もし、

  商品化が実現したらすぐお知らせください。私どもで売らせて

  いただきます。”

 と言う事だった。

 次に電気メーカー関係のトップの会社からはがきが来た。

 ”なかなか良く考えられたもので関心させられました。ただ、

  今の当社ではこのような家具は作る予定がないと言う事であった。

 それから十日後大阪のジェフサ「全国優良家具協同組合)の代表者

から電話が来た。

  ”私が出張中だったのでお返事が大変送れて申し訳ありませんで

した。

   でもびっくりしましたよ。茅ヶ崎の田舎からこんなしゃれた

アイデアが出てくるなんて。いろいろご相談して、実用化したい

と思いますので、大阪までお越しいただけませんか?”

   そこで大阪までの新幹線の切符を送っていただいて出かけること

になった。

   場所は其の前にあった万博会場の岡本太郎さんの太陽の塔のすぐ

前の小さなビルだった。  

   電話を下さったお偉いさんが、デザイナーの方を紹介してくれ、

   3人でいろいろ話しあった。

   試作品ができたら又来るようにと言われて、都合4回大阪へ行った。

   デザイナーの方とはいろいろな点でよく話があって楽しかったのだが、

   最後に私へのアイデア料の話になって、急にデザイナーの態度が硬化

   した。

   素人の私に4回も試作品をつくったのもご機嫌を損ねた理由だったよう

   で、何時も僕のものなんか一回しか試作品を作ったことがなかった。

   それに1%しかもらっていないと言う話であった。売り上げの1%なのか、

   工場出し価格の1%なのかは聞き忘れたが、急に明らかな不満顔になら

   れたのにはびっくりもし、がっかりもした。

   とにかく全国優良家具共同販売に加盟している家具のお店のうちの大手

   ばかりの80数社と聞いていたのだが、とりあえず50台つくりますと

   いうことで10万円をいただいた。

   
   だが、今もって残念に思っているのは、最後の試作品は見せていただけ

   なかった事である。

   ただこの組合にはデパートは加盟していないので、他に作ってくれる

   ところを当ってみる必要ができた。

(つづく)   


家具と私(16)

2010-07-06 07:37:25 | 家具
 それから毎日、何処の会社へ手紙を書いたものか、テレビ、新聞雑誌など

気をつけてみるようにしていた。

寝てもさめてもと言うが、歩いていても何時も其の事を考えていたのである。

昭和46年の秋、駄目もと精神で5社に手紙を出してみることにした。

実は、はじめに会社へ電話してアポイントメントを取ろうかとも考えたのだが、

もし私が、楊貴妃の再来のような絶世の美人であったなら、出かけていくのに

なあと思ったりもしたが、そうなるには整形費をうんと掛けねばと思ったら、

とても手の出る話ではなくなった。(わらい)

まあ、よしんばそんなことでこれだけの大きい家具を実用化できるわけがないし、

うまくいくわけがないかと,負け惜しみでそう思ったのである。

そうなれば、いつでも暇のある時に見ていただける手紙作戦で行くしかないと

思った。

 だから、どんな手紙を書いたら、相手が最後まで読んでくれるかと何時も

考えていた。

 雑誌などであれば、お客さんが買って読んでくれさえすれば、ある種の

目的はかなっているわけだが、こちらは読んだだけで、次の行動に出て

もらわなければ意味がないし、はじめから終わりまで、相手が読み続けたく

なるような文章でなければならないと思ったのである。

 其の頃親子の作文コンクールがあると新聞で読み、手はじめの練習として

応募してみることにした。

一位ではなかったが、小雑誌に載った。

まあいいかってなもんで、とにかく再三再四考えなおして書くことに決めた。

一語一句大事に書いていかなければならないと思って、原稿を書いたら、ちょ

っと置いておいて、又後で読み返して、手直しをすることにして、時間を掛けて

推敲を重ねていった。

 (つづく)