風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

The AppleBeats衝撃の デビュー

2013年01月16日 23時59分59秒 | 風竿日記

オヤジバンドなんである。

というよりかは、じいちゃんバンドなんである。

とは申しても、かのローリングストーンズは70歳にして現役バリバリ、ニューアルバムまで出して、ワールドツアーもやっているほど元気

我々も英国人に負けるわけにはいかんのである。

まあ、そんな大げさなことではないのであるが、ビートルズ大好き人間の集まりである、わが音楽仲間は、このたび、The AppleBeatsという新しいバンドを結成したんであります。

レパートリーは60曲あまり・・・・。

ベースの岡ちゃん63歳、ギターとピアノの私61歳、ギターの中島君59歳、

ただ一人若手であるドラムの山下勇希28歳の4人の仲間

温泉deビートルズ音楽祭の地元ホストバンドであります。

ということで、1月18日金曜日夜8時から、博多のキャバンビートさんでデビューすることに

CAVERN BEATさんでは、前のバンドから通産して、三回目の出演となります。

場所は清川、うどんの内田屋さんのとなりです。

今年はこのバンドで紅白をめざします。

福岡近郊の皆さん、義理人情に篤い、老人思いの皆さん

ぜひ冷やかしにおいでください。


55年前の笑顔

2013年01月14日 23時59分00秒 | 風竿日記

二枚の写真がある。

一枚は二歳か三歳の頃の私と父母、祖母が納まっている写真。

祖母が福岡に出てきた時に撮ったものらしい。

そう、私は今の福岡市で生まれたのだ。

ワイルドだろう・・・・。

母の名は美津子、父は達郎という。

二人とも今は天国で暮らしている。

ばあちゃんも、一緒だろうか・・・。母がちょっと可哀想な気もするなあ。

そして父は姉婿の勧めもあって、中学の教諭となるために、故郷である鹿島市に帰郷したのだ。

鹿島市は昭和29年に市制移行したと記憶しているので、それくらいに来たのだと思う。

今もある鹿島市の中心街「新天町」という名称は一般公募で母が名付けた町名なのだ。

その意味では母はまだ鹿島に生きている。

多分自分の故郷である博多の天神、新天町を懐かしんで応募したのだと思う。

母の鹿島での足跡は4年ほどしかないのだが、隣り合わせて暮らしていた父の姉の家族とはとても仲が良かったようだ。

今でも従兄弟の兄貴はこの生みの母のことをとてもよく覚えていてくれて、二人して母のことを話すとつい声が詰まってしまうほどなのだ。

兄貴は、誕生日に座布団を作って貰ったのを今でも自慢するくらいに母のことが大好きだったという。

そして、近所の皆さんからも、とても可愛がられていたらしい。

お葬式の時など、皆さんが本当に慟哭されていたのを覚えているから、たしかにご近所様とも仲良くしていたのだと思う。

貧しかったけれど、父のハンカチはいつもきちんと折り目正しくしていたし、料理も、裁縫もなんでも器用にこなしていた。

小学一年生から絵と習字の習い事に行かされていた私。

当時珍しかったヤクルトも毎日飲ませられていた。

私の洋服も全部母の手作りだった。

厳しい家計の中、どんなにしてやりくりしていたのだろうと不思議に思う。

それくらい昔の教員の給料は薄給であったのだ。

というより公務員の給料自体がまだまだ安かったのだ。

 

もう一枚の写真は多分幼稚園の頃の私、

春のある日、木漏れ日の中で、母と一緒に人生最高のとびきりの笑顔をふりまいている私

庭に大きなブランコが作ってあって、そこでのスナップ

母から背中を押してもらってブランコを大きく漕いだものだ。

でもこの笑顔が消えぬ間、この一年後に、母は帰らぬ人となった。

正看護婦だった母は、大きな病院に勤めていた頃に、レントゲン技師の補助をさせられていて、その時に被爆したのだった。

わずか32歳での死

天はなんとも酷いことをなさるものだ。

 

とはいえ、こんな人生最良の笑顔を体験できただけでも母に感謝せねばならない。

何とも55年も前の笑顔の写真なのだが、私の中ではけして色褪せることなどないのだから・・・・。

3月にはまた母の命日が巡ってくる。

仏前に母の大好きだった白いフリージャを供えたいと思っている。

 

 

 

 

 


とんび

2013年01月13日 23時34分53秒 | 風竿日記

テレビドラマは殆ど観ない私だが、ひょんなことからこんなドラマを観ることに・・・

二日ほど前から、体調を崩していたこともあって、

どうしても外せないお取引先様の還暦祝いを、ウーロン茶だけでお付き合いさせてもらい、

私にしては珍しく、早々に帰宅してたのである。

呑めや歌えや、踊れやの大宴会を、その場の雰囲気を壊さないように相槌を打ちながら、

実は頭が痛く、微熱の続く中をお付き合いするのには、ちょっと根性が要るんである。

三時間余の宴会が一本締めでお開きになると、二次会のお誘いを何とか振り払い、来た道を自分の車で帰った。

部屋を暖かくして、パジャマに着替えて寝転んでテレビをつけたら、丁度この番組が始まっていた。

「とんび」という新番組であった。

  

幼い子供を庇い、彼の母親は落ちてきた荷物の下敷きになって、亡くなってしまうんである。

母の死というものが観念的にも理解できない子供に、「お母さんは違う家に行ったのだ」と教え諭す。

「だからお母さんの新しい家を捜してね・・・・」と希望を持たす。

 

ダメ、ダメ、ダメ・・・こんなストーリーはもうダメなのだ。

もう理屈じゃない世界が私には内包されている。

観ていて、自分が可哀想なくらいに涙が溢れて仕方が無い。

どうしても、幼い頃の自分と重なって見てしまうからなのだ。

もう五十年以上も前の出来事なのに・・・、なんである。

遠い遠い半世紀も前のことなのだが、実は母が亡くなって丁度一週間目に母は私の夢枕の中に突然現れた。

「どこに行ってたの・・・。」

問いかける私に母は笑いながら、

「ター坊、ゴメンね。ちょっと違う家に行ってたとよ・・・。」

と答えたのであった。

そしてよく見ると母の左手が無いのだ・・・。包帯に覆われている

「母ちゃん、手はどうしたと・・・・・。」

「うん、片手をあげたらター坊とこに帰っていいと言われたと。」

もうあの両手で抱きしめてもらえんとか・・・と思いつつ

残酷のようだが、それでも母が帰ってきて幼い私は、理屈ぬきに喜んだものであった。

  

そんなまさに夢のような夢の話

でもしかし、その夜母は確かに私の枕元に立っていたのであろう。

いい歳をしてみっともない話なのだが、鮮明な記憶は拭いさりようもない。

      

さていつも思うのだけれど、私は、マザーコンプレックスなのであろうか・・・・。

 

 

 

 

 


インフルエンザの疑いあり・・・。

2013年01月12日 23時19分31秒 | 風竿日記

昨夜は佐世保地区の新年会。つい、呑みすぎてしまった。

遅くホテルに帰りつき、泥のように眠ったのだが、暖房が効き過ぎて布団をはぐって寝てたらしいんである。

朝早く帰路についたのだが、その時まではさほどのことは無かったのであるが、

折角の冬晴れの日・・・・・

洗濯をして、布団を干した後、お昼から急に体の節々が痛くなって、寒気がしてたまらなくなってしまった。

体温計で熱を測ると38.5度もある。

私は熱にからっきしなんである。

少し出ただけで、頭が痛くなり、体がフラフラしてしまう。

病院から貰っていた風邪薬を飲むのだが、全然効き目なし

ありゃーっ、これはインフルエンザかなぁと嫌な予感が・・・・。

来週の18日金曜日までには何が何でも治さねばならない。

福岡市のCAVERN BEATでビートルズバンドとしてのデビューの日なんである。夜8時から2ステージのワンマン・ライブ

3声のハーモニーを重視したThe Apple Beatsというバンドを結成したばかりなのだ。

とりあえず毛布に包まって寝ていたのだが、明日の朝次第では再度病院へ行くことにせねば・・・・。

こんな状態でも音楽のことを考えている私。好きだよね・・・。

ということで、今夜はもう寝ます。

 

 


新年会で発奮す

2013年01月11日 23時47分28秒 | 風竿日記

師走は忙しいこともあり、金融機関ではあまり忘年会はやらなくて、その代わり新年会なんである。

偶然、全店的に今日がその日となった。

わが佐世保地区は63名、ほぼ全員の参加なんであるが、

佐世保地区の職員が一堂に会する絶好の機会、ただ酒を飲むだけでは勿体ない。

当然に親しく言葉を交わして、個人個人の考え方を聴く、よい機会と捉えて酒を注いで回った。

何しろわが信用金庫の中でもも群を抜く、有力な市場。ここで頑張れば全体への効果も絶大なんである。

      

いつも思うのだが、まじめで人がいい職員さんばかり・・・・。

その分、ちょっと元気がないという意見もある。

いいところは伸ばして、悪いところをちょっと引っ込める。

すぐには直せないので、「ちょっと 」がミソなんである。

では、根っこの部分はどうなのか・・・・・・。実は人材育成はここが一番大事。

ここを聴きだすのが、こういう呑み会のいいところ。

本音でモノを語るに、酒は最高の潤滑油なんである。

モノの見方、考え方を教えないと、いくら目先のテクニックを教えても、その時ばかりで、すぐに光を失ってしまうものなのだ。

ただし、根っこは土の下だから見えない・・・・。

だからゆっくりと掘りだすしかないんである。

 

だからいつも無礼講のシフトを敷いているんである。

人を動かすには、この本音と、考え方の根っこを見極める必要がある。

だから百言を弄するよりも、聞き役に徹した方が、組織運営は大概上手くいく。

ただし、このことを力説しても若い経営者にはとうてい理解できないようで、いつも目先の戦術論のところで立ち止まっている。

      

伝えるよりは、部下の意見が伝わりやすくすること

そのための「呑み会」だと思っている。

酒は前向きに呑むべし。上司の悪口を肴に呑んでるうちは後ろ向きの酒だ。

さて、冒頭のあいさつは型通り仕方がないが、後は聞き役に徹したせいか、かなり酔っぱらってしまいやした。部下にスキを見せるのも、相手の警戒感を解くからいい。

あくまで、意見を云いやすくするための方便なのだ。

今年は大きな目標を掲げた佐世保地区7ケ店の諸君は、頗る元気であった。

今年は、やってくれそうな手応えと予感・・・・。

ああ、転勤してきて良かった・・・・。としみじみ思わされている自分がいた。

魅力ある都市、佐世保のご縁の有難さ、生かされている喜びに感謝なんである。

 

 

 


夕陽を追いかけて

2013年01月10日 23時44分59秒 | 風竿日記

ずっと昔のことだけれど・・・・、

夕陽を追いかけて西へずっと走って行けば、永遠に夜は来ないと思っていたバカな男の話を聞いたことがある。

それはただのバカな男の話だと笑っていた。

理論上は成り立つのだが、地球の自転を上回る脚力がいる。

バカな男の話ではあるが、最近そのバカな男になりたいと思うこともある。

今日は風邪気味で病院へ行ったのだが、昨年末の26回にも及ぶ連日の忘年会のツケが溜まっていたのだろうか、点滴を施して貰う間、ベッドで熟睡していたんである。

体力の衰えが気力の衰えと正比例するらしいのだが、

実は、まだまだ青春したいバカな男がここにも居た。

カメラをズームアップすれば、夕闇が迫りくる黄昏の空も、ホラまだこんなに明るいのだ。

そして南の国に行けば、眩しいほどの夕陽が空を覆いつくしているのだ。

寒い日本を離れ、南の国に行きたいと、この1月から、友人たちは何人も日本を脱出しているのだが、

第一陣にも乗り遅れ、第二陣も日程の都合でお付き合いが出来ないこととなった。

彼らも夕陽を追いかけているんである。

若い頃に唄った歌にチューリップの「夕陽を追いかけて」というのがあるが、当時はまだピアノが弾けなかったので、アコースティックギターで唄っていた。

今こそ、この歌をちゃんと唄えるような気がする。

沁みる、いい歌である。

私も夕陽を追いかけて行こう。


 


上り坂と下り坂

2013年01月09日 23時59分40秒 | 風竿日記

やみくもに坂道を息をきらしながら上ってきた。

色んなことにチャレンジしながら、失敗しては、また繰り返して

これでもか、これでもかと歯を食いしばって上ってきた。

今にして思えば、失敗した時の方が得たものも大きいように思う。

失敗すると人の痛みが判るようになるからだろうか。

だとすれば、沈んだ時がチャンスということになろうか・・・。

一年がやたらと早いのは、下り坂なのだからだろうか・・・・。

「あっ!」という間に平成24年は終わり、静かに正月を迎えて、今日はもう1月も9日なんである。

そのうちに春が来て、夏が勝手にやってくると、秋風が吹き始め、やがて木枯らしに替わり、そして「良いお年を・・・」ということになるのだ。

そんな季節の移ろいに晒されて、頑張っていた我が家の外壁をリニューアルすることにした。

屋根瓦は昨年済ませていたので、今年は外壁にした。

ついでに擁壁もプロに水洗いして貰ったのだが、驚くほど綺麗になった。

そこで、新築当時を思い出したのである。

自分の家を持てた時の感動が少し甦る。

ほんの13年ほども前のことなのに、もう遠い昔のような気がするのはどうしてなのだろうか・・・。

 

今年はモノを始末しようと決めた。

我が家にはモノが多すぎる。

趣味にまかせて収集してきたギターが50本ほど・・・。

ピアノとキーボードが4台

ギターアンプが10台

オークションで売り捌こうか、欲しい人にあげるか。

服も多すぎる。1年間袖を通さなかった服は処分すべし。

 

下り坂の人生は逆算の人生だといわれるが、かの田中正造のごとく、死んだときの枕元にはズタ袋に一冊の聖書と石ころだけだったと聞いた。

そんな風にはできないだろうけれど、物欲を少し抑えて、徐々に身支度を整えておくことも考えねばなるまい。

山ほどもある、まだやりたいこと

これも少し厳選しなくてはなるまい。

逆算して、味わい深く枯れていくという、

下り坂の人生を生き切る術を、身に付けねばならないのだと思うのである。

 

 

捨てきれぬ荷物の重さ まえうしろ

                          種田山頭火

 


いやはや、長崎県は長ーい県です

2013年01月08日 23時59分32秒 | 風竿日記

今日は昼から長崎市へ出張、佐世保から西九州道路を通って、武雄インターから長崎自動車道に乗り換えて大村・諫早を通り、1時間半で県南と呼ばれる風情のある都市、長崎市へ、

長崎県庁通りから官公庁街へ新年のご挨拶回り

帰りは県央といわれる大村市に立ち寄って、旧友の勤める介護施設へ友情を温めに、そしてそこの院長先生への表敬を兼ねた新年のご挨拶を申し上げて夕暮れに帰路につく。

いやはや、佐世保市へ帰り着いた頃には夜の帳がすっかり下りていた。

長崎県は横に長い県であることを痛感した次第。

ところが帰路の車窓に見える大村湾の夕景はまさに絶品

えもいわれぬ、トワイライトゾーンの美しさに、しばし見とれた

大村湾は夕陽の名所として名高いのだが、陽が落ちて後の、たそがれ往く光景もまた素晴らしいものである。

私の携帯カメラから写してもこの素晴らしさなんである。

Facebookに紹介したらたちまち63名の方から「いいね」を頂戴した。

ブログでは、Facebookに載せなかった未公開レア写真も一挙公開しませう。

空と山、雲と海とのグラデーションがすんばらしい。

地球はなんて美しい星なのか

しみじみとそう思わされました。

それにしても長崎県は広いというか、長いというか・・・・。

佐世保から長崎市へ行くに、一日仕事になってしまうんである。

生産性を追求すれば、効率的なタイムスケジュールが大切。

こころして仕事をせねばなるまい・・・

と思った次第でありました。

 


草喰ふひとびと

2013年01月07日 23時59分25秒 | 風竿日記

1月7日で松の内も終わり、正月気分はあっというまに去って逝った。

毎年の吉例行事となった、ひぜしん役員うち揃って武雄神社に新年の祈りをささげて、早速常務会が開催された。

今年の最大の課題は3月末で時限の法律が切れる、金融円滑化法のゆくえである。

お上は、始め出口戦略などと云っておきながら、最近ではそんな呼び方はするなというのであるが、金融モラトリアムといわれたように、返済条件の緩和を積極的に仕向けておいて、経営に改善が図られていない先は、一定の基準でふるいにかけなさいというんであろう。

ところがである。

日本の中小企業は企業総体に占める割合が97%

戦勝国のアメリカとは違い、闇市を経て、戦後復興の中から小さな資本で商いを積み重ねてきたという、我が国独特の企業体質がこの結果に結びついているのだ。

この肝心な基本構造を政治の基本戦略のペースに置いてこなかったことから、今まで妙な金融政策の軋轢を生じてきたのだと思っている。

とりわけ零細企業さんとのお取り引きが多い、信用金庫にとっては、やはり、か細い光であっても、キャッシュフローが確保されている間は、しっかりとサポートしていくのが、私たちの最大の務めであると考える。

勿論、社会の公器たる金融機関として、リスク管理は当然に求められる資質であるが、リスクコントロールに重きを置きすぎると、私たちの本来の役割を見失うことにならぬのか、胆力と、体力を横目で見ながら、情と理のバランスの良いさじ加減が求められることになる。

新年早々、そんな真剣な会議をした。

 

夜は七草粥を食べた。

私は元々お粥が大好きである。

それは遠い昔のこと、麻疹にかかり、食事が喉を通らぬ時に、亡き母が作ってくれたお粥とリンゴの擦りおろしジュースの遠い記憶が強く残っているからであろう。

母と現世を共有する時間が極端に短かった私は、普通の親子であればなんとはない日常の出来事が、とても貴重な宝物なんである。

七草粥は無病息災を願って正月7日に食べる、古来よりの食習慣であるのだが、お粥という母に通じるキーワードが含まれている私には、精神的に欠かすことの出来ぬ夕餉なのだ。

今はスーパーで七草粥セットとして売ってあるので、湯通しした七草をお粥に混ぜるだけで簡単に出来上がる。

七草とは・・・・・

       

セリとスズナ、ナズナくらいは知っていたが、ホトケノザというのは意外であった。

庭の草むしりでいつも対面する草である。

      

草を喰らう食習慣、なんと日本的であろうか。

静かに七草粥を食して、母の優しさに触れたような気分になった幸せな夜であった。

 

 


山茶花の町

2013年01月06日 23時59分59秒 | 風竿日記

武雄市と合併した山内町、とても素晴らしい人々の町

かって私は山内支店の初代支店長としてお世話になった町

そのお陰で、今でもたくさんの方々と交流がある。

たしか、山内町の町花が山茶花だったと思う。

この清楚にして高貴な花は、気品があって、冬の寒さの中で一際凛とした姿をみせてくれる。

今の時期寒いゴルフ場で私たちを和ませてくれる。

冬の貴重な花でもある。

その山茶花がいま見頃を迎えている。

色んな種類があるようで、我が国でも古来から愛された花のようだ。

ツバキとよく似ているのだが、さもあろう、ツバキ科の花だという。

しかし、ツバキとは花芯が違うようだ。葉っぱで区別できるらしいのだが、そこまではよく判らない。

花はいつもいうように、何の計らいも無く一心に咲くからよいのであるが、武雄市も合併以来、住民の融合もはかられてきて、割と上手くいっているように思える。

ただ、町花として愛でてきた山内町の人々が愛する花であることは、忘れてならない花なのである。

そんなことを山茶花の季節にしみじみと思わされた。

しかし、花はいいなぁ・・・・。

老境に差し掛かると、健気に咲く花に思わずみとれてしまうことが多くなってきた。