二枚の写真がある。
一枚は二歳か三歳の頃の私と父母、祖母が納まっている写真。
祖母が福岡に出てきた時に撮ったものらしい。
そう、私は今の福岡市で生まれたのだ。
ワイルドだろう・・・・。
母の名は美津子、父は達郎という。
二人とも今は天国で暮らしている。
ばあちゃんも、一緒だろうか・・・。母がちょっと可哀想な気もするなあ。
そして父は姉婿の勧めもあって、中学の教諭となるために、故郷である鹿島市に帰郷したのだ。
鹿島市は昭和29年に市制移行したと記憶しているので、それくらいに来たのだと思う。
今もある鹿島市の中心街「新天町」という名称は一般公募で母が名付けた町名なのだ。
その意味では母はまだ鹿島に生きている。
多分自分の故郷である博多の天神、新天町を懐かしんで応募したのだと思う。
母の鹿島での足跡は4年ほどしかないのだが、隣り合わせて暮らしていた父の姉の家族とはとても仲が良かったようだ。
今でも従兄弟の兄貴はこの生みの母のことをとてもよく覚えていてくれて、二人して母のことを話すとつい声が詰まってしまうほどなのだ。
兄貴は、誕生日に座布団を作って貰ったのを今でも自慢するくらいに母のことが大好きだったという。
そして、近所の皆さんからも、とても可愛がられていたらしい。
お葬式の時など、皆さんが本当に慟哭されていたのを覚えているから、たしかにご近所様とも仲良くしていたのだと思う。
貧しかったけれど、父のハンカチはいつもきちんと折り目正しくしていたし、料理も、裁縫もなんでも器用にこなしていた。
小学一年生から絵と習字の習い事に行かされていた私。
当時珍しかったヤクルトも毎日飲ませられていた。
私の洋服も全部母の手作りだった。
厳しい家計の中、どんなにしてやりくりしていたのだろうと不思議に思う。
それくらい昔の教員の給料は薄給であったのだ。
というより公務員の給料自体がまだまだ安かったのだ。
もう一枚の写真は多分幼稚園の頃の私、
春のある日、木漏れ日の中で、母と一緒に人生最高のとびきりの笑顔をふりまいている私
庭に大きなブランコが作ってあって、そこでのスナップ
母から背中を押してもらってブランコを大きく漕いだものだ。
でもこの笑顔が消えぬ間、この一年後に、母は帰らぬ人となった。
正看護婦だった母は、大きな病院に勤めていた頃に、レントゲン技師の補助をさせられていて、その時に被爆したのだった。
わずか32歳での死
天はなんとも酷いことをなさるものだ。
とはいえ、こんな人生最良の笑顔を体験できただけでも母に感謝せねばならない。
何とも55年も前の笑顔の写真なのだが、私の中ではけして色褪せることなどないのだから・・・・。
3月にはまた母の命日が巡ってくる。
仏前に母の大好きだった白いフリージャを供えたいと思っている。