「徳は孤ならず、必ず隣有り」
子曰わく、徳は孤ならず、必ず隣(となり)有り。
(意味)
孔子先生が語られた、「報いを求めず、陰徳を積んでいる者は、決して一人ぼっちではない。必ず思わぬところに、これを知る者がいて、心からの協力をしてくれるものだ。」
先日の秩父方面の小旅行で、秩父鉄道の保養所であった「有隣倶楽部」で、今から80年前の昭和4年に揮毫されたという、あの渋沢栄一先生の書を発見
生前好んで揮毫していたらしい論語の中の言葉
達筆とはまさに、こういう書体をぞ、指して云うのであろう。
この人は超凄い人物であったことは衆目の一致するところであろうが、どれだけ凄いのかを列記しておきましょう。
1868年1月商法会所を設立する、10月大蔵省入省度量衝の制定や国立銀行令制定に携わる。
退官後間もなく、第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京浜電気鉄道、東京証券取引、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。
他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
社会活動
また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ一橋大学、東京経済大学の設立に協力、早稲田大学、二松学舎大学、国士舘大学、同志社大学などの設立取り纏めに関わった。
また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学、東京女子大の設立にも携わった。
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。
道徳経済合一説
『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中州と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
私利私欲は一切切り捨て、社会のお役に立つという考え方をベースに置き、八面六臂の大活躍をされた偉人なんですが、現代の「日本の実業界の父」と呼ばれるお方でもあります。江戸末期から明治・大正・昭和という激動の時代に生きた、日本の良心ともいえる大人物なのでありました。
こんなお方が居た日本は明治以来大発展するのが当然でしたよね。