三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

国立の桜並木

2011年04月17日 | 多摩の風景
大学通りの桜並木
(住所:東京都国立市中3丁目付近)

JR南武線の谷保駅で降り、立川教会の国立(くにたち)集会所を訪ねてから、桜が満開の大学通りに寄った。このメインストリートを北へ進むと、一橋大学の国立キャンパスがある。先ごろ、「花見の自粛」をブチ上げた石原慎太郎都知事の母校だ。私は慎太郎の放言を聞くたびに、「ファシズム復古」を感じ取ってしまうのだが、それは気のせいだろうか。広々とした構内を散策すると、時計台のある附属図書館やロマネスク様式の兼松講堂などの建物が美しい。

関東大震災で校舎が倒壊した一橋大学は、神田から国立と小平へ移転。旧校地には、現在も如水会館などの建物がある。大学を迎えた国立は、農村から学園都市に変貌した。見事な桜並木の大学通りは、その遺産である。この日も多くの老若男女でにぎわっていた。自粛を押しつける石原都知事は、ささやかな花見を楽しむ人々の幸せが妬ましいのだろう。まったく野暮な男だ。ちなみに、“野暮天”の語源とされる谷保天満宮は、ここから徒歩圏内にある。

谷保駅へ戻る途中、富士見台第一団地の脇を通った。私が過ごした団地と、よく似ている。郷愁に駆られて、広々とした敷地内を散策した。富士見台の造成は1965年だから、千葉の習志野台団地と、ほぼ同世代と言えよう。住棟間の芝生も贅沢なスペースが確保されている。快晴になると、団地のベランダに洗濯物や布団が満艦飾のように干されていたのを思い出す。ただ、この日はそれらが少ないことに気がついた。 放射性物質の付着を恐れているのだろうか。


国立富士見台第一団地
(住所:東京都国立市富士見台1丁目)
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四旬節の音楽会

2011年04月15日 | 音楽を聴く
自宅で開く四旬節の黙想音楽会
(時計回りにリスト、ロッシーニ、ベートーヴェンのCD)

私の貧しいCDコレクションから、四旬節関連の宗教音楽を3枚選び、黙想コンサートを開いてみた。まずは、ベートーヴェンの「かんらん山上のキリスト」。これは楽聖が初めて書いた宗教音楽であり、唯一のオラトリオ作品である。かんらん山とは、ゲッセマネのあるオリーブ山のこと。ベートーヴェンは、イエスが逮捕されるまでの情景を克明に描いている。人々を救うために死を決意したイエスを称えて曲は終わる。 「第九」のような「苦悩から歓喜へ」の構成だ。

捕らわれたイエスは死刑を宣告され、ゴルゴダの丘へ悲しみの道を歩む。四旬節の毎金曜日に行われる「十字架の道行」の祈りを、作曲家で聖職者のリストが音楽化した。現在もカトリック教会の聖堂には、イエスの受難を描いた14枚の絵が掲げられているが、リストの作品も序奏と14楽章で構成された「受難曲」となっている。オルガンの伴奏が荘厳な効果を添えている。なお、リストには「ロザリオ」という作品もあり、機会があれば、こちらも聴いてみたい。

「悲しみに沈める御母は涙にむせびて、御子の懸り給える十字架のもとにたたずみ給えり」。この「悲しみに沈める聖母に対する祈(スタバト・マーテル)」は、古い「公教会祈祷文」を通してご存じの方もおられると思う。多くの作曲家がこの祈りを取り上げたが、ロッシーニの「スターバト・マーテル」は、演奏に約1時間を要する大作だ。当時は「オペラ的」と批判されたほど、かなり劇的な宗教音楽である。ソプラノ二重唱の「たれか涙を注がざる者あらん」が特に美しい。

◆鑑賞CDの指揮者と演奏団体など:
・ベートーヴェン: ヘルムート・コッホ指揮/ベルリン放送交響楽団ほか(Denon:CO-3239)
・リスト: ジャン・スーリッス指揮/アウディテ・ノヴァ声楽アンサンブルほか(Erato:R32E-1092)
・ロッシーニ: カルロ・マリア・ジュリーニ指揮/フィルハーモニア管弦楽団ほか(Polydor:F35G-50134)

◆主な参考文献など:
「リスト 大音楽家・人と作品8」 諸井三郎著(音楽之友社・1965年)
「公教会祈祷文」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1964年版)
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大震災後の週日ミサ

2011年04月13日 | ミサ聖祭
夕暮れの聖イグナチオ教会
(住所:東京都千代田区麹町6-5-1)

4月12日(火)、約2ヶ月ぶりに聖イグナチオ教会で週日ミサに与った。この間、東日本大震災という大惨事が発生した。尊い命が犠牲となり、今も1万を超す人々が行方不明になっている。仮設住宅の建設、ライフラインの復旧も進まない。そして、原発の放射能が空と海を汚染し続けている。ところが、日本のマスコミと有識者たちは、風評に翻弄される庶民を「過剰反応」と非難するくせに、その元凶である菅政権と東電の機能不全に対しては、滑稽なほど寛容なのだ。

ACジャパンのCMで、トータス松本が「日本は強い国」と叫ぶのを聞くたびに、私は激しい嫌悪感を抱くようになった。空疎な「強国論」なんか、どうでもいい。平穏でシンプルな暮らしを取り戻したいだけだ。先行きの展望が見えないまま、JR中央線の四ッ谷駅で降りる。節電対策のため駅構内は薄暗いが、かえって落ち着いた雰囲気があって良い。今までが過剰な照明だったのだ。 赤坂口を出ると、雙葉学園とニコラ・バレ修道院の特徴的な建物が見えた。

1923年の関東大震災が発生した時、八王子教会のメイラン神父は、ニコラ・バレ修道院に隣接した雙葉高等女学校にいた。帰宅難民となったメイラン師は学園で一泊した後、関口教会に避難してから、徒歩で八王子へ戻ったという。そんな事を考えているうちに、ミサ開祭。主聖堂に集まっている人々を見て、心が安らぐ。司式は、粟本昭夫神父。「すべての死者を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください」。耳慣れたはずの奉献文の祈りに、胸を打たれる。


カトリック系の雙葉学園校舎(左)とニコラ・バレ修道院(右)
(住所:東京都千代田区六番町14)

◆主な参考文献など:
「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
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カトリック町屋教会

2011年04月11日 | 東京のカトリック教会
カトリック町屋教会(教会堂名:聖家族)
創立:1931年 ◇ 住所:東京都荒川区町屋4-7-9

東日本大震災から1ヶ月が経過した。被災地の復興は遅々として進まず、放射能の恐怖も収束しない。菅政権と東電の無為無策は、目も当てられない深刻な有様だ。こんな異常事態に、マスコミと学界の有識者は沈黙している。人々の苦しみを顧みず、政界は大連立構想に沸いている。その昔、関東大震災後の社会不安に乗じて、人権弾圧の治安維持法が制定された歴史を思い起こす。「挙国一致」の美名のもとに、全体主義を容認する流れは恐ろしい。

営団千代田線の町屋駅で降りる。地上に出ると、都電荒川線が走っていた。赤堤教会の記事でも触れたが、この荒川線は都内でも珍しい路面電車形式を残している。三ノ輪橋と早稲田を結ぶ全区間の乗車料金は、嬉しい160円均一だ。しばらく荒川線に沿って歩き、右折した住宅街の中に小さな町屋教会がある。 ここは三河島教会の分教会となっているが、その歴史は昭和初期に遡る。当時の町屋は、関東大震災で家を失った被災者が多く住んでいたという。

1931年、上智大学のラッサール神父が訪れた時、町屋は「帝都最大の困窮地帯」だった。 間もなく、この地でカトリックの救済事業が開始され(注)、ミサも捧げられるようになった。現在も上智クリニックや上智厚生館保育園などの医療・福祉施設がある。教会は存続が危ぶまれた時もあったが、今は小さな聖堂の中で信仰の灯を守っている。町屋周辺も大震災と大空襲の苦しみを乗り越えた。東日本大震災から一日も早く復興することを、この町屋で祈りたい。


現聖堂献堂:1993年

(注):この時期、サレジオ会のチマッティ神父や、パリ外国宣教会のフロジャク神父らも、荒川を訪れて救済事業を行っている(フロジャク師については、秋津教会の記事を参照)。
コメント (2)
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カトリック潮見教会

2011年04月09日 | 東京のカトリック教会
カトリック潮見教会(教会堂名:蟻の町のマリア)
創立:1960年 ◇ 住所:東京都江東区潮見2-10-5

JR京葉線の潮見駅で降りる。未だに旧国鉄時代の201系車両が走っているのには驚いた。私が千葉の公団住宅で暮らしていた頃は、この京葉線は開通していなかったので、専ら総武線で“上京”したものだ。「潮見」の名にふさわしく、海浜公園の向こうは東京湾である。さすがに潮の香りはしないが、私は埋立地の代名詞とも言うべき「夢の島」界隈の変貌に目を見張った。マンションが建ち並び、広い緑地も整備されている。かつての「ごみの島」の面影はない。

徒歩数分で潮見教会に着く。その背後に日本カトリック会館が聳えている。ここはカトリック中央協議会の本拠地だ。潮見教会の聖堂に入ると、玄関に古い木製の十字架が掲げられている。説明板によれば、「この十字架は、1951年5月11日(聖霊降誕の主日)、当時、言問橋の近くにあった蟻の街に、最初に立てられた十字架」とある。戦後、廃品回収を生業としていた人々が、台東区の墨田公園内に住み始めた。この極貧の集落が「蟻の街」と呼ばれた。

ポーランド出身のゼノ修道士は、蟻の街の救済に尽力。カトリック信徒で教授令嬢の北原怜子は、ゼノ修道士との出会いから、街の子どもたちの世話を始めるようになった。 人々はその献身的な姿を「蟻の街のマリア」と称える。やがて教会も建てられたが、その数年後に怜子は28歳の若さで急逝した。公園から退去を求められた蟻の街は、現在の潮見に移転。今も残る木製の十字架には、ゼノ修道士や怜子、蟻の街の人々の思いが込められているようだ。


現聖堂献堂:1985年
<教会の敷地内には、ロザリオを繰る北原怜子(1929-1958年)立像がある>

◆主な参考文献など:
・「ゼノ死ぬひまない <アリの町の神父>人生遍歴」 松居桃縷著(春秋社・1966年)
・「蟻の街の子供たち」 北原怜子著(聖母の騎士社・1989年)
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