しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <行いのないあなたの信仰>

2022-07-15 | ヤコブ書

「しかし、『ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。」(ヤコブ2:18新改訳)

ヤコブはここで、行いと信仰は決して分けることができない、と言う。つまり、A兄には信仰のたまものがあるが、B兄には行いのたまものがあると、両者を別に考えてはいけないというのである。もしA兄が「私には信仰がある」言って、何もしないで座っているとすれば、その信仰は空虚で死んだものにすぎない。信仰とそれにともなう行いは表裏一体であり、「主よ、私はあなたを心から信じます」と言うなら、それは必ずなんらかの行動を生まずにはおかない。ヤコブはそう強調しているにちがいない。▼主は御在世当時の宗教学者、パリサイ人などを「わざわいなるかな、偽善なる学者よ」と手きびしく批判された。なぜなら彼らは信仰世界の指導者を自認し、民衆に神の真理を教える立場を占有していたからである。もしそれが、神の求め期待し給う愛と慈善、公平というわざをともなうものであったなら、主は非難されなかったであろう。だが実際は、エルサレムを中心とする宗教的、経済的および政治的支配体制を築き、モーセ律法の護持をとなえながら、実際は民を搾取していたのであった。▼当時の社会を見渡すなら、大部分は貧民、困窮者であり、奴隷かそれに近い被支配者層から成っていた。福音を宣教する主イエスのもとに集まって来た人々をみれば、それがよくわかる。神が期待されたのは、エルサレム神殿とその礼拝機構に仕える指導者たちから、律法の二大主柱である神と人への愛の行為が、生命の川となって流れ出すことにほかならなかった。言ってみれば、神の御国がかたちをとって地上に実現することであったのだ。しかし実際は逆で、差別と誇り、律法をもって人々を縛り苦しめる事が指導者層のしたことだった。神への信仰に名を借りた虐待の満ちる社会、人の子はその真っただ中に御国の具現者として出現したのである。だが、偽善の学者たちは何をもって主に答えたか。「十字架の極刑」をもって答えたのである。▼ヤコブ書が指摘する信仰と行為の中心にある偽善性とはそれだ。その偽善性が、21世紀に生きている、キリスト者と自認する「あなたや私にも内在している可能性はないのか?」との問いかけ、まさにそれがヤコブ書の中心メッセージなのである。