しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 ヤコブ書2章 <信仰と行い>

2020-01-17 | ヤコブ書

黄色小花

「あなたがたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。」(ヤコブ書2:22新改訳)

これはアブラハムがイサクをささげたことについて、ヤコブが言及した箇所である。ヤコブは信仰と行いを並列的に述べているが、ヘブル書は「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました」(ヘブル11:17同)と言い、信仰がすべてのように記している。おそらく、当時のキリスト者の中には「信仰さえあれば、行いはさほど大切ではない」と、誤った考えを抱く者たちがおり、ヤコブはその問題を強く意識して手紙を認めたと考えられる。宛先が「離散している十二部族」となっているのを見ても、とくにイスラエル人キリスト者の中にそれが顕著だったのではないだろうか。▼しかしこのことは、いつの時代の教会にとっても大きな問題であった。形骸化した信仰を持つキリスト者により、御名がそしられて来た、というのが教会の歴史でもあったからだ。ほんとうの信仰は生命的なもので、必ず行為になって現れる。知識だけにとどまり、二律背反するような信仰生活は神の御心を悲しませるものである。主イエスが偽善なる学者パリサイ人よ、とひじょうにきびしく非難されたのはそれであった。彼らの轍を踏んではならない。◆本章最後に重要な聖句、「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」(26)がある。結局、キリスト者は信仰と行為をそれぞれ独立した二つの実体と考えることはできない、ということであろう。肉体と霊魂が不可分のものとして結びついていることが「人が生きている」ことの証明であるごとく、信仰と行いは一つに結びついた実体なのである。