先ほど届いた三里塚ワンパック有機野菜を水洗いし、一息ついて同封のプリントを読み始めて愕然としました。石井紀子さんの訃報がそこにあったからです。交通事故で、67歳の若さで亡くなられたというのです。
三里塚ワンパック有機野菜との出合いは1987年のことでした。その年に清瀬の地でルポライターの鎌田慧さんの講演会がありました。この会に集まった人たちで清瀬・教育って何だろう会という市民組織を作りました。そして月1回の例会と通信をほとんど滞りなく発行していきました。
鎌田公代さんとの出会いもこの会でのことでした。しばらくしてから彼女に勧められたのが三里塚ワンパック有機野菜でした。それから現在に至るまで月2回ほどワンパック野菜を食べ続けているのです。もう30年以上になるのですね。
石井紀子さんはワンパックの中心メンバーで、彼女の達筆の手紙がほぼ毎回、野菜と共に届いたのでした。ワンパックの体制が変わって彼女の手紙はほとんど届かなくなっていましたが、珍しく1ヶ月前に手書きのプリントを懐かしく拝見したばかりでした。
三里塚を訪れることもなく、おいしい野菜をいただくばかりだった私が彼女のことを意識したのは、ある日の朝日新聞の記事を見たからでした。(2007年9月26日、夕刊)そこには「農家の嫁は成田と闘う」「離着陸直下で産直パック」という見出しが躍っていました。
〔石井紀子(54)の高校生活は、70年安保のただ中だった。昼は日比谷公園まで反戦デモに行く。夜は糸井五郎のオールナイトニッポンとビートルズを聴き、高橋和巳を読み、友人へ渡す手紙を何十枚も書いた。「プチブルの自分がこんな恵まれた生活をしていていいのかなんて、難しいことばかり考えていました」
大学に入って、成田の反対闘争に参加するのは紀子の当然の成り行きだった。71年、国による第2次強制代執行が目前に迫っていた。団結小屋で男子学生におにぎりを作り、見張りをした。仲間の女性が「こんな男中心の運動なんかやっていられない」と出て行っても、「誰かが残らなければ」と、踏みとどまった。〕
そこで農家の青年、石井恒司さんにプロポーズされて結婚したというのです。そして夫婦や仲間で始めたのがワンパック有機野菜でした。
この新聞の切り抜きは鎌田慧さんの著書『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)に挟めておきました。この本の「第2章 成田空港閣議決定40年後の現実」には「父親ともども三度、四度逮捕されても抵抗した-石井恒司さんに聞く」「闘うことは生きること-石井紀子さんに聞く」という夫婦それぞれのインタビュー記事が掲載されています。〔ネット情報ではその後離婚されたということですが。〕石井紀子さんの追悼の意を込めて再読したのです。
最後に鎌田慧さんの新聞記事を紹介します。すでに石井紀子さんのことを東京新聞に書かれていたのでした。
◆ある事故死
鎌田 慧(ルポライター)
石井紀子さんが亡くなった。六十七歳。交通事故だった。千葉県成田市の作業場で明朝配達のための人参を選別し終え、軽トラツクで自宅へ向かった。考えごとをしていたのだろうか、自宅への曲がり角を通り過ぎた。
Uターンして、疾走してきた軽自動車と正面衝突。ほぼ即死だった。相手の若者はエアバッグで無事だと聞いた。
一九七二年、学生の時、「三里塚闘争」と言われた、成田空港建設反対運動に参加した。突然の一方的な用地の閣議決定だったから、ほとんどが自民党支持だった農民たちを憤激させていた。
学生運動の昂揚の後で全国から学生や労働者が駆けつけ、常駐した。援農に支えられ、小学生もふくめた家族ぐるみの抵抗闘争は、数多くの逮捕者、負傷者ばかりか自殺者、死者をだした。計画から五十四年たったが未完成。計画変更後も混乱を極めている。
石井紀子さんは農家の若者と結婚した十数人の女子学生のひとり。ミミズにも恐怖する、東京の教員の娘だった。「義母たちのように土に生き、土に死ぬ百姓にならねば」。それが決意だった。
十七年前に他界した義父、八年前に離婚した夫とわたしは懇意だった。「土と闘争に根を張って
生きた。それで得た人生です。この在り方を続けていきます」と彼女は爽やかに語っていた。初心を全うした一生だった。合掌。
(3月17日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)
◆亡国の内閣
生活への配慮なし 空疎な大言壮語ばかり
鎌田 慧(ルポライター)
たまたまテレビで、下級生が上級生に手づくりの卒業証書を渡す
シーンをみた。今春で廃校の予定だったが、この2日から全国臨時
休校。それで、その日、唐突に最後の授業となった。
何年か前、小学校でミサイル訓練があった。児童たちが教室の机の
下に潜らされた。いまではバカげたエピソードのひとつにされて
いるが、危機の宣伝に子どもをダシに使うのはよくない。
今回の臨時休校も戦車に乗ってポーズをとったり、戦闘機に乗って
ご満悦、号令好きの首相が、専門家会議に諮ることなく、大向こうを
狙った独善的な決定たった。
説明なしの決定たったため不満が高まった。1月中旬にコロナ
ウイルスが問題になってから1ヵ月半、ようやく首相が会見に
でてきた。が、演題左右に配置された、プロンプターの文字を読み
上げるだけの演技だった。
どの言葉にもひとを思う心がこもっていない。首相としての痛みも
方針もない。水際での防疫の失敗への反省もない。
子どもを抱えた親たちは仕事をどうするのか。子守りや食事や
こまごまとした生活への配慮は、まったく見当たらない。
耳についたのは、万全の対策をとる決意。盤石な検査、医療体制の
構築。最大限動員など、いつもながらの空疎な大言壮語。
大臣たちも危機を危機として感じず、対策緊急会議をサボつていた
亡国ぶり。 (3月3日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)
◆惨事便乗型内閣
「ショック・ドクトリン」 鎌田 慧 (ルポライター)
明日11日はフクシマ事故から9年。10基の原発すべてが廃炉と
決まったが収束にはほど遠い。被災住民の病死が続き、子どもたちの
将来の健康も心配だ。避難者の生活再建は難しく、被曝労働者は発病の
不安を抱えている。
それでも政府は原発をやめようとしない。事故が起こったにしても
だれも責任を取るなどと考えていないからだ。
20日、東京・亀戸中央公園で予定していた「さようなら原発全国
集会」と翌日の国際シンポジウム「東京五輪で消されゆく原発事故
被害」は、痛恨の思いで中止にした。
つまりはコロナウイルス拡大のためだが、放射能に無策の安倍内閣に
対する抗議集会が、ウイルス防衛に失敗した、首相の「自粛要請」を
受けた形で中止になるのは、いかにも悔しい。
ナオミクライン著「ショック・ドクトリン」は、自然災害や戦争の
ショックに乗じて、大資本と右派政治家とが結託、「復興」や「再建」
によって、膨大な利益を恣(ほしいまま)にする例を紹介している。
翻訳者は言いえて妙というべきか「惨事便乗型資本主義」と訳した。
水際の防疫に失敗して全校休校の強行。
官房長官も文科相はアッと驚く暴政(非正規労働者の死活問題)
だった。
いま、どさくさまぎれに「緊急事態宣言」を伴う法律を強化
しようとする。
憲法改正の重要な柱「緊急事態条項」導入。油断も隙も内閣だ。
(3月10日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)
三里塚ワンパック有機野菜との出合いは1987年のことでした。その年に清瀬の地でルポライターの鎌田慧さんの講演会がありました。この会に集まった人たちで清瀬・教育って何だろう会という市民組織を作りました。そして月1回の例会と通信をほとんど滞りなく発行していきました。
鎌田公代さんとの出会いもこの会でのことでした。しばらくしてから彼女に勧められたのが三里塚ワンパック有機野菜でした。それから現在に至るまで月2回ほどワンパック野菜を食べ続けているのです。もう30年以上になるのですね。
石井紀子さんはワンパックの中心メンバーで、彼女の達筆の手紙がほぼ毎回、野菜と共に届いたのでした。ワンパックの体制が変わって彼女の手紙はほとんど届かなくなっていましたが、珍しく1ヶ月前に手書きのプリントを懐かしく拝見したばかりでした。
三里塚を訪れることもなく、おいしい野菜をいただくばかりだった私が彼女のことを意識したのは、ある日の朝日新聞の記事を見たからでした。(2007年9月26日、夕刊)そこには「農家の嫁は成田と闘う」「離着陸直下で産直パック」という見出しが躍っていました。
〔石井紀子(54)の高校生活は、70年安保のただ中だった。昼は日比谷公園まで反戦デモに行く。夜は糸井五郎のオールナイトニッポンとビートルズを聴き、高橋和巳を読み、友人へ渡す手紙を何十枚も書いた。「プチブルの自分がこんな恵まれた生活をしていていいのかなんて、難しいことばかり考えていました」
大学に入って、成田の反対闘争に参加するのは紀子の当然の成り行きだった。71年、国による第2次強制代執行が目前に迫っていた。団結小屋で男子学生におにぎりを作り、見張りをした。仲間の女性が「こんな男中心の運動なんかやっていられない」と出て行っても、「誰かが残らなければ」と、踏みとどまった。〕
そこで農家の青年、石井恒司さんにプロポーズされて結婚したというのです。そして夫婦や仲間で始めたのがワンパック有機野菜でした。
この新聞の切り抜きは鎌田慧さんの著書『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)に挟めておきました。この本の「第2章 成田空港閣議決定40年後の現実」には「父親ともども三度、四度逮捕されても抵抗した-石井恒司さんに聞く」「闘うことは生きること-石井紀子さんに聞く」という夫婦それぞれのインタビュー記事が掲載されています。〔ネット情報ではその後離婚されたということですが。〕石井紀子さんの追悼の意を込めて再読したのです。
最後に鎌田慧さんの新聞記事を紹介します。すでに石井紀子さんのことを東京新聞に書かれていたのでした。
◆ある事故死
鎌田 慧(ルポライター)
石井紀子さんが亡くなった。六十七歳。交通事故だった。千葉県成田市の作業場で明朝配達のための人参を選別し終え、軽トラツクで自宅へ向かった。考えごとをしていたのだろうか、自宅への曲がり角を通り過ぎた。
Uターンして、疾走してきた軽自動車と正面衝突。ほぼ即死だった。相手の若者はエアバッグで無事だと聞いた。
一九七二年、学生の時、「三里塚闘争」と言われた、成田空港建設反対運動に参加した。突然の一方的な用地の閣議決定だったから、ほとんどが自民党支持だった農民たちを憤激させていた。
学生運動の昂揚の後で全国から学生や労働者が駆けつけ、常駐した。援農に支えられ、小学生もふくめた家族ぐるみの抵抗闘争は、数多くの逮捕者、負傷者ばかりか自殺者、死者をだした。計画から五十四年たったが未完成。計画変更後も混乱を極めている。
石井紀子さんは農家の若者と結婚した十数人の女子学生のひとり。ミミズにも恐怖する、東京の教員の娘だった。「義母たちのように土に生き、土に死ぬ百姓にならねば」。それが決意だった。
十七年前に他界した義父、八年前に離婚した夫とわたしは懇意だった。「土と闘争に根を張って
生きた。それで得た人生です。この在り方を続けていきます」と彼女は爽やかに語っていた。初心を全うした一生だった。合掌。
(3月17日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)
◆亡国の内閣
生活への配慮なし 空疎な大言壮語ばかり
鎌田 慧(ルポライター)
たまたまテレビで、下級生が上級生に手づくりの卒業証書を渡す
シーンをみた。今春で廃校の予定だったが、この2日から全国臨時
休校。それで、その日、唐突に最後の授業となった。
何年か前、小学校でミサイル訓練があった。児童たちが教室の机の
下に潜らされた。いまではバカげたエピソードのひとつにされて
いるが、危機の宣伝に子どもをダシに使うのはよくない。
今回の臨時休校も戦車に乗ってポーズをとったり、戦闘機に乗って
ご満悦、号令好きの首相が、専門家会議に諮ることなく、大向こうを
狙った独善的な決定たった。
説明なしの決定たったため不満が高まった。1月中旬にコロナ
ウイルスが問題になってから1ヵ月半、ようやく首相が会見に
でてきた。が、演題左右に配置された、プロンプターの文字を読み
上げるだけの演技だった。
どの言葉にもひとを思う心がこもっていない。首相としての痛みも
方針もない。水際での防疫の失敗への反省もない。
子どもを抱えた親たちは仕事をどうするのか。子守りや食事や
こまごまとした生活への配慮は、まったく見当たらない。
耳についたのは、万全の対策をとる決意。盤石な検査、医療体制の
構築。最大限動員など、いつもながらの空疎な大言壮語。
大臣たちも危機を危機として感じず、対策緊急会議をサボつていた
亡国ぶり。 (3月3日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)
◆惨事便乗型内閣
「ショック・ドクトリン」 鎌田 慧 (ルポライター)
明日11日はフクシマ事故から9年。10基の原発すべてが廃炉と
決まったが収束にはほど遠い。被災住民の病死が続き、子どもたちの
将来の健康も心配だ。避難者の生活再建は難しく、被曝労働者は発病の
不安を抱えている。
それでも政府は原発をやめようとしない。事故が起こったにしても
だれも責任を取るなどと考えていないからだ。
20日、東京・亀戸中央公園で予定していた「さようなら原発全国
集会」と翌日の国際シンポジウム「東京五輪で消されゆく原発事故
被害」は、痛恨の思いで中止にした。
つまりはコロナウイルス拡大のためだが、放射能に無策の安倍内閣に
対する抗議集会が、ウイルス防衛に失敗した、首相の「自粛要請」を
受けた形で中止になるのは、いかにも悔しい。
ナオミクライン著「ショック・ドクトリン」は、自然災害や戦争の
ショックに乗じて、大資本と右派政治家とが結託、「復興」や「再建」
によって、膨大な利益を恣(ほしいまま)にする例を紹介している。
翻訳者は言いえて妙というべきか「惨事便乗型資本主義」と訳した。
水際の防疫に失敗して全校休校の強行。
官房長官も文科相はアッと驚く暴政(非正規労働者の死活問題)
だった。
いま、どさくさまぎれに「緊急事態宣言」を伴う法律を強化
しようとする。
憲法改正の重要な柱「緊急事態条項」導入。油断も隙も内閣だ。
(3月10日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)