後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔169〕「谷川俊太郎展」は谷川さんの膨大で濃密な1冊の本を読むようでした。

2018年02月20日 | 美術鑑賞
 1月の末日、連れ合いと、新宿の東京オペラシティアートギャラリーに「谷川俊太郎展」を見に行きました。詩人・谷川俊太郎さんの大ファンの私としては、はたしてどんな展覧会なのか興味津々でした。かつて、まど・みちおさんの絵の展覧会に行ったことがあるのですが、まさか谷川さんが絵を描いているとは想像できません。そんなこんなで期待は高まりました。
 行く前に東京オペラシティアートギャラリーのホームページを覗いてみることにしました。 

【谷川俊太郎展】 
■イントロダクションIntroduction
 谷川俊太郎は1952年に詩集『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たしました。感傷や情念とは距離をおく軽やかな作風は、戦後の詩壇に新風をもたらします。
 「鉄腕アトム」の主題歌、『マザー・グースのうた』や、『ピーナッツ』の翻訳、市川崑監督による映画「東京オリンピック」の脚本、武満徹ら日本を代表する音楽家との協働などでも知られるように、幅広い仕事によって詩と言葉の可能性を拡げてきました。
 86歳を迎えた現在も、わかりやすく、読み手一人一人の心に届くみずみずしい言葉によって、子どもからお年寄りまで、多くの人々を魅了し続けています。
 一方仕事の幅広さ・膨大さゆえに、この国民的詩人の「人」と「作品」の全体像をとらえるのは容易ではありません。谷川俊太郎のエッセンスを探るべく、本展では詩人の現在に焦点をあてることにしました。実生活の喜びやいたみから詩を紡ぎ出し、社会とつながろうとしてきた谷川。その暮らしの周辺をさまざまに紹介します。影響を受けた「もの」や音楽、家族写真、大切な人たちとの書簡、コレクション、暮らしの断片や、知られざる仕事を織り交ぜ、谷川俊太郎の詩が生まれる瞬間にふれる試みです。本展のために書き下ろされる詩や、音楽家・小山田圭吾(コーネリアス)とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)とのコラボレーションも発表します。

■展覧会についてExhibition 
Gallery1:音と映像による新たな詩の体験
 展覧会の始まりは小山田圭吾(コーネリアス)の音楽とインターフェイスデザイナー中村勇吾(tha ltd.)の映像による、谷川俊太郎の詩の空間です。名作絵本『ことばあそびうた』で知られる詩「かっぱ」など、谷川のことばに内在するリズムと小山田の音楽との出合いにご期待ください。谷川の声をまじえた音と映像のコラージュは、谷川の詩を浴びるような、新たな詩の体験を生むでしょう。

Gallery2:「自己紹介」
 日本で一番その名を知られているであろう詩人・谷川俊太郎。それぞれの世代が思い浮かべる谷川の仕事や詩人像があることでしょう。本スペースでは、20行からなる谷川の詩「自己紹介」に沿って、20のテーマごとに谷川にまつわるものごとを展示、私たちが知っているはずの谷川俊太郎像を見つめ直します。会場には20行の詩を1行ごとにしるした柱があらわれ、谷川が影響を受けた音楽や「もの」、家族写真、大切な人たちとの書簡、ラジオのコレクション、暮らしの断片、知られざる仕事など、選りすぐりの詩作品とともに展示されます。谷川の詩で谷川を紹介するユニークな展示からは、谷川の日々の暮らしと詩の深い関わりが浮かび上がってくることでしょう。また、本展のための書き下ろしの詩も発表します。

コリドール:「3.3の質問」
「3.3の質問」は、谷川が1986年に出版した『33の質問』(ノーマン・メイラーの「69の問答」にちなんで33の質問を作り、7人の知人に問いかけをしながら語り合う)がもとになっています。本プロジェクトではその現代版として、当初の33の質問から谷川が3問を選び、新たに「0.3の質問」を加えて「3.3の質問」を作りました。これらを各界で活躍する人々に投げかけ、その回答を作品として展示します。シンプルな問いに、回答者のどんな世界観が見えてくるのでしょうか。「問うこと」、「答えること」、「そこに立ち会うこと」に、詩的な体験があふれています。


 受付を通ってすぐの、24のモニターでぐるり取り囲まれた部屋がなかなか強烈で刺激的でした。小学校の教室が3つくらいの空間でしょうか。谷川さんのことばあそびうた(「かっぱ」「いるか」「ここ」)をご自身の声とそれぞれの文字の映像を一文字ずつモニターで見せるのです。谷川さんの口の映像とかなり大きな音響で、目や耳がくらくらしました。へえ、ミュージシャンは各種機材を駆使してこんなふうに遊ぶんだと感心しました。
 小学校の私の教室ではいたってシンプルです。そこでは、喜々として誰かに届けようとしている子どもたちのことばをしっかり受けとめ、反応をからだで返すことばのやりとり、エンドレスの「ことばと心の受け渡し」の世界なのです。教え子たちがこの展覧会で、何を発見するか、とても興味深いことでした。

 次の「自己紹介」の部屋がメイン会場なのでしょうか。谷川さんの詩「自己紹介」(チラシ2枚に紹介されています)を元にして、20本の柱が林立しているのです。20のテーマごとに「影響を受けた音楽や『もの』、家族写真、大切な人たちとの書簡、ラジオのコレクション、暮らしの断片、知られざる仕事など」が展示されているのです。「鉄腕アトム」(作詞は谷川さん)と「うみゆかば」などの音楽が聞こえるなか、1つ1つの柱をめぐる仕掛けになっていました。谷川さんの手書きの短い詩が柱に貼り付けられていました。即興で書かれたのでしょうか。
  1つ1つじっくりながめているといくら時間があっても足りません。ここに展示されたすべての物を1冊の本に閉じ込めていただいて、あらためてゆっくりながめたいものだと思いました。
 交流のある作家、文学者たちの葉書など興味は尽きません。家族写真などには見入ってしまいました。
 谷川さんの来歴が廊下に30メートルにわたって書かれていました。自分の人生や、谷川さんの詩との出合いを思い起こしながら、じっくりながめました。すごい仕事をしてきた詩人なんだなと、あらためて確認できました。
「3.3の質問」はそのうちに本に再録されれば、丁寧に味わって読みたいものでした。

 私の連れ合いの感想も紹介しましょう。

■福田緑の感想
 最初の部屋では大きな音が響き、谷川さんの声で詩が読まれると同時にたくさんのモニターで文字が光りました。あまり早くその文字が動くので目がくらくらして段々酔ってしまい、音も大きくて私にはきつい空間でしたが、耳や映像に強い人には楽しめたのではないかと思います。
 それにしても詩人の展示でなにをどうするのかと思いましたけれど、あちらこちらにちらばる谷川さんのことばに思わずクスッと笑ってしまったり、様々な方からのハガキなど、つい必死になって読んでしまったり、こんな道具類がお好きなんだなと親しみを感じたり、とても楽しく過ごしました。とても開けっぴろげな展示にも感銘を受けました。


 最後に、朝日新聞の「文化・文芸」欄の記事を紹介します。これから赤田康和という記者に注目したいと思います。実に良くできた紹介記事です。

■「谷川俊太郎」とは何者か 詩と私的生活 解剖する展覧会(朝日新聞、2018.1.29) 

 日本で最も有名な詩人・谷川俊太郎さん(86)の日常や素顔など私的生活を解剖しつつ、詩の魅力を読み解く展覧会が東京で開催中だ。「谷川俊太郎」とは何者か。この問いへの答えを探る意欲的な展示だ。

 「私は背の低い禿頭(とくとう)の老人です」。大きな活字でこう書かれた柱が立つ。
 この1文は、谷川さんが2007年に発表した詩集『私』に収録の詩「自己紹介」の1行目だ。展示室には、この詩の全20行が1行ずつ記された柱が林立している。
 会場構成を担当した空間デザイナー五十嵐瑠衣さんは「言葉がニョキニョキと地面から生えていて、行と行の間を歩くイメージ」と話す。「谷川さんの力のある言葉を主役としてどう見せるかを考えた結果です」
 展覧会の中身は、展覧会を開催する東京オペラシティアートギャラリーの佐山由紀キュレーターが、谷川さんの本を刊行してきたナナロク社の編集者・川口恵子さん、五十嵐さんらと練った。2千編超の詩から選んだ約200編を読み、議論。人柄や素顔、生活など「私性」に注目するというコンセプトが固まった。
 詩「自己紹介」の各行が書かれた柱には、詩句と関連のある資料が展示されている。1行目「私は背の低い……」の柱には谷川さんの「等身大」の全身写真、「私にとって睡眠は快楽の一種です」という柱には、散歩する谷川さんの写真、朝食のジュースとビスケットの写真など日常生活の様子も伝えられる。
 谷川さんあてに届いた堀口大学や小林秀雄らからのはがきや、家族との写真、あるいは愛用のTシャツも展示した。谷川さんの足跡は、展示室の外の廊下の壁に年譜を貼りだして伝える。その長さは約30メートルにも及ぶ。
 展覧会のもう一つの目玉は、谷川さんと親交があるミュージシャンの小山田圭吾さんらも参加した映像インスタレーションだ。ひらがな詩「かっぱ」「いるか」「ここ」を朗読した谷川さんの声と各文字などの映像を1文字ずつ、24のモニターで連続的に見せる。「分解されることで、言語のエレメント(要素)としての面白さが出てきて新鮮だった」と谷川さんも語った。
 詩人と、詩人がつむいだ詩。そのいずれをも、この展示は分解していく。
 ■「言葉なきもの」への憧れ
 「私が死んだ後の展覧会という印象は否めない」。展示を見た谷川さんはメディアの取材にこう語って、笑いを誘った。
 でも生きたまま解剖台に載せられることへの抵抗はないらしい。「自分にこだわらない人間なので、書くときもそうだけど、距離を取って自分を見られる」
 今回、展示されている詩「自己紹介」がまさにそうだ。自らの日常を描きながらもユーモアを交えドライに描写していく。「斜視で乱視で老眼です」「夏はほとんどTシャツで過ごします」「私の書く言葉には値段がつくことがあります」
 谷川さんは「自分なりにプライバシーをあらわす限界がある」とも話した。つまり「私」を材料にしても「本当の私」を見せることに禁欲的なのだ。「詩人はカメレオン」というのも持論だ。「私」は何にでも変身できる巨大な器。だから谷川さんの詩は多くの人を魅了するのかもしれない。「谷川さんの宇宙は広大。色んな引き出しを開けて魅力の謎を読み解くのが今回の展示」とナナロク社の川口さんはいう。
 たしかに、謎を解く鍵になる詩が展示されていた。「私」が自らの臓器たちに離別をする「さようなら」という詩。「もう私は私に未練がないから/迷わずに私を忘れて/泥に溶けよう空に消えよう/言葉なきものたちの仲間になろう」
 言葉によって、言葉以前の存在に触れるのが詩人。そう語ってきた谷川さんにとって「言葉なきもの」は憧れの存在であり、懐かしき仲間だ。そこに少しでも近づこうと詩人は言葉を紡いでいる。(赤田康和)

〔168〕私は『声なき人々の戦後史』(鎌田慧、出河雅彦)をこんなふうに読みました。

2018年02月06日 | 図書案内
  前ブログでは『声なき人々の戦後史』の出版記念会の様子を「他人のふんどし」で相撲を取りましたが、いかがだったでしょうか。今回は本の内容に触れていきたいと思います。
  その前に、この本の凄さを示す事実があります。
  「日本最大の図書館検索・カーリル」をご存知ですか。全国の図書館や大学などにはどのような本が入っていて、どれくらい貸し出されているか検索できるサイトです。一例として、東京の公立図書館と大学にどれくらい入っているか調べました。ちなみに、公立図書館と大学を区別しているのは東京だけです。
 比較のために、連れ合いや私の本も一緒に並べてみましょう。『声なき人々の戦後史』は昨年出版されたばかりの本ですが、かなり多く図書館に入っているだけではなく、驚異的な貸し出し数だということがわかります。〔( )貸し出し中〕

・『声なき人々の戦後史、上』鎌田慧、2017年、東京都46(31)、東京(大学)38(1)
・『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』福田緑、2013年、東京都29(0)、東京(大学)39(1)
・『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』福田三津夫、2013年、東京都2(0)、東京(大学)16(3)

 さて、『声なき人々の戦後史』の書評や紹介も多く書かれています。藤原書店のサイトにはそれらが部分的に短縮して再録されています。
 4つの書評を見つけました。紹介しましょう。いずれも素晴らしい書評です。


■権力に抗する精神の記録 (東京新聞 2017年8月20日)
[評者]米田綱路=ライター
 先ごろ著者の故郷、青森県弘前市を訪ねた。ここ津軽地方は葛西善蔵や太宰治を生んだ文学の揺籃(ようらん)で、著者は二人の評伝を書いている。津軽は鳴海完造や秋田雨雀(うじゃく)ら、ロシア文学とも縁が深い。上京して働いた著者は、早稲田大学の露文科に進んだ。背景には津軽とロシアの文学世界があり、それが労働経験とともに、「声なき人々」へのまなざしを培ったのだと実感した。
 著者は高度成長期のモータリゼーションに追われた都電撤去のルポを皮切りに、労働現場で合理化に追われ、開発で土地を追われる人々の声を伝え続けてきた。半世紀におよぶ仕事を語った本書は、戦後日本の稀有(けう)な記録者の軌跡だ。国政や大企業を頂点とする政治経済史とは対極の民衆史、自立と相互扶助を希求する精神史である。著者が大杉栄伝を書いたのも頷(うなず)けよう。
 大杉の言葉「諧調は偽りなり」は、著者が描いた「自動車絶望工場」や「教育工場」などの人間管理の現実を指す箴言(しんげん)である。権力に自由を奪われ、判で押したように同じことを言う大勢への警句である。著者の仕事はそれの具体的な実証であり、個性の統制への反証の記録として読むことができる。
 北九州の製鉄所の下請けで働き、弘前からの出稼ぎとして働きながらルポを書いた著者は一九七〇年代に巨大開発の現場へと向かう。とりわけ下北半島のむつ小川原開発と、千葉の成田空港建設は、住民に対する国策の身勝手さを示す典型例だった。前者の二十年にわたる取材は『六ヶ所村の記録』にまとめられた。後者について著者は私に、建設反対運動の中であえてメモを取らなかったと語ったことがある。本書でその事情を知り、ここに著者のルポルタージュの核心があると悟った。
 誰のために何をするのか。その問いは取材者をこえ、誰と協同するかを明確にする。国鉄の分割・民営化で切り捨てられた労働者、原発の立地に抗(あらが)う住民の記録もそうだ。本書は書かれざる社会的深層の現代史でもあるのだ。

■変革を模索するマグマが噴出 社会に問題を投げかけた反逆のルポ50年
評者:関 千枝子(ライター) 週刊読書人(2017年10月2日)
 これは鎌田さんの仕事(ルポルタージュ)史である。戦後、“豊か”になり、一億総中流と多くの人が思い込んでいた日本。その裏側で貧しい労働現場の実態、企業へのしがらみで公害の実態も口に出せない人々、差別で人権無視の被害にあう人々…。声の出せない人々の立場にたつルポを書き続け、社会に問題を投げかけた。反逆のルポ50年。これはまさに、そのまま「もう一つの日本の戦後史」だと思った。
 鎌田さんは、弘前の高校を出て、上京して工場で働く。印刷工場で組合を作り賃上げ闘争をするが偽装解散全員解雇、その撤回闘争を通じ、文章で社会問題に関わろうと早稲田大学露文科に入学したのが1960年。安保反対闘争のデモにも行ったが、大学の生活協同組合のニュース編集の仕事をしたのが「物書き」の基礎となっているようだ。
 その後、業界紙(鉄鋼新聞)、月刊誌(新評)の記者を経て、30歳でフリーのルポライターとなる。対馬の鉱山の「隠された公害」の現場報告をする。企業の切り崩しで労働者も地元農民も物が言えず、泣き寝入りの状況にあるのを掘り起こし、汚染田の完全覆土までこぎつける。「書き続けることの意味」を理解し、ここから原発につながる「開発」の問題点も知る。このころから40年以上も六ヶ所村に関わり続けている。

 鎌田さんの作品でまず有名になったのは労働の現場の実態のルポだが、現場に入り、自分でその労働を体験し、書く。『自動車絶望工場』は1972年トヨタの季節工になった実体験だ。時は高度成長期、トヨタは、驚異的な日本経済驀進の先頭に立つ企業である。だがその労働の実態は、ベルトコンベアーの前で5時間ハンマーを振り回し、手首や指が痛み、日記も書けないほどだ。仲間は数日でやめてゆく。青森で一緒に応募し友人になった青年は夜勤の仕事中に意識を失って倒れ、そのままクビになる。鎌田さんは期間満了まで働くが、人事の人の話では、満期まで働いたのは鎌田さんひとりだったらしい。
 鎌田さんは日記をそのまま本にして出版し、大宅壮一ノンフィクション賞で、最終選考まで行くのだが、審査員に、取材がフェアでない(潜入取材)とか、自己体験だけだという批評をされ、賞をもらえなかった。しかし、潜入した自己体験でなければ、コンベアに振り回される労働のきつさ、実態が分かるだろうか。きれいごとの「ノンフィクション作家」でなく、「ルポルタージュライター」という(下巻15章)鎌田さんのこだわりは、このあたりから来ているのかも、という気がする。
 その後も、教育の現場(管理教育、いじめ)開発と原発、労働現場の人権侵害(国鉄民営化と国労いじめ)、悪政(成田、沖縄)、そして暗黒裁判と、ありとあらゆる「問題」に突き進んで行く。一つ一つ紹介する紙数がないのは残念だが、そのどれもが弱いもの、切り捨てられたものの立場から、差別に怒り、変革を模索するマグマが噴き出ている。
 最後に、この本の成り立ちを、下巻の一番最後のあとがきで「聞き手」の出河雅彦さんが書いている。出河さんが朝日新聞青森総局長だった2014年3月から2016年3月まで、朝日新聞青森版に、インタビューによる「ルポライター鎌田慧の軌跡」に加筆したのがこの本というのである。これも驚きである。郷土の出身者だが、一ルポライターの足跡を連載(88回も)するなど、新聞の常識では考えられない。それに鎌田さんは原発の問題などで朝日新聞の有名記者と相当やりあった人でもある。青森版という地方版だからできたことかもしれないが。現役の新聞記者にもすごい人がいるな、と感心した。

■さんにんぶろぐ ホンスミ 2017/7/21
 鎌田慧のノンフィクションを初めて手に取ったのはたしか高校生の頃で、『教育工場の子どもたち』だったと記憶している。鎌田はそれ以前に、期間工としてトヨタの労働環境の実態を取材した潜入ルポ『自動車絶望工場』を手がけている。そして『教育工場の子どもたち』では、トヨタで行われている徹底した「合理化」「省力化」が、同じ愛知県の教育現場でも踏襲されていることを暴いた。いわゆる「管理教育」である。子どもを人間扱いしないその在り方を、鎌田は「教育工場」と揶揄したのである。
 まさに僕はその愛知県の「教育工場」で生産された。そこでは「教師からの暴力」が日常茶飯に行われていた。忘れ物をすれば、容赦なく平手打ちをされ、ときには「精神棒」なる木の棒で尻を叩かれた。「服装検査」と称して体育館に集合させられ、規則に違反しているものは大きなラシャバサミで前髪を切られる。「校内暴力」という言葉が飛び交う時代だったから生徒も荒れていた。教師の側も必死だったのかもしれない。それでもそこは「教育の場」とはとてもいえなかった。しいて言えば軍隊だ。
 僕が不思議に思っていたのは、一人一人の教師は尊敬できる人たちだけれども、集団になるとたちまち狂った行いを平気でするようになることだった。漠然とではあるけれども、何か大きなシステムのようなものに取り込まれたとき、人は往々にして常軌を逸する。そんなことに気づかせてくれたのが鎌田の著作だった。愛知県といういびつな街で育ち、いびつな教育を受けてきた僕自身の立ち位置と行くべき道を、鎌田のルポは(いささか大げさな言い方になるけれども)指し示してくれた。
 『声なき人々の戦後史』とあるがこれは、鎌田自身がこれまでの取材人生を振り返ったものである。青森での少年時代から上京し、業界新聞記者、ルポライターとなるまでの経緯と、そこから手がけてきた数々の取材の履歴が詳細に記されている。興味深いのは、長く労働問題に目を向けてきた鎌田の仕事が、たしかにタイトルの通り「声なき」労働者たちの「戦後史」となっている点である。急激な経済発展を謳歌してきた日本だが、その一方で低賃金や公害問題など〈立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたもの〉のなんと多いことか。鎌田の目を通して見えてくる戦後日本は、とてもいびつで暴力的なものである。その延長線上に、いまだ僕たちはいるのだ。

■レイバーネットTV
★「声なき人々の戦後史」鎌田慧
 鎌田慧のこの本は驚きの連続だった。私が『新日本文学』の編集部にいた60年代頃より彼をルポライターとして知っていたが、彼は十代のころからすでに労働争議を体験し、花田清輝と出会い、その影響を受け、至る所の労働現場に潜り込み、生活の資を稼ぎながらルポ活動を展開してきた。トヨタの『自動車絶望工場』はその代表作だが、社会の底辺からその矛盾を告発しつづけた。原発の危険性もずっと前から声を上げていた。著書も160冊余りにのぼる。これは鎌田の貴重な集大成の書であり、生きた「戦後史」である。(木下昌明)


  ところで、とても幸運なことが実現しました。私が、おそるおそる「鎌田夫妻を囲む読書会」をお願いしたら、なんと慧さんが引きうけてくださったのです。超多忙の慧さんが時間をつくってくださったのです。ご厚意に甘えたのは、清瀬・憲法九条を守る会、清瀬・くらしと平和の会のメンバー数人でした。『声なき人々の戦後史』をざっとでも読むというのが参加の条件でした。もちろん、ざっと読むことは出来ない本であることはすぐにわかってくるのですが。
 実は、慧さんを囲む会の1回目の読者会は鎌田慧評論作品をめぐって、さらに、沖縄のビデオを見て語る会と今回で3回目を数えていました。

 今回の読書会はそれぞれ読後感想を語ることから始まりました。
 順番で私が話したことは、ざっとこんなことでした。
 元教師の私にとっては鎌田ルポルタージュ、鎌田文学への最初の接近は『教育工場の子どもたち』に代表される教育関係図書から始まったのです。そして次に葛西善蔵、太宰治、鈴木東民、坂本清馬、大杉榮など5人の評伝を読み、とても感銘を受けました。とりわけ興味深かったのは『自由への疾走』の大杉榮でした。鎌田評伝の白眉はこの本だと思っています。したがって、鎌田本、全130冊のなかのお気に入りの1冊は『自由への疾走』です。大逆事件当時の新聞や手記など様々な資料を駆使し、臨場感豊かに事件を再現してくれました。まさに劇画を彷彿させてくれるものでした。(詳細はブログ〔87〕参照)
「半世紀におよぶ仕事を語った本書は、戦後日本の稀有(けう)な記録者の軌跡だ。国政や大企業を頂点とする政治経済史とは対極の民衆史、自立と相互扶助を希求する精神史である。著者が大杉栄伝を書いたのも頷(うなず)けよう。
 大杉の言葉「諧調は偽りなり」は、著者が描いた「自動車絶望工場」や「教育工場」などの人間管理の現実を指す箴言(しんげん)である。」
 前掲の米田綱路氏の書評が鋭いところをついています。
 1章を読んで米田氏の文言が私の頭の中で繋がりました。それは、ルポライターに至る道について書かれたところでした。ここでは少年時代の逸話も紹介され、自身がどもりであったことなども告白しています。興味深いことに読書歴などにも触れられていて、シェークスピア、ゴーリキーなどもかなり読み込んだことが書かれていました。なるほどと、ここで合点がいきました。鎌田評伝はかなりドラマチックな要素が散りばめられていますが、その下地を学生時代に培っていたのでした。

 代表作の『自動車絶望工場』の潜行取材の顛末を読んで、『原発ジプシー』(堀江邦夫、現代書館1979)を思い出していました。潜行取材の元祖は実は鎌田さんだったのです。取材方法がフェアではないという批判もあったようですが、妻子3人を抱えた鎌田さんは働きながらの取材するということは当然の成り行きだったのです。そして仏訳にいたる顛末が興味深く読ませられるし、英訳や数カ国語への翻訳のエピソードがまさにドラマだと思うのです。アメリカでの翻訳出版の臨場感は半端ではありません。
 狭山事件へのかかわりの件は、実に興味深いものがありました。私は狭山市に在住していたときに狭山事件現地調査に参加して石川一雄さんの無罪を確信しました。当時、野間宏の『狭山裁判』(岩波新書 1976)を始め、狭山事件に関する書籍をむさぼるように読みました。あとから出た鎌田さんの『狭山事件』を嬉しく読んだものです。

 常に、一貫して底辺にある人々に寄り添い、彼らから学んだ集積が鎌田ルポの特徴です。そしてこの2冊は鎌田「山脈」の全貌を捉えるものになっていて、ざっとは読めない本なのでした。
 もう少し、家族について触れられてもいいのではと思うのですが、出版記念会でお連れ合いの公代さんが花束を渡され、慧さんが感謝の言葉を述べられたということでよしとしましょう。