後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔141〕鎌田慧さん提案「これらの運動が再興されるまで老人が担おう」を引き受けたいですね。

2017年04月22日 | 市民運動
 毎月19日の総がかり行動は今ももちろん続いています。マスコミがあまり取り上げないだけなのです。
 戦争法が安倍政権によって強行採決されたのが2015年9月19日のことでした。その翌月から19日は総がかり反対行動として、1回も欠かさずに脈々と続けられているのです。
 先日の4月19日は「辺野古の海の埋立て工事強行を許さない!4.19大集会」でした。

■辺野古の海の埋立て工事強行を許さない!4.19大集会 4月19日(水)18時半~
場所:日比谷野外音楽堂
共催:基地の県内移設に反対する県民会議
   「止めよう!辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会
   戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

 妻と、開会より少し早く、夜の6時頃日比谷野外音楽堂に着きました。会場はすでにいっぱいで、座席を探すのが難しい状況でした。3500人が結集したということで、会場には入れなくて、外で聞いていた人も多かったようです。清瀬の仲間のOさんもその1人でした。会場内にはTさんもいましたが。
 朝日新聞をはじめ大新聞がこの大集会を伝えない半面、さすが琉球新報は次のように記事にしました。

■琉球新報「辺野古阻止へ連帯誓う 東京で3500人集会」2017年4月20日
辺野古新基地 新基地建設阻止 集会
 【東京】名護市辺野古の新基地建設阻止などを訴える「4・19大集会」が19日、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂で開かれ、3500人(主催者発表)が「辺野古に基地は造らせないぞ」などと拳を突き上げた。集会には反対運動中に傷害罪などで逮捕・起訴され、係争中の山城博治沖縄平和運動センター議長も参加した。集会後には銀座へ向けてデモ行進し、道行く人らに連帯を訴えた。
 基地の県内移設に反対する県民会議などが共催。集会では安保法廃止や「共謀罪」新設反対も掲げた。
 山城議長は「沖縄は動乱のような時代を迎える。決して弾圧に屈せず、前進していこう」と政府が進める新基地建設の阻止に向けた決意をにじませた。
 民進、共産、自由、社民、沖縄の風の衆参国会議員が駆け付けたほか、辺野古新基地建設問題や「共謀罪」反対に関わる団体などが取り組みを報告した。


 様々な運動家が演壇に立ちました。「虹とモンスーン」というサイトをかりて、どのような人の話を聞けたのか、記録しておきましょう。不当逮捕で、長期拘留されていた山城博治さんの登場には目頭が熱くなりました。

*野平晋作さん(「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会)主催者あいさつ
*沖縄からの訴え、山城博治さん(県民会議)
 「四月二〇日に護岸工事強行があるかもしれない。私の逮捕・勾留に対して、たくさんの激励をもらった。権力の幽閉に打ち勝った。ありがとうございます。不当弾圧は辺野古・高江基地建設にノーを言い続ける県民への弾圧だ。六つの容疑で取り調べがあり、共犯関係を聞かれたが、座り込みに弾圧が及ぶので耐えた」。
 「腹を決して、安倍の暴走、戦争への道を許さない。明日から屈せず、力強くはねのけ前進する。われわれの力で政治を変えよう」。

*立憲野党からのあいさつ
 近藤昭一さん(民進党、衆議院議員)。小池晃さん(共産党、参議院議員)。
玉城デニーさん(自由党、衆議院議員)。福島みずほさん(社民党、参議院議員)。糸数慶子さん(沖縄の風、参議院議員)。
 
*辺野古問題に取り組んでいる団体からの発言。
・機動隊派遣への住民監査請求裁判について
・土砂搬出問題について毛利たかえさん
・共謀罪反対の訴え。共謀罪NO!実行委員会の中森けいさん
*高田健さん

 集会後、銀座・東京駅方向にむけデモ行進を行いました。
 家に着いたのは10時頃でした。
 最後に鎌田慧さんのコラムを紹介しましょう。

 ◆怒れる老人たち   鎌田 慧(ルポライター)
 先週末、大阪扇町公園「戦争をさせない関西大行動」集会のあと、パレードの終点は、大阪駅近くの西梅田公園だった。
 行進してきた人たちの笑顔を眺めていて、わたしは若い人たちが多いのを不思議に思っていた。「若いですね」と思わず隣にいた労組出身のFさんに声をかけてしまった。
 20代、30代の若ものが多く、新鮮な感じにとらわれていたのだ。「組合員ですからね」とFさんは当たり前だろう、といった表情である。
 主催したのは、戦争をさせない1000人委員会なのだが、参加者に日教組の教員や自治労の地方公務員など、安倍首相や橋下元大阪市長らに嫌悪されている組合員が多かった。それと中小企業の労働者である。
 東京での、代々木公園や日比谷野外音楽堂、国会前の集会は、平日の夜が多いこともあって、労組員よりもはるかに高齢者のほうが多い。「怒れる老人たち」とわたしがひそかに思う、60代後半から80代までの昔の若者たちである。
 戦争につながる安倍政権の政治に抵抗する大衆運動を担ってきたひとたちは、実はかつて労組の組合員として集会に参加したり、機関紙誌を読んで学習、あるいは学生運動に参加して政治批判の視点を身に付けてきた。
 労働運動と学生運動停滞と断絶が現在の暴政を許してきた。
 これらの運動が再興されるまで老人が担おう。
       (4月18日東京新聞朝刊25面「本音のコラム」より)

〔140〕同世代の小平陽一さんの『僕が家庭科教師になったわけ』、共感しながら読み終えました。

2017年04月07日 | 図書案内
  中村英之さんはリーメンシュナイダーを介して妻と交流がある方です。彼と妻とのメールのやりとりを拝見するうちに、彼が雑誌「We」にも関係しているということがわかってきました。「We」創刊2年目に、家庭科の実践を、編集長の半田たつ子さんから書かせて頂いた私としては、彼に親近感を抱かずにはいられませんでした。
 彼は、様々な市民運動にも参加されていて、どうやら運動の中心的な存在のようでした。一度我が家にも訪ねて来られたことがあり、美術論議に花を咲かせました。美術全般にわたって造詣が深く、年に数回、海外の美術館周りを試みる人でもあります。
  その彼から、一年くらい前に『僕が家庭科教師になったわけ』(小平陽一、太郎次郎社エディタス、2016年2月、190頁)が送られてきました。本に添えられた手紙の一部は次の通りです。

「友人の小平陽一さんが『僕が家庭科教師になったわけ』を上梓されました。軽やかで柔軟な小平さんの価値転換と活躍の様が、とても分かりやすく感じ取ることができます。1部送りしますので、ご覧いただければと思います。」

 さらにもう一枚の手紙には、彼のブログに掲載された、優れて的確な書評が印刷されていました。了解のもと、掲載させて頂きましょう。

〇生活哲学とジェンダーフリーへジャンプ『僕が家庭科教師になったわけ』(2016-03-26)
 家庭科に男子も共修がはじまったのが1994年(中学。高校は95年)。それより前から、であるからこそ家庭科の男女共修をとの運動があり、小平さんも運動を実感していた。化学から家庭科へ。家庭科が生活の科学であると分かった現在となっては、化学教師から家庭科教師への道は、自然に、合理的に見えるが、当時は変人扱い。息子さんからは「お父さん、左遷されたの?」
 小平さんが、家庭科教師に変転しようと思ったのには化学(科学)信奉への疑問と、ジェンダーの問題がある。それも、家事ができないのが当たり前から、妻が働きだして、いや応なしにすることになったイクメン生活。小平さん(1950年生まれ)の世代は学生時代に70年安保を経験したが、「デモの男子学生の後ろでおにぎりを握る女子学生」が当たり前。むろん闘う学生ではなかった小平さんは、デモや学校占拠も経験しなかったが、おにぎりを握ることもなかった。しかし、元来のマメさ、フットワークの軽さ、柔軟さから次第に育児・家事に「目覚めていく」。そしてそれが自然に、そして職業にまで。
 いい出会い、環境もあった。初任の所沢高校では、後に所沢市議会議員としてフェミニスト議員連盟を牽引した中嶋里美さんが同僚にいた。また、子どもの保育園などの送迎でいつも遅刻、熱を出した子どもの世話で妻とのやりくりがつかず、子どもを保健室に託したり。要するに職場や同僚に理解があり、大らかだったのだ。今なら、教員だけなぜ恵まれているのだと(別に恵まれているわけではないのだけれども)の非難・攻撃が学校に押し寄せるだろう。現代は、それほど余裕のない社会・時代になったということでもある。
 小平さんには、今回、本書をしたためる前提として、リタイア後学んでいる大学院での修士論文がある。そこでは、戦後、そして共修になった家庭科をめぐる状況―良妻賢母の育成から、生活技術としての男子をもの必要性、そして、食品添加物や手作業の要、はては原子力発電など「発展社会」への疑問まで-時代を反映した社会とのつながりの深さなど、受験科目でない分だけ自由に、そして深く突き詰めているという。
 学校教育という画一的、包括的な学習機関には何が求められるのか。「国語」や算数、理科・社会など考えられる科目の外に、いや外にこそ、家庭科がある。家庭で、地域で生活科学を学べなくなった現代。生活科学を学べなくなったということは生活の哲学を学べなくなったということだ。そして、文科省の政権忖度姿勢のもとで、社会科などでは現代の生活、そのもとにある政治への批判、批評精神の醸成はほとんど皆無である。であるからこそ家庭科でできることは多い。小平さんが、手仕事の妙と要を生徒に伝えることで、その後ろにある、社会や世界の問題、に気づく機会をつくったことは大きい。そして、その生き方が小平さんにとって心地よいものであったことがもっと大きい。
 小平さんら家庭科教員のがんばりにも関わらず、共修家庭科の単位数はどんどん減ってきている。それは、グローバリズムの名のもとに、英語授業を増やしたり、思い付きの学校「経営」ゆえの現在の単位構成の歪さの証でもある。
 小平さんの労苦に思いはせ、「家庭科減った。日本死ね!」と書き込みたいと思う。(2016年1月刊 太郎次郎社エディタス)

 
 私も連れ合いと『男の家庭科先生』(冬樹社、1989年)を出版しています。小学校と高校の違いはありますが、私と同世代の著者の本書は興味深いものがありました。とりわけ、エピソードのところか特に読みやすいし、思わず笑いがこぼれてしまうのです。妻からの突きつけがあったということに対してはいたく同感しました。
 小平さんも雑誌「We」に連載されていたのでした。
 著者の初任校はクラスごとに遠足ができる「リベラルな学校」(中嶋里美さんが同僚にいらした所沢高校だったんですね。)であったという背景もありながら、石けんづくり、藍染め、草木染め、豆腐づくり、こんにゃく、味噌づくり、水の分析などの化学の授業づくりといった豊かな実践が展開されていったようです。
「男女のどちらが家事・育児を担当するか? いまの時代、両方でシェアできるのは理想かも知れませんが、そう決めつけるのも不自由な気がします。」という記述については同感しながらも選挙におけるクオータ制などと絡めて議論するといいかと思いました。
「学校経営やクラス経営、部活動や委員会など、さまざまな雑用」というなかの「経営」や「雑用」という表現には正直違和感がありました。もちろん「雑用」と書きながらも否定的には捉えていないのですが。
 実践に関しては、もう少し固有名詞(仮名もあり)で語ってもよかったのではと思いましたが、いずれにしても、こうした本が日本でどんどん出版されることを願っています。


〔139〕今だからこそ新刊『遠山啓 行動する数楽者の思想と仕事』で、遠山の全貌を見直してみたいものです。

2017年04月05日 | 図書案内
  先日、『遠山啓 行動する数楽者の思想と仕事』という大冊を手に入れました。それは私が待ち望んでいた本でした。
 私たち夫婦のミニコミ「啓」は息子の名前から来ていますが、それは勝手に遠山啓さんの名前を頂戴したものです。品があり、反権力の象徴の遠山さんにあやかってのことでした。
 太郎次郎社エディタスのHPには以下のような紹介が出ています。

■『遠山啓 行動する数楽者の思想と仕事』 友兼清治 編著、太郎次郎社エディタス 、2017年03月、400ページ、本体3000円+税
〔内容〕(HPより)
遠山啓とはなにものか──。
 1950年代から60年代、いまも読み継がれる『無限と連続』『数学入門』を著し、数学教育の改革を提唱して「水道方式」「量の体系」を創出。
 障害児への教科教育の道を拓き、70年代には「競争原理批判」を展開。ガウス分布にもとづく5段階評価の誤りを指摘し、序列主義と学歴社会を超える論証を発表する。最晩年、教育の市民運動を主宰して、親と教師と若者をつないだ。
 数学者・教育者・思想家にして教育運動の実践者。その仕事の全貌を遠山本人の著述とともに描きだす。本書は「遠山啓著作集」の編集者がまとめた初の評伝であり、「遠山啓による遠山啓入門」の書である。

◎まえがき
プロローグ◎水源に向かって歩く──行動する数楽者の生涯
第1章◎学問・文学と出会うまで──一九〇九年~一九三〇年(十歳~二十歳代)
1●母ひとり、子ひとりで育つ
2●数学・文学・哲学との出会い
3●六年間のまわり道
第2章◎先駆的な数学研究への情熱──一九四〇年代(三十歳代)
1●敗戦と学問
2●研究への没頭
3●戦後の民主化運動のなかで
第3章◎数学教育の改革運動へ──一九五〇年代(四十歳代)
1●数学教育協議会の設立
2●生活単元学習(新教育)への批判
3●生活単元学習の背景
4●教育による社会の改造と持続
第4章◎「水道方式」と「量の体系」を創る──一九六〇年代(五十歳代)①
1●日本の算数教科書の変遷
2●水道方式の創出
3●量の体系の構築
4●ブームと弾圧
第5章◎数学教育の現代化をめざして──一九六〇年代(五十歳代)②
1●数学教育の近代化から現代化へ
2●一貫カリキュラムに向けて
3●なぜ数学を学び、教えるのか
4●教育政策と学習指導要領
第6章◎人間の文化としての数学──一九六〇年代(五十歳代)③
1●数学という文化
2●数学にはどんな特質があるか
3●数学における方法とはなにか
4●数学はどのように発展してきたか
第7章◎知の分断を超えて──教育と学問・科学・芸術(ミドルサマリー)
1●学問と教育の分断を結ぶ
2●自然科学と人文科学の断層を埋める
3●科学教育と芸術教育をつなぐ…
第8章◎原点としての障害児教育──一九七〇年代(六十歳代)①
1●人間観・教育観をゆるがす体験
2●教育の原点を問う
3●人間は測り知れない存在
第9章◎競争原理・序列主義への挑戦──一九七〇年代(六十歳代)②
1●教育における自由と統制
2●国家主義と序列主義
3●教育思想としての競争原理批判…
第10章◎”術・学・観”の教育論──一九七〇年代(六十歳代)③
1●たのしい算数・数学
2●数学教育の二つの柱
3●教育の未来像」
第11章◎「ひと」運動のしごと──最晩年・一九七二年~一九七九年
1●『ひと』創刊の舞台裏
2●雑誌から生まれたうねり
3●ひと塾に集う
4●遠山啓と教育の市民運動…
エピローグ◎遠山啓という水脈──その闘いが遺したもの
◎あとがき
◎年譜と著作─遠山啓の軌跡
◎引用文献・出典一覧

 この大冊を読み始めたのは最終章からでした。遠山さんとの出会いは雑誌「ひと」を通してだったのです。
  1973年の新卒教師一年目の冬、東京練馬区の桜台駅近くの本屋に入ったとき、私の目に飛び込んできたのが「ひと」でした。それまでの教育雑誌にはないような変形横2段書きでした。一目見て気に入り、即座に購入しました。春休みに「ひと塾」が開かれるという案内を見つけ、すぐに申し込みました。私の受付番号が2番、山口緑(後の妻)は1番でした。
 その後のひと塾で私の教育実践にもっとも示唆を得た竹内敏晴さんを知ることになります。遠藤豊吉さん、つるまきさちこさん、奥地圭子さん、鳥山敏子さん…数え切れない人たちから多くのことを学びました。
  そして新卒教師の私にとって、「ひと」は教育実践のバイブルになっていったのです。「ひと」は全冊持っているだけでなく、部数が多いと割引が効いたため、職員室でも職員に勧めたものです。この時期は同時に日本生活教育連盟や村田栄一さんの影響も強く受けたのですが。
  編著者の友兼清治氏にも思い出があります。当時「ひと」に実践記録が掲載されるということはこの上ない名誉なことでした。奥地圭子さんか鳥山敏子さんの紹介だったと思うのですが、劇上演の実践の原稿依頼が友兼さんから舞い込んだのです。自分としては力を入れて書いたつもりなのですが、脚本が掲載できないので原稿がわかりにくいということで掲載されることはありませんでした。「ひと」は普通のお母さんが読んでもわかるようにということで、遠山さんでも何回も書き直させたというのです。その時対応してくれたのが友兼さんでした。
 私の原稿が唯一「ひと」に掲載されたのは、1999年9月号、詩「たんぽぽ」の授業記録でした。(『いちねんせい-ドラマの教室』所収)福田緑は私より早く、教育現場の「日の丸」「君が代」闘争の記事が掲載されたのです。
  そういえば一度だけ「ひと」編集会議に招かれたことがありました。家庭科の特集のためのものでした。太郎次郎社代表の浅川満さんや宮島郁子さんと出会ったのでした。

  さて本書は、第8章から10章に関係する分野・領域が、私の教師生活と重なります。
 リアルタイムで遠山さんの本を読みあさっていたことになります。このあたりはゆっくり読み進めていって頭の中を整理していこうと思います。
  算数教育の実践ということでは、遠山さんの著作には大変お世話になりました。世界に冠たる水道方式と言えると思います。

  それにしても素晴らしい本が出来あがりました。国土社や太郎次郎社で遠山さん関連の雑誌や著作の編集に関わった友兼さんでしかなしえなかった本です。
 昨今、森友学園の国家主義的な教育が話題になり、文科省が教育勅語を扱ってもかまわないという時代に、本物の教育とは何なのか、しっかり腰を据えて考えるために本書を読むことを勧めたいと思います。

〔138〕北村小夜さんの講演「軍国少女を生きて」、戦前ではなく今の話として聞きました。

2017年04月01日 | 講座・ワークショップ
  東京の多摩地区に配布されている地域新聞「アサココ」に以下のような講演案内が載っていました。これは万難を排して駆けつけなければと思いました。

■「軍国少女を生きて」2017年3月26日10時、くにたち福祉会館(谷保駅10分)。
 1925年生まれの北村小夜さん(元教員)が話す。スペースF・国立の教育を考える市民連絡会共催。

  北村小夜さんは教職員組合活動、地域の教育運動家、反戦教師として著名な方です。ネットに登場していた紹介文をコピーさせてもらいましょう。

●1925年生まれ。1950年から1986年まで東京都大田区内の小・中学校で教員(65年から退職まで中学校特殊学級担任)。子どもたちとの付き合いの中から子どもを分けてはならない事に気付き、共に学ぶ地域の学校づくりをめざしてきた。「障害児を普通学校へ・全国連絡会」世話人。著書に「一緒がいいならなぜ分けた─特殊学級の中から」「地域の学校で共に学ぶ」(現代書館)他多数

  しかし、私にとってかなり近しい存在なのは、演劇教育の大先輩にあたるからです。日本演劇教育連盟主催の冨田博之さんを偲ぶ会だったでしょうか、この時に初めてお話しした記憶があります。その後、ミニコミ「啓」をお送りして読者になってくださいました。時々葉書や手紙も頂きました。そしてあるとき、段ボール1杯分の演劇書を送っていただきました。ご高齢になられたので活用してほしいということでした。ご著書を頂いたこともあります。しかしながら、そんな北村さんの話をしっかり聞く機会を持ちませんでした。そんな時に「アサココ」の情報が舞い込んだのです。
  小雨の降る日曜日の朝でした。1時間の講演が資料に基づいて始まりました。

●学習会「戦争は教室から始まる」資料
1,1938年の教室
2,国定第3期(1918~1933)修身教科書
3,現行の小学校音楽共通教材、ほとんどが文部省唱歌
4,歌詞だけ変えて歌われる戦争の歌
5,戦争と国家の健康管理
6,教育勅語と排除決議・失効確認決議
*戦争するには国民の逆らわない心と丈夫な体が必要である。ほぼその体制は整っている。

〔その他の資料〕
・「軍国少女への道」
・「躍進50年」朝日新聞創刊50周年のグラフ
・ 回覧「大東亜戦争必勝祈願」
・「唱歌(音楽)は修身の手段」
・『戦争は教室から始まる―元軍国少女・北村小夜が語る』の部分コピー

  とにかくたっぷりの資料が配付されました。この資料は家に帰ってからしっかりかみしめることにしました。
 軍国少女だった北村さんは、敗戦と同時に、身の回りにある「壊せるもの」を手当たり次第壊したそうです。戦争を熱心に推進していた時期は「忘れたい5年間」だったというのです。天皇のために尽くすということは愚かだし、くだらないことだし、その悔しさが忘れられないというのです。
  北村さんのような思いを共有しないで済むように、今できることをやっておかなくてはと肝に銘じた講演会でした。森友疑惑をうやむやにしないで、共謀罪法案を葬り去らなければなりません。
  最後に、北村さんの下掲の本を近々読んでみようと思ってます。

●『戦争は教室から始まる―元軍国少女・北村小夜が語る』「日の丸君が代」強制に反対する神奈川の会 (編集) 、現代書館 2008/9
〔内容〕戦前の教育はすでに復活している。修身=道徳・『心のノート』、体力手帳=『元気アップハンドブック』、愛国心を評価する通信表、歌い継がれる戦争の歌(唱歌)…。押し付けでなくより巧妙に、逆らわない心と丈夫な体づくりが定着している。二〇〇六年十二月から二〇〇七年六月にかけて、六回にわたって開催した北村小夜さんの連続学習会「戦争は教室から始まる―学校の戦前戦後、断絶と連続」の講演録。