後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔53〕五日市憲法ツアー第二弾! 濃密な時間と空間を共有できました。

2015年10月26日 | 旅行記
  10月24日(土)、25日(日)、清瀬・憲法九条を守る会のメンバー8人は五日市憲法草案ゆかりの地を訪ねました。ここには2010年に続いて2回目のツアーということになります。そのあたりの事情を参加者の一人が書いています。

「昨日、今日と五日市憲法ツアーをしてきました。今年は殊の外憲法の大事さを痛感した年だったこともあり、昨年亡くなった布施哲也さんがずっと調査して回ったという五日市憲法のゆかりの場所を清瀬・憲法九条を守る会の仲間8名で訪ねてきたのです。五日市憲法が発見された蔵も、中心となった千葉卓三郎の関連資料も見てきました。2010年にも一度行っているのですが、その時はまだ五日市憲法の事をよく知らないまま、哲也さんの案内で受け身の見学でした。そのため頭にきちんと入っていなかったように思います。今年は草稿発見者の新井勝紘さんの講演を5月31日に聴き、本も買って読みましたので、さらに知識が深まり大変良い旅となりました。明治時代にこんな素晴らしい憲法の草稿をまとめた日本人がいたということを知り、大変誇らしく思います。今の政権のおかしさがよりくっきりと見えてきます。」(福田緑)

  車2台に分乗して最初に向かったのは五日市郷土館(東京・あきる野市)でした。2階展示室に、五日市憲法草案の関係資料である学芸講談会の開催通知や討論の題目を記したノートなどを展示しています。事前に連絡したら、この日は館長さんがいらっしゃるということで、30分ほど丁寧に展示物の解説をしていただきました。ほとんどの人がここで購入した『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』に目を通していたので、理解はさらに深まったようです。
 次に向かったのは、学芸講談会の会場の1つ、開光院です。絶好の散策日和で、とてもきれいなお寺をゆったりと満喫しました。
 その帰りにあきる野市立五日市中学校の脇にある、五日市憲法草案の記念碑を訪ねました。草案起草者の千葉卓三郎の出生地・宮城県志波姫町と墓所・仙台市とここの三箇所に碑は建っています。記念碑のところで写真を撮ったりしていたら、男性に話しかけられました。隣の会館で、五日市憲法草案関連の展示をしているというのです。そこになんと『ガイドブック 五日市憲法草案』の著者の鈴木富雄さんがいらしたのです。話を少し伺うことができました。
 おいしい手打ちそばを食べたあと、歩いて勧能学校跡を訪ねました。ここは草案起草者の千葉卓三郎が第2代の校長になったところです。現在はあきる野市立五日市小学校で、道路を挟んでこの学校の向かい側にあります。私が春に教育実習指導した学校だったことは前にブログ〔31〕に書きました。
 そしていよいよ憲法草案が発見された深澤家土蔵に向かいました。勧能学校跡から車で10分以上どんどん山を登っていき、真光院に着きました。この隣が深澤家屋敷跡です。数年ぶりに土蔵を見て記念写真に収まりました。そこから100メートルほど上ったところに深澤家のお墓がありました。学芸講談会の中心メンバーの深澤権八の墓などがありました。「権八深澤氏」と彫られていました。29歳で早世した秀才権八にふさわしい感じの墓でした。
 学芸講談会のメンバーは30名ほどですが、10を越える市や町、地域から遠路はるばる、月3回も開光院や真光院にどんな思いで集まってきたのか、想像を絶するものがありました。

 その後、檜原村まで足を伸ばし、合掌造りで有名なかんづくり荘に泊まりました。
 翌日は、青梅市二俣尾の漆工房 皎月(十亀英也・福田奈々子主宰)を見学しました。漆職人の専門的な話を興味深く聞けたり、焼き杉体験ができました。この工房についてはいずれブログで紹介したいと思います。

  2日間の充実した濃密なツアーで、私は大満足でした。とりわけメンバーの話が興味深かったです。
 さて、10月31日(土)、11月1日(日)は夫婦で愛媛の伊方原発反対集会に参加してきます。年金の正しい使い方かな、と思っていますが…。

*五日市憲法草案に関してはブログ〔31〕を参照してください。
*五日市憲法草案発見者の新井勝紘さんの講演会がありますよ。
  ・「五日市憲法と日本国憲法」新井勝紘
 ・11月15日(日)講演開始14:00
 ・清瀬駅(西武池袋線)から1分、アミュービル4階、
 ・主催、週刊金曜日、清瀬読者会

〔52〕毎月3日と19日は戦争法(アベ政治)の終わりの始まりです。

2015年10月20日 | 市民運動
 9月19日(土)に国会で戦争法が「成立」してからちょうど1ヶ月が経ちました。自公政権は時間が経てば国民が戦争法のことを忘れると思っているようですが、それは大間違いです。
 10月18日(日)は学生たちのシールズが渋谷で大規模な戦争法廃止集会を開きました。そして昨夜「戦争法廃止!安倍内閣退陣!10.19国会正門前集会」が18時30分からありました。主催は「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」です。3つの団体で構成される超党派の市民運動です。
 私はいつものように、有楽町線の桜田門駅から国会正門前に向かいました。「清瀬・憲法九条を守る会」や「清瀬・くらしと平和の会」の仲間たち数人は昼過ぎからの参加でしたので、私は一人でした。正門右手はメインステージがあるところで、いつもならあまりにも人が多いので近寄らないのですが、今回は人が少ないだろうと思って行ったのですが、とんでもない話でした。相変わらず凄い人で身動きがとれませんでした。そんな時、コーナーの石垣の上に「清瀬」の旗を見つけたのです。私たちの仲間でした。かなり早くから彼らはやって来て、場所取りをしていたようです。何とか私も合流してその一角を占めました。
 6時半丁度に「戦争法廃止」のコールが始まりました。コールの合間に、3つの主催者団体の話、各政党の決意表明、女性団体の人、沖縄からの訴えなどが続きました。立ち上がれば、話す人の顔が見られる位置にいました。私は「アベ政治を許さない」という紙を掲げていたのですが、それに隠れて各種マスコミの写真には写っていませんでしたが、NHKのニュースには仲間の一人が写真を撮っているのが見事に映っていました。
  帰りに清瀬からの仲間がもう一人、彼女の元の職場の同僚と数人で来ていました。
 さらに帰りの電車で、「アベ政治を許さない」というシャツを着た2人連れの女性が乗っていて、なんと清瀬の方と言うではありませんか。彼女も憲法九条の会を作っていて、これから連絡を取り合うことになったのです。私が知る限りではこれで、清瀬に九条の会は3つあることになります。

 今日の朝日新聞の集会紹介記事はあまり大きくなくてがっかりですが、次のような記事が出ていてびっくりしました。
●「19日を忘れない」(朝日新聞、2015/10/20)
…神奈川県鎌倉市の塚越敏雄さん(68)は「誰かに任せるのではなく、一人ひとりが考え行動する時代になった。継続は簡単ではないが国会前で声をあげ続けたい」と話した。

 かなり昔からのミニコミ仲間の塚越さんが、なんと鎌倉から駆けつけていたのです。9500人という人混みの中では確認は不可能ですが、ひょっとしてこれから毎月の19日の行動日に会うかもしれません。楽しみがひとつ増えました。それにしても時間的にも金銭的にも鎌倉から来るのは大変でしょう。敬意を表したいと思います。

 「総がかり行動」は毎月19日に国会へということですが、澤地久枝さんが新たな提案をしています。「アベ政治を許さない」のポスターを毎月3日の午後1時に自分がいる場所で掲げようという提起です。連れ合いが早く来て、このポスターをもらったということでした。

□毎月3日は「アベ政治を許さない」のポスター 、13時
□毎月19日は国会前集会、18時半から

〔51〕元中学校校長で劇作家の辰嶋幸夫さんが逝去されました。

2015年10月16日 | 追悼文
 8月26日(水)、脚本研究「森の会」の重鎮、辰嶋幸夫さんが逝去されました。9月の例会に欠席されたので、新井早苗さんが連絡を取ってくださり、家族からお話を伺って知りました。連絡を受けた時、私は、あんなに元気だった辰嶋さんがなぜと、茫然自失でした。
 毎月の例会には辰嶋さんはほぼ出席されていました。しかし、私が最後に会ったのは5月の例会でした。この時、辰嶋さんは私に「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」を手渡されました。かねてからどんな脚本を書かれたのか知りたいと言っていたからでしょう。A4、4枚に少し手書きもありましたが、約80作品名がワープロで打ち込んであったのです。
 6月、私は教育実習校見学で珍しく欠席でしたが、辰嶋さんは伊集院静原作の脚色「むしかご」を携えて出席されたそうです。前書きに「遺作」と書かれていたのが気にはなりましたが。遅れて7月にそれを頂きましたが、辰嶋さんは欠席でした。そして、8月はいつも休会です。

 辰嶋さんとは70年代後半に同じ日本演劇教育連盟(演教連)常任委員として出会っていたのですが、彼が中学校の教頭、校長になるにしたがって疎遠になっていきました。ただ演教連としては、毎年の脚本募集の選考委員として途切れることなく、今年まで活躍してくださいました。
 辰嶋さんと親しく話を交わすようになったのはここ10年です。2005年3月に私は小学校の教育現場から身を引きます。定年まで5年を残しての早期退職でした。相変わらず「演劇と教育」の編集代表でしたが、多少自由な身となり、今までできなかったサークル活動に参加するようになりました。「劇あそびと劇の会」と「森の会」でした。「劇あそびと劇の会」では平井まどかさん、「森の会」では辰嶋さんの話をおもに聞きたいという思いからでした。
 実は平井さんも辰嶋ファンで、私と同時に聴講に参加していたのです。そのあたりの事情を平井さんは次のように綴っています。
「(「森の会」参加の)きっかけは、その頃、辰嶋幸夫さんが研究されていた岸田國士についての戯曲論を傍聴させていただいたことだった。私の記録によると、2007年1月の例会で取り上げられた岸田國士『感化院の太鼓』が始まりで、その時は辰嶋さんの<作品随想>がプリント4枚にびっしり印刷されていて、その内容がめっぽう面白かったのでそれから聴講にはまってしまったのである。その後岸田國士の戯曲は『犬に鎖は繋ぐべからず』『女人渇仰』と続き、劇作家も田中澄江になり、やがて辰嶋さんや同人の皆さんご自身の作品を読ませていただくことになり、今日に至っている。」(同人誌「森の劇場」4号、あとがき)

 辰嶋さんは体調を崩され、1,2年欠席されることがあったが徐々に回復され、旧作の改稿、寺山修司など原作の脚色を精力的に続けられました。辰嶋さんの話を聞きたいという我々の願いに応えてくれたのは確かなことです。私の責任編集「森の劇場」4号はまさに辰嶋さんのために作ったものでした。彼の喜ぶ顔が見たくて。
 私は「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」をめくりながら、これなら数冊の脚本集が作れるだろうと思っています。「辰嶋幸夫全集」でしょうか。最低でも、中学校向脚本集、寺山修司作品脚色集の2冊は間違いなくできるでしょう。

 今年に入ってからも、数本の脚本を書かれていました。辰嶋さんは最期まで劇作家でした。
 辰嶋さん、毎月興味深いお話、本当に楽しかったです。ありがとうございました。合掌。

〔50〕児童劇作や劇あそびの蓑田正治さんが逝去されました。

2015年10月13日 | 追悼文
 蓑田正治さんが亡くなられたことを知ったのは「児童青少年演劇」(日本児童青少年演劇協会、657号、2015.8.25)を読んでのことでした。「追悼・蓑田正治さん」として、石坂慎二さんが蓑田さんの略歴紹介、「困った時の蓑田先生」(木村たかし)、「多くの後進を育てていただきありがとうございました」(加藤早恵)という追悼文が続きます。
 加藤さんの文章の冒頭は次のようになっています。
「蓑田先生が7月1日に亡くなられたとの連絡を、協会の石坂さんから頂いたのは6日の夕刻でした。/3月末から少し体調を崩されて入院され、一旦は退院、4月末からはご自宅近くの病院に転院、それでも回復のために頑張って療養されていたはずでしたのに…。」 享年87歳、元小学校教師、斎田喬に師事し、児童劇作や演劇教育に関わり、劇団の上演脚本なども手がけ、落合聰三郎と「劇あそび勉強会」を設立したそうです。
 多数の著作を残していますが、私の手元にあるのは『劇のある集会活動』(晩成書房、1980)『斎田喬 児童劇作十話』(西村松雄・蓑田正治編、晩成書房、1980)の2冊です。 

 私は1976年に2校目の清瀬市立清瀬第7小学校に赴任し、市内の教育研究会では児童文化部に所属していました。清瀬小学校校長の橋爪平八郎さんが顧問でした。日本児童劇作の会に所属し、脚本を書かれる方でした。彼が蓑田さんを講師に呼び、そこで初めてお目にかかったのです。
 親しく話を交わすことになったのは、それから40年近くたってからでした。雑誌『げき12』(児童・青少年演劇ジャーナル、晩成書房、2013.12)の座談会(演劇の「学習指導要領」試案を読んで)に参加した時でした。児童文化部の講師の件はどうやら記憶にないようでした。 
 この数人での座談会で記憶に残る蓑田発言は、演劇の「学習指導要領」試案(森田勝也)や『げき』に対して、次のように語っていることです。
「私としてはもうちょっと枠を飛び出して今の学校教育の現状を批判的に捉えたうえで、我々の考えていることをアピールするような編集意図をもった方が明確な姿勢を示せるのではないかという感想をもちましたね。」
 学校教育の現状批判をともなった議論を、ということを再三話されたことは、私には嬉しいことでしたが意外な感じもしたのです。『劇のある集会活動』の「推薦のことば」は当時の中央教育審議会会長の高村象平氏だったからです。
 さらに嬉しかったのは、この号で、拙著『実践的演劇教育論』を書評していただいたことです。
「谷川俊太郎、まど・みちお、阪田寛夫、佐野洋子の詩や物語を素材にしている。これらをいろいろな方法で読むのだが、大事なことは、教師がすっかりこの世界に入りこんで、子どもと一緒に遊んでいることだ。これでは子どもが楽しんで遊ばないわけがない。役割を決めて、語りかけたり、応答したり、を楽しんでいるさまが窺える。
 そして現在は、上記のような演劇教育に対する理論と、教室での実践をひっさげて、教員志望の大学生たちに提供しておられる。
 これは、理論とそれに基づく実践の両方を示すことができるという点で、冨田(博之)氏を越えていると言えるかもしれない。」
 最後の一文はあり得ないことであるが、お世辞でも嬉しいことでした。書評を読んで、蓑田さんにお礼の手紙と、ミニコミなどを送らせてもらったのでした。
 訃報を伝えた「児童青少年演劇」の前号の巻頭は蓑田さんの「想像力を育て心を育てる劇あそび」でした。最期までご活躍の蓑田さんでした。合掌。

〔49〕 戦争法との戦いをやめない「総がかり行動集会」は凄い熱気でした。

2015年10月10日 | 市民運動
 9月19日(土)に戦争法が「可決」されましたが、その反対運動は全国に燎原の火のごとく広がっています。地元の清瀬市でも党派を超えた集会が10月15日(木)に予定されています。
 一足早く文京シビックホールで「10・8戦争法廃止!安倍内閣退陣!総がかり行動集会」が開かれました。開会10数分前に会場に着くと、凄い人波で、席を見つけるのが大変でした。後部座席にようやくおさまりました。お隣に、私と同様の「脱原発」のステッカーを付けた同年配の男性が座っていました。気安く話しかけると、横須賀から駆けつけたということでした。
 さて、この集会を報じた東京新聞の記事を紹介しましょう。

●安保法との戦いをやめない 議員、識者ら文京区で集会
東京新聞(2015年10月9日 朝刊)

 安全保障関連法に抗議する「10・8戦争法廃止!安倍内閣退陣!総がかり行動集会」が八日、東京都文京区の文京シビックホールであった。千七百五十人(主催者発表)が参加し、野党の国会議員や学識者、市民団体メンバーらが「成立してしまったが、引き続き戦おう」と訴えた。
 主催は、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会。学識者や弁護士から「国会による憲法へのクーデター」「成立しても、憲法違反は憲法違反」との批判が相次いだ。全国で起きた反対デモについて、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)の本間信和さんは「次の選挙に反映させないといけない。このつながりは絶対に力になる」と訴えた。
 紛争地で援助活動をするNGO「日本国際ボランティアセンター」の熊岡路矢(みちや)さんは「紛争地では、軍隊と武装した市民らが入り交じり、混乱する」と指摘。「武装した隊員が行くと、紛争を悪化させる可能性がある。日本に直接、関係のない戦争に自衛隊を送るべきではない」と述べた。

 この日のプログラムです。

●プログラム

(司会)小田川義和(戦争する国づくりストップ!憲法を守り・いかす共同センター)
<開会挨拶> 高田健(解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会)
<講演>戦争法と国際協力NGOの活動~「南スーダンでの駆けつけ警護」に触れながら     熊岡路矢さん(NGO非戦ネット・JVC顧問)
<国会議員からの挨拶>福山哲郎(民主党)、田村智子(共産党)、吉田忠智(社民党)
<連帯挨拶>
安保法制に反対する学者の会(佐藤学)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部(山岸良太)
女の平和実行委員会(杉浦ひとみ)
立憲デモクラシーの会(石川健治)
SEALDs(本間信和)
違憲訴訟を準備する弁護士から(内田雅敏)
<リレートーク>
(総がかり実行委員会の参加団体から)
9条壊すな!街宣チーム(菱山南帆子)
宗教者(渡辺多嘉子)
脱原発女たちの会(土井登美江)
秘密法廃止へ!実行委員会(前田能成)
沖縄一坪反戦地主会関東ブロック(木村辰彦)
安倍の教育政策NOネット(俵義文)
<行動提起> 福山真劫(戦争をさせない1000人委員会)
<閉会挨拶> 小田川義和(司会)
*敬称略

 具体的な行動提起の主なものは、毎月19日行動、違憲訴訟支援、2000万署名、統一憲法記念集会などです。
 集会参加の皆さん、2時間ご苦労様でした。元気をもらいました。
 家に帰ってテレビでこの集会について取りあげているか見てみました。そしたら、わずかにNHKが内田雅敏さんの話とインタビューの様子を映していました。違憲訴訟のことに関心があったようです。学者の会の動きもニュース記事に紹介されていました。圧倒的に政府寄りのニュースが多いNHKでもこの程度には紹介するのですね。
 最後に、集会の様子をユーチューブでどうぞ!

     www.youtube.com/watch?v=bSaHpwZEjj0