後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔232〕心身の健康管理をかねて、シルバーディに「コートールド美術館展 魅惑の印象派」に行ってきました。

2019年09月21日 | 美術鑑賞
 東京都美術館では1ヶ月に1度くらいシルバーディがあって、65歳以上は入館が無料になることは以前からこのブログで書いてきたことです。この事実については東京都美術館のサイトでもなんだか控えめに掲載しているような気がします。あまり多く来られても収入が減るし、入場者が多くなると管理が大変になるという心配もあるのでしょうか。
 そんなことはお構いなしに、私は新しい展示が始まると2ヶ月に1度くらいいつもより1時間早起きして出かけるのでした。7時半の電車に間に合わせるのは大変です。しかも結構電車は混んでいるのです。まあそれも1時間ほどの我慢です。うまくいけば座れることもあります。帰りはまず座れることが多いので、新書を1冊いつも持ち歩いています。今回は『反骨のジャーナリスト』(鎌田慧、岩波新書)の半分くらいは目を通すことができました。美術館に着くのが8時40分ぐらい、開場が9時20分くらいですから、その間は立ちんぼで清々しい秋の読書に精を出しました。
 今回は私の前に並んでいた人は100人くらいでしょうか。いつもよりかなり少ない感じでした。
 帰りは昼食をとって池袋で本屋とブックオフ巡りです。

 さて今回は「コートールド美術館展 魅惑の印象派」です。実は数年前にロンドンにあるコートールド美術館を訪れています。テムズ川の畔にあるそれほど大きくはない美術館という印象でした。開館前に着いたためしばらくテムズ川をゆったりと眺めていたのを思い出します。

 今回の展示の目玉はマネの最晩年の傑作と言われている《フォリー=ベルジェールのバー》です。この作品は以前日本に来たことがあり、私も鑑賞しています。コートールド美術館ではもちろん常時展示されていてゆったり鑑賞できたのを覚えています。今回は美術館が改装中ということで貸し出されたようです。

 しかしなぜ日本ではこんなに印象派の美術展が多いのでしょうか。日本人は印象派が大好きなのでしょうね。もちろん私も印象派の絵は嫌いではないのですが、もう少し、私が贔屓にしているドイツ・フランドル絵画や彫刻の展覧会があってもいいように思うのです。
 印象派の画家の中では私はやはりマネがお気に入りです。中学校演劇で一世風靡した美術教師の故・渡辺茂さんも同意見で、それを聞いた時なんだか妙に嬉しくなったのを思い出します。

 最後に耳より(?)の情報を。上野に行ったら国立西洋美術館の常設展はシルバーは無料だということは以前に書いたとおりですが、東京国立博物館では70歳以上無料の総合文化展という展示がありました。これは常設展のようです。今年中には私もただで入れるというわけです。年取っても少しは良いことがありますかね。
*東博のサイトより〔高校生以下および満18歳未満,満70歳以上の方は,総合文化展について無料です。入館の際に年齢のわかるもの(生徒手帳,健康保険証,運転免許証など)をご提示ください。〕

●コートールド美術館展 魅惑の印象派 Masterpieces of Impressionism: The Courtauld Collection
2019年9月10日(火)~12月15日(日) 〔東京都美術館のサイトより〕

 ロンドンにあるコートールド美術館のコレクションから、印象派・ポスト印象派の作品を紹介します。実業家サミュエル・コートールドが収集したコレクションを核に1932年に設立された同館は、美術史や保存修復において世界有数の研究機関であるコートールド美術研究所の展示施設です。本展覧会では、その研究機関としての側面にも注目し、画家の語った言葉や同時代の状況、制作の背景、科学調査により明らかになった制作の過程なども紹介し、作品を読み解いていきます。
 日本の風景のようだと語られたファン・ゴッホによるアルルの風景《花咲く桃の木々》、19世紀後半の近代都市パリの風俗を映すルノワールの《桟敷席》やマネの《フォリー=ベルジェールのバー》、科学調査が作品の秘密を解き明かしたゴーガンの《ネヴァーモア》やモディリアーニの《裸婦》などをはじめ、選りすぐりの絵画・彫刻約60点を展示します。

○みどころ
1. マネ、最晩年の傑作《フォリー=ベルジェールのバー》来日
 作品の大部分は、鏡の中の世界。さまざまな解釈を呼び起こしてきた女性の表情と鏡像のずれ、画面左上にちらりと見える曲芸師の足、精緻に描かれたカウンターの静物など、マネはさまざまな要素を卓越した技術でひとつの画面に収めています。マネの画業の集大成が約20年ぶりに来日します。
2. ルノワール、ゴーガン、セザンヌなど、巨匠たちの作品を堪能
 第1回印象派展に出品されたルノワールの《桟敷席》、タヒチ滞在期の謎めいたゴーガンの名画《ネヴァーモア》をはじめ、イギリス随一のセザンヌ・コレクションから、油彩画10点、日本初公開となるセザンヌの手紙が出品されます。
3. 名画を読み解く
 コートールド美術館の研究所の展示施設という側面に着目し、名画を「読み解く」方法を紹介します。画家の語った言葉や同時代の状況、制作の背景、科学調査により明らかになった制作の過程などを知ることで、新たな見方を楽しむことができるかもしれません。

〔231〕「さようなら原発集会」は8000人の参加者。今回は雨、雪、砂埃なしの集会日和でした。

2019年09月21日 | メール・便り・ミニコミ
 春と秋2回行われている「さようなら原発集会」には極力参加しようと思っています。私より年配の鎌田慧さんらが欠かさずに駆けつけているからです。鎌田慧さんが名付けた「反逆老人」として手を抜くわけにはいかないのです。
 それにしてもこの集会、春は砂嵐のなか、さらには雪や雨にたたられたこともあります。台風接近ということでデモが中止になることもありました。ところが今年は珍しく穏やかな秋の1日になりました。
  私達はいつものように12時半のイベントに間に合うように公園に着きました。メイン舞台最前列に座る場所を確保して、おにぎりを頬張りました。
 
 どんな集会になったのか、あるサイトをコピーさせていただきます。ただし澤地久枝さんは体調不良のようでしたが欠席、落合恵子さんが開会のことば、鎌田慧さん閉会のことばでした。司会はロマンスグレーが似合う木内みどりさんです。


●さようなら原発全国集会
日にち: 2019年9月16日(月)敬老の日
場 所: 代々木公園B地区

11:00 出店ブース開店
12:30 開会 野外ステージ コンサート じんたらムータ ほか
13:30 発言

・呼びかけ人から  
  鎌田慧さん、落合恵子さん、澤地久枝さん
・フクシマから  
  地脇美和さん(福島原発事故刑事告支援団)  
  村田弘さん
  熊本美彌子さん(避難の協同センター)  
  ともさん(飯館村焼却場被曝労働裁判原告)
・東海村から  
  東海第二原発再稼働問題
・連帯あいさつ  
  福山真劫さん(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)  
  木村辰彦さん(「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会)  
  高校生平和大使から
15:10 デモ出発  
  渋谷コース:会場→渋谷駅前→明治通り→神宮通公園解散
  原宿コース:会場→原宿駅→表参道→外苑前駅周辺解散

主催:「さようなら原発」一千万署名市民の会
内橋克人 大江健三郎 落合恵子 鎌田慧 坂本龍一 澤地久枝 瀬戸内寂聴
協力:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会


 この集会の様子が朝日新聞に小さく写真入りで載っていました。鎌田慧さんらが横断幕を持ってデモしている写真でした。


●「避難者追い出すな」脱原発集会に8千人 (朝日新聞2019年9月17日)

 東京電力福島第一原発事故の避難者への住宅提供打ち切りや提訴への動きが続くなか、「さようなら原発全国集会」が16日、渋谷区の代々木公園で開かれた。約8千人(主催者発表)が参加して、「住宅追い出し、今すぐやめろ」などとデモ行進で訴えた。
 福島県は避難者の住宅提供を段階的に打ち切り、新たな契約をしないまま江東区の国家公務員宿舎に住み続ける5世帯に、明け渡しと賃料支払いを求めて提訴する方針を決めている。
 集会では、福島県から都内に避難している熊本美彌子さん(避難の協同センター)が「県は、避難生活の中で障害者手帳を取得した人を訴えようとしている。子ども・被災者支援法には住宅確保は国の責務と書いてある」と支援を求めた。呼びかけ人の一人でルポライターの鎌田慧さんは「原発は人の尊厳を壊す存在。一人ひとりが立ち上がろう」と訴えた。
 参加した国分寺市の山崎展(のぼる)さんは「原発事故の問題は、避難者や汚染された廃棄物処理などますます広がり、深くなっている」と話していた。
 住宅問題について、10月26日午後6時半から、文京区民センターで集会が行われる。参加費500円。 (青木美希)


 東京新聞にも以下のような参加者の感想が載っていました。

 ◆熱気あふれた9/16原発集会
  同志たちと「地球愛」を共有することができる
                中嶋由美子(東京都小平市)

 9月16日の朝は大雨だった。カレンダーのメモ「さようなら原発全国
集会、代々木公園」を見ながらこれでは来る人が減るかもしれないと
思い、私も少々迷った。
 しかし、傘とカメラとメモ帳を持って家を後にし昼前、会場に
着いた。さっそく各団体の出店を回る。
 テントという小さい空間だが、そのどれもが、多くのメディアが報じ
ない重要情報を発信していた。
 話を聞き、たくさんの資料をもらい、多くの署名をし、写真を撮った
りしているうちに、天候は回復して人も増えてきた。
 舞台では歌や演奏の後、シルバーヘアがすてきな木内みどりさんの
司会で、いつものように明快で理知的な落合恵子さんに続き、各団体
代表の毅然とした訴えが会場全体に響き渡った。
 「理解が得られず壁にぶつかることもあるが、核廃絶の思いが揺らい
だことはない」。国連への署名が計200万筆を超えたと報告し、核廃絶
をアピールする女子高校生の明朗な声に心打たれた。
 参加者が8000人とアナウンスされたが、大半が中高年層なのがやや
残念だった。
 午後3時から原宿、渋谷と二手に分かれてデモ行進がスタート。
はたや横断幕を手にし、シュプレヒコールを続ける整然とした長蛇の列
を、陸橋から写真に撮り、少々疲れたので隊列には申し訳なく思いつつ
帰途に就いた。
 やはり参加してよかった。これまでも後で、「行かなくてもよかった
か」と思ったことは一度もない。
 あの場では直接情報に加え、同志たちと「地球愛」を共有することが
できるから。
 翌日には本紙記事を「そうそう、こうでした」と意を強くしながら
切り抜いた。 (9月19日東京新聞朝刊5面「発言・ミラー」より)


〔230〕きな臭さが漂う今『野火』(大岡昇平)と『日本軍兵士』(吉田裕)の併読を勧めます。

2019年09月19日 | 図書案内
 春に開くはずだった『野火』(大岡昇平)の読書会が先頃実現しました。Kさんの体調が回復してきたからです。中年も2人加えて6人の読書会になりました。3時間にわたっての熱いトークでKさんはどんどん元気になっていきました。終了間際にKさんから「次は何を読みましょうか。」のことばをいただきました。私が本の選考を任されました。責任重大です。

 読書会のためにいつものようにネットで『野火』を調べてみることにしました。「100分de名著」NHKは2017年8月放送でしたか。


■『野火』(ウィキペディアより)
●概要[編集]
 題名の「野火」とは、春の初めに野原の枯れ草を焼く火のことである。この作品にはカニバリズムが出てくるが、大岡はエドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』が、この作品が全体のワクになっていると書いている。
 丸谷才一は『文章読本』(中央公論社、1977年)において、修辞技法の個々の技法を説明する際、例文を全て本作品とシェイクスピアの諸作品に拠った。
 1959年に市川崑、2015年に塚本晋也がそれぞれ映画化している。

●あらすじ[編集]
 太平洋戦争末期、日本の劣勢が固まりつつある中での、フィリピン戦線でのレイテ島が舞台である。 主人公の田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否される。現地のフィリピン人は既に日本軍を抗戦相手と見なしていた。この状況下、米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、全ての他者から排せられた田村は、熱帯の山野へと飢えの迷走を始める。 律しがたい生への執着と絶対的な孤独の中で、田村にはかつて棄てた神への関心が再び芽生える。しかし彼が目の当たりにする、自己の孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友達という現実は、ことごとく彼の望みを絶ち切る。 ついに、「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じることに追い込まれた田村は、狂人と化していく。

■「100分de名著」NHK 2017年8月放送
 大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品です。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けています。世界各地で頻発するテロ、終わりのない地域紛争、緊迫する国際関係……現代という時代にも、「戦争」は暗い影を落とし続けています。作家の島田雅彦さんは、戦後70年以上を経て、実際に戦争を体験した世代が少なくなっている今こそ、この作品を通して、「戦争のリアル」を追体験しなければならないといいます。
 舞台は太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の劣勢が確実になる中、主人公・田村一等兵は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足のために入院を拒否されます。米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、田村は熱帯ジャングルの中をあてどなくさ迷い続けます。絶望的な状況の中で、かつて棄てた神へ信仰が再び芽生えはじめる田村。しかし、絶対的な孤独、発作的な殺人、人肉食への欲望、そして同胞を狩って生き延びようとする戦友たちという現実は、過酷な運命へと田村を追い込んでいくのです。

 この小説は単に戦場の過酷な状況を描いているだけではありません。絶望的な状況に置かれながらも、その状況を見極めようとする「醒めた目」で冷徹に描かれた状況からは、「エゴイズム」「自由」「殺人」「人肉食」といった実存的なテーマが浮かび上がってきます。また、極限に追い込まれた主人公の体験から、人間にとって「宗教とは何か」「倫理とは何か」「戦争とは何か」といった根源的な問いが照らし出されていきます。島田雅彦さんは、その意味でこの小説は、ダンテ「神曲」における「地獄めぐり」とも比すべき深みをもっているといいます。
 番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解きます。そして、終戦記念日を迎える8月、あらためて「人間にとって戦争とは何か」という普遍的な問題を深く考えていくきっかけとしたい


 さすが『野火』は多くのネット検索に引っかかってきます。そのなかで、発信元はわからないのですが、以下のようなサイトがありました。きっと名のある方でしょう。思考の掘り下げが尋常ではないのです。「大岡自身の戦争体験と創作」は数項目にわたっていました。興味ある方はアクセスしてみてください。


■大岡自身の戦争体験と創作1(あるサイトより)
 大岡昇平の諸作品において、過去の経験を主題とした作品は、大きく三つの系列に分類することができる。
1.幼少年期を題材とした作品系列…『幼年』、『少年』、『父』、『母』
2.青年期を左右した詩人たちの作品系列…『中原中也』、『富永太郎』
3.中年補充兵としての戦地体験に基づく作品系列…『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』
 これら三つの作品群は、相互にさまざまな形でリンクし合っている。例えば、『俘虜記』『野火』に見られる神の観念は、『少年』でのキリスト教体験を抜きに語れないものであり、また野火のイメージと『幼年』の煙突のイメージは切り離すことができないものである。 逆に、戦争体験が他作品に与えた影響としては、衰弱者としての富永太郎を描く際に、比島を彷徨し飢餓に苦しみ、マラリヤに倒れた経験が、どれだけ富永への接近を可能にしたであろうか。また、上記のような直接的影響のみならず、兵士として要求された、時々刻々の事実を見定める能力や、視点の正確さは、復員後の執筆活動の中核をなすものである。巨視的でありながら同時に微視的でもある、大岡の筆法傾向は、戦争というとてつもなく大きな歴史事件の中にあった一人の兵士としての体験によって、培われたものであると言えるだろう。また、『武蔵野夫人』の「勉」を「復員者と形容して、その健康快復の物語を書く」と、大岡自身が述べていることからも、大岡=「勉」ではないにしろ、戦争が残した痕跡の大きさが窺える。
 これらのことから、大岡自身の戦争体験を考察することが、大岡文学の研究において、非常に重要な手がかりになると思われる。大まかな全容について、年次を追って以下に記す。
  昭和十九年三月、暗号手の特殊教育を受け、六月には東部第三部隊で輸送大隊に組織、マニラに向かう。到着後第百五師団大藪大隊に配属、ミンドロ島警備を命ぜられる。大隊所在地バタンガスで西矢隊に配属。
 昭和二十年一月、南方からの追撃砲撃を受け、脱出組に追随しようとしたが、マラリアで発熱のため及ばず、昏倒中のところを米軍に発見されて俘虜となった。レイテ基地俘虜病院にて二ヶ月の静養を取った後、タナウアンの一般収容所、次いでパロの新収容所で俘虜生活を送った。敗戦の報はパロで聞いている。十一月「信濃丸」で出港、十二月には復員している。


 さて読書会ですが、参加者それぞれ様々な視点から読後感想が話されました。人それぞれ受け取り方は千差万別で共感することが多々ありました。
 私の感想は、『野火』は素晴らしい戦争文学で、その極限状態を克明に描ききっています。しかし戦争はもちろんもっと過酷に違いありません。戦争を知ることは並大抵ではないと思うのです。
 そこで、『日本軍兵士』(吉田裕)を併読することを出席者に勧めたのです。実体験を下敷きにしたフィクションの『野火』と戦争を客観的に捉えた『日本軍兵士』です。ミクロとマクロでしょうか。
 『日本軍兵士』を紹介します。


■『日本軍兵士』吉田裕、中公新書、2017年
〔ソデ〕310万人に及ぶ犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高率の餓死、30万人を超えた海没死、戦場での自殺・「処置」、特攻、劣悪化していく補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験をせざるを得なかった現実を描く。
●吉田裕著『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』が、第12回新書大賞を受賞しました。
 本書は、兵士の目線・立ち位置から、過酷さを増した1944年以降の戦争の実態を描いた作品です。戦闘で斃れたと思われがちな兵士たちが、実際には餓死や海没死などの亡くなり方も多かったこと、歯や軍服、軍靴の劣化、過重な装備で悩まされたことなど、兵士たちの現実を描いています。
 発売以来、朝日・毎日・読売・日経・産経のほか地方紙などにも書評や紹介が掲載されて多くの反響がありました。また、第30回アジア・太平洋賞特別賞を受賞し、学術面での高い評価も得ています。


  本文からその骨子を抜き書きしました。いかに無謀な戦争だったのか、是非本文を読むことをお勧めします。


〔内容点描〕
・第1期 開戦(1941年12月8日)~1942年5月 日本軍の戦略的攻勢期
・第2期 1942年6月~1943年2月 戦略的対峙の時期
・第3期 1943年3月~1944年7月 戦略的守勢期
・第4期 1944年8月~敗戦(1945年8月) 絶望的抗戦期

*アジア・太平洋戦争の死者
・日本人 軍人・軍属230万人(朝鮮人、台湾人5万人) 外地一般邦人30万人 国内50万人 合計約310万人
・米軍 9万2000~10万人、ソビエト連邦 2万2694人 、英軍 2万9968人、オランダ軍 2万7600人
・中国軍 中国民衆 1000万人以上、朝鮮20万人、フィリピン111万人、台湾3万人、マレーシア・シンガポール10万人、その他、ベトナム、インドネシアなど総計で1900万人以上
・1944年以降の戦没者91%
・異質な軍事思想…短期決戦、速戦即決、作戦至上主義、極端な精神主義、「肉薄攻撃」、「特攻」
・日本軍の根本的欠陥…「統帥権の独立」、ミッドウェー島攻略は天皇が指示、「皇軍」、「軍人精神注入棒」


 そしてもう1冊、『沈黙の子どもたち-軍はなぜ市民を大量殺害したのか』もいいですよ。知らない「事実」に遭遇しますよ。


■『沈黙の子どもたち-軍はなぜ市民を大量殺害したのか』山崎雅弘、晶文社、294頁、2019/6
〔扉〕
アウシュヴィッツ、南京、ゲルニカ、沖縄、広島・長崎…。軍による市民の大量殺害はなぜ起きたのか。戦争や紛争による市民の犠牲者をなくすことはできるのか。様々な資料と現地取材をもとに、市民の大量殺害を引き起こす軍事組織の「内在的論理」を明らかにし、悲劇の原因と構造を読み解くノンフィクション。未来を戦争に奪われる子どもたちをこれ以上生み出さないために、いまわたしたちにできること。


 さらに、以下の戦争体験手記を読みました。自費出版本です。戦争体験を風化させてはいけないですね。
前者は伯母の友人が淡々と書いた九死に一生した手記、後者は義父と同郷の友人から送られたもので戦争を批判的に凝視しています。伯母も義父も亡くなって久しいです。

■『地獄からの生還-ガダルカナル戦 かく生き抜く』櫻井甚作、豆の木工房 1993年
■『ある特務機関員の手記-日中戦争を風化させない』高田一郎、東銀座出版社2006年

〔229〕清瀬市議会は与野党逆転して「東海第二原発の運転延長の反対を求める請願」が採択されました。

2019年09月11日 | 市民運動
 2019年9月10日(火)、清瀬市議会総務文教特別委員会が午前10時に開催されました。
 私は「東海第二原発の運転延長の反対を求める請願」の趣旨説明をするために数人の仲間と会議室に入りました。30人ぐらいの傍聴席はほぼ埋まっていたでしょうか。
  最初に議案が1つあり、そのあとすぐに請願1件、陳情2件の討議が始まりました。
 まずは私の提出した請願についてでした。実はこの「東海第二原発の運転延長の反対を求める請願」、内容は異なりますが全く同じタイトルで1年前にこの議会に提出されているのです。会の仲間の溜口郁子さんからのものです。このときは残念ながら不採択でした。(ブログ〔194〕参照)

 そして今回。結論から言いましょう。委員の賛否が3対3の同数になり、委員長が賛成票を投じ採択されました。まさに1年前のリベンジということです。江戸の仇を…という感じでしょうか。私達の会は4年間で20件近くの請願を出したでしょうか。ことごとく数の壁に跳ね返されてきたのです。まさに溜飲が下がるとはこのことです。

4月の市議会選挙で共産党が4人から5人、立憲民主党系が2人から3人に増えたことにより議員構成(20人)が以下のように大きく変わったのです。
 清瀬自民クラブ5人(うち議長1人)、日本共産党5人、公明党4人、風・立憲・ネット4人、無所属の会1人、共に生きる1人
 一概には言えませんが、私は、どちらかというと「無所属の会」は保守系、「共に生きる」は革新系とみています。

6月の議会では、今までは可決できなかったような意見書が採択されています。
・国内法の米軍適用などに米地位協定の見直しを求める意見書
・10月からの消費税増税中止を求める意見書
・辺野古新基地建設の即時中止と普天間基地の沖縄県外・国内移転について、国民的議論により、民主主義及び憲法に基づき公正に解決するべきとする意見書

 というわけで、これからも与野党逆転の清瀬市議会から目が離せませんね。

 さて、最後に「東海第二原発の運転延長の反対を求める請願」に触れましょう。9月26日(木)の本会議では採択が期待されます。よかったら傍聴してください。いずれにしても楽しみに待つことにしましょう。

■東海第二原発の運転延長の反対を求める請願

                         紹介議員  ふせ由女      

〔請願の趣旨〕
老朽化した東海第二原発の運転期間の延長をさせないことを国に求めます。

〔請願の理由〕
一昨年11月に日本原子力発電株式会社は、東海第二原発(茨城県那珂郡東海村)の運転期間の20年延長を原子力規制委員会に申請しました。東海第二原発は今年で運転開始から40年を迎えています。
 東海第二原発の圧力機器は40年使用を前提に作られており、延長されれば60年という長期にわたるものとなり、想定していない問題が生じる可能性があります。さらに、8年間にわたり停止していた原発を再稼働させることは、その機器にどのような不具合が生じるか予想もつきません。
 7年間の停止期間の後に再稼働した玄海原発3号機の蒸気漏れ事故発生時、瓜生九電社長は「6~7年止めているので何があるかわからない」と本音を述べています。それを裏付けるかのように原子力規制委員会は2018年5月23日、東海第二原発を含む7原発12基で腐食や穴が見つかったと公表しています。
 東海第二原発は、2011 年の東日本大震災及びそれに伴う津波で冷却機能の一部を失い、放射能漏れ寸前の状態となりました。
 福島第一原発事故以降、住民の避難計画が30キロ圏に拡大されました。
 東海第二原発の場合、30キロ圏内に96万人が住んでおり、実際に避難計画が策定できるのか、困難を極めることが予想されます。また、現実に事故が起きれば首都圏の 3000万人にも被害が及ぶことは必至であり、避難計画を策定することも必要となります。
放射能から子どもを守る会・清瀬は2011年の福島原発事故以来、毎年清瀬市内の公園や児童遊園などの放射線量を測定し続けてきました。今年は145カ所を計測しました。自然放射線量は一般的に 約0.03マイクロシーベルト/1時間 と言われているところ、今年調査した場所で 0.08マイクロシーベルト/1時間 を越えたところが22カ所ありました。このことは福島原発事故の影響が続いていることを示しています。

 このような状況を踏まえて、問題の多い東海第二原発の運転延長を行わないよう、国に働きかけることを強く要請するものであります。
 
                                  2019年8月21日

  清瀬市議会議長
  渋谷けいし様

                  清瀬・憲法九条を守る会 
                   福田三津夫


  簡単に請願趣旨について説明しておきます。
 このような請願を提出した理由は2つあります。1つは、2011年福島原発事故は現在進行形だということ、もう1つは、東海第二原発がどうしようもなくボロボロだということです。
 安倍首相がオリンピック誘致で語った「フクシマはアンダー・コントロール」は嘘っぱちです。未だ数万人が福島に戻れていません。小児甲状腺癌の問題、汚染水が2022年にタンクで満杯になるということ、ようやくデブリのとりだしが40年かければできるといいますが、万が一取り出せても、果たして10万年安全に保管できる場所があるのか、等々、問題が山積しています。
 清瀬の市民団体が毎年放射能の測定を行っていますが、今年は市内145箇所の内22箇所が0.08マクロシーベルト(毎時)を越えています。この数値は現在の福島の郡山市の線量と同じです。ちなみに自然放射能線量は0.03マクロシーベルト(毎時)です。
 東海第二原発がボロボロだということは請願文に触れているので、そちらを読んでください。

 私が調べたところ、東海第二原発再稼働反対の陳情・請願・意見書が採択されたところは今のところ63自治体です。清瀬が64番目になろうとしています。

〔228〕今は、亀山城跡保存会事務局長の矢部顕さんはユニークな夏祭りの仕掛け人でした。

2019年09月11日 | メール・便り・ミニコミ
 たびたびブログに登場していただいている矢部顕さんは元ラボ教育センターの事務局にいらした方です。言語教育総合研究所の事務局長を務められ、私が最もお世話になった一人です。退職後は普段は岡山で農業に従事していますが、求められて地域の小中学生や高大生まで「授業」されています。さらにラボ・テューターやお母さん方を対象に講演されることも多いようです。
 その矢部さんから楽しげで子どもたちの表情が思い浮かぶような手紙が届きました。「元気のお裾分け」で、皆さんにも読んでいただきましょう。


●矢部顕さんの手紙

福田三津夫様
 今年も酷暑の夏でした。お元気でお過ごしでしたでしょうか。
昼夜の温度差があることが良い葡萄を実らせることになるのですが、夜の温度が低くならないので、私の栽培しているピオーネという品種の色づきがとても悪くて困っています。
 以下は近況報告です。
 8月の最後の土曜日、我が学区のお祭りがありました。小学校でやる学区の夏祭りです。
 PTAや各種団体のテントのお店では、綿菓子、タコ焼き、かき氷、光るおもちゃ、などなどのお店がでるのは、どこも同じようなものです。
 まぁ、どこでもやっている学区単位のお祭りなんですが、他とちょっと違ったところがあります。
 亀山城(我が家の裏山は、戦国時代の岡山城の前身の亀山城跡で、近くの小学校は西の丸にあります)のおひざ元ですので、亀山城や城主・宇喜多直家や息子の秀家に関する歴史イベントが多いのです。(宇喜多秀家は豊臣秀吉の五大老のひとり。関ヶ原の戦いで西軍の副大将。敗れて徳川によっては八丈島に流刑となりました)
 例えば下記のようなものがあります。
① 秀家とその妻の豪姫が登場します。ちゃんとした衣装を着るのです。(新聞記事の写真でわかりますか?)これに扮するのは浮田小学校を昨年、一昨年に卒業した中学生なのです。
② 宇喜多家関連遺跡巡りと称した写真パネル展(砥石城や天神山城など当時の近くの城跡や八丈島の住居跡も)で50枚以上の貴重な写真を小学校の教室にパネルを設置して展示します。
③ それを見て説明文をよく読むと答がわかる歴史クイズをします。その答案用紙を私が採点してOKであれば、景品があたる抽選券がもらえます。200人以上が答案用紙を提出してくれました。
④ プログラムが盛り上がってきた頃の時間に、祭りに来ている小学生全員参加による亀山城歴史クイズをやります。その問題を考え、舞台上(大型トラックの荷台)から出題するのは6年生なのです。(亀山城跡保存会浮田小子どもクラブの5人の役員なのです)
⑤これに参加した子どもたちには、宇喜多直家・秀家の名前入りの鉛筆やお福餅(直家の奥さんのお福さんが戦場に出かける直家に持たしたといわれるお餅)がもらえるのです。(優勝者はトロフィー)
 まぁ、こんなふうで、けっこう子どもが中心で、かつ郷土の歴史をメインに据えた夏祭りです。6年生の子どもたち=亀山城跡保存会浮田小子どもクラブの役員が活躍しているのですが、この子たちを指導(?)しているのが、なんと亀山城跡保存会事務局長の私なのです。
 テントの出店では「国盗り物語」という大げさな名前がついていますが、射的をやっています。キャラメルなどのお菓子の箱にお城の絵が貼ってあって、それを狙って鉄砲で撃つのです。とても人気があって順番待ちの大行列となります。
 福田さんには、小学校での小生のいくつかの支援授業のことはお知らせしていましたが、亀山城跡保存会なるものの役をやっていることや、その活動についてはお話したことはありませんでしたっけ?
 先日の 新聞記事を添付します。
 季節の変わり目ですのでお身体ご自愛くださいませ。         矢部 顕


 このときのことを新聞が取り上げていました。こちらもどうぞ!




はてさて、そうこうしているうちに、矢部さんから以下の補足のメールが届きました。ご覧ください。

●矢部顕さんの手紙

【後日談】
福田三津夫様
 先に、我が学区の夏祭りの内容と新聞記事を添付してお送りしました。 それを福田さんのブログで取り上げていただきました。新聞記事の写真には宇喜多秀家とその妻・豪姫の衣装をつけた中学生が写っていましたでしょう。
 その後日談です。
 岡山発展の基礎を築いた秀家は、また若くして豊臣秀吉の五大老のひとりでした。秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い敗北し、徳川によって八丈島に流罪となりました。八丈島流人第1号でした。
 島での生活は50年にも及び84歳(1655年)で亡くなりました。当時の武将でこんなに長生きした人はいないでしょう。 息子たちやその末裔は島で暮らし続け、赦免の沙汰を待ちましたが、それが実現したのは、なんと徳川が滅んで明治になってからでした。このような例は宇喜多一族以外にはありません。妻の豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀の前田家に戻りました。その前田家は食料や医薬品を明治になるまで島に送り続けました。これもまた日本の歴史上、特異な例でありましょう。
 その宇喜多秀家終焉の地・八丈島の住居跡に秀家が手づから植えたとされる蘇鉄が今もあり、その株分けしたソテツが360余年の時空を超えて秀家生誕の地・亀山城(我が家の裏山)に運ばれ移植することになりました。 八丈島に秀家を顕彰する会があって、そこのみなさんが交流の証として蘇鉄を贈ってくださるのです。
 八丈島からも8人の方が亀山城跡までおいでになって、移植の植樹祭が10月14日に行われます。夏祭りで活躍した亀山城跡保存会浮田子どもクラブの役員の子たちは、今度は植樹祭で岡山市長とともに金色のスコップをもちます。
  亀山城跡保存会 事務局長 矢部 顕

 そしてさらに後日談の後日談です。前半は重複、後半が書き足されています。

【後日談の後日談】*一部重複、
 岡山発展の基礎を築いた秀家は、また若くして豊臣秀吉の五大老のひとりでした。秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い敗北し、徳川によって八丈島に流罪となりました。八丈島流人第1号でした。
 島での生活は50年にも及び84歳(1655年)で亡くなりました。当時の武将でこんなに長生きした人はいないでしょう。 息子たちやその末裔は島で暮らし続け、赦免の沙汰を待ちましたが、それが実現したのは、なんと徳川が滅んで明治になってからでした。このような例は宇喜多一族以外にはありません。
 妻の豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀の前田家に戻りました。その前田家は食料や医薬品を明治になるまで島に送り続けました。これもまた日本の歴史上、特異な例でありましょう。
 その宇喜多秀家終焉の地・八丈島の住居跡に秀家が手づから植えたとされる蘇鉄が今もあり、その株分けしたソテツが360余年の時空を超えて秀家生誕の地・亀山城(我が家の裏山)に運ばれ移植することになりました。 八丈島に秀家を顕彰する会があって、そこのみなさんが交流の証として蘇鉄を贈ってくださったのです。
 八丈島からも8人の方が亀山城跡までおいでになって、移植の植樹式が10月14日に行われました。夏祭りで活躍した亀山城跡保存会浮田子どもクラブの役員の子たちは、今度は植樹式で岡山市長とともに金色のスコップをもって土かけを行いました。



【さらに後日談の後日談】



〔227〕いよいよ、福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」(11.23~12.7)が始まります! 

2019年09月08日 | 美術鑑賞
 連れ合いの福田緑は今日までに3冊のリーメンシュナイダーの写真集を出版してきましたが、この度、おそらく日本で初めてであろうリーメンシュナイダーの写真展を開くことになりました。その経過や内容に触れた緑の挨拶文がありますので読んでいただければ幸いです。


【ご挨拶】
                                 2019年9月5日記

 「啓」を長年読んできてくださった皆さま、ご無沙汰しています。
「啓」100号終刊号を発送してから既に5か月が経過しました。この暑い夏、皆さま如何お過ごしでしたか。「超」が付くほどの大型台風が来たり、激しい雨が降ったり、猛暑が続いたり。こんな夏の被害を受けた方には、心よりお見舞い申しあげます。

 私たちは第16回目のドイツの旅(7月16日出発、8月14日帰国)を終え、幸い大型台風10号が東日本に来る前に成田に着くことができました。
 今回の旅の目的は、シルヴィアとクラウスとの結婚式に出席することでした。彼女とは23年目のお付き合いになります。三津夫と2人でシルヴィアの新たなスタートに立ち会えたのは幸せなことでした。この日は大変暑かったので着付けをするだけで大汗をかきましたが、何とか着物姿でドイツでの結婚式に参加できたのは私の大切な思い出となりました。

 そしてもちろん、ドイツ中世の彫刻もたくさん見て回りました。
 今年はフランクフルトのリービークハウス中世彫刻担当、シュテファン・ロラーさんに初めてお目にかかることができ、ニコラウス・ゲルハルト・フォン・ライデンの分厚いカタログをいただきました。思いがけないプレゼントに三津夫は毎日のようにカタログを見て、旅の後半に訪れるネルトリンゲンやストラスブールの資料を読み込んでいました。
 ミュンヘンのバイエルン国立博物館、マティアス・ヴェニガーさんとは旅行中に3回もお目にかかりました。一度はヴェニガーさんの住んでいるフライジングを案内していただき、ご家族との交流も深められましたし、一度は国立博物館内の図書室に入ってお話をしました。その際、大きな本棚の中に私の本を2冊見ることができました。そこで、「抜けている続編を日本に帰ったら送りますね」と伝えると、ヴェニガーさんは三津夫が買いたいと言って探していたエラスムス・グラッサーのカタログ(407頁もあるのでした)を私の本と交換に贈呈してくださったのです。しかも、持って帰るのは重たいだろうからと、日本に送ってくださるという嬉しいご配慮をいただきました。
 このグラッサーという彫刻家の作品を今年初めてミュンヘン市立美術館で見ましたが、大変動きが豊かでおもしろく、今後は彼の作品も旅のリストに加わること必至です。下に一例を挙げておきます。Moriskenという言葉の意味が辞書に出ていないのでよくわかりませんが、大道芸人が踊るようなイメージではあります。もし意味をご存じの方がいらしたら教えてください。Schneiderは仕立屋のことだそうです。

 そして今回、旅の途中で、とうとう4冊目の写真集を作ることを決意しました。グラッサーのようなおもしろい作品の写真も含め、リーメンシュナイダーと同時代の作家たちの写真がずいぶん溜まってしまったのです。「もう1冊写真集をまとめたら、もうそれで終わりにしよう」という三津夫の最後の一押しに負けました。この4冊目の写真集が出来上がった暁には、もう一度ぐらいお便りさせていただきます。ご迷惑かもしれませんが、どうぞお許しください。

 ただ、旅行では楽しい思い出がたくさんできた一方、ドイツで垣間見た「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展・その後』」の展示中止、さらに韓国に対する日本政府の非常識な対応についてのニュースには胸が痛みました。帰国してからの香港の若者たちの必死の意思表示に対する中国政府の動きのニュースにも心が凍る思いがします。児童虐待、若者の自殺やあおり運転、京アニの放火事件、水害などなど、気持ちが暗くなるニュースが目白押しのこの頃。私たちにできることは何なのかと自問する毎日です。

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 このような日常の中ではありますが、写真展への準備も少しずつ進めています。おそらく日本で初めてのリーメンシュナイダーを紹介する写真展となるのではないかと自負していますが、旅行前に作っていったチラシが届いていますので、「啓」の元読者の皆さまには数枚ずつ送らせていただきたいと思います。もしお近くにおいでになる機会がありましたらお立ち寄りくださると嬉しいです。余部はリーメンシュナイダーに興味がある方がいらしたらお手渡しいただければ幸いです。また、お近くの図書館などに購入希望を出していただくときにご利用いただければとも思います。
 このチラシにあるように、ギャラリートークには元NHK職員の永田浩三さん(現武蔵大学教授)と、棚田康司さんという若手の彫刻家をゲストにお招きしています。永田さんはリーメンシュナイダーについて名前は聞いたことがあったそうですが、今回写真集をご覧いただき、大変興味をお持ちになりました。ギャラリー古藤さんの毎月1回程度の打ち合わせにも参加していろいろアドヴァイスをくださっています。棚田さんはドイツに7か月滞在したことがあり、小野寛子氏(練馬区立美術館学芸員)に「バルラハの影響を受けているか」と聞かれ、「影響を受けたとするとバルラハよりリーメンシュナイダーだ」と答えたことが紹介されていた雑誌*を目にしたので、是非お話を伺いたいと思い、メールをお送りしたのでした。するとお目にかかったこともない私とのギャラリートークを快く引き受けてくださったのです。そして3回目の締めくくりのギャラリートークは夫、福田三津夫と旅のあれこれや、リーメンシュナイダーだけではなく、日本でほとんど紹介されていない中世ドイツの彫刻についてお話ししたいと思っています。
*「私の美術漫歩」若林覚(著)、生活の友社 2018年8月20日

 ここまで書いたところで、本日2019年9月5日、朝日新聞朝刊に第22回自費出版文化賞特別賞として『祈りの彫刻 リーメンシュナイダー3部作』が入賞という記事が載りました。丸善プラネットの白石好男さんがお祝いメールを送ってくださって知ったのですが、三津夫は朝刊を読んでいてあと少しでその頁にたどり着くところだったのに先を越されたと悔しがっていました。私は、せめて入選すれば良いと思っていましたし、三津夫は今回も入選どまりだろうと思っていたとのことで2人でびっくり、喜び合いました。
 
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。皆さまの今後のご健康と、平和な生活を祈っています。 福田 緑     

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 会期中、緑は全日程、私もなるべく会場に足を運びたいと思います。いらしていただいて、お話ができれば嬉しいです。 福田 三津夫
                               
 
 次は写真展のチラシ案内です。不鮮明な箇所はご容赦ください。







〔226〕新刊『レッジョ・エミリアと対話しながら』(カルラ・リナルデイ著、里見実訳)は、じっくり対話しながら読みます。

2019年09月07日 | 図書案内
 『レッジョ・エミリアと対話しながら-知の紡ぎ手たちの町と学校』という実に読みごたえのある大冊が送られてきたのはドイツから帰国した8月半ばのことでした。訳者の里見実さんからでです。表紙はレッジョ・エミリア市のディアーナ校の壁面を飾っている鮮やかなパネルの一部です。
 まずはどのような本なのか、ミネルヴァ書房のHPを覗いてみましょう。

●『レッジョ・エミリアと対話しながら-知の紡ぎ手たちの町と学校』カルラ・リナルデイ著、里見実訳、ミネルヴァ書房364頁、2019年9月

〔オビ〕
世界を魅了し続けるレッジョの幼児教育の本質とは!
レッジョの教育理念を伝え、世界の多くの言語に翻訳されている名著。待望の邦訳、ついに刊行。
〔トビラ〕
世界各地の幼児教育に影響を与え、私たちの心を捉え続けているレッジョ・エミリア。なぜ人はレッジョの幼児教育に魅了されるのか。本書は、レッジョ・チルドレンの代表として、またペダゴジスタとして、長年にわたってこの町の教育実践を支え続けてきたカルラ・リナルディの折々の語りを、時間を追って編集した講演と座談の記録。レッジョの幼児教育の根底に流れるモチーフとは何なのか、その真髄を伝える証言である。

[原著]
Rinaldi, C(.2006).In Dialogue with Reggio Emilia, Routledge(英語版)
Rinaldi, C(.2009).In dialogo con Reggio Emilia, Reggio Children(イタリア語版)

[目次]
はじめに――レッジョ・エミリアと対話しながら
訳者はしがき
訳語について
凡例

序章 われらにとってのレッジョ・エミリア(グニラ・ダールベリピーター・モス)
第1章 子どもたちの傍らで―現場で形づくられる教師たちの知
第2章 コミュニケーションとしての参加
第3章 保育園に学習プログラムは必要か?
第4章 教職者の資質更新
第5章 マラグッツィと教師たち
第6章 ドキュメンテーションと評価――この両者の間にはどのような関係があるのか?
第7章 対話を重ねて
第8章 子ども期の空間的環境
第9章 教育に今問われているもの
第10章 ドキュメンテーションと探求の文化
第11章 乳幼児保育園と幼児学校の連続性
第12章 創造性――思考の質として
第13章 探求者としての教師――学校のなかで人が育つということ
第14章 境界を越える――ローリス・マラグッツィとレッジョ・エミリアの教育の歩みを振り返る
第15章 共に食卓を囲むひとときから――学校の文化が生まれる
第16章 現代都市における教育とグローバリゼーション
第17章 教育におけるシティズンシップの訓練
補章1 教育的プロジェクトの構築――ガンディーニとカミンスキーによるインタビュー
補章2 組織と方法と――ボルギとの対談:レッジョの歩みを語る
補章3 カルラ・リナルディとの対話のなかで――ダールベリモスとの鼎談

おわりに
訳者あとがき
引用・参考文献


 里見さんは、私の師匠の1人である村田栄一さんの著書にたびたび登場されていて、新卒時からこちらが一方的に慕い尊敬していた方です。お二人の往復書簡を本にした『もう一つの学校に向けて』(筑摩書房、1986年)などはすぐに手に取れる書棚に今もあります。
 1998年に埼玉・自由の森学園を主会場に開かれたフレネ教育者国際会議(リーデフ98)の実行委員長は村田さんで、実行委員会は渋谷の國學院大學の里見研究室で開かれました。里見さんは雑誌『ひと』(太郎次郎社)の編集代表をされていたときがあって、光栄にもある喫茶店で私に原稿依頼してくれたこともありました。(拙著『いちねんせい-ドラマの教室』晩成書房、2005年、所収)

 『レッジョ・エミリアと対話しながら』に話を戻しましょう。
 読み進めるにしたがってすぐに、これはとんでもない労作だということに気づきました。著者のカルラ・リナルディはイタリアの方ですが、なぜか英語版が先に出版され、イタリア語版はその三年後に出版されるのです。そして両者は微妙に内容が異なっているというのです。訳者の里見さんはその両方を融合した形で翻訳を成し遂げました。だからこれだけの大部な本になったというのです。英語とイタリア語を縦横無尽に駆使するというのはすごいことです。さらにびっくりさせられるのは、同じ原語でも文脈に合わせて訳語を変えているというのです。どれだけの苦労を重ねられたことでしょう。
 こうして世界で唯一の『レッジョ・エミリアと対話しながら』が完成したわけです。
 この訳書は著者の執筆原稿、講演記録、対談、鼎談などが時系列的に並べられているので、頭からかじっていっても良いのですが、私は自分の興味関心に沿って読み進めることにしました。
 ローリス・マラグッツィ(村田さんもセレスタン・フレネもそうですが、元は小学校教師だったというのが興味深いことです)はレッジョの幼児教育の骨格を形作った思想家であり実践者ですが、どのような人となりだったのか、それが分かる章を拾って読んでいきました。さらに、ローリス・マラグッツィや著者が影響を受けた教育思想や教育運動はなんだったのか、それらについても、注意深く読み進めると興味深い事実が発見できました。

 さてここでもう1冊本を紹介しておきます。日本でレッジョの幼児教育に最も早くから注目して、研究していた一人、田辺敬子さんの『田辺敬子の仕事 教育の主役は子どもたち』です。レッジョの幼児教育の記録『子どもたちの100の言葉』の日本における最初の紹介者です。
  『田辺敬子の仕事 教育の主役は子どもたち』を再読して、『レッジョ・エミリアと対話しながら』の重みがさらに加わりました。

■『田辺敬子の仕事 教育の主役は子どもたち』副題=イタリアの教育研究から見えたもの、田辺厚子・青栁啓子編、社会評論社、303頁、2014年

子どもたちから学ぶローディの授業に参加して、協同と自由の価値の実現をめざすその教育運動の実践と思想を学び、自己の教育理論を形成した。教育の国家による統制が進行している今日の日本において、「田辺敬子の仕事」は、この閉塞した時代の明日を切り開く道標となるであろう。
【目次】
 はじめに  青栁啓子 

第Ⅰ部 田辺敬子を偲んで

詩「でも、一〇〇はある」 ローリス・マラグッツィ 
『子どもたちの一〇〇の言葉』から見た  レッジョ・エミリアの幼児教育について 辻 昌宏
イタリア教育研究者の立場から見た田辺敬子の業績について 早田 由美子 
ケイコとの想い出 マリオ・ローディ 
マリオ・ローディ『わたしたちの小さな世界の問題』の衝撃―反ランキングの思想と演劇教育的な展開 福田 三津夫 
田辺敬子氏とA&B 出田 恵子 
田辺先生の思い出と教え 佐藤 朝代 
ジェンダーに関する田辺敬子の業績について―田辺先生との不思議なご縁 牛島 光恵 
辺先生が示した道 青栁 啓子 

第Ⅱ部 田辺敬子論文集

1―レッジョ・エミリアの保育
子どもの楽園を見つけた―レッジョ・エミリア市の幼児教育 
 レッジョ・エミリア市の保育―レッジョ セミナーに参加して 

2―ローディの方法
 マリオ・ローディの一日――その教育実践の神秘 
 サルデーニャヘの旅――MCEの教師たちを訪ねて 

3―人権と教育
 ドン・ミラーニの業績と社会背景――『イタリアの学校変革論』訳者解説 
 イタリアの人権教育 

4―教育と政治
 イタリア労働者の学習権と文化の民主的管理 
 イタリア初等教育教科書と対抗文化運動 
 イタリアの教育と教育学研究―インテグレーションの現在 

 あとがき 田辺 厚子 
 田辺敬子 年譜 


 田辺敬子さんに会ったのは1度だけです。「演劇と教育」の編集代表をしているときに、「実践記録を読む」という特集をしました。(1993年6月号)座談会にマリオ・ローディ『わたしたちの小さな世界の問題』の訳者の田辺さんを推薦したのが演出家で日大芸術学部教授の高山図南雄さんでした。私はすでにその本の書評も書いていて素晴らしい実践記録だと思っていたので大賛成でした。もう一人の出席者は副島功さんです。
 2011年に田辺さんが亡くなられて追悼のための本が作られることになりました。彼女をよく知る人々による追悼文と遺稿集の合本です。私も執筆者に加えていただきました。
 この本が貴重で、私が嬉しく思ったのは「田辺敬子論文集」が充実していることです。田辺さんは『イタリアの学校変革論』や『わたしたちの小さな世界の問題』など確実に後世に残る翻訳をされていますが、彼女の論考をまとめて読むことは今までできませんでした。
 今回『レッジョ・エミリアと対話しながら』をいただいて、『田辺敬子の仕事 教育の主役は子どもたち』の「レッジョ・エミリアの保育」を丁寧に読むことができました。
 1994年にマラグッツィが亡くなって三年後の1997年に「レッジョ セミナー」に参加していて、カルラ・リナルデイの話を3回も聞いていたのです。

 田辺さんは「レッジョ・エミリアの保育」はフレネ教育から影響を受け、改良を加えたイタリアのローディなどの教育協同運動が源流にあることを強調して書いています。リナルディの本の中では、デューイ、ピアジェ、ヴィゴツキー、モンテッソーリ、ブルーナー、そしてもちろんフレネなどの名前が挙げられています。このあたりの微妙なさじ加減も丁寧に読み比べてみると興味をそそられることです。
 今後とも2冊の本と「対話しながら」読んでいこうと思っています。


〔225〕『地域演劇教育論』の表紙を飾ってくださったラボ・テューターの宇野由紀子さんのご逝去に胸が潰れました。

2019年09月04日 | 追悼文
 8月27日(火)、ラボ・テューターの宇野由紀子さんが58歳の若さで亡くなられたという訃報が入りました。ご本人からも闘病中と伺ってはいたものの、まさかこんなに早く逝かれるとは想像もしませんでした。ただただ残念でなりません。
 宇野さんはラボ教育センターのラボ・テューターとして活躍され、指導者的立場にありました。
 私が彼女と親しくお話させてもらうようになったのは、2014年の5月のことでした。ラボ教育センターの言語教育総合研究所の所員としてラボの「テーマ活動」の研究のために、ラボ・パーティの見学を願い出たところ、ラボの事務局から最初に紹介されたのが東京・小平市の宇野パーティでした。事務局の吉岡美詠子さんと2人で3回にわたってパーティ訪問をしました。2時間ほど活動の様子を拝見し、30分以上にわたって意見交換をしました。それぞれの訪問の総括もメールでやりとりしました。我々が訪問できなかった日の様子についてもメールで密に連絡を取り合いました。
 最後の4回目の訪問はパーティでのテーマ活動の発表会でした。
 宇野パーティ訪問の様子は拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房、2018年)に18頁にわたって詳しく書きました。行松泉パーティ、高橋義子パーティと合わせて「テーマ活動づくりとパーティづくり」としてまとめています。
 この本の表紙には宇野パーティの日常活動の1つ、クリスマス会でのゲームのスナップを掲載させてもらいました。私のラボでの研究テーマは「創造的なテーマ活動づくり」ということなのですが、その前提としてパーティ内での濃密な人間関係の構築が必須です。日常的な人間関係づくりの上に発表会は成立するということになります。この写真はそのことを見事に表現・活写してくれていると思います。
 宇野パーティの果たした役割については拙著に触れていますので手にしていただければ嬉しいです。

 8月31日(土)お通夜に伺いました。式場は親類の方、ラボ教育センターの人、テューター仲間、ラボっ子たちなどで溢れていました。にこやかな宇野さんの写真は彼女の優しい人柄を伝えていました。
 受付をしていた吉岡さんは亡くなられる前日にお会いになったそうです。2人でのパーティ訪問にも話が及び、故人を偲びました。
 パーティ訪問からしばらくして、宇野さんがテーマ活動の発表会の挨拶に立たれたことがありました。的を射た心に残るいい話だったのでメールで感想を伝えたところ、とても喜んでくれました。そして、拙著を送付したときだったでしょうか、お礼のことばとともに自身の病気についても触れられていたように思います。

 ラボ・テューターとしてはまさに脂がのりきった年齢です。さぞかし無念だったことでしょう。
 宇野さん、いろいろありがとうございました。ご冥福をお祈りします。合掌。



●『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房HPより)
〔まえがきより〕
ラボ教育センターという魅力的な教育組織に出合ったのは1998年の夏のことだった。
ラボ付属の言語教育総合研究所での研究活動を通して、ラボの活動が「優れた地域での演劇教育の典型」であることを確信するに至った。
ラボ・テューターやラボっ子は活動のすべてに、私の提起する「ことばと心の受け渡し」を充満させ、他者とシンクロする「からだ」を兼ね備えていたのである。
ここでは、子どもの生理や論理を優先させ、まさに「学びの地平」が拓かれつつあった。
独創的で魅力にあふれたテーマ活動の一端でも紹介できたらという思いで出版を思い立った。

〔目次より〕
まえがき
福田三津夫さんの新著に寄せて=松本輝夫
福田三津夫さんとの運命的な出会い=矢部 顕

第1章 地域の演劇教育─ラボの場合

■ラボ・ワークショップ全国行脚
1すべてはラボ教育センター本部から始まった
2ラボ・テューターとラボっ子から学ぶ
3各地でのワークショップ・アラカルト
4ラボ・テューターとラボっ子の「からだ」

■テーマ活動づくりとパーティづくり─ラボ・パーティ参観記
1研究テーマを設定する
2居場所づくりとテーマ活動─宇野由紀子パーティの巻
3テーマ活動「スサノオ」を創る─行松泉パーティの巻
4ことばとからだのハーモニー─高橋義子パーティの巻
5三つのラボ・パーティから視えたもの

■テーマ活動は地域の演劇教育
1演劇教育とは何か
2演劇教育の育てる力
3テーマ活動は地域の演劇教育
4テーマ活動は限界芸術の一つ
5テーマ活動における表現

■テーマ活動の表現を考えるための本

第2章 新・実践的演劇教育論

*演劇教育の原点を探る1

高山図南雄の「あらためてスタニスラフスキー」
竹内敏晴『主体としての「からだ」』
鳥山敏子の教育実践
副島功の仕事
辰嶋幸夫のドラマ
渡辺茂の劇づくり「LOVE」

*演劇教育の原点を探る2

寒川道夫の光と影
マリオ・ローディと演劇教育
演劇教育としての授業
大学の授業と演劇教育

あとがき
関連資料
初出一覧