昨年の10月26日、鎌田慧さんと出河雅彦さんの『声なき人々の戦後史』(藤原書店、上下)の出版記念会が、東京の私学会館で開催されました。渡された名簿でみると200人を超す参加者があったようです。沖縄から駆けつけた金城実さんのような遠来の方も多かったようです。同じく沖縄の海勢頭豊さんのギター弾き語りライブもあり、会場はある熱気に包まれていました。
保阪正康さんや大石芳野さんなど挨拶に立つ方も著名人が多く、コメントの内容も実に興味深く、とても充実したおもしろい会でした。それぞれの方のミニ講演会を聞いているような風情でした。
しかし、あくまで私的なお祝いの会なのでブログに書いても良いものなのか躊躇していたら、新聞に報道されるは、あまたのブログに書かれるはで、二の足を踏んでいるのは自分だけでした。そういえば、マスコミ関係者が来ていると小耳に挟んだのも事実です。
そこで、遅ればせながら、どのような会であったのか、紹介したいと思います。
ところで『声なき人々の戦後史』とはどんな本なのか、出版元の藤原書店のHPからその概要を転載してみましょう。鎌田さんから直接伺ったところによると、著者は鎌田さんと出河雅彦さんだということです。朝日新聞記者の出河さんが鎌田さんをインタビューして、新聞に88回の連載をしたということです。それに鎌田さんが手を加えて出来上がったのが、800ページ近い2冊本だというわけです。
□『声なき人々の戦後史』藤原書店、
[上巻]
プロローグ 鎌田 慧
第1章 ルポルタージュを書きたい
第2章 開発と公害の現場を歩く
第3章 辺境と底辺(一)――コンベヤー労働の体験
第4章 辺境と底辺(二)――出稼ぎと「合理化」
第5章 管理教育といじめ自殺
第6章 原発列島を行く(一)――開発幻想と現実
第7章 原発列島を行く(二)――国策の犠牲者たち
第8章 原発列島を行く(三)――民主主義を守る
[下巻]
第9章 労働現場の人権侵害(一)――炭鉱労働者たち
第10章 労働現場の人権侵害(二)――国鉄からJRへ
第11章 労働現場の人権侵害(三)――規制緩和の罪
第12章 悪政と闘う――成田と沖縄
第13章 暗黒裁判を書く
第14章 自由への疾走
第15章 語る 鎌田慧
エピローグ――取材を受けて 鎌田 慧
鎌田慧 年譜
鎌田慧 著作一覧
あとがき(出河雅彦)
主要人名索引
◎戦後、日本は「経済大国」になったと言われる。しかしそれは、立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたことを忘れるわけにはいかない。原発事故によって、都会で消費される電力を過疎地が支える構図が、はっきりと認識されるようになった。同じ構造は、エネルギー供給に限らず、私が取材を続けてきた労働現場にもあった。非人間的で危険な仕事はいつも、地方からの出稼ぎなど、立場の弱い人たちが担わされてきた。利益追求の犠牲となって、命を落とした人は数知れない。
◎成長の時代が終わっても、リスクを背負わされる人の割合はむしろ増えている。政府も企業もいまだに効率性だけを追い求めているからである。経済界の意向に従う政府が労働法制を相次いで改悪して身分が不安定な非正規労働者を大量に生み出し、いま「経済格差」は深刻である。(「プロローグ」より)
さて、当日の様子を毎日新聞が次のように伝えました。
■幸せの学び<その181> 反骨のルポライター=城島徹(毎日新聞2017年11月8日)
「自動車絶望工場」「六ヶ所村の記録」「大杉栄 自由への疾走」「狭山事件 石川一雄、四十一年目の真実」などの著作があるルポライター、鎌田慧さんの半生を浮き彫りにした「声なき人々の戦後史(上下巻)」の出版を祝う会が先月末、東京都内で開かれた。社会の不条理を告発してきた「反逆生活50年」で初めてという祝賀会を「最初で最後」と照れる鎌田さんに、約200人の出席者から「さらなる健筆を」と期待の声が上がった。
半世紀にわたり精力的に執筆、取材を続けてきた79歳の鎌田さんの足跡を朝日新聞の出河雅彦記者が「読者に紹介したい」と考え、鎌田さん本人から丹念に聞き取りを重ね、上下巻で計779ページに及ぶ新刊として藤原書店が出版した。
祝福に駆け付けた顔ぶれも個性的で、沖縄の彫刻家、金城実さんが叫ぶように盟友をたたえ、ベトナム報道で知られる写真家の石川文洋さん、軍事ジャーナリストの前田哲男さんら80歳目前の同世代と並び立つと、「長生きして!」という熱い声援が飛んだ
特定秘密保護法、集団的自衛権行使を含む安全保障関連法が相次ぎ施行され、安倍晋三首相が「9条改憲」に意欲を見せるなか、自民党大勝という衆院選の余韻が渦巻く会場で、反骨のルポライターへの祝辞には現状を憂える声が多く聞かれた。
昭和史に精通するノンフィクション作家で「安倍首相の『歴史観』を問う」の著者、保阪正康さんの言葉はとりわけ印象に残った。19世紀末のロンドンで、「東洋の学問」確立を目指して遊学中の植物学者、南方熊楠が、中国の近代化の思いを抱えて亡命中の革命家、孫文と出会い、将来の夢を語り合ったという交流を踏まえた興味深い内容だったからだ。
熊楠と孫文の若き日の共鳴は永遠に響き続けるものではなく、後年、二人の関係は次第に疎遠となり、中華民国総統となって国賓として来日中に再会を望んだ孫文に、熊楠は応じることなく、後に「人の交わりにも季節あり」という趣旨の言葉を残した。
保阪さんはその逸話になぞらえ、「これまで私は鎌田さんに黙礼はしても、ほとんど話す機会がありませんでした。しかし、私たちは熊楠と孫文の関係とは逆に、会うべき季節が訪れたように思う」と語ったのだ。
若い世代の姿が少ない会場だったが、その場に居合わせた熟年世代は深くうなずき、やがて大きな拍手で応えた。それはまさしく、鋭利な筆で社会の矛盾を告発し、時代への警鐘を鳴らし続けてきた鎌田さんへの「共感と敬意を込めたエール」だった。【城島徹】
さすが新聞記者ですね、うまくまとめています。
そして、ネットでこの出版記念会のことを検索してびっくりしました。多くの出席者がブログに書いていたからです。しかもこれが実に面白い。これだけユニークな人がここに参集していたのです。出典を明らかにしますので、紹介させてください。
■鎌田慧さんをかこんで200人、いい雰囲気の集まり『声なき人々の戦後史』出版記念会(藤原書店と) 柳田 真(たんぽぽ舎・再稼働阻止全国ネットワーク)
○10月26日(木)鎌田慧さんの『声なき人々の戦後史』本の出版記念会が開かれた。鎌田さんにとっては、最初で最後の(つまり唯一の)出版記念会という。鎌田さんは79才、奥さん、娘さん(写真をとる役)も司会者から紹介された。
会場は鎌田さんの活動=声なき人々によりそった半世紀以上の活動を反映して、老若男女(高齢者・中年が主)200人余りが集まり、約2時間、良い雰囲気のあつまりだった。
〇鎌田さんは最初と最後にあいさつ、少しテレている感じの挨拶、国の方向への危惧(安倍1強)とそれに抗する気持ちを述べられた。
司会者(木内みどりさん)が会場内の奥さまを引っぱってきて、テレる鎌田さんの隣に座らせました。会場から大きな拍手がおきました。
あいさつは鎌田さんの弟分と自称した佐高信さん(週刊金曜日)や大石芳野さん(写真家)、金平茂紀さん、金城実さん(沖縄)、保阪正康さん(作家・評論家)、ギターは海勢頭豊さん、その他かなりの人々のスピーチ。色々と心にひびく話しも多く、参考になりました。
〇うれしいことに、懇談の中で、3人の方々に講演をお願いしたら、“たんぽぽ舎(「スペースたんぽぽ」)の講座で私が役立つなら講師に行きます”といっていただいた「豊田直巳(写真家)、七沢潔(NHK研究所)、福山真劫(平和フォーラム)」と鈴木さんから報告されました。私も鎌田慧さんのyesをもらいました。
私は、福山真劫さん(平和フォーラム)や藤本泰成さん(原水禁)や木村ゆいさん(原自連事務局)、関口広行さん(都庁の同僚)、そのほかの人々と懇談し、ビールをたのしんでいました。
〇たんぽぽ舎は鈴木千津子共同代表と私の2人で参加。
週刊発行の『もう原発やめようニュース』265号を150枚と「東電に抗議しよう(毎月の第1水曜日に申入・抗議)」の小型ビラ(ゴレンジャーの絵入)を配布、皆さんに気持ちよくうけとっていただきました。 (たんぽぽ舎メルマガより)
■鯨エマの海千山千 鎌田慧さん出版記念パーティー
ルポライター、鎌田慧さんの「声なき人々の戦後史」上下巻の
出版記念祝賀会が開かれました。
東京新聞の「本音のコラム」で、毎週火曜日の担当をなさって
もう何年になるのだろう。
私の知る限り、誰よりも長いです。
原発のこと、労働者のこと、ハンセン病のこと、
いろいろなことを、現場に足を運んで、その惨状をレポートしている。
79歳の今も、日本中飛び回って、草の根で頑張り、苦しむ人たちのことを
伝えてくださっています。
私が知り合ったのは、ある大学の公開講座を受けたことがきっかけでした。
当時30代半ば、東日本大震災の前で、私は今ほど社会運動にかかわっていなかった頃です。
全ての話が新鮮な驚きとショックでした。
あれから毎年年賀状をくださり、
芝居の案内を出すと、お忙しいのに、返事をくださるときもあります。
今回の祝賀会については、ご案内ハガキをいただいたとき
私はちょっと違和感がありました。
鎌田さんとパーティーというものがどうしても結びつかない・・・・・
でも、案内状を呼んで納得、行って見てさらに納得しました。
案内状には呼びかけ人になっている方たちのメッセージがありました。
鎌田さんはこのような出版記念祝賀会を
いままで一度もやったことがないというので、
あえて、私たちが企画しました、、、という内容でした。
本を拝読したい気持ち、そして何よりお祝いしたい気持ちもありましたが、
会費が私にとっては高くて少し迷いました。
でも、いつも、険しいお顔の鎌田さんばかりを拝見しているので
こういうお祝いの席でお目にかかるのも悪くないかなと思って
思い切って出席の返事を出していました。
残業して帰ってきた夫に子どもを頼み、遅刻して参加。
なんともはや、物々しい舞台に金屏風。
ごうかなお料理がたくさん出ていました。
私は普段、肉(とくに牛と豚)はほとんど食べません。
命を食べるという意識でいると、必然的に食べるものは
穀類と野菜が主流になってきます。
(もちろん、野菜もコメも命ですが)
それで、並んだお料理が肉ばかりだったので、これにも躊躇したのですが
昔、お祝いの日だけ羊を殺すという
聖書のなかの場面に似た気持ちになり、
今日は「食べてみようかな」という気持ちになりました。
小さな洋風のおわん型の器にデミグラスソースで煮込んだ牛肉が入っていて、
パイで蓋がしてあるのです。
食べるときはパイを破るのですが
これがすごく食べにくい。
中のお肉を食べると、あとのソースもパイもほとんどの人が食べ残しています。
私は手を使ってパイを剥がし、それに残りのソースをつけて、全部いただきました。
こういうのは、きっと行儀が悪いのでしょうが、
そうせずにはいられませんでした。
木内みどりさんの司会でプログラムは進み、
沢山の方かのスピーチがありました。
1冊の本を出すエネルギーというものを垣間見た気がしました。
後半では海勢頭豊さんのライブ。
歌の歌詞に、もういちど聞かせてほしいと思って
タイトルを覚えようとしたのですが、メモしなかったので忘れてしまいました。
鎌田さんは、舞台面の床に座って、耳を傾け
感無量な表情でいらっしゃいました。
二時間の祝賀会の最後に、鎌田さんが挨拶をしました。
今の政権への危惧と、それに対抗する、あきらめない思いを話されました。
そして、、、
「会費が一万円もして恐縮している
本当なら自分がベストセラーを書いてみんなを招待したいのに・・・」
とおっしゃいました。
自分が主役の祝賀会に、うれしさと居心地の悪さを感じていらっしゃったのかもしれません。
でも、最後に奥様が舞台上に並ばれて、
鎌田さんは自分がもらった花束を奥様にあげていて、
とても、あたたかい気持ちになりました。
それを見守る200人近い人々のまなざし。
私たちは、こういう小さなコミュニティのつながりから
大事にして行かなければならないんだなということを
感じる時間でした。
私たちはいったいどこへ向かっているんだろう。
どこへ連れていかれてしまうんだろう。
そして、何ができるんだろう。
そういう終わりのない疑問と不安に
きっと、この本は、勇気をくれると思います。
「声なき人々の戦後史」上下巻
(藤原書店)
これから読みます。
■馬鹿社長ブログ「にんにく劇場」【小田昭太郎】
「鎌田慧さん、初めての出版パーティー」
10月26日の夕刻、ルポライターの鎌田慧さんの出版を記念してパーティーが催された。
市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)には200人ほどの人たちがお祝いに駆け付けた。
鎌田さんはこれまでにおよそ170冊の著作を刊行されているが、出版記念会を開くのはこれが初めてのことだと言う。
「わざわざお金を出して集まっていただく方々に申し訳ないから」と云うのがその理由らしかった。
晴れがましいことの嫌いな、いかにも鎌田さんらしい理由である。
今回出版したのは「声なき人々の戦後史」上下巻合わせて779頁にも及ぶ大著である。
この著作のプロローグで鎌田さんは
「戦後、日本は経済大国になったと言われる。
しかしそれは、立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたことを忘れるわけにはいかない。
原発事故によって、都会で消費される電力を過疎地が支える構図が、はっきりと認識されるようになった。
同じ構造は、エネルギー供給に限らず、私が取材を続けてきた労働現場にもあった。
(中略)………私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた。
フリーのライターになって半世紀近く経ったいま、取材ノートで振り返りながら、改めて『真の豊かさとは何か』『日本社会はこれからどこへ向かえばよいのか』を考えてみたい」
と書かれている。
鎌田さんの集大成とも言える著作であるようだ。
鎌田慧さんの略歴をこの著書から転載する。
1938年生まれ。新聞記者、雑誌編集者を経て、フリーのルポライター。
労働、開発、教育、原発、沖縄、冤罪など、社会問題全般を取材、執筆。またそれらの運動に深くかかわる。
主著に「自動車絶望工場」「六ヶ所村の記録」(毎日出版文化賞受賞)「大杉栄 自由への疾走」「狭山事件 石川一雄、四十一年目の真実」「戦争はさせない デモと言論の力」「鎌田慧の記録」など。
他に『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞を受賞している。
鎌田慧さんと初めてお会いしたのは今から36年前、1981年のことになる。
その年の10月に北海道の北炭夕張新炭鉱で死者93人を出すガス突出大事故が起きた。
当時ボクは日本テレビでドキュメンタリー番組の制作をしていたのだったが、早速、炭鉱事故をテーマに取材することを決めた。
世間のすべての眼が北海道の夕張に向けられていたので、ボクは九州の三池炭鉱に向かうことにした。
北で事件が起きれば、その反対の南に向かう、というのも天邪鬼で面白いと考えた。
そして、当時売れっ子のルポライターの鎌田慧さんに番組のリポーターをお願いしたのだった。
快く引き受けて頂いたのだったが、後で本人から「忙しい俺を10日間も拘束したいと言うのはどんな奴なのか興味があった」と聞いた。
恐らく、鎌田さんにとっては初めてのテレビ出演だったと思う。
視点は鋭いが、その眼差しはとても優しくて、同時に気持ちの温かい方だった。
朴訥な話し方に人柄が現れ、人間性に溢れた魅力的な鎌田さんにボクはすぐに惚れた。
これがきっかけで付き合いが始まったのだったが、ボクより5歳年長で兄貴の存在のように思えた。
雑種犬だったが、それぞれ兄弟の犬を飼う事にもなった。
凡という名前にするつもりだと言ったら、鎌田さんも、それじゃ、うちのも凡にするよ、ということになった。
平凡の凡である。
ちょっと面倒をみてくれる?と鎌田さんから言われて、息子さんを短期間だったが、会社でお預かりしたこともある。
カリフォルニア大学、大学院を卒業し、アメリカインディアンの研究をしているという変り種だった。
人懐っこくて真っ直ぐな好青年だったが、根が学者肌でインディアンの研究を続けたいと会社を離れた。
この出版パーティーで久しぶりで会ったが、現在、日本の大学の准教授を務めていて、可愛い嫁さんを連れていた。
『ネイティブ・アメリカ 写真集』『辺境の誇り アメリカ先住民と日本人』などすでに7冊ほどの出版もしている。
一年のうち3ヶ月はアメリカに行き、先住民や非合法移民と寝食を共にし「辺境」を歩いていると言う。
流石に蛙の子である。
鎌田慧さんとも久しぶりだった。
「歳をとられましたね」とボクは思わず失礼なことを云ってしまった。
「そりゃあ、そうだよ。もうすぐ80歳だよ」と鎌田さんは笑った。
ああ、そうか。80歳なんだ、と改めて気づいた。
頭の中には、いつも若々しい鎌田さんのイメージしかなかった。
たまに電話では話しているが、もう4年以上お会いしていなかったことに思い当たった。
そう云えば、このパーティーに参加している人たちは年配者がほとんどだった。
同席した妻は「もしかしたら私が一番若いかもね」と笑った。
カメラマン石川文洋、評論家の佐高信、彫刻家の金城実、軍事評論家の前田哲男、ジャーナリスト高野孟、写真家の大石芳野、キャスター金平茂紀ら各氏の顔も見えた。
何人かの方々が挨拶をされたが、その全員が怒っていた。
今の世の中に対して怒っていた。
中にはとても過激な表現で、安倍政権への怒りをぶちまける女性などもいて、その幼さと直截的な表現に、失笑と拍手を受けていたが、多くの良識ある老人たちは、静かに、しかし、心の底から今の世の在り方を憂え、いま日本が進もうと目指している未来に限りない危惧の念を持っていることが分かった。
その思いは、鎌田慧さんが発信しているエネルギーと同質のもので、その意味ではある種の共感がパーティー会場をひとつにしていた。
日本の暗黒時代の過去を知らない20歳代、30歳代の若者たちの保守化が進み、未来も同様に平和であるとの幻想を抱いているようだ。
しかし、世の中そうは問屋は卸さないことを老人たちは、長い人生の中で学び知っている。
評論家の保坂正康さんは
「こういう世の中になったことを考えると、どこかで自分たちは間違ったのではないか」
と語った。
そして中国の孫文と民俗学者の南方熊楠の逸話を例に出した。
かつて若い頃の孫文と熊楠はイギリスのロンドンで革命や政治について語り合う仲だった。
その後、孫文は辛亥革命を成功に導き、熊楠は田舎に籠る身となった。
革命に成功した孫文が熊楠に会いたいと求めたが、熊楠は「君と会うべき時はすでに過去となってしまった」と言い断ったという。
保坂正康さんは若い頃には鎌田慧さんと会っても目礼を交わす程度であったが、つい数年前から付き合いが始まったという。
孫文と熊楠ではないが、人の関係には「その時」というものがある。
鎌田慧さんと自分との縁をそういうものにしたい。
そして、残りの数年の命を、鎌田さんと共により良い世の中にするために生きたい、と語った。
このブログの冒頭で紹介したように、鎌田慧さんも今回の著作「声なき人々の戦後史」のプロローグで
「私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた」
と書かれているが、思いは同じである。
この日、パーティー会場に同席していたほとんどの想いも同じだったのではないかと思えた。
日本社会はこれからどこへ向かえばよいのか。
次世代を担う多くの若者たちは、目先の損得に惑わされ、夢を失い、保身の殻に自らを閉じ込めているのが現状だ。
この若者たちの意識を変えるために何をすれば良いのかがボクたちの課題である。
とにかく若者たちに話しかけ、語りかけ続けることしか思いつかないが、サテどうすれば良いのか。
ボクたち年寄には、20歳や30歳の若者たちの保守化をただ黙って眺めているだけのヒマはすでに残されていないのである。
「若者よ 明日を憂えよ 覚醒を」
■イーハトーブ通信 増子義久 2017.10.29
「全日本おばけ大会」!?…“絶滅パワー”全開
最大級の敬意を表して、「全日本お化け大会」とでも名づけたくなるような集いが総選挙4日後の26日、東京都内で開かれた。ルポライタ-、鎌田慧さん(79)の半生をたどった『声なき人々の戦後史』(上下、藤原書店・聞き手、出河雅彦)の出版を祝う会。私自身もその一人である、世間では“絶滅危惧種”と呼んでいるらしい70代から80台前後の世代が何と200人以上も参集した。「今回の選挙でも立憲民主党が土壇場で踏んばった。オレたちをなめるんじゃない」。日本の政治のありように異議申し立てをし続けてきた人士たちはなお、意気盛んだった。おいしい酒にほろ酔い加減になりながら、私は思わずニンマリしてしまった。「日本中のお化けたちが集団で化けて出たみたいだな」
鎌田さんの初期の代表作のひとつに『死に絶えた風景―日本資本主義の深層から』がある。46年前の1971年の刊行である。水俣病やイタイイタイ病などの公害問題、国鉄民営化や三池闘争などの労働問題、成田空港闘争や沖縄における米軍基地問題、狭山事件や財田川事件、袴田事件などの冤罪(えんざい)、反原発運動…。反逆人生50年で書きためた「死に絶えた風景」は単行本にして164冊にのぼり、取材範囲は沖縄・八重山から北方4島まで及ぶ。ある大学教授がルポライタ―の研究のため、その足跡を虫ピンで止めていったら、刺さり切れなくなってパラパラと落下したというエピソ-ドもある。「私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタ-ジュを書き続けてきた」と鎌田さんは本書の中で語っている。
佐高信、保阪正康、後藤正治、金平茂紀、石川文洋、大石芳野…。時代の同伴者たちが次々に壇上にかけ上り、祝福の言葉を贈った。小柄な女性が人波をかき分けながら、写真を撮っていた。「横浜事件」国家賠償訴訟の原告、木村まき(68)さんだった。戦時下最大の言論弾圧とされるこの事件で逮捕された、当時、中央公論社の編集者だった夫の故亨さん(享年82歳)らの名誉回復を求めている。特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認、安保法制、いわゆる「共謀罪」の制定、そして憲法改正へと進みつつある翼賛体制に抗(あらが)う空気が会場全体にみなぎっていた。その人脈の広さに圧倒された。
「喜瀬武原空高く のろしよ燃え上がれ/平和の祈りこめて のろしよ燃え上がれ/歌が聞こえるよ はるかな喜瀬武原/皆の歌声は はるかな喜瀬武原」(3番)―。沖縄から平和を訴え続けているミュ-ジシャン、海勢頭豊さん(74)のギタ-の弾き語りが始まった。米軍の実弾演習阻止を託した「キセンバル」である。鎌田さんは沖縄取材も長く、7年前には『沖縄(ウチナ-)―抵抗と希望の島』を上梓(じょうし)している。30年来の友人である彫刻家の金城実さん(79)が、履(は)いていた下駄ならぬ雪駄(せった)を両手に握り、お家芸の“下駄踊り”を舞い始めた。武器を捨て「非暴力」を訴えるパフォ-マンスである。海勢頭さんの代表作のひとつ「月桃」が響き渡った。舞台に引っ張りだされた鎌田さんがニコニコ笑っている。
つい数日前の悪夢を一瞬、忘れさせてくれるような光景が目の前に広がっていた。「3・11」を一緒に取材した時、鎌田さんが独り言のようにつぶやいた言葉がよみがえった。「反原発を訴えてきたつもりだったが、福島の事故を防ぐことができなかった。無力感だけが残った」―。最後にあいさつに立った鎌田さんがきっぱりと言った。「こんなに同志がいると思えば、まだ諦めるわけにはいかない」―。「そうだ」という声があちこちから飛んだ。
帰りの新幹線の中で出版されたばかりの『新聞記者』という文庫本を読んだ。筆者は菅義偉・官房長官に対し、舌鋒鋭い質問を繰り出した東京新聞の女性記者、望月衣塑子さん(42)。バッシングや脅迫、圧力にもめげないで「新聞記者とは何か」を問うたドキュメントである。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」―。望月さんはインド独立の父、マハトマ・ガンジ-のこの言葉を引用して、あとがきにこう書いている。「簡単には変えられないけれど、私自身が環境や周りに流され変わらないためにも。自分自身が正義と信じられるものを見失わないためにも。たとえ最後の一人になろうとも」
11月3日(金)の文化の日、鎌田さんら全国市民アクションが主催する「安倍9条改憲NO!」国会包囲大行動が行われる。これに引き続き、今回の出版を祝う会の呼びかけ人の一人である沖縄平和運動センタ-議長、山城博治さん(65)を招いた岩手講演会(「沖縄とつながる岩手の会」など主催)が11月に開かれる。タイトルは「沖縄の基地の実態と平和を願うわけ―辺野古・高江の新基地に非暴力で抗う」―。24日(金)午後6時半から北上詩歌文学館、25日(土)午後1時半から盛岡サンビル7Fホ-ルで、いずれも参加費無料。「私たちは日本国民なのか。私たちに憲法は保障されているのか」―。不当逮捕され、長期勾留を余儀なくされた山城さんはこう叫びながら、全国を走り回っている。
”絶滅危惧種“の種(しゅ)はそれを絶やそうと思えば思うほど、忘れたころにむっくりと目を覚ますものである。たとえば、望月さんのように…。そう、絶滅危惧種は永遠に不滅なのである―。「沖縄はただ、平和でありたいだけなのです」という海勢頭さんの言葉がまだ、頭の中を駆けめぐっている。