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後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔826〕いただいた『流砂』(三上治責任編集、27号)と『部落解放』(増刊号、第51回部落解放文学賞)の紹介。

2025年07月22日 | 図書案内

 最近別の方からいただいた雑誌を2冊紹介します。
  まずは『流砂』(三上治責任編集、27号、149頁)。発行日は2025年7月16日、発行所は『流砂』編集委員会です。注目したのは次の論考です。ゆっくり目を通したいと思います。
 *谷川雁「革命論」の黙示 そして、その内実  脇田愉司

  次に『部落解放』(増刊号、第51回部落解放文学賞、2025年7月、873号、297頁)。
  ページを繰っていて目に留まったのは「戯曲部門佳作 陽が昇るまで 井上真一」でした。
  教師生活をスタートした1970年代半ばに日本演劇教育連盟と出会い、程なく常任委員になりました。『演劇と教育』(晩成書房)だけでなく『小学校演劇脚本集』(晩成書房)の編集活動にも参加しました。その9巻(1988年)に「のら犬ものがたり」(井上真一)が収められています。あの井上真一さんに違いありませんが、相当に高齢のはずです。
  実は井上さんは故人となられ、先人の足跡を残したいという趣旨で別の方が応募したということです。「解放演劇に取り組んで」というコメントと井上さんの端正な写真が掲載されていました。井上さんとはかつてどこかでお会いしているのではないでしょうか。不思議な「再会」でした。


〔825〕企画展「起爆する運動体 没後30年 谷川雁のものがたり」と講演会「今こそ改めて谷川雁の言霊と生き方を」のお知らせ(矢部顕さんより)

2025年07月18日 | 講座・ワークショップ

●福田三津夫様

酷暑猛暑お見舞い申し上げます。

お知らせです。
熊本県立図書館で下記のような企画展があります。
企画展「起爆する運動体 没後30年 谷川雁のものがたり」
8月1日(金)〜9月15日(月・祝)
 
そのなかで講演会があります。
講演会「今こそ改めて谷川雁の言霊と生き方を」8月24日(日)
講演者 1松本輝夫
    2仁衡琢磨
 
後日、YouTubeで見ることができるみたいです。
案内を添付します。
                                 矢部 顕

今後の予定

企画展「起爆する運動体 没後30年 谷川雁のものがたり」関連イベント

記念ダブル講演会「今こそ改めて谷川雁の言霊と生き方を」

 要申込  参加無料  後日YouTubeにて配信 

申込先電話 096-384-5000(代表)
受付時間  午前930分から午後5
定員 100名(申込み先着順締切)

 

 

【日時】8月24日(日)13時30分~16時

【場所】熊本県立図書館3階 大研修室

【登壇者】1 松本 輝夫

        石川県生まれ。東京大学在学中に筑豊・中間に赴き、谷川雁と出会ったことが機縁でラボ教育センター

       (元テック)に入社。労組活動では雁と対立もした。雁の退社後、本部長・会長等を歴任。退職後に谷川雁

       研究会を起こし、代表に。『谷川雁 永久工作者の言霊』(平凡社新書)など、著書多数。

     2 仁衡 琢磨

       茨城県生まれ。 小学1年からラボに入る。雁が制作に関わった教材に親しみ、人生の難局を、ことばや物

       語の力で乗り越えたと語る。著書に『ことばがこどもの未来をつくるー谷川雁の教育活動から萌え出でし

       もの』がある。

 

※くまもと文学・歴史館YouTubeチャンネルで、シンポジウムの模様を後日配信します。

 配信期間:9月13日(土)9時30分~令和8年(2026年)3月31日(月)17時(予定)

 

◆「軍隊は住民を守らない」
                                        鎌田 慧(ルポライター)

 それが沖縄戦の教訓である。
 沖縄戦の悲惨は日本軍による集団死の強制や虐殺が実行されたこと
だった。そのうち久米島住民20人が子どもも含めて、海軍の守備隊
にスパイの疑いをかけられて虐殺された。この事実は最近、本紙
特報面でも取り上げられ、よく知られるようになった。
 久米島の住民で組織された「忘れないで!日本軍による住民虐殺80
年追悼集会実行委員会」は、読谷村に住む彫刻家の金城実さんにレリーフ
製作を依頼して、8月20日、慰霊祭を行うことにした。
 金城さんは未来を担う久米島の子どもたちと一緒に、虐殺された子ども
たちの野仏をつくることに大きな意味を感じていた。セメントと漆喰を
混ぜ合わせた材料で、高さ2m、幅1.5m、20人の姿を入れたモニュ
メントをつくり上げた。
 と、桃原秀雄町長が町有地・上田森への設置は許可しない、といって
きた。理由は最初のデッサンとちがう、上田森の保全の観点から、
というものだった。
 完成間近になって、町の方から絵の中に「ハト、百合、琉球松」を入
れて欲しい、との要望があった。
 「ひめゆりの塔に言いがかりをつけた西田昌司参院議員の影響か。反戦
平和の思想を放棄したのか」。金城実さんの怒りである。
        (7月8日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)


〔824〕『藤本卓 教育論集-〈教育〉〈学習〉〈生活指導〉』で初めて藤本卓さんの逝去を知りました。

2025年07月14日 | 図書案内

 猛暑の中、時々気分転換に向かうのが近隣のブックオフです。先日もふらふらとあまり期待もせず本棚に目をやると、大部な『藤本卓 教育論集-〈教育〉〈学習〉〈生活指導〉』に釘付けになりました。
  『藤本卓 教育論集-〈教育〉〈学習〉〈生活指導〉』(鳥影社、2021年、466頁)、題名からしてあの教育学者の藤本卓さんの著書に間違いないでしょう。

  私は小学校教師としての力量を高めるため、日本演劇教育連盟に加盟し、その在籍期間のほとんどの三十数年を常任委員として雑誌『演劇と教育』(晩成書房)の編集に携わりました(そのうち20年は編集代表)。そこは私にとって学びの場で、多くの知己を得、大学講師としての実践をも支えたのでした。
  編集委員会は常任委員数名で構成され、当時月3回の会議がもたれました。常任委員会は月1回ですから、毎週のように連盟の事務所を訪れていたことになります。その傍ら組合活動も大切にしていました。
  編集部では全常任委員対象に拡大編集会議を開きました。雑誌の年間方針や具体的内容を練るためです。それとは別に拡大編集委員制度を設けました。外部からの研究者の助言を求めるためでした。その中のお一人に藤本さんがいらっしゃいました。その経緯は失念しましたが、おそらく雑誌『ひと』(太郎次郎社)で彼が活躍されていたのを知って声をかけたのではなかったでしょうか。


   
  大東文化大学文学部教育学科の教授として中心的存在として活躍されていた藤本さんがご著書を持たないことが不思議でした。しかしある時、『あきらめない教師たちのリアル』(副題、ロンドン都心裏、公立小学校の日々、ウエンディ・ウォラス著、藤本卓訳、太郎次郎社エディタス、2009年)が送られてきました。そこにはこんな添え書きがありました。
「いつも愉快な通信『啓』を送っていただきながらごぶさたいたしております。地味な本ですが、演教連他のみなさんにご吹聴いただけると幸いです。藤本」

  そもそも彼の活躍を知ったのは『公論よ起これ!「日の丸・君が代」-法制化論議のなかで日の丸・君が代の封印を解く』(藤本卓編著、太郎次郎社、1999年)で、我が家の本棚のどこかに並んでいるはずです。
  個人的な思い出として残るのは、彼から一度川越に呼び出され食事をしたことでした。

 さて『藤本卓 教育論集-〈教育〉〈学習〉〈生活指導〉』を手に取り仰天したのはこの本が彼が逝去されてから編まれたものだったからです。2020年、70歳になる半年前亡くなられたというのです。彼は私より1歳年下、あまりにもお若い!
  大東文化大学の教員など数人で編集されたこの大冊は、藤本卓さんの仕事の全貌を纏め上げられたもののように思われます。内容的にはさすがに難解な論文も多く、これからゆっくり読み進めていこうと思っています。
 興味深かったのは藤本さんが神戸大学教育学部初等教育学科から東京大学の教育学部に進まれ、多くの大学の非常勤講師や大東文化大学文学部教育学科の教授になられたことでした。一部私の経歴とも重なるところがあって親近感を覚え感慨深かったです。
 巻末の著作一覧全97点のなかに『演劇と教育』の共同研究、劇評など6点が含まれています。多くの時間を彼と共有したのだという想いが湧いてきます。
 カバー画はご長女の藤本里菜さん、著者紹介欄には優しい表情の藤本さん。
 藤本卓さん、いろいろお世話になりました。合掌。


〔823〕最近届いたミニコミ「さようなら原発 1000万人ニュース」「茨木のり子手帖」「生活と自治」を紹介します。

2025年07月09日 | メール・便り・ミニコミ

  「さようなら原発 1000万人ニュース」(さようなら原発 1000万人アクション実行委員会)は12頁立て、「茨木のり子手帖」(茨木のり子の家を残したい会)は36頁立て、「生活と自治」(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)は40頁立ての運動誌です。最近届いた読み応えのあるものばかりです。

◆死刑制度はいつまで続く
                     鎌田 慧(ルポライター)

 6月28日の各紙朝刊の1面トップは「生活保護減額『違法』」、サブ
トップは「座間9人殺害死刑執行」だった。生と死、明と暗の両極端が紙
面化されていた。
 福祉切り捨ての冷酷な政治を最高裁が違法と批判して、減額決定を取り
消した。自公政府が憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生
活」を無視して、生活保護費を削減してきた残酷さが明らかになった。
 一方の死刑執行は、先進国ではもちろん、世界 144カ国が事実上廃止
した死刑制度が、いまだに護持、実施されている恐怖を示した。
 殺害された家族の悲しみと無念を、国家が代わりに晴らす、というのが
死刑制度のようだ。犯罪の抑止力との言い方もある。
 しかし、絞首刑の恐柿を掲げて犯罪を減らすよりも、若者たちが希望を
もてるような、穏やかな社会になれば、犯罪が減るのは明らかだ。
 若者の自殺者は増加傾向にある。死刑の恐怖などは絶望的になった人に
は、むしろ自殺代わりの凶行になったりする。今回刑に処された死刑囚が
殺害したのは自殺願望のある女性たちだった。
 5年前、東京地裁立川支部は「犯罪史上まれにみる悪質な犯行」と断罪
して死刑判決。
 しかし、起きた事件に対処するより、起きないような社会にするのが、
政治家の仕事のはずだ。
 私利私欲に走っている場合ではない。
        (7月1日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)


〔822〕7月6日(日)、カフェギャラリー縁開店25周年記念パーティーが開かれました。

2025年07月08日 | 語り・演劇・音楽

  以前にブログでご案内したとおり、7月6日(日)、カフェギャラリー縁開店25周年記念パーティーが開かれました。「縁」は西武池袋線秋津駅徒歩5分のところにあります。踏切付近にあり、電車からもよく見えます。
  開店25周年記念パーティーのメインは門間ゴスペルファミリー出演です。彼らは家族としてままざまな市民運動に関わってきました。とりわけ有名なのは無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」の活動です。十数年前に私が所属している清瀬・憲法九条を守る会で門間幸枝さんにお話をうかがったことがあります。松山地域市民センターでのことでした。

  コンサートの内容や出演者の紹介をしましょう。
 コンサートは2階、ビュッフェスタイルパーティは1階で開かれました。30名ほどの参加者だったでしょうか。


〔821〕再度「北條民雄と友人の光岡良二」のこと(岡山の矢部顕さんからの貴重な情報です)

2025年07月07日 | メール・便り・ミニコミ

■福田三津夫様
 
2023年2月ごろ、NHKのテレビ番組で「100分de名著」で北條民雄が取り上げられて、
みなさんにお勧めした記憶があります。
 
その頃、福田三津夫さんがブログで紹介していたことに、刺激を受けて、昔のことを
思い出して小生が書いたもの「北條民雄と友人の光岡良二」をお送りしました。
 
その時も、北條民雄は知っていても光岡良二はご存じなかったでしょう。
 
 
朝日新聞(阪神版?)で光岡良二氏に関する連載が4月から始まり、6月末まで
11回の連載が終わりました。
8回目には、私たちFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)が建設した交流(むすび)の家に
いかに多大な貢献をしてくださったかが詳しく記述されています。
添付してお送りします。
 
記者の雨宮徹氏とは、彼が朝日新聞岡山総局の時に知り合いました。
愛生園や光明園をかなり積極的に報道していました。
 
岡山から徳島支局に転勤になったときは、ハンセン病問題の報道が
できなくなったことを残念がっていました。
ところが、北條民雄の故郷が徳島のお隣の阿南市とわかって、がぜん
取材意欲が湧いて、北條民雄に関するすばらしい連載を残しました。
 
今度は、姫路支局に転勤し、姫路のお隣のたつの市が光岡良二氏
の故郷らしいことをつきとめ、それはそれは熱意をもって取材をしたのです。
まるで研究者のようでした。
朝日新聞の記者はこんなに優秀なのか、と思いました。
 
北條民雄の故郷の近くの徳島支局に転勤命令が出たのは偶然のことですが、
北條民雄の親友の光岡良二の故郷の近くの姫路支局への転勤も、まったくの
偶然なのですが、なにか宿命的なものを感じます。
 
北條民雄は故郷でもひろく認知されていましたが、光岡良二の場合は
生まれ故郷がたつの市と本人も明かすことなく、親類縁者もほとんど
知らない状態だと聞きました。
はたして、そのような事実を新聞で知らしめていいのかどうか、記者
としてずいぶん悩んだようです。
新聞に連載が始まったということは、光岡さんに連なる係累の方々の
承諾を得たのだろうと思います。
 
ついでに、2023年2月ごろでしたかNHKの番組「100分de名著」で
北條民雄が取り上げられた頃に小生が書いた「北條民雄と光岡良二」
を再度添付します。
 
矢部 顕

●福田三津夫さんへの手紙

北條民雄と光岡良二 

 福田三津夫さんは彼のブログ(2023.2.8.)で、北條民雄の『すみれ』について取り上げていらっしゃいました。
つい最近のNHKのテレビ番組「100分de名著」で、北條民雄の『いのちの初夜』の関する放映がきっかけで、福田さんが書かれた文章が掲載されています。

 これを読んで思い出したことを記しておきたいと思い、北條民雄と友人の光岡良二について書きます。

●『いのちの初夜』(北條民雄著)
 ハンセン病をテーマにした小説や随筆を数多く残した北條民雄は、20歳のとき1934年(昭和9年)に全生病院(現・国立療養所多磨全生園)に入院しました。ハンセン病の症状が表れる中、何度も自殺を図ろうとしました。入院後の体験は、のちの彼の作品からうかがえます。
 ある時、作品を見てほしいと川端康成に手紙を書き、「拝見いたします」と返事をもらった。それから90通の手紙のやりとりが続いたといいます。いくつかの作品が文芸誌「文学界」に載るようになりました。芥川賞候補にもなった「いのちの初夜」は、「最初の一夜」と題したものを川端が「いのちの初夜」と改題したそうです。

●『寒風』(川端康成著) 
 川端康成が北條民雄の死について書いた『寒風』という短編があります。この作品は1937年の北條民雄の死から約10年経った終戦後に発表されました。主に、北條民雄という作家について、全生病院について、北條民雄の父親(作品上は母親)の来訪について書かれています。この作品には、川端康成から見た北條民雄(作品上は谷沢)と光岡良二(作品上は倉木)の友情に触れています。
 川端康成と光岡良二さんはずっと交流を保っていたようなので、北條民雄とその死を通してお互いに影響があったのでしょう。

●『すみれ』(北條民雄著)
 北條民雄が『すみれ』を書いたのは20歳の時です。1934年(昭和9年)の5月に全生病院に入院した彼は12月に書いているそうです。この童話は、全生病院の中にあった全生学舎の子どもたちのために、教師であった光岡良二の依頼によって書かれたと言われています。
 全生病院は国立療養所多磨全生園となり、全生学舎は東村山市立青葉小学校全生園分教室となりましたが、本校からの教師一人以外は光岡さんたちが教師を務めていらっしゃいました。(東京帝大文学部中退の小学校教師もめずらしい?)。私が学生時代、1960年代後半も、子どものハンセン病患者が療養所にいる時代で、私が訪問した時はソフトボールなどをして一緒に遊んだ記憶があります。(全生園分教室は1975年3月、子どもが卒業して閉鎖)
 また、私たちが建設した交流(むすび)の家が完成したことによって、その小学校の子どもたちが奈良への修学旅行が可能になり、奈良の寺院を案内したり、夜は寝る前に修学旅行の定番(?)枕投げ遊びをした記憶があります。

●『古代微笑 光岡良二歌集』(光岡良二著)(風林文庫 1968年)
  私たちフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が取り組んでいたライ(当時の呼称)快復者社会復帰セミナーセンター・交流(むすび)家の建設では、建設初期に地元住民の反対運動があり、そして奈良市長の建設反対声明があったりしたなかで、光岡さんは当時の全患協(全国ハンセン病患者協議会)事務局長として東京から奈良まで駆けつけていただいて、たいへんなご協力をいただいた同志であります。
  光岡さんは、もともとは歌人として何冊かの歌集を出版されています。歌集『古代微笑』の出版記念会は、完成したばかりの奈良の交流(むすび)の家で行われました。

●『いのちの火影―北條民雄覚書』(光岡良二著)(新潮社1970年)
  同じ病で入院した時期が1年違いで、同じように文学青年だった光岡さんが、北條民雄が亡くなってから30数年後に上梓された本です。小説を読むだけではわからない北條民雄という稀有な作家の人物像が詳細に描かれています。

●文学講演会「虚妄のライ」(講師・光岡良二、高橋和巳 於・同志社記念会館)
 交流(むすび)の家開所記念文学講演会として、1968年6月に私たちフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西委員会は、光岡さんと高橋和巳を講師として招いて京都で開催しました。
 演題の「虚妄のライ」に込められた想いは、ライという言葉が差別用語となってハンセン病と言い換えられた現在では、想像力を掻き立てられない言葉となってしまいました。
 高橋和巳は、当時もっとも人気のあった小説家で代表作『悲の器』『邪宗門』など。中国文学者でもあり、大学闘争の最中1969年京大文学部助教授辞任、1971年39歳で夭折しました。

2023.2.11.
矢部 顕


〔820〕所沢で映画「○月○日、区長になる女。」(主催:市民が手をつなぐ会)を鑑賞しました。

2025年06月30日 | 映画鑑賞

 昨2025年6月29日(日)、所沢で映画「○月○日、区長になる女。」(主催:市民が手をつなぐ会)を鑑賞しました。会場は西武池袋線小手指駅南口の所沢小手指まちづくりセンター分館ホールです。
 上映は午前と午後1回ずつ、清瀬の仲間5人で午後の回に参加しました。
  私がこの映画を是非見たいと思ったのは、ここ2,3年の目に余る清瀬市政の暴挙・退廃をなんとしてもくい止めたいがためでした。つまり新市長を誕生させるということです。縷々このブログでも書き綴っていますが、小中全14校のプールをなくして民間のスイミングスクールに委託する、立科の保養施設を廃棄し5年生の移動教室を中止する、各市民センター、消費者センターの活動の縮小、さらにはあろうことか6館の市立図書館を4館も閉鎖する、そして廃棄された列車を移設し高額の予算を浪費して「夢空間」なるものを造ろうとしています。こうした澁谷市政により市の職員や市民は悲鳴を上げています。
  そして私の覚悟の結論は、来年の市長選挙で新しい市民派市長を選出しなければならないと思っているのです。

  200票足らずの僅差で岸本聡子杉並区長が誕生した市民運動のドキュメントは素晴らしいものでした。私達がこの映画から学ぶことは、行政の何を替えたいのかということを明確にするということ、そして試行錯誤しながらの選挙の具体的戦術でしょうか。太い道路が通され、緑が無くなるということに危機感を持った住民が立ち上がり、さらに様々な問題意識を持った市民が参画し、政党主導ではない区民手作り選挙が展開されました。
  2022年の岸本市長の誕生でさらに素晴らしかったことは、2023年の区議会議員選挙で投票率が4%以上も上がり、女性区議の比率が50%を達成したことです。48議席のうち現職が12人落選し新人が15人も当選したそうです。岸本区長の誕生が相乗効果を生んでいるのは間違いありません。
  目の悪い私は中段に座っていたのでテロップがよく見えず、パンフレットで補うことにしました(800円也)。これをしっかり読んで仲間にも広めていこうと思っています。

  残念なことにgooブログが閉鎖になるということでいろいろ苦労してはてなブログに引っ越しをしました。とりあえずお知らせしておきます。折角なのでしばらくはgooブログとはてなブログの二刀流でいきたいと思います。

     https://engekikyoikuron.hatenablog.com/

 


〔819〕「小学校の稲作つくりを体験する学習田で代掻き作業をやりました。」(岡山の矢部顕さんからのお便り)

2025年06月24日 | メール・便り・ミニコミ

■福田三津夫様

  先日、小学校の稲作つくりを体験する学習田で、次週に田植えをするために事前準備 の代掻き作業をやりました。代掻きとは、田んぼに水を入れて土と混ぜ合わせて、田植えの苗が活着しやすいような状態にするのです。
     
  田んぼに水を入れるのは用水路からエンジンポンプで吸い上げるのが通常なのですが、エンジンポンプが無い時代はどうしていたかというと、「足踏み水車」(あしふみみずぐるま)で水を汲み上げていました。稲作農業にとっては、江戸時代から昭和の戦前までの長い間の非常に重要な道具が「足踏み水車」だったのです。
  
 <川の水の流れで回転するのは「水車(すいしゃ)」。流れのない用水路では人間が
    載って体重をかけて回転して水を汲み上げるのが「足踏み水車(あしふみみずぐるま)」
    と使い分けています>
     
  この「足踏み水車」(大正時代製)を田んぼのそばの用水路に設置して、5年生の子どもたちが、実際に「足踏み水車」に載って、足と体重で回転させて、水を汲み上げたのです。子どもたちの両親も、祖父母も、動かしている様子を見たこともなければ、もちろん体験もしたことがない大昔の道具なのです。民俗博物館で見たとしても、どうやって使用されていたのかわからないと思います。
     
  珍しい風景なので、新聞が取材に来ます。新聞を添付します。

  適量の水が田んぼに入ったら、代掻きをするのですが、この代掻き作業は私がおんぼろトラクターでやりました、
  5年生の総合的な学習の時間にお米つくり体験をしているのですが、できるだけ昔ながらのやり方にこだわっているのは、矢部の趣味的(?)ともいえるこだわりです。お米つくりを指導する学校の近所に住んでいる農家のおじいさんが私なのです。
     
  種まきから苗を育てる。田んぼに肥料を手で撒く。田んぼには足踏み水車で水をいれる。穂が出るころは案山子を作る。稲刈りは鎌で刈る。刈った稲の束を天日干しにする。乾燥したら脱穀をするのは、足踏み脱穀機。選別は唐箕(人力風力選別機)でやる。
 といった具合です。
     
  新聞記事を添付しただけではわかりにくいと思い、長々と説明しました。
                                     矢部 顕


〔818〕清瀬市議・ふせ由女の「ゆめ通信」最新号(2025年夏号、43号)です。

2025年06月22日 | メール・便り・ミニコミ

  清瀬市議3期目のふせ由女が年4回発行し続ける「ゆめ通信」が43号になりました。例年より暑いこの6月、仲間と分担しながら地域に配布しています。顔を合わせた住民に「ふせ由女の議会報告、議会便りお読みください」などと話し掛けると、快く受け取ってくれます。10年続けてきた「実績」なのでしょうか。私の健康維持のためにも地域を知るためにも欠かせない通信配布活動です。

◆「読売(巨人)・大鵬・自民党」

                             前川喜平(現代教育行政研究会代表)

 長嶋茂雄氏の計報に接して思い出したのは「巨人・大鵬・卵焼き」と
いう大衆に人気があるものを並べた昭和の流行語だ(僕は「巨人」とい
う呼称は使わないので以下「読売」と書く)。
 全国的に読売ファンが多いのは、テレビ中継が多かったからだという
説が有力だし、マンガ「巨人の星」の影響も大きかっただろうが、一番
の理由はこのチームがことのほか強かったからだと思う。あのころ優勝
するのはいつも読売だった。

 僕は魚肉ソーセージが好きだったので大洋ホエールズが好きになり、
後身の横浜DeNAベイスターズも応援しているのだが、このチームは
なかなか優勝してくれない。弱いチームを応援し続けるのはしんどいも
のだ。
 読売や大鵬のような強い者を応援すれば、常に勝利の喜びや優越感に
浸ることができて、すこぶる精神衛生に良い。だから読売や大鵬の人気
が高かったのだと思う。

 同じ心理が政治の世界では自民党支持者の多さに表れているのではな
いかと思う。
 しかし政治は野球や相撲とはわけが違う。
 日本学術会議法案は参議院で157対76で可決されたが、勝った方を応援
すればいいというものではない。
 どの党が勝つかでこの国のあり方が大きく変わる。
 自民党に任せておけば安心だなどと思っていたら、とんでもないこと
になるかもしれないのだ。
               (6月15日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)

 
◆恐怖の原発無責任体制
                                       鎌田 慧(ルポライター)

 「政府は九州電力を念頭に『原発の建て替え』を促す考えだ」(「朝
日新聞」5月20日)。川内原発3号機(鹿児島県)を建設させるとの記
事だが、本気ですかと尋ねたい。石破首相、原発には消極的なはず
だったが、以前とは別人のようだ。
 「(既存の)原子力を最大限活用する」との方針を超えて増設まで
采配。
 まるで旧日本陸軍幹部のような無方針、無責任。
 福島第一原発のような悲惨な事故が発生しても経営者も政府も誰も
責任を取らなかった。

 原発の最終処分場はいまだ決まっていない。使用済み核燃料は再処
理して、また原発の原料にするという「核燃料サイクル」は完全に破綻
している。
 青森県六ケ所村の再処理工場は1993年に着工されたが、32年がたって
もまだ完成しない。仏の顔も三度までというが、実に27回も「今度こそ
完成します」と延期してきた。嘘も方便とか。

 2009年に3回続けて高レベル廃液ガラス固化建屋で、配管から放射性
廃液が漏れる事故が発生。「固化セル漏えい液受皿の漏えい検知装置が
動作不能なのに、速やかに廃液の移送を必要とする工程を停止する措置
を行わなかった」と当時の原子力・安全保安院が違反を指摘して
運転停止。

 それから16年、建屋内はなお高濃度に汚染されたまま。「来年度末、
完成します」というのだが、出口なし。
             (6月17日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)


 ◆パレードとデモ
  全米2千力所以上で「ノー・キングス(王様はいらない)」の抗議デモ
  王の敗北、市民の勝利
                         斎藤美奈子(文芸評論家)

 陸軍創設250周年を記念して、トランプ大統領の79歳の誕生日でもある
14日、米国ワシントンDCで行われた軍事パレード。不快なニュース
だったが、当日のライブ映像の録画を見ると予想とは違っていた。
 短く切り取った日本のニュース映像だけだと気づきにくいが、一言で
いえばショボいのだ。

 嫌々歩いているようにさえ見える覇気のない兵士の列。過去の戦争で
使用した旧式の戦車や装甲車を博物館式に登場させる演出。甚だしきは
観客数で、観客席の人はまばらである。
 ロシアや北朝鮮のような華々しさを期待しただろう大統領もご不満
だったらしく、表情は始終不機嫌。
 米国のリベラル系独立メディアはこぞって「屈辱的なパレード」と
断じた。

 一方、同じ日、全米2千力所以上で「ノー・キングス(王様はいら
ない)」の抗議デモがくり広げられたのはご存じの通り。
 参加者は400万人とも600万人とも伝えられ、人数も熱量もパレードと
段違いだった。
 前者は失敗、後者は成功。それがこの日の結論だったのだ。
 それで溜飲を下げてもなとは思いつつ、この差を報じなければ意味が
ない。
 だけど日本の新聞は「トランプ大統領ご満悦」とか「深刻な分断」と
か書くわけですよね。違うって。
 一目瞭然、デモの圧勝だったのよ。
 王の敗北、市民の勝利と書かずにどうするよ。
             (6月18日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)


〔817〕7月6日(日)、カフェギャラリー縁開店25周年記念パーティではチャリティー絵はがきも販売します。

2025年06月21日 | 語り・演劇・音楽

  昨秋(10月26日~11月6日)の第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」は、清瀬市のカフェギャラリー縁で開催されました。お世話になったこの縁で開店25周年記念パーティが開かれます。
  門間ゴスペルファミリーのヒューマンライツメッセージコンサートのあとにビュッフェスタイルパーティが予定されています。
  門間ゴスペルファミリーについては別紙をご覧ください。「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」の運動を中心的に担ってきたご家族です。
  この記念集会でリーメンシュナイダーのマリア祭壇のあるヘルゴット教会支援のためのチャリティー絵はがきも販売させてもらいます。最寄り駅は西武池袋線秋津駅ですが、武蔵野線の新秋津駅からも数分というところです。お越しくだされば嬉しいです。


〔816〕腰越九条ニュース226号が届きました。(塚越敏雄さんより)

2025年06月08日 | メール・便り・ミニコミ

■腰越九条ニュース226号ができましたのでお送りします。
 今回、裏面の投稿は、「憲法9条で日本は守れない」と書いた高校生への返事として
書かれたものです。      塚越敏雄

◆安倍昭恵氏を証人喚問せよ
  森友学園事件の闇はなお深い
                                      前川喜平(現代教育行政研究会代表)

 安倍昭恵氏がロシアでプーチンと面会した(プーチンには国際刑事裁
判所から逮捕状が出ているから敬称は付けない)。
 涙に弱い日本人の中には、安倍晋三元首相について語るプーチンの
リップサービスに涙を流す昭恵氏の姿を見て、プーチンに敬愛の念を抱
いてしまう人もいるだろう。プーチンにしてみれば日本人の対露感情を
好転させるいい機会だと思って面会したのだろうが、日本が対露制裁を
続けていることを忘れてはいけない。

 昭恵氏は私人だと政府は言っていたはずだ。なぜ一私人がプーチンと
面会できたのだ? 外務省がお膳立てをしなければそんなことは不可能
だ。外務省は体を張っても止めるべきだった。

 昭恵氏にはもっとやってもらわなければならないことがある。
 国会に出てきて、森友学園事件についてやったこと、知っていること
を洗いざらい話すことだ。

 森友学園事件の闇はなお深い。
 決裁文書改竄を苦に自死した赤木俊夫さんの妻雅子さんに財務省が開
示した文書には多数の欠落部分があった。
 その中には昭恵氏への言及が含まれていると思われる。欠落文書は廃
棄したという政府の説明は虚偽である疑いが濃い。
 欠落文書はきっと存在する。
 財務省があくまで文書を開示しないなら、昭恵氏自身に話してもらう
しかない。
 国会は昭恵氏を証人喚問するべきだ。
                  (6月1日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)

■親子三代の反原発(上)(下)
  あさ子さん・長女・その娘の三代−土地を売らずの哲学
              鎌田 慧  「週刊新社会」「沈思実行」紹介
  

◆親子三代の反原発(上)

 5月の連休明けに、青森県下北半島をまわった。
 わたしは本州最北端、鉞(まさかり)形の半島を「下北核半島」と呼ん
でいる。
 たしかに沖縄は軍事基地の密集地帯で、住民に被害を与え続けている
が、ここは米軍のベトナム戦争に利用された、沖縄の嘉手納基地に次ぐ
巨大な三沢基地ばかりか、自衛隊の陸海空の基地と原発、核廃棄物など
の核施設の密集地帯である。
 「さようなら原発」運動の有志たちの間で、それを見学しようという
企画がもちあがったので、わたしの古くからの友人、「核のゴミから未来
を守る青森県民の会」事務局の伊藤和子さんを案内人に、18人ほどで半島
を一周した。
 ちょうど桜が散ったばかり、まだ初春の華やかさが漂っている。常緑
樹のヒバ林の間に、もみじの若葉が明るく燃えたっていた。
 最初に本州最北端、大間崎にあるMOX燃料専用炉・大間原発のすぐ
そばの「あさこハウス」を訪問した。
 かつては海岸に近い道からすぐ入れたのだが、周りの土地がすべて
電源開発に買収され、熊谷あさ子さんの畑と住宅へ行くには、県道から
有刺鉄線を張り巡らしたフェンスの間の長い道を行くしかない。
 道の入り口には見張り小屋があって、電源開発に雇われたガードマ
ンが一日中、出入りする人を監視している。フェンスに押しつぶされ
そうな狭い道を歩くだけで気が滅入ってくる。あさ子さんは電源開発
の社長が二代にわたって説得に来たが、クビを縦に振らなかった。
 「わい(われ)は海と畑があれば食っていける。海と畑がなくなると
食っていけない」。ゆるぎない哲学だった。
 まわりの土地は全部買収されても、ここだけは買収されなかった。
 それで電源開発は、炉心の予定地を変更する設計に変えた。
 申請した設計図を変更したのは、蓋(けだ)し原発史上はじめてで
あろう。
 あさ子さんは私が取材した後、2006年、畑にいたツツガムシに刺され
て死亡した。
 そのあとを北海道で暮らしていた長女の敦子さんが継ぎ、そして、
その娘の奈々さんが「ここを社会活動の希望の場所にしたい」と継ぐ
決意だ。
(2025年5月21日「週刊新社会」第1403号8面「沈思実行」(241)より)

◆親子三代の反原発(下)

 電源開発が下北半島に建設中の大間原発は、津軽海峡を隔てて北海
道・函館山と向かいあっている。「本州最北端の碑」が建つ大間崎に
計画され、長い反対闘争のあと、2008年に着工された。が、しかし、
いまだ原子炉は設置できず、がらん堂の建屋だけが虚しく建っている。 
 この海峡で獲れた大間マグロは、東京市場の新年初荷で、億単位で
セリ落される縁起物だが、原発の最後発、1基だけ建設の大間原発は
「フルMOX原発」という、困難な役割を押しつけられて、立ち往生で
ある。 
 前回、紹介したように、大間原発の建設予定地として、電源開発に
買収された広大な空閑地の中に、フェンスに取り囲まれてなお、「あさ
こはうす」は健在である。太陽光と風車を電源とするログハウスを建て、
気を吐いていたのが熊谷あさ子さんだった。 
 ここで農作業をしていたあさ子さんに、2代にわたって電源開発の
社長が説得に来た。「1基だけつくらせてください」と1億円を提示し
た、という。「1基も2基も同じだべな」。「わい(われ)は海と畑が
あれば食っていける。海と畑がなくなると食っていけない」と追い返した。 
 その後を継いで抵抗し続けているのが、厚子さん、奈々さん親子で
ある。5月、「さようなら原発運動」の有志で訪問した時、奈々さんは
不在だったが、メッセージを母親に託していた。 
 「ここは海沿いの北限の場所柄だったり、慢性的な資金不足と圧倒
的な人手不足もあって、ひどく寂さびれたように見えるかもしれません。
確かにこれが実際の女ひとりの限界ではあります。 
 ただ、私が感じて欲しいのは表層に見える至らなさではなく、このあ
さこはうすを熊谷あさ子亡き後も、たった一人で守り続けてきた、熊谷
厚子の志を信念を感じて欲しいのです。守っているのは土地だけではな
くて、おばあちゃんが志半ばで遺した願いや信念も一緒に守っているの
です。 
 私はきっと2人が守っているこの場所が、いつかこれからの社会活動
の希望になる、と思っています。」

 (2025年5月28日「週刊新社会」第1404号8面「沈思実行」(242)より)


〔815〕16波「東海第2原発再稼働反対統一行動」、初めて旭が丘団地で取り組みました。

2025年06月07日 | 市民運動


 本日は2025年6月7日(土)、清瀬・憲法九条を守る会(創立20年)と清瀬・くらしと平和の会(創立10年)合同で、16波「東海第2原発再稼働反対統一行動」に参加しました。
  今までは清瀬駅ペデストリアンデッキや清瀬駅南口で行うことが多かったのですが、初めて旭が丘団地で取り組みました。清瀬市議3期目のふせ由女の地元ということになります。
  「東海第2原発再稼働反対統一行動」は今回、栃木、埼玉、千葉、神奈川そして東京の36団体が参加しています。3か月に1回ぐらいの取り組みで、今回は16回目になります。
  人通りは多くはなかったのですが、ふせ由女の市議会報告などのチラシの受け取りが多かったので嬉しかったです。
  
  本朝の朝日新聞の一面に「東電旧経営陣 賠償取り消し」という文字が踊りました。東京高裁のあり得ない不当判決です。世界最悪の未曾有の原発事故を引き起こし、福島原発崩壊事故から14年経つというのに、未だ2万4千人が避難していて福島に戻れていないのです。これだけの事故を起こしても誰にもその責任がないというのです。そもそも原発は国の推進事業、国策ですよね。東電と国はその責任を回避できるはずもありません。
  まだまだ私達は「東海第2原発再稼働反対統一行動」を続けるしかありません。

 

◆いのちと人権を守る
                   鎌田 慧(ルポライター)

 18日。日本女医会に呼ばれて横浜に行った。第70回定時総会のあと
「冤罪と死刑〜人質司法の現状〜」のタイトルで話した。
 死刑囚・袴田巖さんの無罪判決と石川一雄さんの冤罪者のままの病
死。喜びと悲しみ。そのふたつがまだ強く残る

 同会会誌(5月号)の「巻頭言」は「冤罪を通して人権を考える」
(前田佳子会長)「冤罪は重大な人権侵害であり、その最たる場合が死
刑判決です。「人間の尊い生命を奪う不可逆的な刑罰について関心を持
ち、考えていただきたい」との訴えである。

 この会は1902(明治35)年に創立された。女性医師同士の交流や医学
の研究、普及ばかりか、男女共同参画の実現をも目指す、世界でもっと
も古くからある女性医師の会だが、わたし不勉強だった。
 お医者さんにはこちらから教えてもらったり、お願いしたりする関係
だけで、呼ばれることなどなかった。

 が、交流会で何人かの女性医師とお話しして知らされたのは「さよう
なら原発」の集会に参加されたり、夫婦別姓の運動で街頭に出ていたり
は普通だったのだ。
 運動の中では「救急班」のお医者さんとしか交流がなかったが、その
日は、甲状腺の病気を患った福島の子どもを診てきたかたなども参加さ
れていた。
 いのちばかりか、人権も守る医師との連帯。
 このことに思いが至らなかった自分が恥ずかしかった。
      (5月20日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)

 ■伝えたいことを書く(上)&(下)
     鎌田 慧 連載コラム   「沈思実行」紹介
  新聞やNHKニュースがSNSに 排除され始めた理由、
  プラス「カネ」(広告費)
  「言いたい事」よりも「言わなければならない事」を紹介し続ける
  「週刊新社会」の連載より
   
 ◆ 伝えたいことを書く(上)

 トランプのような人を人と思わぬ傲慢さ、カメレオンのように相手に
よって体内色素を変える石破茂首相、パワハラ出世主義者・斎藤元彦兵庫
県知事。
 この人たちは人間観察の対象としては絶好だが、世界と日本の平和を
思えば不安な存在だ。
 その存在を生みだしたのが新たに登場した、旧ツイッターやフェイス
ブックなど、SNS。
 新聞、テレビなどオールドメディアは、場所を奪われたとも言われた
りする。

 新聞の客観報道主義やNHKニュースなどに顕著な親方日の丸主義。
その高みにいる姿勢が、身近な感情を優先するSNSに排除され始めた。
 筆者自身、活字世代でSNSには無縁な存在だが、若ものたちが新聞
ばかりか、テレビさえ見ないというのは、上品ぶった中立主義と権力主
義、その中途半端が嫌われているようだ。

 たとえば、原発報道が典型だったが、福島第一原発事故まで、原発
反対の論調はまったくなかった。
大本営発表の延長だった。「原発はイエスバット」だったと、朝日記者
から聞かされていた。
 今では信じられないのだが、つまり、原発は賛成。事故があった時は
批判する、というようなスタンスだった。
 事故と言ってもトラブルのことで、運転トラブルや、事故手前の小さ
な事故は、めずらしくなかった。ひとつの事故の背後には、無数の事故
がある、というのは安全管理の鉄則だ。だが、原発に限って「安全神話」
だった。

 それを振り撒く学者たちも自己催眠に陥っていた。もっとも危険な
存在だからこそ、「事故はない」「もっとも安全」と強調された。

 もう一つの武器は、「カネ」だった。原発は巨大なスポンサーだっ
た。原発立地点の新聞には、毎週のように全面広告が載った。個別の
電力会社ばかりか、電気事業連合会、政府、それらが寄ってたかって、
広告を出していた。

 福島第一原発事故の後、大江健三郎さん、坂本龍一さん、澤地久枝
さんなどと「さようなら原発」運動をはじめたのは、それまでは原発の
ことを書くだけだったからだ。
     (2月26日「週刊新社会」第1392号『沈思実行』(230)より)

◆伝えたいことを書く(下)

 国境なき記者団が発表する、日本の「報道自由度ランキング」は、
昨年70番目と前年より2ランク下がった。大統領の冗談か、と思われる
フェイクが横行している米国でさえ55位。G7ではもちろん最下位だ。
信じられないほどの日本ジャーナリズムの現在地だ。

 前回も書いたが、日本ジャーナリズが信頼を失ったのには、原発を
推進したことが大きい。過剰とも言えるほどの広告費に買収された形
だった。たとえば、福島事故が起きたあと、わたしは大江健三郎、坂本
龍一、瀬戸内寂聴さんなどと「さようなら原発運動」をはじめた。
その年(2011年)の9月19日、最初の大集会を信濃町の明治公園で開催、
6万人だった。 

 この時、某紙の記者がきていたので、記事にするのでしょう、と聞い
たのだが、「さぁ」との答えだった。驚いた表情を見て「都内版」に入
れるように言います。その時は掲載予定になかったのだ。「ニュース
価値」とは、社会的価値ではなく、新聞社の判断、忖度によるのだ。 

 俄然、がんばって読者を一気にふやしていたのが、東京新聞だった。
一面に空撮写真つきで大きな記事を掲載した。「『3・11』をもって、
東京新聞は1面に載せる記事の「主役」を権力側から「民」の側に明確
に切り替えた」(菅沼堅吾『東京新聞はなぜ、空気を読まないか』)。 
 東京新聞は翌年7月16日の集会写真を1面上3段抜きで掲載。「さよ
うなら原発『17万人』集う 酷暑の中 最大規模」と大記事で報道した。
2面は登壇、発言した全員の写真と挨拶を扱った。 

 同紙の編集局長を務めた菅沼堅吾さんは「関東防空大演習を嗤わ
らう」(1933年)の論説を書いて陸軍を激怒させた、信濃毎日新聞の
主筆・桐生悠々の言葉にこだわってきた。 
 「言いたい事」よりも「言わなければならない事」を紹介し続けて
きた。この著書の基調は「気構え」である。それが権力と対決する精神
であろう。新聞の最大の使命は、戦争を防ぐことだ。 

「蟋蟀( こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜」( 桐生悠々)。
巻末に引用されている。
          (3月5日「週刊新社会」『沈思実行』第231回より)


〔814〕「事故/事件はなかったことにされてしまいました」(ヘリ基地反対協・辺野古ぶるー 千葉さんの裁判を支援する会ニュース)。

2025年06月01日 | メール・便り・ミニコミ

 「ヘリ基地反対協・辺野古ぶるー 千葉さんの裁判を支援する会ニュース」(12号、2025年4月)が届きました。
  事件のあらましや裁判の決定について琉球新報は「地裁、原告の主張退ける 辺野古ボート訴訟 衝突は『軽微』」として次のように伝えています(2025.3.12)。
「名護市辺野古の新基地建設に反対するためカヌーに乗って抗議活動をした際、海上保安庁の硬式ゴムボート(GB)2隻に衝突されるなどしてけがを負ったとして、名護市の千葉和夫さん(81)が国に損害賠償を求めた訴訟で、那覇地裁(片瀬亮裁判長)は11日、原告の千葉さんの訴えを棄却した。片瀬裁判長は、GBとの衝突は「軽微なもの」で、海保の対応は、刑事特別法違反に当たる「犯罪の続行、拡大を防ぐため」に適法だったとした。
             (途中略)
「判決後に取材に応じた千葉さんは、『死ぬかと思い、後遺症にも悩まされた事故を正当に評価していない。許しがたい判決で、控訴を検討する』と述べた。」
 
  不当判決です。

                           
◆「開かずの扉」を開く
  やり直し裁判は、人間的な義務のはず

                                鎌田 慧(ルポライター)

 誤認逮捕や誤判は、ひとりの人間の運命を暴力的に変える。いったん
罪に陥れられると、権力的なメンツもあってか、なかなか過ちを認めな
い。
 再審の門戸はあまりにも狭い。「過ちて改めざる、これを過ちとい
う」。やり直し裁判は、人間的な義務のはずだ。
 1911(明治44)年1月、「大逆事件」で幸徳秋水、管野須賀子など23名
とともに死刑判決を受けた坂本清馬は、翌日、他の11名と無期懲役に減
刑された。「天皇暗殺」とは実行計画など全くない「総て煙の様な過去
の座談」(管野須賀子)でしかなかった。

 「証拠は薄弱だが、関係ないはずがない」「そこで不逞の共産主義者
を尽(ことごと)く検挙しようと云うことに決定した」「邪推といえば邪
推の認定」と、17年後、小山松吉検事総長が、思想係検事会で語って
いる。
 幸徳など12名は処刑された。無期懲役12名と有期刑2名は、秋田監獄
4名、諌早6名、千葉4名と分送された。

 獄中23年。1934年に仮出獄した坂本は、大逆事件判決から50年を迎え
て、1961年、処刑された森近運平の妹とともに、東京高裁へ再審請求の
裁判を起こした。
 「青天白日であり、白の白であり純の純であり、無罪である」と坂本
は力いっぱい主張した。
 が、1965年、同高裁棄却。1967年、最高裁大法廷が特別抗告を棄却。
 1975年、気道閉塞で死去。89歳の生涯だった。
        (5月6日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)

 ◆下北核半島を歩く
  「虚構の核燃料サイクル」に終止符を打つ

                           鎌田 慧(ルポライター)

 「さようなら原発」運動の有志と2泊3白で、青森県の下北核半島を
まわった。
 わたしが「核半島」というのは、原発ばかりか、ウラン濃縮、使用済
み核燃料再処理、MOX燃料加工、高レベル放射性廃棄物貯蔵、低レベ
ル廃棄物最終処分、さらに「使用済み燃料中間貯蔵」などの核施設が、
集中しているからだ。
 いまもまだ「核燃料サイクル」などと、まるでプルトニウムを核燃料
として永遠に回転させるような夢が語られている。

 が、すでに「夢の増殖炉もんじゅ」は破綻、「サイクル」は傾いて
いる。
 肝心の再処理工場は1993年に着工したが、32年たっても完成せず、27
回も延期宣言。再処理工場が完成しなければ核廃棄物の捨て場を探さな
ければならない。

 下北核半島は最も危険な核施設と核廃棄物が密集し、さらに米軍三沢
空軍基地、空対地射爆場、海空の自衛隊基地があり、沖縄に匹敵する危
険な「犠牲区域」になっている。
 再処理工場が完成しなければ、核燃料サイクルは原発を維持するため
の巨大な虚構と化す。

 これまで日本の核廃棄物の再処理を依頼していた英国で「核燃料サイ
クル」を断念。「貴重」な使用済み燃料はゴミ扱いとする。
 各地域の個別な原発反対運動がこれから「虚構の核燃料サイクル」に
終止符を打つのにどう関わっていくのか。
 その課題をかみ締めるツアーだった。
        (5月13日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)


〔813〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」5日目(最終日)、願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)に途中下車。

2025年05月25日 | 旅行記

◆5月16日(金)    5日目(最終日)
⑮願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)
 一路清瀬へ

  ホテル、il Regalo イルレガーロは五色沼入口の素晴らしい風景の中に鎮座しています。イルレガーロはイタリア語でプレゼントの意だそうです。宿泊者は我々だけだったようです。食事は1階のレストランで摂ることができます。窓際の真ん中のテーブルを用意してくれました。彼方には磐梯山が鮮やかに見えます。手前には我が家の車、絵の中に存在しているようで不思議な感じでした。


  さて、最終日はあまり遅くならないように帰宅しようと思ったのですが、妻のために私のお薦めの国宝の願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)に立ち寄ることにしました。国の重要文化財の仏像が数多く拝観できます。


 私は以前に職員旅行で来たことがありました。私の発案企画でしたが、参加者はみんな喜んでくれました。
  私達以外の訪問者は1組だけでした。素晴らしい景色で妻も満足したようでした。

  自宅まで東北自動車道より数十㎞長い常磐自動車道でしたが、途中休みを取りながら暗くならないうちに清瀬に帰れることになりました。たぶん、全走行距離は1000㎞くらいでしょうか。若いときに北海道をレンタカーで走った距離は1200㎞くらいでしたが、まあ、よくこの歳で頑張りました。読んでくださった皆様も、お疲れ様でした。


〔812〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」4日目、一度は行ってみたかった大内宿、さざえ堂、諸橋近代美術館。

2025年05月25日 | 旅行記

◆5月15日(木)  4日目
  丸峰観光ホテルから大内宿まで山道を14~15km
⑫大内宿…福島県南会津郡下郷町大内
  ☎0241-68-3611               
 ここからさざえ堂まで37~38km
⑬さざえ堂…会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404
 ☎0242-22-3163
⑭諸橋近代美術館(ダリ作品多数)…福島県耶麻郡北塩原村檜原剣ケ峯1093-23
 ☎0241-37-1088
 ホテル、il Regalo イルレガーロ着

  前日、夕食を摂る適当な食事処がなく、丸峰観光ホテルで頼んだところ、1人6600円とは目玉が飛び出ました! バイキング、和洋食何でもござれで、それはそれで満足できたのですが、なにしろ凄い人数で少々落ち着きませんでした。でも風呂場は大きい温泉でのんびりできました。

  この日も折角来られた会津の古仏拝観を再度目指したのですが、ことごとく空振りでした。でも1度は行ってみたかった大内宿、さざえ堂、諸橋近代美術館に赴くことができました。
  大内宿に向かう山道はそれほど広くはないのですが、行き交う車のスピードはかなりのものがあります。慎重に無事故を心がけて運転しました。
  朝早いということもあり大内宿はそれほど混雑していませんでした。のんびりゆったり散策を楽しみました。


  途中に「大内宿 街並み展示館」があり入ってみることにしました。


  私達にとって一番の見どころは、階段を上ったところにある神社からの眺めでした。大内宿の街並みが一望の下です。ここに上って初めて大内宿に来た甲斐があったことを実感しました。

 さざえ堂は大きな建物ではないのですが、上り階段と下り階段が交錯しない不思議な造りになっています。世界でも珍しい建造物だそうです。

 会津の古仏拝観が思うようにできなかったので、ならば明日の予定を少し早めてこの日に諸橋近代美術館に行ってしまおうと意見が一致しました。


 諸橋近代美術館は素晴らしいロケーションの中に佇んでいました。通常の美術館巡りの3分の1ぐらいのスピードでゆったりのんびり、丁寧に館内を巡りました。
 ダリ作品が400点以上もあり、ダリ作品に関してはアジア1の所蔵数といいます。
  ちょっとびっくりしたのはダリの彫刻作品がかなり多かったことです。絵画の中から飛び出してきたような、これぞダリ!という作品が目白押しでした。
  撮影可能だった絵画や彫刻、館内からの風景などご覧いただきましょう。