後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔258〕自衛隊を派遣することよりも、もっともっとやることがあるのではないか…「杉山家三代」が放映されます。

2020年04月02日 | メール・便り・ミニコミ

 いつも有益な興味深い情報を送ってくださる矢部顕さんからのメールです。

●福田三津夫様

4月8日のNHKBSの番組「英雄たちの選択」で「中国大返し」
の放映のことはお知らせしました。かな(?)
我が家の裏山の亀山城跡で取材撮影がありました。

4月14日 NHKBSの『プレミアムカフェ』で「杉山家三代」が
放映されます。
三代の杉山龍丸さんは、昔私がお世話になった方です。

杉山龍丸さんのことを書いた拙文「緑の父と呼ばれた日本人」を
添付します。
ご笑覧ください。              
                            矢部 顕


というわけで、今回は〔「緑の父」と呼ばれた日本人〕という力の入った文章を転載させていただきます。
まずは、NHKBSの『プレミアムカフェ』「杉山家三代」の案内からです。


◆ 「緑の父」と呼ばれた日本人
                                         矢部顕

 9月の博多の街は「福岡アジア・マンス」という催しが開催されていて、あちこちでイヴェントが行われている。アジアフォーカス福岡映画祭、アジア福岡文化賞授賞式、アジア国際見本市、アジア漫画展、児童絵画交流展、アジアの村と村人写真展、ほかにもいろいろ。市役所前の広場では、アジア各国の屋台に舌鼓をうったり、民族舞踊を鑑賞したり昼夜賑わっている。91年の「よかトピア」(アジア太平洋博覧会)以降続いている行事らしい。「アジアに向かって開かれた国際都市・福岡」のスローガンの流れのもの。悪くはない。九州は、そしてこの福岡は、有史以前から外国とりわけアジアとの門戸であったことは確かな事実なのだから。

 明治時代、脱亜入欧をめざして日本が邁進の時代、福岡に玄洋社という政治結社があった。「自由民権運動のなかで誕生した玄洋社は、国権主義、大アジア主義へと旋回し、時に武闘主義に踏み込みながらも、一貫して、近代化を急ぐわが国の『あるべき姿』を求め、その行く末を憂いてきた。同時に、中国・孫文、朝鮮・金玉均、インドのラス・ビハリ・ボース、フィリピンの独立運動家などなど、祖国愛に燃える多くの人々を支援してきた」。それは私利私欲とは無縁の、西欧列強の圧制のなかでの「アジアはひとつ」という燃えるような思いからだったという。
 ガンジーとともにインド独立運動の指導者だったラス・ビハリ・ボースの政治亡命を玄洋社は新宿中村屋に頼み、そこで彼はインド式のカレーライスの作り方を教え、それから日本にカレーライスが広まったというエピソードがある。
 玄洋社に結集した人には頭山満、広田弘毅、中野正剛、杉山茂丸……。数々の人材を輩出し、1946年にG.H.Q.(連合国軍総司令部)によって解散を命じられるまで福岡を根拠地とした結社だった。

 杉山龍丸さんにお会いしたのは福岡国際文化福祉協会設立(1968年4月)のころだった。龍丸さんが招聘されたインド・ガンジー大学副総長カカ・カレルカル博士一行を奈良、伊勢へ案内する乗用車の運転手を奈良の紫陽花邑から仰せつかった時が最初だったか。背が高く痩身、白髪、長いあご鬚、まさしくインドの哲学者風のカカ氏とその一行。なにか時代が遡った雰囲気のなか大神神社や伊勢神宮を訪れた記憶がある。
 私たち学生の仲間は龍丸さんからインドの話を夜を徹して聴くことができた。仮眠しただけで、次の日も精力的にきめ細かにインドの方々の案内を杉山流英語でなさっていたそのバイタリティに驚いた。
 らい快復者社会復帰セミナーセンター・交流(むすび)の家建設運動のカンパ集めの街頭募金と、らい差別撤廃のアピールのために九州地方一周キャラバン隊のトラックで博多を訪れた時、宿舎の手配から夕食のご馳走までお世話になった。あの時私たちが泊めていただいたのは東公園のなかのお寺だったような、近くに巨大な日蓮上人の銅像があった記憶がある。ご馳走になったのは中洲だったか今となれば定かでない。

 「インドに日本は支援として工場をプラント輸出し建設、稼動しているが、民衆はそれで幸せになるのではない。そこで働ける人はごくごくわずか。インドはあまりにも膨大な人口をかかえた国。生活に必要なものを自分たちで作る技術を伝えたい。日本の手工業の技術や職人の技を全土にひろがるガンジー塾で教えたい。ガンジーが糸紡ぎを奨励したように」。少年の目の輝きで夢を語ってくれた。手工業、井戸掘り、緑化事業、……やることは山ほどある、と。その頃お歳は50歳ぐらいだっただろう。
 旧制福岡中学卒業後、陸軍士官学校を出て航空技術将校となる。ボルネオの基地で機銃掃射にあい負傷。病院で敗戦をむかえる。戦後、士官学校で同級だった人である僧侶からインド人の世話を頼まれたことが契機でインドにのめりこむようになった。ガンジー塾体験から、日本におけるガンジーの弟子となることを決心された。

 やがてインドでの緑化事業支援が本格化。民衆の暴動を恐れ農耕具まで所有を禁じた歴史のなかで、荒廃した大地を取り戻すには植林が最優先と思われたのだろう。
 木のない山々、砂塵舞う大地、水のない村、貧困にあえぐ民草、ひとたび雨が降れば洪水が襲う歴史の繰り返し。ガンジー塾の指導者たちと6ヶ月間(1962~3年)もインド中を歩きまわったときに龍丸さんの脳裏に焼きついたものは何だったのだろう。
 ハリアナ州シュワルク・レンジは虎と毒蛇の棲家で荒廃した山岳地帯。地元の人も怖くて近寄らない場所ということだが、ここを森にすることで裾野の村は救われる、と木を植えることを始めたひとりの日本人。
 砂漠と荒野を緑化する方法の研究と実践に資金をつぎ込んでいった国際文化福祉協会は莫大な借入金をかかえ運営されていたが、その返済には祖父の代からの杉山家の土地が切り売りされていった。
 祖父は玄洋社の杉山茂丸。中国革命の指導者・孫文と協力して、朝鮮半島から中国東北地区蒙古の乾燥砂漠化に対処するという課題に取り組み植林計画を考えていたようだ。父は怪奇小説作家・夢野久作(杉山泰道)。祖父への反発から文学にのめりこみ、日本文学史におさまることのできない独自の境地をもった作家。『夢野久作』(日本推理作家協会賞受賞)という本を鶴見俊輔氏が上梓されている。祖父と父は龍丸さんが旧制福岡中学に在学中に相次いで亡くなられ、17歳で杉山家を継いだ。
 福岡市東区唐原にあった4万5000坪の杉山農園は今その名残すらない。かつて私たちが機関紙などを送る封筒の宛先は、福岡市唐原 杉山龍丸様、これだけで届いた。博多駅からJRで15分ぐらいの都心にきわめて近いそこは、住宅地、病院、ゴルフ練習場に姿を変えている。
 「金をおいもとめる敗戦後の日本社会では、大都市に4万5000坪の土地があるとすれば、これをもとにして土地ころがしで金をふやしていく計画をたてるのが常識である。その常識に反して、4万5000坪の土地をすべて使い切る道を歩き終わった人がひとり同時代にいた」。(鶴見俊輔氏)
 龍丸さんを突き動かしたものはなんだったのか。

 龍丸さんの長男・杉山満丸さんと博多でお会いし親しくお話をさせていただいた。杉山家の菩提寺が私の事務所から地下鉄で3駅の近さで、龍丸さんのご霊前にお参りしたことはあったが、満丸さんとお会いする機会を逸していた。九州産業大学付属高校の理科の教師をなさっている生物学者である。
 「やっと結婚しましてね。今までは親父の資料が2部屋以上占領していましたから、嫁さんに居てもらう場所がなかったんですよ」と冗談めかして語られた。国際文化福祉協会・杉山龍丸の軌跡を知る人は福岡にもほとんどいない。埋もれてしまった偉大な人物の資料を守り、いつか世に知らしめなければならない。やっと福岡市立図書館が資料の管理をすることになった。
 KBC(九州朝日放送)のTVドキュメンタリー番組制作で、満丸さんはインドを訪れ、シュワルク・レンジに行った。25年前に植えられた木々は立派な緑の森になっていて息をのんだ。荒れ果てた山岳地帯で恐れられ人が近づくこともなかったこの場所に、なんとリゾートホテルが建っていて、満丸さんたち番組制作クルーはそこに宿泊して取材したという。そして龍丸さんと共に汗を流して木を植え、灌漑池をつくってきた無名の人々や農業大学の教授たち、農業試験場の人々と、各地で会ってきた。
 龍丸さんを顕彰する碑などというものはどこにもない。ある名もない村の中央広場に塀で囲まれた2本の木があり、「杉山の木」と呼ばれていたという。
 しかし、インドの人々の心のなかに龍丸さんは生きている。
 「インド独立の父はマハトマ・ガンジー。そして、緑の父は杉山龍丸」。
 口々に語られたこの言葉。これ以上の評価はあるだろうか。

 かつて人間社会の文明化は木を森を収奪することの歴史だった。世界四大文明といわれる地域もいまはすべて砂漠だが以前は森だった。森を拓き畑をつくり、住居を木で建て、燃料も木、輸送手段の船も木でつくり、大量の木材を消費するのが巨大文明だった。他でも、例えばギリシャはいま禿山の岩山に変わり果てている。石の建造物のみが残っているが、屋根だって調度だってみな木材だった。万里の長城の膨大なレンガは木材の燃料によって焼き上げられた。そのために消費された森林は想像を絶する量で、そのために中国の大地は砂漠化していったこともひとつの事実。
 そもそも小麦生産中心で牧畜を伴う文明は森の殺害が激しい。インド、エジプト、中国しかりである。さいわい日本は農業国家になったのが遅く、それも稲作農業で、水を必要とするため平地に限定され、牧畜を伴わないため森林が伐採されて牧草地になることがなかったことがいえる。

 「森は、木は、人間が収奪するために存在する、として疑わなかったインドの人の意識を親父が変えたこと。このことのすごさに感動した」。
 若き日に龍丸さんと共に木を植え、いま村の長老になっている人が2人の孫をかかえながら、「杉山さんに会った人はみんな彼を信頼しました。そして、将来もこの子たちが杉山さんの教えを受け継ぎ、緑の村をつくっていくでしょう」と語った言葉に、満丸さんは親父の成し遂げたことの偉大さを言葉にならないほどの感激をもって知った。
「高名な学者でもなければ、政治家でもない外国人の親父を何故インドの人は受け入れたのか?」ずっと持ちつづけていた疑問の答えの一端が見えた。父が植え大きく成長した木を抱きしめ、豊かな土壌になった大地に接吻した。
 福岡市唐原の杉山農園は跡形も無く消えた。明治時代、杉山茂丸が夢みたアジアの青年のための農業研修の場としてどれくらい機能したかは知らない。だが数奇な運命をたどった杉山農園は姿を変えてインドに生きている。
 玄洋社の「アジアへの燃ゆるまなざし」は、茂丸の孫・龍丸さんのなかに生きつづけたといえよう。
 日本では高度経済成長の時代、龍丸さんの仕事や提言はほとんど評価されなかった。
 インド北西部タール砂漠の緑化に挑戦しようとしたやさき刀折れ矢つきた。無念……。
 1987年9月、福岡県小郡市の病院で69歳の生涯を閉じた。

 「おまえには1円の財産も残さない」といわれ育ってきた満丸さんは、大学を卒業して博多に戻ってきた。戻ってきてよかったと思っている。
 ある出版社が青少年のための本・杉山龍丸の生涯『グリーン・ファーザー』を出版しようと準備をすすめている。刊行が待ち遠しい。
 いま当時とは比べものにならないほど地球規模の環境問題や国際協力が叫ばれている。時代は変わり、たくさんの人々が、組織がこれらの問題にかかわっていながら、彼の仕事と人生から学ぼうとする人は未だいない。
 西欧文明に追いつこうとし、科学技術の飛躍的進歩でゆたかな富を手に入れ突き進んできた果ての公害や自然破壊の今の時代。忘れ去られたものにようやく気づき始めた。西欧近代思想の人間優位の哲学、自然征服を善とする思想とは異なり、自然と人間が一体だった時代が長く、自然との共生の智慧をたくさんもっていた日本人の自然観や生命観。人間は自然の中で何ら特別な権利などもってはいない。自然支配ではなく人間と自然が共存する思想を、今の私たちが蘇らせることが必要なことはいうまでもないが、それをもって世界に発信することができないものか。
 私たちの近くに誇るべき偉大な先達がいた。
 国際貢献とやらで自衛隊を派遣することよりも、もっともっとやることがあるのではないか。
                                                    (2001.9.23.)

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