後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔587〕ユーレイルパスを取得するときには「旅de九条の会」が便利です。

2023年05月19日 | 旅行記
 今年の夏は十数回目のドイツ旅行を予定しています。正確に言えばドイツを中心とした数カ国の旅(フランス・デンマーク・スイス・オーストリア・イギリス・イタリア)になります。
 友人の家に泊めてもらうことも多いのですが、もちろんホテルにも滞在します。ホテルの予約は連れ合いが一手に引き受けてくれています。
移動手段は友人たちの車の他は鉄道とバスになります。
 鉄道利用に欠かせないのがユーレイルパスです。いちいち切符を買う手間が省けます。鉄道だけでなくバス利用も可能の場合があるようです。今回の旅行も座席指定だけは除いて全線使用が可能になりそうです。

 このユーレイルパスの取得の世話をしてくれるのが「旅de九条の会」です。岐阜県各務原市のある旅行会社です。連れ合いが、どうせお世話になるなら、私たちの信条に近い会社が良いというので探し出したのです。責任持って丁寧に対応してくれる会社で満足しています。

 今回、パスと一緒に「ウクライナに平和を」という声明や東南アジア平和友好条約、2種類の署名が特製のクリアファイルで送られてきました。







◆次は狭山事件再審開始へ
  袴田事件の再審決定
鎌田 慧(ルポライター)

 袴田事件の再審請求。東京高裁前の支援者から「開始決定」との電話
がきた。ほっとした。姉ひで子さん(90)の喜びを思った。長年にわ
たって弟の巌さん(87)の無実を訴えてきた。
 彼は死刑判決を受けた後、執行の恐怖から、解離性同一性障害という
のか、「袴田巌」である自分を否定するようになった。

 9年前、静岡地裁の村山浩昭裁判長は「証拠が捜査機関によって捏造(
ねつぞう)された疑いがある。拘置をこれ以上継続することは耐えがたい
ほど正義に反する」と明快な判断を下した。
 ところが、検察側が面子(めんつ)のために即時抗告して、ようやく再
度の再審開始決定。検察の横車、 悪あがきが断罪された。

 検察は人間の道に反するこれ以上の抵抗はやめるべきだ。これまでも
いくつかの再審開始や無罪判決の場に立ち会ったが喜びと同時にやり切
れなさを感じてきた。どうして警察や検察は自分たちの過ちを認めない
のか。裁判官はなぜ正義を発揮しないのか。「疑わしき 「は罰せず」。
それが人間一を救う道なのに。

 2月下旬の日野町事件の再審開始決定でも検察側は抗告している。
 この野蛮は法的に規制すべきだ。5月で事件発生から60年になる「狭
山事件」の再審開始が、次の課題だ。石川一雄さんは84歳になった。仮
釈放されているが、いままだ「見えない手錠をかけられている」と
訴えている。
 (3月14日「東京新聞」朝刊25面「本音のコラム」より)

〔224〕14度目の渡独はドイツの友人の結婚式出席とマニアックな中世ドイツの彫刻群歴訪でした。

2019年08月20日 | 旅行記
 久しぶりのブログになったのは3週間の渡独のためです。帰国して1週間、ようやく時差ボケが抜けてきましたので、その報告をしておきましょう。
 7月25日に日本を発ったのですが、それまでの東京は冷夏と言ってもおかしくない天気が続いていました。ようやく2,3日前から「日本の夏」が戻ってきた頃でした。フランクフルト空港に着くとそこは「猛暑のヨーロッパ」でした。何しろ数日前にパリが45.7度になって死者が出たというのですから。幸運なことにこの暑さは2日で終わりになりましたが。
 妻の若い友人シルヴィアとクラウスの結婚式があったのはルートヴィッヒスブルクというところでした。海外での外国の人の結婚式は初めてだったので、さすがに驚くことが一杯ありました。
 新教の教会での結婚式で午後2時スタートしました。参加者は100名はいたでしょうか。牧師さんが中心の1時間ほどのセレモニーが終わりましたが、教会の外でちょっとしたパンなどの食べ物とシャンパンやビールなどの飲み物が振る舞われました。花嫁のブーケトスや白鳩を放したり、稽古着でそろえた柔術の仲間のお祝いエールなども続きました。
 妻は着物で参加して、注目を浴びていました。私は夏場の礼服を新調して臨みました。重い革靴などもトランクに詰め込んだので海外での式は結構大変でした。
 祝賀会は夕方からで会場はホテルのレストランでした。新婦の父親の挨拶、新郎新婦2人のダンス、柔術仲間の踊りなどのパフォーマンスが延々と続くのです。さすがに私は時差ボケ、妻は着疲れがあり、夜の11時頃部屋に戻ってきたのですが、会は続いているようでした。深夜12頃突然花火が打ち上がりました。実はこの会が終了したのが朝の3時頃というのですから彼らのスタミナには驚かされます。

 ところで結婚式の話はこれくらいにして、次の渡独の大きな目的、中世ドイツ彫刻を訪ねる旅の話をしましょう。

 妻の福田緑は中世ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーに魅せられ、写真を撮り続け、日本初の写真集を3冊出版しました。(『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』いずれも丸善プラネット発行)今年写真展を企画していることはいずれお知らせします。
 彼女はリーメンシュナイダー本人の作品、工房、シューレ、リーメンシュナイダー系の作品を彼女の計算では九十数%見たというのです。ここで彼女の旅は終わりませんでした。リーメンシュナイダーと同時代の個性的な作家たちが気になり始めたのです。それを焚き付けたのが私ということになります。そこで今回は主に、リーメンシュナイダーと同時代の作家たちの作品を訪ねるということになったのです。
 種本は次の3冊のドイツの本で翻訳はありません。ハンス・ラインベルガー、ペーター・デル(父)の作品巡りが中心ですが、それにニクラウス・ゲルハールトが加わることになります。

『Die Kunst der Bildschnitzer』(彫刻美術)B表記…ボーデ博物館で購入した大部な本
『Hans Leinberger』(ハンス・ラインベルガー)L表記…モースブルクの教会で購入した冊子
『Peter Dell der Altere』(ペーター・デル、父)P表記…フランケン博物館で出版したカタログ

 どのような作品を目指したのか、次に書き出してみましょう。旅の様子も少しは伝わるかも知れません。
 

■2019夏・中世ドイツ彫刻を訪ねる都市と作品、作者■

★7.25(木)三津夫フランクフルトに到着

★7.26(金)
●フランクフルト リービークハウスで研究者の Stefan Rollerさんに初めて会い館内を案内していただく。同館で出版した大冊『ニクラウス・ゲルハールト』のカタログをいただく。この本が旅のバイブルに加わる。

*ハンス・ムルチャー
・マリア・マグダレーナ St. Maria Magdalena(リービークハウス) B-103(『Die Kunst der Bildschnitzer』の103頁という表記)
*ここでは新規購入作品もあり、注目すべき作品が目白押しだった。

★7.27(土)Ludwigsburg にてシルヴィアとクラウスの結婚式 おめでとう!

★7.28(日)フライジンクで Weniger 家族の歓待を受ける!

★7.29(月)
●ランツベルク Landsberg am Lech 鉄道工事のためやむなく行くのを断念!
*ハンス・ムルチャー Hans Multscher
・聖母子像 Maria mit Kind(ランツベルク、マリア被昇天教区教会 Pfarrkirche Mariae Himmelfahrt)B-K1

●アウクスブルク Augsburg
*ダウハー Dauherまたはアドルフ・ダウハー Adolf Daucher
①キリストを支える像 FuggerKapelle(聖アンナ教会 St. Anna) B-141
②6人の天使 Vier Putti?  同上
③オークの箱(?)Eichner Kasten (アウクスブルク市庁舎、彫刻家の丸天井の部 屋 Baumeistergewolbe des Augsburger Rathaus)
④ジンペルトゥス祭壇と早朝ミサ祭壇 Simpertusaltar & Fruhmesaltar (聖ウルリヒ・アフラ 教会 St. Ulrich und Afra)
*グレゴール・エアハルトGregor Erhart
⑤聖母像 Madonnenfigur (アウクスブルク、聖ウルリヒ・アフラ教会 St. Ulrich und Afra)
⑥医師アドルフ・オッコーの祈念碑 Epitaph des Arztes Adolph Occo († 1503) (アウク スブルク大聖堂の回廊 Domkreuzgang Augsburg)
*ダウハーとグレゴール
⑦早朝ミサ祭壇 Frühmessaltar (アウクスブルク、聖モーリッツ教会 St. Moritz)

★ 7.30(火)
●レーゲンスブルク Regensburg
*ハンス・ラインベルガー、美しい聖母子像 Schöne Maria(レーゲンスブルク、聖カシアンSt. Kassian) P-74
*ペーター・デル、美しい聖母子像 Schöne Maria(レーゲンスブルク市歴史博物館 Museen der Stadt Regensburg, Historisches Museum)P-24

★7.31 (水)
●モースブルク Moosburg
*ハンス・ラインベルガー
・逆さづりレリーフ(4作品、モースブルク、教区教会) B-K92~95 Vier hl. Kasutuls Reliefs
・ペストのための奉納石碑 Pestvotiv(市教会Stadtpfarrkirche zu Moosburg) L-39
・磔刑像 Kruzifix (Stadtpfarrkirche zu Moosburg) L-45 
●ランツフート Landshut
*ハンス・ラインベルガー Hans Leinberger
①逞しい聖母子像 Maria mit Kind(ランツフート、St. Martin 聖マルチン教会) B-213~215
 =ローゼンクランツのマドンナ Rosenkranzmadonnna L裏表紙
②マリア戴冠 Kronung Mariens(ランツフート、Heilig-Geist-Kirche 聖霊教会)*ウムクライス L-37
③キリスト像 Christus in der Rast(ランツフート、聖ニコラ教区教会 St. Nikola) L-29
④聖ロクス Hl. Rochus(ランツフート市博物館 Stadtmuseum) L-31
⑤磔刑像 Kruzifix(ランツフート市博物館) L-41
⑥マリア戴冠 Kronung Mariens(ランツフート、Martinskirche マーチィン教会)*顔面破壊 L-35
⑦ピエタ Beweinung Christi(教区教会砂岩ランツフート南東ガイゼンハウゼン)L-25

★8.1(木)
●ミュンヘン München バイエルン国立博物館の研究者 Matthias Wenigerさんと再会
*ハンス・ラインベルガー
①(妖しい聖母子像)王座に就いたマドンナ Throende Madonna(前ポリング教区教会、 現ミュンヘンバイエルン国立博物館)L-47, B-K101
②キリストの磔刑 Kreuzigung Christi(バイエルン国立博物館) L-71
③マリア・グリコフィロウサ? Maria glykophilousa (バイエルン国立博物館)貸し出し中で見られない。 P-85
④聖ゲオルク Der hl. Georg(ミュンヘン、フラウエン教会 Frauenkirche, München)B-K98
*エラスムス・グラッサー Erasmus Grasser
⑤踊り子 Moriskentanzer(ミュンヘン市立美術館) B-K52
⑥悲しむマリアとヨハネ Die trauernden Maria und Johannes(ミュンヘン国立博物館) B-K53
*ペーター・デル
⑦悲しむ聖女と兵士 Trauernde heilige Frau und Krieger(ミュンヘン、バイエルン国立博物館) P-87
*グレゴール・エアハルト Gregor Erhart Wikiより
⑧二人の司教と聖ニコラウス Heiliger Nikolaus mit zwei Diakonen, 1501, Bayerisches Nationalmuseum
*ミッヒェル・エアハルト MichelGregor Erhart Hochaltar
①St. Maria in München-Thalkirchen

★8.2(金)
●ニュルンベルク Nürnberg 
*ペーター・デル
・(6人の女)7つの大罪のうちの6つの寓意 Sechs Allegorien der Sieben Todsunden(ニュ ルンベルク、ゲルマン国立博物館) P-42, 43
・(キリストのいない)磔刑像 Kreuzigung Christi(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館) P-29
・聖セバスチャン Hl. Sebastian(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館) P-23
*オットーボイレンのマイスター Meister von Ottobeuren
・聖マルティンと聖バルバラ Die hll. Martin und Barbara(ゲルマン国立博物館) B-K86
・聖ゲオルグと聖マルガレータ Die hll. Georg und Margareta(ゲルマン国立博物館)B-K87
*聖セバルドゥス教会 St. Sebald ファイト・シュトス、アダム・クラフト、ペーター・フィシャーなど作品多数

★8.3(土)
●ネルトリンゲン Nördlingen
*ゲルハールト Niklaus Gerhaert
・マグダラナマリア Die hl. Magdalena B-K6、マリアMaria B-K7、ヨハネ Johannes B-K8、・キリスト Haubt den Gekreuzigten, aus einer Kreuzigungsgruppe B-K9(ネルトリンゲン、聖ゲオルク教会St. Georg)

★8.4(日)
●ホーエンローエ、エーリンゲン Hohenlohe-Öhrilgen 
*ペーター・デル
・新旧の結びつきにおける規則あるいは寓意 Von Gesetz oder Allegorie auf den Alten und den Neuen Bund(ノイエンシュタイン城 Schloss Neuenstein) P-110

★8.5(月)エーリンゲンからフランス国境近くのケールKehlに移動

★8.6(火)
●ストラスブール(仏)Strasbourg
*ゲルハールト、(自刻像)ある男の胸像 Büste eines Mannes(ドーム博物館 Musée de l’Œuvre Norte-Dame) B-K12

★8.7(水)
●ヴュルツブルク Würzburg
*ペーター・デル
・(磔刑像)ブルクブライトバッハ家の騎士フクス墓碑 Grabdenkmal für Ritter Fuchs von Burgbreitbach(ヴュルツブルク文化財団 Kunstreferat der Diozese Würzburg, Domkreuzgang) P-104
・(磔刑レリーフ)ビブラ家の皇帝直属領主コンラート墓碑 Grabdenkmal für Fürstbischof Konrad von Bibra(ヴュルツブルク、文化財団 Kunstreferat der Diozese Würzburg, Dom) P-12
・石の紋章 Wappenstein(ヴュルツブルク Museum für Franken) P-105

★8.8(木)
●アルンシュタイン Arnstein 
*ペーター・デル、(兵士墓碑)フッテン家のルートヴィッヒ墓碑 Grabstein des Ludwig von Hütten(アルンシュタイン、マリア・ゾントハイム巡礼教会 Pfarr-und Wallfahrtskirche Maria Sondheim) P-26

★8.9(金)
●グリュンスフェルト Grünsfeld 
*ペーター・デル、(磔刑像)ロイヒテンベルク家のヨハン4世方伯墓碑 Gramal für den Landgrafen Johann Ⅳ. von Leuchtenberg(グリュンスフェルト、聖ペテロ・パウロ教会 St. Peter und Paul) P-101  

★8.10(土)ルース・トーマス宅宿泊
●ダルムシュタット Darmstadt 
*ペーター・デル?、磔刑群像 Kreuzigungsguruppe(ダルムシュタット、ヘッセン州立博物館 Hessisches Landesmuseum) P-75

★8.11(日)ルース・トーマス宅宿泊
 午後はフランクフルトの Karmeliterkloster カルメル会修道院の巨大壁画(Jörg Ratgeb)を見た。

★8.12(月)ルース・トーマス宅宿泊
●グロースヴェルツハイム Großwelzheim, Karlstein am Main (Alzenauの近く、フランクフルトから30kmぐらい)
*ペーター・デル、聖母子像(グロースヴェルツハイム、聖ボニファティウス教会 St. Bonifatius, Großwelzheim) P-68

●ラートハイム Radheim(ダルムシュタットの東約1時間の所)
*ペーター・デル
・ローレンテイウス・聖母子像・洗礼者ヨハネ Hl. Laurentius, Muttergottes mit Kind, Johannes Baptist(ラートハイム、聖ローレンティウス教会 St. Laurentiuskirche, Radheim ) P-25

★8.13(火)フランクフルト出発、8.14(水)成田に無事到着しました!!


〔193〕掛け値なしに、波瀾万丈のドイツ周遊1ヶ月の旅でした。

2018年10月14日 | 旅行記
 9月7日(金)から10月5日(金)まで、約1ヶ月にわたってドイツを中心にベルギー、オーストリア、イタリアなどにも足を伸ばし、ヨーロッパ旅行を楽しんできました。連れ合いとの旅でしたが、彼女はドイツは15回目だそうですが、私はどうやら12回目ぐらいになりそうです。
 そんなわけで久しぶりのブログ更新になりました。市民運動や演劇教育に関することに対してもますます書きたいことがあるので、これからもお付き合いください。

 さて、今回の旅の最大の目的は、妻の新刊『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』(丸善プラネット)15冊をトランクに詰めて、お世話になったドイツの友人たちにお渡しすることでした。この写真集は245ページにもなり、紙質もいいのでかなりの重量になります。2人のトランクに分散させても相当に重くなりました。小さめの手荷物トランクやリュックにも分散させながら、エコノミークラスのトランクの重量制限、1個あたり23キロ以内ぎりぎりでパスすることができました。
 お礼参りの旅の様子については、妻のブログに詳述されるのではないかと思われるので、是非そちらも注目してください。

 私のブログでは、旅のもう1つの目的であるミヒャエル・パッハー祭壇巡礼、オーストリアからイタリアのチロルの旅をかいつまんで書くことにします。
 ミヒャエル・パッハーという画家であり彫刻家は日本ではあまり知られていませんが、イタリアのミケランジェロより40年ほど早く生まれ、ミケランジェロに匹敵するほどの力量のあるチロルの作家です。(妻の新著にわかりやすい年表が掲載されています)ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにある祭壇画が代表作ですが、なぜかあまり目立ちませんし、私たちもそれを見つけるのに時間がかかりました。今回の旅ではミュンヘンに立ち寄ったので、じっくり見てきましたが。
 2年前にアルテ・ピナコテークを訪れたときに、ドイツ語で書かれた『ミヒャエル・パッハー』(ルーカス・マーダースバーカー、ドイツ美術出版社、2015)という大冊を手に入れました。359ページもある大きな本で、何とかトランクに詰めて日本に持ち帰ったのです。そこにパッハーの13作品が紹介されていました。
 パッハーは現在の北イタリア、チロル地方にあたるブルネックに生まれ、ザルツブルクでなくなっています。作品の多くはオーストリアやイタリアに残されています。最も有名なのはオーストリアのザンクト・ヴォルフガング教会の祭壇です。彫刻も絵も彼が仕上げたことになっています。私どもはかつてこちらにも足を伸ばしましたが、撮影禁止ということで、画像だけ提供していただき、妻の新著に掲載されています。とてもいい写真です。
パッハーの作品の多くが現在の北イタリアで制作され、現在もそれが鑑賞できるということで、オーストリアからイタリアに越境することにしました。目指すはブルネック近郊の聖ローレンティウス教会(現在唯一残るのは聖母子像、アルテ・ピナコテークの祭壇画はここにありました)とグリース祭壇です。そしてさらにオーストリアのハイリゲンブルートのヴィンツェンツ教会の3カ所でした。アルプスが見えるオーストリアの素敵なチロルの町、リーエンツを根城に3泊し足を伸ばしたというわけです。
 聖ローレンティウス教会は誰もいませんでした。目指す聖母子像は3,4メール高いところに鎮座していました。説教台(カンツェル)が上れるようになっているため、距離はありますが間近で拝観できました。グリース祭壇には多くの観光客が押し寄せていましたが、作品は実に神々しくて素晴らしいものでした。こちらも緑はじっくり撮影をすることができました。
 そしてさらにハイリゲンブルートのヴィンツェンツ教会、『地球の歩き方』にパッハー作品と書かれていたのですが、『ミヒャエル・パッハー』にはその記載がありません。著者はこの作品を知らないのかなと疑ったのですが、現地で購入した冊子にはパッハーの弟子の作品となっていました。ザルツブルクのドーム博物館の聖母子像もハッパーの周辺作家(ウムクライス)となっているので著者は記載しなかったのでしょうか。

 パッハー以外にも多くの収穫がある旅でした。ベルギーのへールにあるシント・ディンプナ教会の祭壇にたどり着くまでがジュッセルドルフからの日帰りで、1日がかりの大旅行でした。 予期せぬ出合いもありました。何度か訪ねていたフランクフルトのカリメリテ修道院のラート・ゲープの大壁画が見事に修復されていました。しかも無料でした。レーマー広場からも数分のところでおすすめの場所です。 

 私のパソコンの立ち上げ画面は4年前からオーストリアの世界遺産の街、ハルシュタットの湖畔風景でしたが、今回の旅行後、ハイリゲンブルートのヴィンツェンツ教会に切り替えました。背景のアルプスの中にオーストリア最高峰のグロースグロックナー(3797メートル)が控えています。観光客も少なく、雲一つない青空が広がっていました。この教会に素敵なパッハー作品が鎮座していました。
 15冊の写真集も手渡せて今回も充実した旅行になりました。
 97歳の母も元気で帰りを待っていてくれました。


〔154〕「戦前」の今だからこそ、長野・松代大本営地下壕で「戦争」「戦中」を実感すべきだと思うのです。

2017年09月01日 | 旅行記
  清瀬・憲法九条を守る会の数人と、長野方面に夏の1泊2日の小旅行をしました。一昨年の東京多摩の五日市憲法をめぐる旅以来のことでした。
  山梨県の清里の素敵なペンションに宿泊した翌日に一行が向かった先は、長野の無言館と信濃デッサン館でした。メンバーのなかにはすでに訪れた人も多く、私たち夫婦も二回目の訪問でした。
  数年前に訪れたときより、無言館の分館も信濃デッサン館も整備されて実にきれいになっていました。戦争とは何かを、静かに考える美術館として訪れることをお勧めします。

■無言館(ウィキペディア)
 第二次世界大戦で没した画学生の慰霊を掲げて作られた美術館で、美術館「信濃デッサン館」の分館として1997年に開館した。館主は窪島誠一郎。自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治とともに全国を回って、戦没画学生の遺族を訪問して遺作を蒐集した。
■信濃デッサン館(ウィキペディア)
 1979年(昭和54年)に窪島誠一郎によって設立された。村山槐多、関根正二、野田英夫、戸張孤雁、靉光、松本俊介ら若くして亡くなった夭折の画家たちの作品が展示されている。村山槐多の代表作尿する裸僧(1915年)などが展示されている。2012年2月「信濃デッサン館」内に立原道造記念展示室を新設。


  さて今回の旅の最大の目的は松代大本営地下壕の見学でした。こちらにもすでに訪れた人はいましたが、我ら夫婦は初めてでした。
  とりあえず、松代大本営の概略を知っていただきましょう。

■松代象山地下壕について(長野市HPより)
 松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
 第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成しました。
 この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。
 松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
・入壕料は無料となっており、午前9時から午後4時までの間、見学可能です。(午後3時半までに入壕していただくようお願いします。)予約の連絡は不要です。
・休業日について…毎月第3火曜日及び年末年始(12月29日から1月3日まで)


  今回は事前に、NPO法人 松代大本営平和祈念館にガイドさんをお願いしました。北原高子さんです。ネット検索で知ったのですが、元高校教師をしていた方で、会の事務局長で、話は実にお上手でした。
 象山地下壕では約一時間半にわたって分厚いパネルを持ちながら、松代大本営建設の目的、なぜ松代が選ばれたのか、どんな計画だったのか、などについての実証的な説得力ある話をしてくれました。さらに、労働者の様子について克明に語ってくれました。
 9ヶ月の間に約10キロに及ぶ壕を7000人の朝鮮人を中心に掘り進め、日本人を含めると約1万人が働いたといわれているようです。そして、8割方完成して敗戦を迎えたということでした。
 公開されているのは約500メートルの壕です。湿気があって長時間いると滅入ってきそうな地下空間(実際に気分が悪くなったのですが)にあって、危険をかえりみず工事にかり出された労働者を思うと、何ともいえない感慨が胸に去来しました。
  松代大本営についてのガイドブックを購入しました。入門書としては恰好のものです。

●『フィールドワーク松代大本営』松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化
・内容(アマゾンより)
 本書は、松代大本営をフィールドワークする中・高校生、そして大学生や市民のみなさんのガイドブックとして編集しました。松代大本営のガイドはもちろん、長野県、特に松代の歴史・自然・風土、さらに周辺の史跡についても解説しました。
・アジア太平洋戦争期の国内戦争遺跡の中でも超一級の史跡といわれている長野県松代大本営地下壕群をフィールドワークするためのガイドブック。大本営のガイドはもちろん、松代の歴史・自然・風土なども解説。


  さらに北原さんは、天皇御座所予定地だった舞鶴山を車で案内してくれました。平屋3棟が外から見ることができました。住居は天皇・皇后・宮内省の順に低くなっていっていました。屋根は1メートル、壁は40センチのコンクリートで覆われているそうです。
  そして、朝鮮人労働者、崔小岩(チョ・ソアム)さんのことを語ってくれました。ほとんどただひとりの貴重な彼の証言は『松代大本営と崔小岩』(松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化)にまとめられています。早速アマゾンで手に入れました。

●『松代大本営と崔小岩』(松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化、1991年)
 去る1991年3月17日、崔小岩さんが急逝された。崔さんは、15年戦争のさなか、16歳で朝鮮から日本に渡った。全国各地の土木工事にたずさわったのち1944年、松代大本営工事の作業員となった人である。崔さんは、天皇制の延命を図った大工事、朝鮮人強制労働によって遂行された大工事、それをつぶさに見、戦後、松代町に住んで語り続ける唯一の証人であった。(「刊行にあたって」から)


  最後に、崔小岩さんのお墓を案内してくれました。そこは、天皇御座所予定地のすぐ近くの清水寺(せいすいじ)でした。
 なんということでしょう、このお寺は私が訪問を待ち焦がれていたところでした。お寺に何回か連絡を取ったのですがかなわなかったところです。実は長野県でも1,2を競う仏像の宝庫だったのです。
 このお寺の一角に崔さんのお墓があり、さらに、大本営造営で犠牲になった人々を弔う平和観音があるのです。
  平和観音や墓石に手を合わせ、ここで北原さんや仲間と別れることになりました。

  実はこの日、小布施のホテルに泊まり、翌日は北斎館・高井鴻山記念館・岩松院巡りでした。その前に、若穂保科の清水寺(こちらも、せいすいじ)を訪ねることができました。やはり仏像の宝庫で、仏像ファン必見の中央仏が揃っているのです。長野県で重要文化財の仏象を一番多く保有している牛伏寺(ごふくじ)は残念ながら拝観できませんでしたが、次回を期しています。
 つでながら、上田市には古刹が目白押しです。前山寺・北向観音・常楽寺・安楽寺(国宝の八角三重塔)など、見所いっぱいです。


●高井鴻山記念館(信州小布施観光情報)
・小布施町大字小布施805-1
・開館時間 9:00~17:00(7、8月は~18:00) 元旦 10:00~15:00
・休館日 12月31日
・入館料 大人300円、高校生150円、中学生以下無料
・電話 026-247-4049
*豪商でありながら画家、書家、思想家、文人として江戸末期一級の文化人であった高井鴻山に関する資料が集積・展示されています。おびただしい数の作品もさることながら、当時の面影を色濃く残す建物群が訪れる人の心を揺さぶります。北斎の面影と彼を慕った鴻山の想いが感じられ、それはガイドブックや書籍では絶対に伝えることのできない“当時を生きた人の残り香”と言えるでしょう。

●北斎館
・長野県上高井郡小布施町小布施大字小布施485
・026?247?5206 12/31休館 入館料1,000円
・9:00-17:00(11/4-4/30)9:00-18:00(5/1-8/31)9:00-17:30(9/1-11/3)
*葛飾北斎の作品はもちろん、さまざまな角度から日本絵画を紹介する企画展を常時開催しています。
 北斎の作品は、70年間の画家活動で、約3万点にも及び、版画や浮世絵、肉筆画など作風もさまざま。また生涯で30回におよぶ改名があり、春朗(しゅんろう)・宗理(そうり)・北斎(ほくさい)・戴斗(たいと)・為一(いいつ)・画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)などが代表的です。後期には書名に雅号と一緒に年齢が書き込まれていますので、雅号と作風と年齢を気に留めながら鑑賞すると、さらに楽しみが広がります。
 北斎館第4展示室には、北斎が小布施に滞在中に描いた祭屋台の天井画が収蔵展示されています。

●岩松院
・長野県上高井郡小布施町雁田615  026-247-5504 法要、行事により休みあり
・9:00-17:00(4月-10月)
・9:00-16:30(11月)
・9:30-16:00(12月-3月)
*小布施で540年以上の歴史を今に紡ぐ「岩松院」は、戦国武将の福島正則や俳人の小林一茶とも深いご縁のある古寺です。そしてなにより有名なのは葛飾北斎が描いた本堂の大間天井図「八方睨み鳳凰図」です。本堂の中では、どの位置から見ても鳳凰の目がこちらをにらんでいるように見えることから「八方睨み鳳凰図」と呼ばれています。

●すみだ北斎美術館(HPより)→こちらもついでに掲載しておきます。まだ行ってないのです。
 世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、宝暦10年(1760年)に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。
 この美術館では、北斎及び門人の作品を紹介するほか、北斎と「すみだ」との関わりなどについて皆様にわかりやすく伝えていくため、展覧会をはじめ様々な普及事業を行います。そして、これらの事業活動を通じて国内外に向けて情報を発信し、北斎と「すみだ」の魅力をより一層高めていきます。

〔115〕「中世ドイツの彫刻を歩く」一ヶ月の旅から帰還しました。

2016年11月18日 | 旅行記
 このブログは約一ヶ月のご無沙汰でした。どうしたんだろうと気をもんでくれた読者もあるかも知れませんが、実は妻とドイツ(一部はオーストリア)の旅に出ていたのです。最初の10日間は友人のYさんと一緒でした。彼女は高名な詩人の司書的存在です。3人は団塊の世代で、年齢はほぼ同じでした。美術芸術談義にとどまらず、社会や政治を巡る動きに対しても、さらには文学の世界まで話題は尽きることはありませんでした。いつもの夫婦2人旅とはひとあじ違った、楽しい旅になりました。
 今回の旅のテーマは「祈りの彫刻 中世ドイツを歩く」といった風でした。Yさんにはリーメンシュナイダーの代表作を現地で紹介しました。妻はリーメンシュナイダーやそれに連なる人たち(工房、学校、リーメンシュナイダー系)の作品を、私はリーメンシュナイダーと同時代に生きた彫刻家の作品探訪でした。作家の名前を挙げればきりがないのですが、ファイト・シュトース、ミヒェル・エーアハルト、ハンス・ラインベルガー、ハンス・ムルチャー、ハンス・ロイ…といったところです。
そしてこの旅の途中で、妻は著書『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット)に続く3冊目の本を出版する意志を固めました。『祈りの彫刻 中世ドイツを歩く』(仮)といった感じになりそうです。『祈りの彫刻』3部作はこれにて完結します。リーメンシュナイダー作品の補遺、同時代の作家の代表作を写真を通して日本の人に知ってもらおうというわけです。妻と私の共著にしようと彼女は言っていましたが、私はお手伝い程度にとどめるのが妥当なところではないかと思っています。それは、3作目も写真集で、なにせ写真は彼女一人で撮っているのですから。でも、本の末尾にでも、中世ドイツの彫刻を巡るわたしの「感想文」でもひっそりと載せさせてもらえば嬉しいなとは思っています。おそらく彼女はリーメンシュナイダー作品を世界中の誰より見ているし、「伴走者」の私は2番目に見ているのではないかと自負しているからです。演劇教育を考えてきた私から見た中世ドイツの彫刻という視点は、生前の植田重雄さんからも評価されました。
  今秋の旅は、私は大学の授業が始まるため一ヶ月でしたが、妻は二ヶ月になり現在進行中です。それだけの時間と費用をかけての贅沢な旅です。さらに、ドイツ各地に散らばる彼女の友人たちの協力を無視するわけにはいきません。宿泊させていただいたのがフランクフルト、シュツゥットガルト、ロストックの3箇所、「取材」に協力していただいたドイツ人は軽く10人を超えます。その人たちのためにも本を作る必要があるのです。

  さて、簡単に旅の行程を紹介しましょう。〔主な見学場所〕

●10月12日(水)からヴュルツブルク4泊
〔リーメンシュナイダー初期の重要作品のあるミュンナーシュタット、Yさんリクエストのバンベルク、リーメンシュナイダー後期「嘆きの群像」のあるマイトブロン、リンパー、ヴュルツブルク・レジデンツでのワインケラーツアー、デッテルバッハ、マインフランケン博物館など〕
●10月16日(日)からローテンブルク2泊
〔「聖血の祭壇」のある聖ヤコブ教会など市内の作品巡り、リーメンシュナイダーの最高傑作の1つの「マリア祭壇」のあるクレークリンゲン、デトヴァングなど〕
●10月18日(火)ニュルンベルク1泊
〔ロレンツ教会、ゲルマン国立博物館など〕
●10月19日(水)からミュンヘン2泊
〔モースブルク主祭壇巡り、バイエルン国立博物館、アルテピナコテーク〕
●10月21日(金)からシュツゥットガルト2泊(ドイツ人宅)
〔ブラウボイレン主祭壇巡り、ウルム大聖堂、ウルム博物館など〕Yさん帰国
●10月23日(日)からシュベービッシュ・ハル2泊
〔市内の博物館2館、ミヒャエル教会など、友人の見舞い〕
●10月25日(火)からフライブルク2泊
〔コルマールのウンターリンデン博物館、ブライザッハ聖堂主祭壇巡り、ニーデルロートヴァイラア祭壇〕
●10月27日(木)からザルツブルク2泊
〔フランツィスカーナ教会、ドーム美術館、ケーファーマルクト主祭壇巡り〕
●10月29日(土)からアイゼナハ2泊
〔ゴータ、ヴァルトブルク城〕
●10月31日(月)からドレスデン2泊
〔フライベルク、アンナベルクの教会〕
●11月2日(水)からベルリン2泊
〔ボーデ博物館〕
●11月4日(金)からロストック2泊(ドイツ人宅)
〔ヴィスマール、茅葺き屋根の家見学〕
●11月6日(日)ハンブルク1泊
〔友人との食事〕
●11月7日(月)からジュッセルドルフ2泊
〔カルカー主祭壇巡り、原発跡遊園地訪問〕
●11月9日(水)フロイデンベルク1泊
〔市内観光〕
●11月10日(木)からフランクフルト3泊(ドイツ人宅)
〔リービークハウス、ヘルンシュタイン〕三津夫帰国

  一ヶ月行程を駆け足で見てきました。ここでは到底書き尽くせない楽しいことやびっくりする発見があったのですが、それはミニコミ「啓」にまとめることにしましょう。悪しからず。

〔64〕ドイツからある夫婦が来宅、一週間の濃厚で豊潤な日独交流でした。

2015年12月31日 | 旅行記
  ドイツのバルト海に面したロストック(旧東ドイツ)在住のヨーラ・ヘルビック夫妻が、年も押しつまった暮れに我が家にやって来ました。今年の1月には早割の航空チケットを購入しているので突然の訪問というわけではなく、かねてからの予定の行動でした。
 実は、養蜂家の国際会議で、9月にも一週間ほど韓国に来ています。けっこう世界中を駆け巡っている夫婦なのです。我が家にはヨーラは2回目、ヘルビックは初めてでした。
夫妻との初めての出会いは2006年、エジプトの考古学博物館のことでした。一度ルクソールで見かけ、再び偶然対面したために妻がドイツ語で同世代の彼らに話しかけたのです。その後妻とのメールのやりとりがあり、妻がドイツにドイツ語留学をしているときに、何回かお宅にお邪魔しました。私自身も2回ばかり宿泊させてもらい、近隣の観光地を車で案内していただきました。
 その後、妻はヨーラに写真家のヨハネスを紹介してもらい、ヨハネスの写真を収録した妻の写真集、正・続『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(福田緑、丸善プラネット)の完成に至るのです。つまり彼女は写真集発行のきっかけをつくってくれた人でした。

 ヨーラが前回来たときは座禅を組んだり、お茶や着物の体験をしたりで、観光と言えば長野の別所温泉に行った程度でした。今回は妻と相談しながら以下のような行動メニューを作っていました。

・12月24日(木) ヨーラとヘルビック、我が家へようこそ
・12月25日(金) アイヌ文化交流センターへ、近辺の本屋など2人で自主行動
・12月26日(土) 東京檜原村数馬へ一泊旅行
・12月27日(日) 青梅の漆工房皎月へ(蝋燭づくり)
・12月28日(月) 多聞天を求めて鎌倉巡り
・12月29日(日) 練馬の漆工房皎月で餅つき体験
・12月30日(月) ドイツに帰国

  2日目のアイヌ文化交流センターの見学以外は私も彼らに同行したのですが、ここでは5日目の「多聞天を求めての鎌倉巡り」について書いてみましょう。私がコーディネートしたからです。
 ヨーラの初来日時、東京国立博物館の阿修羅展を見に行きました。その時、彼女はなぜか多聞天(毘沙門天)に興味を持ったのです。家に帰ってから、多聞天特集の「日本の美術」を見せたところ、それがどうしてもほしいということで、差し出す羽目になったのでした。今回の旅でも、多聞天が見られるところに連れて行ってほしいというのが彼女の願いの1つでした。
 東京や埼玉で多聞天がある場所を本やネットで探したのですが、あまりピンときません。そこで、かなりお寺が密集している鎌倉なら多聞天が拝観できるだろうし、日帰りでも行けるということで、ここに決めたのです。私も数回鎌倉のお寺や美術館に足を運んでいます。十分案内は可能です。
 おおよその行程は次のようです。1日たっぷりかけた、約2万歩の「遠足」でした。巡った社寺は6か所、さすがに疲労困憊の4人でした。

 清瀬→(池袋)→鎌倉、小町通→段葛(工事中)→鶴岡八幡宮→宝戒寺(多聞天)→妙本寺(二天門、多聞天)→長勝寺(多聞天)→〔軽食〕→由比ヶ浜海岸→高徳院(鎌倉大仏)→長谷寺(多聞天)→(江ノ電)→鎌倉→(池袋)→清瀬

 たまには観光スポットを訪ねようということで、鎌倉の大仏に会いに行きました。3回目の私にとって興味深かったのは大仏よりもむしろ高徳院の石碑でした。かつてブログ〔19〕で紹介した「劇団ひこばえ通信」(村上芳信発行)の99号に与謝野晶子とジャヤワルダナ前スリランカ大統領の石碑のことを知りました。
  与謝野晶子の歌碑は「鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」というもの。ジャヤワルダナ前スリランカ大統領の顕彰碑は、サンフランシスコ対日講和会議で、日本対しての賠償請求や分割統治に反対する演説を仏教的な精神から説いたということでした。貴重な石碑を見落とすことがなかったのは「劇団ひこばえ通信」のおかげでした。

 養蜂家の2人は青梅の漆工房皎月で蜜蝋でのキャンドルづくりを指導してくれました。
 彼らが去って今日は大晦日。充実した年の暮れを体験することができました。彼らと妻に感謝したいと思います。

*「劇団ひこばえ通信」99号はA4版で50ページにもなる大作でした。ヒトラーに関する映画評、篠原睦治さんの永井隆・考など読み応え十分です。100号で終刊とはいかにも惜しいです。

〔55〕自由民権運動の歴史を辿ったり、伝統的な芝居小屋を訪ねたりの四国周遊でした。

2015年11月10日 | 旅行記
 戦争法案が戦争法になった2015年9月19日から1ヶ月後の10月19日、文京シビックホールは2000人近くの人たちで埋まっていました。(ブログ〔49〕参照)戦争法を廃止する決意を示した大集会でした。その集会後、池袋で偶然ルポライターの鎌田慧さんに会いました。電車の中で伊方原発反対集会に参加すること、そのあと四国各地をレンタカーで巡ることを話したら、訪ねる価値のある場所のさまざまな情報を頂きました。(鎌田さんも伊方にいらしていました)
 「四万十市には幸徳秋水の墓、足摺岬にはジョン万次郎の生家などがありますよね…。」田宮虎彦の『足摺岬』や高知の自由民権資料館などの話も出ました。なるほど、せっかく四国を廻るなら「自由民権運動」をテーマにしない手はないなと思ったものでした。
  まずは4日間の旅の行程を確認しておきましょう。

●11月2日(月)
松山市(前日、宿泊)→善通寺→旧金比羅大芝居(金丸座)→金刀比羅宮(表書院・円山応挙の障壁画鑑賞)→(泊)高松市
●11月3日(火)
小歩危・大歩危→豊楽寺(国宝)→高知市立自由民権記念館→雪蹊寺→竹林寺→(泊)高知市
●11月4日(水)
足摺岬(ジョン万次郎像)→金剛福寺→ジョン万次郎資料館→幸徳秋水資料室(四万十市役所)→幸徳秋水の生家→幸徳秋水の絶筆石碑→幸徳秋水の墓→(泊)四万十市
●11月5日(木)
岩間沈下橋→内子座、八日市・護国の町並み→砥部焼観光センター・炎の里→太山寺(国宝)→松山空港→羽田

 清瀬・憲法九条を守る会のメンバーと先日五日市憲法草案ツアーをしたことはブログに書きました。しかし、自由民権運動の先駆的な地域としては高知がすぐに頭に浮かびます。板垣退助、植木枝盛、中江兆民、幸徳秋水…、そして彼らに確実に影響を与えたジョン万次郎なども高知の人でした。できる限り彼らの足跡を追ってみようと思いました。
 高知市立自由民権記念館を訪ねたのは11月3日(火)のことです。3日と言えば、澤地久枝さんが昼の1時に「アベ政治を許さない」というポスターを一斉に掲げようと提案しています。我々もこのポスターを持参し、自由民権記念館の門の前で掲げました。10分程度でしたが、自転車が3台ぐらい通っただけでした。その一人に写真を撮ってほしいとお願いしたのですが、今急いでいるからと断られてしまいました。しょうがないので、写真を交替で撮り合いました。
 館内は自由民権運動の生成・高揚・衰退・再燃・終末などの展示や植木枝盛の書斎などが再現されてありました。植木枝盛といえば、「未来が其の胸中に在る者、之れを青年と云う」(遺稿「無天雑録」より)ということばを思い起こしました。私擬憲法「東洋大日本国国憲案」の起草者としても有名です。「民権かぞえ歌」なども作っているのですね。
 館内には板垣退助が刺された短刀があったり、女性参政権運動の先駆者、楠瀬喜多(民権ばあさん)のプリントがおいてありました。未亡人戸主として税金を納めているのに選挙権がないのはおかしいということで、納税を拒否したところ、4年の間ではあるが、女性参政権が認められたというのです。このほかにも見所いっぱいの自由民権記念館でした。
 ジョン万次郎資料館でもじっくり時間をとって展示物をながめました。
 幸徳秋水を訪ねる2人だけの「社会科見学」は、幸徳秋水資料室(四万十市役所)からスタートしました。そこでもらったパンフレットに沿って、幸徳秋水の生家、幸徳秋水の絶筆石碑、幸徳秋水の墓を巡りました。大逆事件に思いをはせ、横浜事件のことを思い出していました。

 今回の旅でとても興味深かったのは2つの伝統的な芝居小屋を見ることができたことでした。1つは、「現存する日本最古の芝居小屋」という旧金比羅大芝居(金丸座)です。金刀比羅宮の登り口近くにありました。枡席や桟敷の客席、回り舞台など、江戸後期に造られたというから驚きです。これにとてもよく似た芝居小屋が、内子市にある内子座でした。こちらは100年前、大正時代の建造物で、金丸座より一回り小さいものでした。いずれにしても、四国が文化的にも芸術面でも先進的地域であったことが理解できました。

 今回もう1つの楽しみは、お寺回りでした。初めての善通寺、金刀比羅宮でしたが、円山応挙の障壁画が見られたのは嬉しかったです。
 一番興奮を覚えたのは、国宝の豊楽寺に事前予約して3体の素晴らしい仏像が拝観できたことです。とりわけ1番右端に鎮座している釈迦如来(本当は薬師如来だという)の独特の風貌に魅せられてしまったのです。「日本の美術」(226号)の表紙を飾ったこともある仏像で、地方仏師が手がけた仏像ではないかと勝手に推測しているのです。とても人間的で、親しみの持てる仏像です。
 このほかにも雪蹊寺(慶派の秀作があるのですが、事前連絡してなかったので拝観は適いませんでした)、竹林寺、金剛福寺、太山寺も廻りました。なぜかお寺は心が和みます。


〔53〕五日市憲法ツアー第二弾! 濃密な時間と空間を共有できました。

2015年10月26日 | 旅行記
  10月24日(土)、25日(日)、清瀬・憲法九条を守る会のメンバー8人は五日市憲法草案ゆかりの地を訪ねました。ここには2010年に続いて2回目のツアーということになります。そのあたりの事情を参加者の一人が書いています。

「昨日、今日と五日市憲法ツアーをしてきました。今年は殊の外憲法の大事さを痛感した年だったこともあり、昨年亡くなった布施哲也さんがずっと調査して回ったという五日市憲法のゆかりの場所を清瀬・憲法九条を守る会の仲間8名で訪ねてきたのです。五日市憲法が発見された蔵も、中心となった千葉卓三郎の関連資料も見てきました。2010年にも一度行っているのですが、その時はまだ五日市憲法の事をよく知らないまま、哲也さんの案内で受け身の見学でした。そのため頭にきちんと入っていなかったように思います。今年は草稿発見者の新井勝紘さんの講演を5月31日に聴き、本も買って読みましたので、さらに知識が深まり大変良い旅となりました。明治時代にこんな素晴らしい憲法の草稿をまとめた日本人がいたということを知り、大変誇らしく思います。今の政権のおかしさがよりくっきりと見えてきます。」(福田緑)

  車2台に分乗して最初に向かったのは五日市郷土館(東京・あきる野市)でした。2階展示室に、五日市憲法草案の関係資料である学芸講談会の開催通知や討論の題目を記したノートなどを展示しています。事前に連絡したら、この日は館長さんがいらっしゃるということで、30分ほど丁寧に展示物の解説をしていただきました。ほとんどの人がここで購入した『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』に目を通していたので、理解はさらに深まったようです。
 次に向かったのは、学芸講談会の会場の1つ、開光院です。絶好の散策日和で、とてもきれいなお寺をゆったりと満喫しました。
 その帰りにあきる野市立五日市中学校の脇にある、五日市憲法草案の記念碑を訪ねました。草案起草者の千葉卓三郎の出生地・宮城県志波姫町と墓所・仙台市とここの三箇所に碑は建っています。記念碑のところで写真を撮ったりしていたら、男性に話しかけられました。隣の会館で、五日市憲法草案関連の展示をしているというのです。そこになんと『ガイドブック 五日市憲法草案』の著者の鈴木富雄さんがいらしたのです。話を少し伺うことができました。
 おいしい手打ちそばを食べたあと、歩いて勧能学校跡を訪ねました。ここは草案起草者の千葉卓三郎が第2代の校長になったところです。現在はあきる野市立五日市小学校で、道路を挟んでこの学校の向かい側にあります。私が春に教育実習指導した学校だったことは前にブログ〔31〕に書きました。
 そしていよいよ憲法草案が発見された深澤家土蔵に向かいました。勧能学校跡から車で10分以上どんどん山を登っていき、真光院に着きました。この隣が深澤家屋敷跡です。数年ぶりに土蔵を見て記念写真に収まりました。そこから100メートルほど上ったところに深澤家のお墓がありました。学芸講談会の中心メンバーの深澤権八の墓などがありました。「権八深澤氏」と彫られていました。29歳で早世した秀才権八にふさわしい感じの墓でした。
 学芸講談会のメンバーは30名ほどですが、10を越える市や町、地域から遠路はるばる、月3回も開光院や真光院にどんな思いで集まってきたのか、想像を絶するものがありました。

 その後、檜原村まで足を伸ばし、合掌造りで有名なかんづくり荘に泊まりました。
 翌日は、青梅市二俣尾の漆工房 皎月(十亀英也・福田奈々子主宰)を見学しました。漆職人の専門的な話を興味深く聞けたり、焼き杉体験ができました。この工房についてはいずれブログで紹介したいと思います。

  2日間の充実した濃密なツアーで、私は大満足でした。とりわけメンバーの話が興味深かったです。
 さて、10月31日(土)、11月1日(日)は夫婦で愛媛の伊方原発反対集会に参加してきます。年金の正しい使い方かな、と思っていますが…。

*五日市憲法草案に関してはブログ〔31〕を参照してください。
*五日市憲法草案発見者の新井勝紘さんの講演会がありますよ。
  ・「五日市憲法と日本国憲法」新井勝紘
 ・11月15日(日)講演開始14:00
 ・清瀬駅(西武池袋線)から1分、アミュービル4階、
 ・主催、週刊金曜日、清瀬読者会

〔17〕3週間のアメリカ美術館巡りでいろいろ感じ、考えました。その一端を…。

2015年03月03日 | 旅行記
 1か月近くブログをお休みしていました。前回の末尾に書いたように、アメリカに3週間行っていたからです。
 私の初めての海外旅行はアメリカで、1990年のことでした。家族旅行で、シアトル・バンクーバーを中心に巡りました。2011年の2回目のアメリカ旅行は、アメリカ東部、中部(一部カナダを含みますが)の美術館巡りがその目的でした。連れ合いが追っかけをしているリーメンシュナイダー(中世ドイツの彫刻家)の作品をアメリカまで追っていった旅でした。アメリカには多くのリーメンシュナイダー作品が美術館にあります。ドイツ以外では最大の収集国です。きっとお金持ちが買い集めたのでしょう。
 3回目の今回も目的は同じです。前回見落としていたリーメンシュナイダー作品巡りということになります。ただ私も彼女に「同走」するなかで、北方ルネッサンスと呼ばれるドイツ・オランダ・ベルギー・オーストリアなどの中世美術(絵画・彫刻など)に興味を持つようになりました。グリューネヴァルト、マルティン・ショーンガウアー、ミヒェル・エーアハルト、ファイト・シュトス、ミヒャエル・パッハー、ラート・ゲープなどですが、グリューネヴァルト以外は日本ではあまり知られていません。日本では、これらの作家名を単独で冠した文献はグリューネヴァルトの外は私は知りません。ただショーンガウアーに関しては西洋美術館の図録が存在していますが。ついでに書くと、リーメンシュナイダーの本は数冊で、その二冊の写真集が連れ合いが出版したものです。
 自慢話を書きます。
 たぶん、リーメンシュナイダーの作品を日本人だけでなく世界で一番見ているのが連れ合いで、2番目が私です。前にあげた作家の作品も同じことが言えそうです。グリューネヴァルトとショーンガウアーの絵画は修復中のも含めて、今回の旅で全「踏破」しました。私の次の興味は、この3人以外の作品を見ることです。ドイツ南部やオーストリア・チロル地方に集中しているので今回よりもはるかに訪ね易いと思われます。虎視眈々と次回を狙っています。旅行中に早くも妻とそんな話をしたのです。
 
 旅はロサンゼルス経由でシカゴから始まりました。そして、デトロイト、クリーブランド、ナイアガラ、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスと2~4泊で回りました。せっかくアメリカに行ったのだから、美術館巡りだけでなく多少の観光地にも立ち寄ろうということで、ナイアガラとヨセミテに行きました。厳冬のナイヤガラや、リピーターが一番多いというヨセミテも素晴らしかったですよ。
 廻った美術館は次のようになります。
・シカゴ(シカゴ美術館)
・デトロイト(デトロイト美術館)
・クリーブランド(クリーブランド美術館、オバーリンの美術館)
・ニューヨーク(メトロポリタン美術館、分館クロイスターズ、ニューヨーク近代美術館、フィリックコレクション)…いずれも2回目。
・サンフランシスコ(リージョン・オブ・オーナー美術館、テ・ヤング美術館、アジア美術館)
・ロサンゼルス(ノートン・サイモン美術館、パシフィックアジア美術館、ゲッティ美術館、ハマー美術館)

 妻お目当てのリーメンシュナイダー作品はすべて、私が待望していたショーンガウアーの絵画もエーアハルトの彫刻もすべて見られ、写真に収めました。大満足でした。しかも、クリーブランド美術館、オバーリンの美術館、ゲッティ美術館、ハマー美術館は無料だったし、シニア料金がどこも設定されていました。(65歳以上、あるいは62歳というところも)
 前回のアメリカ美術館巡りでも感心したことですが、美術館を利用した鑑賞教育がとても盛んだということです。シカゴ美術館、デトロイト美術館やクリーブランド美術館では、幼稚園の子から大学生まで、かなり多くの子どもたちの学びの場になっていました。
 いつも感じるのですが、アメリカの美術館はどこでも圧倒的な作品数です。人気の印象派の作品が目白押しです。ゴッホの作品は確か日本には2点のみ(損保ジャパン美術館と広島美術館)と記憶していますが、かなり多くのアメリカの美術館では数点ずつ保有していました。そして、アジアの美術品も充実していました。アジア美術館では、浮世絵とそこに描かれた着物の柄にまつわる特別展が開かれていました。浮世絵や着物、絵巻物などの展示があり、嬉しくなりました。その美術館に、次はジャポニズムの特別展を提案したかったのですが、アメリカ旅行の次回はたぶんないでしょう。
 この旅の一番の思い出は、と考えたら、『地球の歩き方』アメリカ編には不掲載のオバーリン(クリーブランドから数十キロの小都市)を雪が降りしきる中訪ねたことです。リーメンシュナイダー作品がたった1点存在することを確認しに行ったのです。行きより帰りの方が雪が強く降りしきり、タクシードライバーに命を預けました。タクシー代はけっこうかかったのですが、誰にもできない経験だったと、今ではいい思い出になっています。
 
 最後に嬉しかったこと1つ。
 周防正行監督「Shall we ダンス?」のアメリカリメイク版がテレビで放送されていたのです。主演、リチャード・ギアです。いつもはおもしろくないテレビなのですが、2時間珍しく画面に釘づけになりました。設定は高架の電車から見えるシカゴのダンス教室です。2,3日前に乗ったばかりで興味津々でした。原作では西武池袋線の江古田駅の近くのダンス教室だったということを妻に聞きました。私が結婚するまで住んでいたところだったのです。