後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔481〕里見実さんご逝去、あらためて『被抑圧者の演劇』などの著作を読み直したいと思います。合掌。

2022年06月08日 | 追悼文
 里見実さん(本名は實さんのようです)ご逝去の訃報が家族の方から届いたのは今年の5月末のことでした。2020年3月から難病になり、5月9日に永眠されたということでした。享年86歳ということになるのでしょうか。
 里見さんの生涯のお仕事を的確に凝縮されたお葉書の一文を紹介します。
「皆様との活気に満ちた共同の活動、思い出多い海外の旅、広く深い書物の世界での飽くことなき逍遥 それは夢の中で最後まで實を支えてくださったのでしょう。」



 里見さんからご自身の翻訳書をいただいたことがあり、そのことをブログ〔226〕「新刊『レッジョ・エミリアと対話しながら』(カルラ・リナルデイ著、里見実訳)は、じっくり対話しながら読みます。」に書きました。そこでは里見さんとの出会いや交流について書いていますので読んでくだされば幸いです。
 里見さんの仕事についてはウィキペディアが参考になります。前述した翻訳書を加える必要がありますが。

■里見実(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

里見 実(さとみ みのる、1936年 -2022年 )は、日本の教育学者。國學院大學文学部名誉教授。専攻は教育社会学。前「ひと」編集委員。演劇ワークショップ活動も展開、第三世界の民衆文化運動の翻訳や紹介の仕事もしている。パウロ・フレイレの著作の翻訳で知られ、日本におけるフレイレの研究の第一人者。
東京都出身。東京大学大学院人文科修了。
○著書
『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』新水社 2006年
『学校でこそできることとは、なんだろうか』太郎次郎社 2005年
『希望の教育学』太郎次郎社 2001年
『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社 2001年
『働くことと学ぶこと ― わたしの大学での授業』太郎次郎社 1995年
『学校を非学校化する ― 新しい学びの構図』太郎次郎社 1994年
『パウロ・フレイレを読む ― 抑圧からの解放と人間の再生を求める民衆教育の思想と』太郎次郎社 1993年
『地球は、どこへ行く? ― ゴルフ場・再生紙・缶コーヒー・エビの授業』太郎次郎社 1993年
『ラテンアメリカの新しい伝統 ― 〈場の文化〉のために』晶文社 1990年
『もうひとつの学校へ向けて』筑摩書房 1986年
『被抑圧者の演劇』晶文社 1984年
『伝達か対話か ― 関係変革の教育学』亜紀書房 1982年


 少しダブりますが〔226〕で書いてないことに触れておきましょう。
 そもそも里見さんに注目したのは村田栄一さんの導きでした。先輩教師として憧れの存在だった村田さんの責任編集『教育労働研究』(社会評論社、全11巻、10巻まで村田さん11巻は武藤啓司さんの編集) のなかに、「さとみみのる」がたびたび登場したのです。〔「国民」形成と歴史教育〕というタイトルで5回連載しています。
 そして『もうひとつの学校へ向けて』(筑摩書房)は村田さんと里見さんの往復書簡で構成されていました。当時村田さんは22年間の小学校教師を辞め、バルセロナに遊学していたのでした。その間のお二人のやり取りが本になったのです。
 飯能市の自由の森学園を主会場に、10日間にわたって、リーデフ98フレネ教育者国際会議が開催されたときの実行委員長が村田さんで、毎月の実行委員会は国学院大学の里見研究室で開かれたのでした。このあたりの顛末は〔226〕をご覧ください。
 村田さんが2012年1月21日、76歳で亡くなられた後に、村田さんを偲ぶ会が開催されました。私は海外旅行中で参加できなかったのですが、パネルディスカッションに里見さんが登壇されたということを聞き及んでいます。



 2,3年前のことです。鎌田慧さんの書庫に案内され、好きな本を持っていって良いと言われました。その時、私が選んだのは『被抑圧者の演劇』(晶文社)でした。
 里見さんが出された太郎次郎社からの本は私もかなり揃えています。
 里見さんの逝去に際し、改めてご著書を読み直そうと決意した次第です。

 最後に、里見さんの本を多数出版している太郎次郎社エディタス(現在の出版社名)の「たろじろ通信」(ネット配信)19号に里見さん追悼の記事が出ていたので紹介します。数日前に届いたばかりです。

「去る5月9日、教育社会学者の里見実さんが逝去されました。
里見さんは多くの著書・訳書を手がけられたほか、小社で刊行していた雑誌「ひと」の編集代表委員として、多くの教育実践者をエンパワメントしてこられました。下記のページにて小社から刊行した書籍の一覧を掲載し、弔意と謝意を示します。

【訃報】里見実さん http://www.tarojiro.co.jp/news/6266/

今月のえりぬきは里見さんの著書『学校でこそできることとは、なんだろうか』(2005年)より「後記」です。
…………………………………………………………………………………
能力については、基本的に私は不可知論の立場だ。昔から火事場の馬鹿力というではないか。人間の能力には、どのように変化するかわからない複雑さ、多面性、未確定性があり、そのわからなさにこそ、生きた人間の姿がしめされているのだろうと思う。

にもかかわらず、いえそうなことがある。人を「賢く」したり、その精神を豊かにする環境というものが、たしかにあり、またその逆もある、ということ。だから、すぐれた才能はいつもおなじ時間と空間から、一塊になってうまれてくる。人間を育てる場や文化というものが、たしかにあるのだろうと思う。その逆な場や文化、も。

日本の学校は、いま、どういう場として存在しているだろうか?……つづきはこちらから
…………………………………………………………………………………


◆勇気ある人びと      鎌田 慧(ルポライター)

 6月4日、天安門33年。戦車の前に立ち塞がる若者の姿を思い
起こす。彼は今どうしているのか。この日どれだけの学生が殺害
されたのか。

 ロシア軍がウクライナに侵攻したあと、ロシアの政府系テレビの
女性編集者が、生番組放送中のスタジオで「戦争反対」と書かれた
紙を掲げた。
 良心と勇気。二つの映像は、見たひとびとの胸を熱くした。
 その感動は世界の多くの人たちの行動の支えになった。

 モスクワの「赤の広場」でも、サンクトペテルブルクのネフスキー
大通りでも、政府へのデモ行進があった。3月中旬までに1万5千人
が拘東されたと伝えられている。

 19世紀ロシア皇帝下で、ドストエフスキーが死刑宣告後に、恩赦で
シベリア流刑。スターリンを批判したソルジェニーツィンは1945年
11月、逮捕投獄、ラーゲリ送りとなった。

 そして、いままた強権プーチンの侵略戦争と国内大弾圧。
 プーチン反対の国内運動の報道は減少したが停戦にむけた国際的な
運動がこれから強まるのは必定だ。
 バイデン政権のミサイルと戦車を送り続け火に油を注ぐ行為は、
理性的な解決策ではない。

 日本国憲法前文「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から
永遠に除去する」ための国際社会での「名誉ある地位」とは、米政権に
追従するのではない、停戦と和解に努力することのはずだ。
     (6月7日「東京新聞」朝刊23面「本音のコラム」より)

〔456〕画期的な美術教育「キミ子方式」の提唱者・松本キミ子さんが逝去されました。

2022年03月31日 | 追悼文
  松本キミ子さんが今年の2月23日に逝去されました。新聞の訃報欄に掲載価値のある方だと思うのに、何処にもその形跡がありません。私の3人の師匠のなかで、竹内敏晴さんと冨田博之さんは新聞扱い、村田栄一さんは「無視」されました。元小中高教師は掲載の対象にないというのでしょうか。
 私がその訃報を知ったのはご子息の松本一郎さんからの手紙でした。自然死とも思われる亡くなり方であったようです。キミ子さん、享年81歳でした。

 「キミ子方式」との出会いは雑誌「ひと」を通してでした。仮説実験研究会の会員として雑誌にその実践が掲載されていました。子どもたちが描いた実にリアルな魚の絵が記憶に残っています。どのように指導したのかにとても興味が出ました。どうやら、3原色と黒で色を作り、輪郭線をとらず、1点から隣に隣に描いていくやり方のようでした。
  その後、松本キミ子さんは矢継ぎ早に著作をものにします。キミ子さんはなかなかの文章家で、子どもたちが文字の中で動いて生きているようでした。

・『三原色の絵の具箱』(松本キミ子・堀江晴美、全3巻、ほるぷ出版、1982年)
・『絵のかけない子は私の教師』(松本キミ子・堀江晴美、仮説社、1982年)
・『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子、仮説社、1984年)…『男の家庭科先生』に紹介しました。
・『絵を描くっていうことは』(松本キミ子、仮説社、1989年)

 1970年代の後半、教師7,8年目にして体調を崩し、入院生活を余儀なくされました。
 退院してから思うところがあって「男の家庭科先生」に転身したのです。この時の顛末を福田緑との共著で『男の家庭科先生』(冬樹社)にまとめました。私の著書の中で唯一印税をもらい、完売した本になりました。
 小学校の家庭科教師は5,6年生を教えますが、他の専科に比べて持ち時間が少ないので3年の図工も担当しました。それ以前は3年生以上の担任教師だったので、図工も家庭科も教えたことはありませんでした。

 はてさて、3年生の図工をどう教えるのか、真剣に悩みました。その時に頼ったのは雑誌「ひと」掲載の実践記録でした。この時にキミ子方式との「再会」がありました。
 1973年に雑誌「ひと」(太郎次郎社)が発刊されます。さまざまな民間教育研究団体の連合体のような運動で、代表が数学者の遠山啓さんでした。美術教育は新しい絵の会が参加していました。清瀬では美術教育を進める会が地道な活動を展開していました。2つの会からも学ぶことが多かったです。
 時同じくして松本キミ子さんのキミ子方式なるものが仮説実験研究会などから紹介されたことは、前述の通りです。その考え方や方法論を大いに参考にさせていただきました。

 時や場所は思い出せないのですが、夫婦共に、直接キミ子さんから指導を受けるチャンスがめぐってきました。確か「もやし」を描いたのではなかったかと思うのです。
 その頃我々夫婦はミニコミ「啓」を発行していて、読んで欲しい人に勝手に送付していました。その一人に松本キミ子さんを選びました。そのお返しでしょうか、しばらくして「ビギニングニュース」が送られてくるようになりました。
  2005年に55歳で2人とも自主退職してからもミニコミはずっと送り続けました。その頃から頻繁に海外旅行をするようになりました。その旅行記をキミ子さんはおもしろがって読んでくれました。仕事が一段落して、ソファーに横になりながらゆっくり読むのが嬉しいことだと、はがきに書いてくれました。彼女自身がヨーロッパ滞在経験も多く、興味を持たれたのではないかと思います。
 2008年に緑が最初の写真集『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』を出版すると、有り難くも購読してくれました。
 ミニコミが終刊してからも「ビギニングニュース」が送られてきました。お返しに本ができたら送ろうかなと考えていたところでした。

 ご自身の「生」を十二分に生きられた方でした。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌

〔307〕ドイツからの訃報、我らのペーター・シュミットが亡くなりました。合掌

2020年10月29日 | 追悼文
 2日前だったでしょうか。2階から降りてきた妻が「ペーターが脳内出血で亡くなったって。」涙をこらえて伝えてくれました。茫然自失とはこのことです。昨年の夏、ビュルツブルク市内に腰の手術で入院していたペーターを2回お見舞いに伺ったときに、80歳とは思えないくらいお元気で、にこやかな表情を見せてくれたのです。その時、これからお連れ合いのイングリットと相変わらず仲良く暮らしていくんだろうと確信したのでした。
  ペーター・シュミットさんとの出会いは20年前にさかのぼります。1999年、現役教師だった我々夫婦は、夏休み中に22日間にわたるヨーロッパ旅行をしたのでした。私たちが中世ドイツの彫刻家、ティルマン・リーメンシュナイダーの作品に初めて出合った旅でした。ミュンヘンのバイエルン国立博物館で彫刻「マグダラのマリア」と衝撃的な出合いをし、妻はそれ以降、リーメンシュナイダーの追いかけ人になったのです。
 その数日後、私たちはリーメンシュナイダーの作品を世界で最も多く所蔵するビュルツブルクのマイフランケン博物館(当時の名称)に辿り着きました。リーメンシュナイダーの部屋は他には誰もいず、我ら2人の貸し切り状態でした。舐めるように作品を鑑賞し、写真を撮りまくりました。その時に背の高い中年の男性職員がドイツ語で話しかけてきたのです。妻はノバでドイツ語を習い始めたばかりで、あまり理解はできなかったと言います。
 その時のことを我々は後に自費出版した旅行記に書き綴っていました。
 「ほとんど驚嘆の眼差しで作品を舐めるように2人で鑑賞していたら、中年の係員が話し掛けてきた。ドイツ語なのではっきりはしないが、色々教えたがっているようなのだ。フラッシュなしなら撮影OKなので、彼も一緒に写真を撮ることにした。」三津夫(『ヨーロッパ2人旅、22日間』福田三津夫・緑、私家版、2000年2月26日発行)
「私が深い感銘を受けたのは、聖セバスチャンの像だ。木にくくりつけられ、矢を身体のあちらこちらに射られていながら、深い眼差しで空を見つめている。その縛られた血管の浮き上がった手がまるで生きているようだ。矢は1本だけささっていたが、私たちがあまりにも熱心に長い時間これらの作品を見ているのに興味を覚えたらしい係の男性が、本当は矢が7本刺さっていたのだと教えてくれた。ここにも、ここにもと指さす跡に、丸い矢の幹がポツンと見えた。この像が作られたのは1515年だ。」緑(同上)

 これがペーターとの出会いの瞬間でした。それ以降ドイツには十数回通うことになりました。リーメンシュナイダーを始めとするドイツ中世の彫刻を訪ね歩く旅でした。毎回ヴュルツブルクに行くたびに親しくなったペーターに連絡を取り、館内だけでなく、車で教会を案内してもらいました。ご自宅にも何度も招待されごちそうになりました。
 そして、これだけははっきり記録に遺しておきたいと思います。ペーター夫妻はじめドイツの友人たちの存在がなければ間違いなく緑の本邦初の『祈りの彫刻』シリーズ全四巻(四巻目はまもなく出版されます)は出版できなかったということです。さらに、ペーターはリーメンシュナイダーに関する地元新聞記事を度々送ってくれました。
 彼らご夫婦の思い出は尽きません。コロナが穏やかになった頃、必ず彼のお墓参りをしたいと妻と話しています。ペーター、今まで色々ありがとう! 合掌。

*妻もブログにいち早く追悼文を認めています。ペーターの写真もあります。
*『ヨーロッパ2人旅、22日間』残部あります。ご連絡いただける方には差し上げます。

https://blog.goo.ne.jp/riemenschneider_nachfolgerin/e/b6954d42cbd07464ff856a191676b124


 ◆恐怖の懲罰人事
              鎌田 慧(ルポライター)

 今回も日本学術会議大弾圧事件について。
 6人の新会員候補者が菅首相から拒絶され、政府の学問の自由への
抑圧として、世論の批判が激しくなった。菅首相は9日のインタビュー
で「99人分の名簿しか見ていない」と弁明した。
 つまり、6人を除外する前の105人の元の名簿は見ていない。
 だから、誰がパージされたか、それについては知らない、自分の責任
ではない、とする弁明だった。

 しかし、5日のインタビューで6人が(安全保障関連法等)政府提出
法案に反対だったこととの関連を問われ、「学問の自由とは全く関係
ない。6人についていろんなことがあったが、そういうことは一切関係
ない。総合的、俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点から判断した。
これに尽きる」

 語るに落ちる。「6人についていろんなことがあった」と知って
いたのだ。「俯瞰的」と聞いて、安倍前任者の「地球儀を俯瞰する
外交」を思いだして笑ってしまった。地球儀など小さい、小さい。
せめて地球と言ってほしかった。
 それはともかく、学術会議会員の任命権者・総理大臣が今回のパージ
を知らなかった。とすれば首相の重大な職権放棄。任命権の侵害。
一体誰が簒奪(さんだつ)したのか。
 4年前、菅官房長官時代、3人の侯補者が除外させられ、秘密に
伏されてきた。今ようやく学会の反撃が始まった。
   (10月13日東京新聞朝刊29面「本音のコラム」より)

〔298〕追悼・久米明さん。1回だけの思い出深い貴重な朗読講習体験でした。

2020年09月09日 | 追悼文
  俳優・声優の久米明さんが96歳で長寿を全うされました。
 こんな新聞記事が出ていました。

●俳優・声優の久米明さん、心不全で死去 96歳(朝日新聞)2020年4月23日

 俳優や声優として活躍した久米明(くめ・あきら)さんが23日、心不全のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。通夜・葬儀は近親者のみで行う。
 1924年、東京生まれ。東京商科大(現一橋大)を卒業した後、演劇集団ぶどうの会、劇団昴(すばる)などを経てフリーに転身。テレビやラジオ、映画などで幅広く活躍した。
 日本大学芸術学部で教授として後進の育成にあたり、92年に紫綬褒章、97年に旭日小綬章を受章した。
 声優やナレーターとしても知られ、昨年までNHKのバラエティー番組「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーションをつとめていたが、体調不良のため降板していた。


 私が久米さんに出会ったのは「日本大学芸術学部で教授として後進の育成にあたり」という時期でした。
 1972年に小学校教師としてスタートした私は、生活教育から演劇教育へシフトさせて大学講師の現在に到っています。
 1970年代後半から、まずは演出家や役者などの演劇関係の講師から集中的に学んだ時期が十数年ほどありました。80年代のあるとき、日本大学芸術学部(江古田)で日本演劇教育連盟の研究集会が開かれ、私は久米さんの朗読講座の世話人として立候補しました。
 朗読には関心が高く、それまでにも竹内敏晴、酒井誠、岸田今日子、冨田浩太郎、巌金四郎、小森美巳、太宰久夫さんらから朗読に関する考え方や技術などを学んできたのでした。
 日本大学芸術学部の校門前の喫茶店の二階で、久米さんと事前の打ち合わせを世話人2人で緊張しながらしたことを覚えています。若輩者の私たちに偉ぶらず紳士的に対応してくださったのが印象的でした。温かい人柄が感じられました。

 朝日新聞の「惜別」欄に、「控えめで渋く ボギーのように」という素敵な記事が載りました。三ツ木勝巳さんという記者の名前を記憶しておこうと思います。

■(惜別)俳優 久米明さん 2020年8月29日 4月23日死去(心不全) 96歳
「戦争で生き残り虚脱していたら、そこへ芝居が舞い込んだ」と話していた久米明さん=2012年 (写真の解説)

 ■控えめで渋く、ボギーのように
 新劇に一目ぼれし、ラジオ、テレビのドラマでも活躍した。洋画の声優、NHK「鶴瓶の家族に乾杯」の語り……。いずれも達人の域にあった。(以下略)


 久しぶりのおまけ、鎌田慧さんのコラムをどうぞ。

 ●壮大なゼロの記録
  安倍政治は自民党議員を支配、護送船団的官邸官僚と官僚支配の
  内閣人事局を駆使、憲法無視で突っ走ってきた

     鎌田 慧(ルポライター)

 安倍首相はジコチュウの代表である。
 退任記者会見で森友、加計、サクラ問題などへの批判が強かった
のは、政権の私物化批判だったのではないか、との質問に対して
「政権の私物化はあってはならないことであり、私は政権を私物化した
というつもりは全くないし私物化もしていない。まさに国家、国民の
ために全力を尽くしてきたつもりだ」。
 まず能書きをいい、それはないと否定し、美辞麗句を並べたてて
反撃する。安倍話法である。

 今回も「全身全霊を傾けて」「痛恨の極み」「断腸の思い」。
 政治は言葉だが、彼の言葉は自己防衛か、「地球儀を俯瞰(ふかん)
する」など、空疎な自己美化である。相手の心に届く言葉ではない。
 記憶に残るのは東京オリンピック招致のための欺瞞(ぎまん)語。
「アンダーコントロール」。福島第一原発事故から9年半、まだコント
ロールできていない。
 「憲法改正の世論が十分に盛り上がらなかった」。7年8ヵ月かけて
も、最大の目標だった憲法改定を達成できなかった。

 安倍政治は小選挙区制を利用した公認権と資金で議員を支配、護送
船団的官邸官僚と官僚支配の内閣人事局を駆使、憲法無視で突っ走ってきた。
 最後っ屁は「敵基地攻撃能力の保有」。専守防衛を破る発言をした
直後、史上最長在位の記録を達成するや、あっさり敵前逃亡。
 言葉への責任感はない。
   (9月1日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)

〔294〕好きな役者さんでした。三浦春馬さんの逝去を悼みます。

2020年08月16日 | 追悼文
  若い役者さんで良いなと思う人はそう多くはいませんが、三浦春馬さんは何か気になる存在でした。
 最初に彼の名を知ったのはTBS系テレビ『私を離さないで』でした。ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロ原作の作品です。珍しくテレビドラマを見ようと思ったのはカズオ・イシグロの話が脚本研究・森の会で話題になったからです。
 出席者のHさんが、ノーベル賞を取るなら村上春樹よりカズオ・イシグロが相応しいと言いました。会ではそれから何回かHさんによるカズオ・イシグロ作品の報告が続きましたが、周知のように彼女の予言は当たることになります。
 そんなおり、テレビで『私を離さないで』が放送されたのでした。主演は綾瀬はるかですが、初見の三浦春馬も重要な役を与えられていました。透明感漂う押さえた演技で、惹かれるものがありました。臓器提供を宿命づけられたクローン人間を妖しく演じていました。

■『私を離さないで』カズオ・イシグロ(ウィキペディア)
 2016年1月15日から3月18日まで、TBSテレビ系「金曜ドラマ」枠にてテレビドラマ化された。主演は綾瀬はるか。脚本は森下佳子。
 原作のイギリスから、舞台を日本に移して翻案。主人公は「恭子」、ヘールシャムは「陽光学苑」などに置き換えている。物語は恭子が過去に遡って語るモノローグ(=信頼できない語り手)によって進行し、第1話 - 第3話を「第1章:陽光学苑編」、第4話 - 第6話を「第2章:コテージ編」、第7話以降を「最終章:希望編」としている。


 三浦春馬に「再会」したのはドイツに向かうJALの飛行機でのことでした。日本中国合作映画『真夜中の五分前』が上映されていたのです。こちらも感情を押さえた演技で存在感がたっぷりでした。とりわけ中国語が堪能なのには舌を巻きました。相当中国語を勉強したようです。この映画がアジアで評価され三浦ファンがアジアに多いと聞きました。彼の死を惜しむ声は日本だけではありませんでした。

■日本中国合作映画(ウィキペディア)
『真夜中の五分前』(まよなかのごふんまえ)は、2014年の日本・中国合作映画。原作は本多孝好の小説『真夜中の五分前 five minutes to tomorrow(side-A・side-B)』(新潮文庫刊)。


  昨日、2020年8月15日、日本敗戦の日に放送されたのがNHK『太陽の子』でした。主演は柳楽優弥ですが、三浦春馬は彼の弟役での熱演でした。大海原に向かって自殺を計るシーンは今までの穏やかなイメージを変えるものでした。そして、特攻を志願して帰らぬ人となるのでした。
 この作品を完成させてからこの世に別れを告げるつもりだったのでしょうか。ここでの演技とダブらせてみてしまうのです。

■NHK「太陽の子」(ウィキペディア)
 『太陽の子』(たいようのこ、英語: GIFT OF FIRE)は、「国際共同制作 特集ドラマ」としてNHK総合、NHK BS4K、NHK BS8Kで終戦75周年となる2020年8月15日土曜日の19時30分から20時50分に放送された日本のテレビドラマ。第二次世界大戦下の日本で原子爆弾の開発に携わった科学者の苦悩と青春を史実をもとにフィクションとして描いた群像劇。第二次世界大戦末期に京都大学で行われた核分裂エネルギーを用いた新型爆弾の開発(F研究)において、爆弾開発の研究に没頭する1人の若手研究者が戦争という時代の波に翻弄されていく姿を史実に基づいて描く、若者の戦争における悲劇の物語[1]。黒崎博作・演出。主演は柳楽優弥。


 あまりに若すぎる30歳での自死でした。
 貴方より2倍以上生きた年寄りが、貴方の死を息子のように悼んでいます。合掌

〔262〕続「CWニコルさん追悼」、ラボ教育センターのテューターの手記はまたひと味違います。

2020年04月11日 | 追悼文
 CWニコルさんの物語を「教材」にして、日常的にことばとからだで遊んできたラボ・テューターやラボッ子たちはニコルさんの逝去に対して、深い感慨を抱いたようです。物語を通してニコルさんの想いが血肉化されているのが彼らだと思うからです。(拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』晩成書房、参照)
 矢部さんを通してテューターの追悼文を読ませていただきました。彼女たちの了解を得て、ここに掲載させていただきます。ありがとうございました。

●福田三津夫様

テューターからわたくし宛にいただいた、ニコルさんの訃報に接してのメール
を添付します。

このような思いをもったテューターは他にもたくさんいらっしゃいます。
ラボ物語ライブラリーの中でニコルさんの作品はたくさんあり、いずれも
テューターやラボっ子の人気は高いものばかりです。
                             矢部 顕


◆ニコルさんショック
―訃報をうけて思いだすこと―

 ニコルさんショックからすこしずつ立ち上がりつつあります。ラボも休みになってしまいましたし、国際交流中止だけでなく、地区研もネット会議予定・・・・・・・・。

 ラボ関係者で、C.W.ニコルさんの恩恵を受けていない人はいないでしょうね。
 なぜかって? まず私がラボっ子時代から人気だったラボ物語ライブラリー『すてきなワフ家』、そして冒険とユーモアのつまった『TANUKI』なども絵本とともに大好きな作品など長いこと親しまれていた作家であり、人物だったからです。
  「ソングバード2」の『オーロラ』や『あ・はうりく』、『フォークソング名曲集』、私がニコルさん作品で一番大好きな『日時計』、数えたらきりがないくらいニコルさんの作品、そして英語にあふれて……。CDを聞いて多くの何度も覚えた英語は、ニコルさんの英語の文章がいっぱいなんですよね。
 ラボ発足40周年の『はだかのダルシン』が発刊される頃からニコルさんがラボに講演などでお顔を見せてくださるようになり、長野・黒姫の「アファンの森」と「ラボランド」の近さもあり、最近では、ラボっ子に直接ご教示くださる機会もぐんと増えました。
 
  ラボ発足40周年の時に実現した対談集『ことばと自然』(2006年アートデイズ刊)の本では、ニコルさんと言語社会学者の鈴木孝夫先生と対談をなさっています。私がどう生きていくべきなのか指針となる教えがたくさんあり、経済至上主義でなくということ。ニコルさんの一徹さと、鈴木孝夫先生の視点の高さともに森・野鳥・きのこ動物といった自然を愛するお二人ならではのことばが心に響いてきます。虫や鳥の話では、とんでもなく盛り上がったのでしょう。
  また鈴木先生が「『TANUKI』の滑稽さをとても気に入られて、ニコルさんも喜んでいらっしゃった様子ですね。『TANUKI』も『すてきなワフ家』使える英語をたくさん、音の面白い表現をと心をくだいてくださって、おかげで豊かにラボは進んでくることができました。日本語についての鈴木先生ならではのこだわりと、日本人であろうとするニコルさんに鈴木先生の優しさと思える内容になっています。
 イギリス、アメリカ、カナダなどに住んでいらっしゃった鈴木先生とニコルさんは、魂レベルで共感されたことでしょう。あとがきを読むと、前ラボ会長さんのご尽力おおきいですね。ありがとうございます
 「アファンの森」の池から、弥生時代の土器が出たっていうのにはほんとに驚きました。縄文時代の遺跡は多いのに。さすが長野!!
 
 とにかく話題と博識なお二人の対談で学ぶことが多いですね。『誇り高き日本人でいたい』(2004年初版 アートデイズ刊)では、ニコルさんご自身がラボとの出会い、故・谷川雁さんとの濃くて深い付き合いも語られています。 また本の中で、「アファンの森」に託す思いを「私の死後も森は生き続けてくれる」と述べています。
 まだ、ニコルさんがなくなったのはまだ受入れられませんが、ニコルさんの小説、作品、歌声、そしてラボ物語ライブラリーの数々も生き続けてくれます。
『ワフ家』のやんちゃなヘンリーやおしゃまなアンは(王室のお名前だったり英雄のお名前だったりで呼び捨てにするのもなんですが)生き生きと命をもってラボっ子と活動しているし、『TANUKI』だって、今も柿の木の下でうろうろしているように思われます。ニコルさんの世界は、今も生き生きとしていますから。
 個人的なお付き合いはありませんが、作品や心では何度もお付き合いさせていただいたことに感謝。
 僭越ながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
                                                   テューター ○○ ○○

◆『たぬき』に憧れていた子ども時代

 ニコルさんの訃報、悲しい気持ちで受け止めています。対談集『ことばと自然』を昨日、手にとっていました。鈴木先生との対談、出版時、一気に読んだものでした。
 しばしの中断があったにせよ、40周年の時に、再びラボへ。あの年の、東京でのニコルさんの講演会にも出かけました。戻ってきてくださったことがとても嬉しかったです。
 ラボっ子たちは、今もニコルさんの物語ライブラリーを楽しんでいます。
 当時小学生だった私は、『TANUKI』のようになりたかったのです。女王様ともお茶を楽しめるコミュニケーション力の高さ。私は、長女気質というのでしょうか、しっかりしなくてはいけない、そんな思いに捉われていたような気がします。元教師、明治生まれの祖母がいて、ミスはいけない事と思っていました。(私だけの思い込みだったのですが~) 『TANUKI』の心は自由です。失敗するけれど気にしない、正義感もある、ユーモアのセンスもある、誰とでも話せる、憧れでした。
  物語から力をもらっていたのですね。他にも、『すてきなワフ家』『きてれつ六勇士』『ゴロひげ平左衛門ノミの仇討』『ドリトル先生海をゆく』などなど、私もラボっ子たちも楽しんできました。
  ラボ物語ライブラリーの中に、ニコルさんはこれからも生き続けますね。
  ご冥福をお祈りします。
                                  テューター○○ ○○

〔261〕「CWニコルさん追悼」、松本輝夫さんと矢部顕さんのことばを届けます。

2020年04月10日 | 追悼文
  CWニコルさんが亡くなられました。
  私は彼の本を2冊もっています。『風を見た少年』(クロスロード)という小説と鈴木孝夫さんとの対談『ことばと自然』(アートデイズ)です。
  『風を見た少年』を買ったのは児童劇「風を見た少年」(劇団あとむ)を見たときです。関矢幸雄さんが提唱した素劇という手法で劇化したものでした。
  ラボ教育センターにとってニコルさんはとてつもなく大きな存在だったようです。そのあたりを松本輝夫さんと矢部顕さんに「証言」してもらいます。

●福田三津夫様
4月2日の毎日新聞にニコルさんが寄稿しています。
「雑食動物としての人間」という題で、その中の
2行を抜粋しました。

「自然は、私たち人間が地球を傷つけ、共に生きる
他の生命を虐げていることに多くの警告を発している。
新型コロナウイルスは、今後、我々を襲うであろう災厄
の先駆けにすぎない」

4月3日に亡くなりました。
4月2日の新聞記事は遺言になったのですね。
添付します。
                  矢部 顕


  ニコルさんは毎日新聞で月1回コラムを連載していたようです。最後のコラムの冒頭の部分です。

◆Country・Gentleman
「雑食動物」としての人間=C・W・ニコル

 人類は「雑食動物」として進化した。植物の根や果実、種子から貝、魚、鳥、動物まで、幅広く食べてきた。
 最も貴重かつ危険な獲物を捕らえるには皆が状況をしっかり理解し、緊密な連携を図る必要がある。「鯨一頭、七浦潤す」といわれる通り、セミクジラ1頭で7カ村が生き延びられる一方、漁に出たクジラ捕りが全員命を落とすこともあった。灼熱(しゃくねつ)のサハラ砂漠でも、雪と氷に閉ざされた北極でも、人々は狩猟の伝統を受け継いできた。
 宗教には独自のルールや禁忌があり、それぞれの作法に従って動物を食肉に加工してきた。イスラム教徒、ユダヤ教徒、エチオピアのコプト派キリスト教徒は豚肉を口にしないが、ブタの生育環境や健康上の理由に基づくのではないかと個人的には考えている。(以下、略)


  つぎに松本さんや矢部さんの追悼文を紹介します。

◆追悼 CWニコルさん
●(元)タカの会(鈴木孝夫研究会)発第171号より抜粋
谷川雁を敬愛し、彼の近くに住みたいと長野県黒姫に移住し、作家として、また環境保全活動家として活躍してきたニコルさん死去(4月3日)の報道を受けて、今朝一番で、鈴木先生から電話があり、またあれこれお話しました。
 このお二人はラボ・パーティ発足40周年の年(2006年)、黒姫の「アファンの森」やニコルさん宅等で何度も会って対談し、その対談集を『ことばと自然ーー子どもの未来を拓く』という一冊の本として出版した仲でもあります(司会役・編集は松本)。
                                            2020年4月5日 鈴木孝夫研究会主宰:松本輝夫

 「ケルト系日本人」と自称していた(氏は1995年、谷川雁が亡くなった年に日本国籍を取得)ニコルさんと鈴木先生とは、経済成長主義の愚劣と誤り批判、地球生態系保全を最優先する考え方において共通しており、昔から互いに関心と敬意を抱いていたのですが、実際に会ったのは、この時が初めてでした。
お二人とも草創期のラボに関わりあったのですが、諸事情からすれ違うこと多く、かく成った次第で、ラボ40周年という記念すべき年に遅まきながら具体的に出会えたことを大喜び。ニコルさんなどは、氏の自宅で乾杯を重ねた後、歌まで歌い出すほどのはしゃぎようでしたね。
この対談のまとめは、「ラボ・パーティ発足40周年記念出版」として株式会社アートデイズより刊行されていますので、未読の方は是非この際入手してみてください。新型コロナ災禍で南極を除く全世界が黙示録的に益々激しく震撼し続けている現下の状況において、お二人からのメッセージは新たな意味合いと輝き、迫力をもって伝わってくることでしょう。
 ニコルさんの逝去に対しまして、改めて鈴木先生と共に心から哀悼の誠を捧げます。
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●(元)タカの会(鈴木孝夫研究会)発第170号より抜粋
新型コロナ災禍は、地球生態系の許しがたい破壊に次ぐ破壊を重ねた上で成り立ってきた現代人類文明(生活)に対する自然(地球)の側からの意表を突くゲリラ的な大反撃・復讐みたいなもので、これを機に人類は目下翻弄され放しの現代科学、医学等の限界も改めて思い知るとともに、この事態についての哲学的猛省を深める必要がある。
 その意味で、鈴木先生におかれては、犠牲者は誠に気の毒だし、哀悼の真情では人後におちないが、密かに「新型コロナウィルス様」と敬称で呼びたい心持ちでもある由。勿論こんなことは人前では決していわないし、他ならぬご自身が感染・重症化して死ぬことがあってもやむなしと受けとめることを大前提として、だとも。
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●毎日新聞4月2日 ニコルさん寄稿「雑食動物としての人間」記事より抜粋
自然は、私たち人間が地球を傷つけ、共に生きる他の生命を虐げていることに多くの警告を
発している。 新型コロナウイルスは、今後、我々を襲うであろう災厄の先駆けにすぎない。
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 ラボ40周年記念出版『ことばと自然――こどもの未来を拓く』(鈴木孝夫×CWニコル対談集)は何回かに分けて、アファンの森やニコルさんの自宅、東京のホテルなどでのお二人の対談をまとめたものですが、わたくしは編集実務者として、そのすべての対談に同席し録音機を回し続けました。そのころ、わたくしはラボ40周年記念事業事務局長でしたので、このような幸運な仕事に立ち会うことになったのです。
 謹んでニコルさんのご冥福をお祈り申し上げます。            2020年4月5日                            
                                             鈴木孝夫研究会/谷川雁研究会 矢部 顕
                               
◆ニコルさんと谷川雁と鈴木孝夫
友人各位
以下は谷川雁研究会のメンバーへのお知らせです。
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雁研(谷川雁研究会)発第248号
一昨日ニコルさんが直腸がんのため長野市の病院で死去とのこと(享年79歳)。これをうけて今朝鈴木孝夫先生からも電話がありましたが、ニコルさんと雁との関係はそれなりに知られていようが、鈴木孝夫との縁も実は深いのです。氏のご冥福を祈りつつ、氏と谷川雁、鈴木孝夫との共同関係をこの際、筆者の知る限りまとめておくことにしましょう。
                                         2020年4月5日 雁研(谷川雁研究会)代表:松本輝夫

英国南ウェールズ生まれのニコルさんが初めて来日したのは1962年。その頃から北極探検・調査の活動の傍ら生活費稼ぎのため「大嫌いな」英会話学校講師などやっていたなかで、テック(=後のラボ教育センター)を知り、谷川雁と出会って、ラボと深く関わるようになる。それが1968~70年のこと。

1)その頃からラボはそれまでの英会話、英語教育では全くダメだということで、谷川雁主導の下、物語中心の活動に切り替え始めたのだが、それがニコルさんにとっても大きな救いになる。「物語なら自分も書ける」と豪語したら雁が「じゃあ、書いてみよ」と言って一か月の時間をくれて、一生懸命書いたら「雁さんが高く評価してくれ」、結果的に人生で初めて出版した本が『たぬき』となった。「これにより作家として生きることに自信がもてたので、以来雁さんへの感謝を忘れたことはない」というふうに。『たぬき』はラボ物語作品としても不滅の名作であり、今もラボの子ども達から愛され続けています。 

2)その後『日時計』や『ゴロヒゲ平左衛門』等のラボ・オリジナル作品を書くと共にいくつかのラボ物語作品の英語も担当したが、雁との共同作業で一番苦しみ、その分最も大きな手応えを得たのが『国生み』4話。

3)この『国生み』制作も一因となってテック経営が分裂し、雁が解任される事件が勃発⇒大混乱となり、結果的に雁が1980年9月にラボ正式退社となった時、ニコルさんも一緒に退社。その後雁が「十代の会」「ものがたり文化の会」を立ち上げた時も協力(ただし「ものがたり文化の会」との関係は事情により途中まで)。なおニコルさんが黒姫に1980年移住したのも78年先に移住していた雁への敬愛やみがたく、近所に暮らしたかったからのこと。

4)ラボとは長い間ブランクがあったが、2006年のラボ40周年に向けて、ニコルさんとの協力関係を再構築しようということで、当時会長であった松本が書状を送った時のニコルさんのこだわりは唯の一点。「雁さんはラボにも迷惑かけてやめたのだろうが、しかしその功績は抜群で不滅のはず。そんな雁さんの功績を否定するのであれば関わることはできない」⇒「谷川雁とはたしかにラボ・テープの著作権をめぐって争いもしたが、裁判過程ですっきりと和解し、雁やニコルさんの作品は全面的に今のラボが使用しているし、テューターやラボっ子から深く愛されてもいる。そうである限り雁の功績を高く評価することはあっても否定するなんてありえない」⇒これにてニコルさんはラボとの関係を復活。その後ラボの為に物語作品を書いてくれたり、40周年記念行事に鈴木孝夫先生らと一緒に参加。

5)鈴木孝夫との関係では、ラボ40周年の2006年に黒姫の「アファンの森」やニコルさんの御宅等で何度も対談を重ねて、それを一冊の本『ことばと自然ーー子どもの未来を拓く』(アートデイズ刊)として出版した仲でもある(司会役・編集は松本)。
ニコルさんと鈴木孝夫は経済成長主義の愚劣と誤り批判、地球生態系保全を最優先する考え方において共通しており、昔から互いに関心と敬意を抱いていたのだが、実際に会ったのは、この時が初めて。二人とも草創期のラボに関わりがあったのだが諸事情からすれ違うこと多く、かく成った次第で、ラボ40周年という記念すべき年に遅まきながら具体的に出会えたことを大喜び。ニコルさんなどは氏の御宅で乾杯を重ねた後、歌まで歌い出すほどのはしゃぎようでしたね。その後も氏は「黒姫の拙宅にお出でいただいたひと時は本当に楽しい時間だった。心が通い合う交わりの時をいつか再び持ちたいと願っている」とも記している。

6)ニコルさんが世界中の国々を数多く回り、よく知った上で、日本の自然と文化、人々の優しさが一番好ましいということで英国籍を捨てて日本国籍を取得した点も鈴木孝夫は高く評価し、アングロサクソン系の人間にも稀には優れものがいるものだと感心していたところニコルさん曰く「私はアングロサクソンではなく今ではケルト系日本人です」。さらに言えば、そのうえで、この何十年かで様変わりしつつある日本の自然,森や川の現状、それと相まって進む日本人の心の荒廃については苦言を呈し、危惧もしてきたのだが、その点でも鈴木孝夫と同じだ。安倍のような低劣・無恥・非道な政治屋が異常なまでの長期政権を保ち得ているところにその荒廃ぶりが端的に現れているというふうに。

      ――以上ですが、改めて、ニコルさんの死去を悼み、心から哀悼の誠を捧げます。――松本輝夫

〔257〕三里塚ワンパック創始者の1人、石井紀子さんの急逝を悼みます。

2020年03月25日 | 追悼文
 先ほど届いた三里塚ワンパック有機野菜を水洗いし、一息ついて同封のプリントを読み始めて愕然としました。石井紀子さんの訃報がそこにあったからです。交通事故で、67歳の若さで亡くなられたというのです。
 三里塚ワンパック有機野菜との出合いは1987年のことでした。その年に清瀬の地でルポライターの鎌田慧さんの講演会がありました。この会に集まった人たちで清瀬・教育って何だろう会という市民組織を作りました。そして月1回の例会と通信をほとんど滞りなく発行していきました。
 鎌田公代さんとの出会いもこの会でのことでした。しばらくしてから彼女に勧められたのが三里塚ワンパック有機野菜でした。それから現在に至るまで月2回ほどワンパック野菜を食べ続けているのです。もう30年以上になるのですね。
 石井紀子さんはワンパックの中心メンバーで、彼女の達筆の手紙がほぼ毎回、野菜と共に届いたのでした。ワンパックの体制が変わって彼女の手紙はほとんど届かなくなっていましたが、珍しく1ヶ月前に手書きのプリントを懐かしく拝見したばかりでした。
 三里塚を訪れることもなく、おいしい野菜をいただくばかりだった私が彼女のことを意識したのは、ある日の朝日新聞の記事を見たからでした。(2007年9月26日、夕刊)そこには「農家の嫁は成田と闘う」「離着陸直下で産直パック」という見出しが躍っていました。


〔石井紀子(54)の高校生活は、70年安保のただ中だった。昼は日比谷公園まで反戦デモに行く。夜は糸井五郎のオールナイトニッポンとビートルズを聴き、高橋和巳を読み、友人へ渡す手紙を何十枚も書いた。「プチブルの自分がこんな恵まれた生活をしていていいのかなんて、難しいことばかり考えていました」
 大学に入って、成田の反対闘争に参加するのは紀子の当然の成り行きだった。71年、国による第2次強制代執行が目前に迫っていた。団結小屋で男子学生におにぎりを作り、見張りをした。仲間の女性が「こんな男中心の運動なんかやっていられない」と出て行っても、「誰かが残らなければ」と、踏みとどまった。〕


 そこで農家の青年、石井恒司さんにプロポーズされて結婚したというのです。そして夫婦や仲間で始めたのがワンパック有機野菜でした。
 この新聞の切り抜きは鎌田慧さんの著書『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)に挟めておきました。この本の「第2章 成田空港閣議決定40年後の現実」には「父親ともども三度、四度逮捕されても抵抗した-石井恒司さんに聞く」「闘うことは生きること-石井紀子さんに聞く」という夫婦それぞれのインタビュー記事が掲載されています。〔ネット情報ではその後離婚されたということですが。〕石井紀子さんの追悼の意を込めて再読したのです。

 最後に鎌田慧さんの新聞記事を紹介します。すでに石井紀子さんのことを東京新聞に書かれていたのでした。

◆ある事故死
                      鎌田 慧(ルポライター)

 石井紀子さんが亡くなった。六十七歳。交通事故だった。千葉県成田市の作業場で明朝配達のための人参を選別し終え、軽トラツクで自宅へ向かった。考えごとをしていたのだろうか、自宅への曲がり角を通り過ぎた。
 Uターンして、疾走してきた軽自動車と正面衝突。ほぼ即死だった。相手の若者はエアバッグで無事だと聞いた。
 一九七二年、学生の時、「三里塚闘争」と言われた、成田空港建設反対運動に参加した。突然の一方的な用地の閣議決定だったから、ほとんどが自民党支持だった農民たちを憤激させていた。
 学生運動の昂揚の後で全国から学生や労働者が駆けつけ、常駐した。援農に支えられ、小学生もふくめた家族ぐるみの抵抗闘争は、数多くの逮捕者、負傷者ばかりか自殺者、死者をだした。計画から五十四年たったが未完成。計画変更後も混乱を極めている。
 石井紀子さんは農家の若者と結婚した十数人の女子学生のひとり。ミミズにも恐怖する、東京の教員の娘だった。「義母たちのように土に生き、土に死ぬ百姓にならねば」。それが決意だった。
 十七年前に他界した義父、八年前に離婚した夫とわたしは懇意だった。「土と闘争に根を張って
生きた。それで得た人生です。この在り方を続けていきます」と彼女は爽やかに語っていた。初心を全うした一生だった。合掌。
             (3月17日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)

◆亡国の内閣
  生活への配慮なし 空疎な大言壮語ばかり

                  鎌田 慧(ルポライター)

 たまたまテレビで、下級生が上級生に手づくりの卒業証書を渡す
シーンをみた。今春で廃校の予定だったが、この2日から全国臨時
休校。それで、その日、唐突に最後の授業となった。
 何年か前、小学校でミサイル訓練があった。児童たちが教室の机の
下に潜らされた。いまではバカげたエピソードのひとつにされて
いるが、危機の宣伝に子どもをダシに使うのはよくない。
 今回の臨時休校も戦車に乗ってポーズをとったり、戦闘機に乗って
ご満悦、号令好きの首相が、専門家会議に諮ることなく、大向こうを
狙った独善的な決定たった。
 説明なしの決定たったため不満が高まった。1月中旬にコロナ
ウイルスが問題になってから1ヵ月半、ようやく首相が会見に
でてきた。が、演題左右に配置された、プロンプターの文字を読み
上げるだけの演技だった。
 どの言葉にもひとを思う心がこもっていない。首相としての痛みも
方針もない。水際での防疫の失敗への反省もない。
 子どもを抱えた親たちは仕事をどうするのか。子守りや食事や
こまごまとした生活への配慮は、まったく見当たらない。
 耳についたのは、万全の対策をとる決意。盤石な検査、医療体制の
構築。最大限動員など、いつもながらの空疎な大言壮語。
 大臣たちも危機を危機として感じず、対策緊急会議をサボつていた
亡国ぶり。 (3月3日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)

 ◆惨事便乗型内閣
  「ショック・ドクトリン」    鎌田 慧 (ルポライター)

 明日11日はフクシマ事故から9年。10基の原発すべてが廃炉と
決まったが収束にはほど遠い。被災住民の病死が続き、子どもたちの
将来の健康も心配だ。避難者の生活再建は難しく、被曝労働者は発病の
不安を抱えている。
 それでも政府は原発をやめようとしない。事故が起こったにしても
だれも責任を取るなどと考えていないからだ。

 20日、東京・亀戸中央公園で予定していた「さようなら原発全国
集会」と翌日の国際シンポジウム「東京五輪で消されゆく原発事故
被害」は、痛恨の思いで中止にした。
 つまりはコロナウイルス拡大のためだが、放射能に無策の安倍内閣に
対する抗議集会が、ウイルス防衛に失敗した、首相の「自粛要請」を
受けた形で中止になるのは、いかにも悔しい。

 ナオミクライン著「ショック・ドクトリン」は、自然災害や戦争の
ショックに乗じて、大資本と右派政治家とが結託、「復興」や「再建」
によって、膨大な利益を恣(ほしいまま)にする例を紹介している。
翻訳者は言いえて妙というべきか「惨事便乗型資本主義」と訳した。
 水際の防疫に失敗して全校休校の強行。
 官房長官も文科相はアッと驚く暴政(非正規労働者の死活問題)
だった。
 いま、どさくさまぎれに「緊急事態宣言」を伴う法律を強化
しようとする。
 憲法改正の重要な柱「緊急事態条項」導入。油断も隙も内閣だ。
  (3月10日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)


〔225〕『地域演劇教育論』の表紙を飾ってくださったラボ・テューターの宇野由紀子さんのご逝去に胸が潰れました。

2019年09月04日 | 追悼文
 8月27日(火)、ラボ・テューターの宇野由紀子さんが58歳の若さで亡くなられたという訃報が入りました。ご本人からも闘病中と伺ってはいたものの、まさかこんなに早く逝かれるとは想像もしませんでした。ただただ残念でなりません。
 宇野さんはラボ教育センターのラボ・テューターとして活躍され、指導者的立場にありました。
 私が彼女と親しくお話させてもらうようになったのは、2014年の5月のことでした。ラボ教育センターの言語教育総合研究所の所員としてラボの「テーマ活動」の研究のために、ラボ・パーティの見学を願い出たところ、ラボの事務局から最初に紹介されたのが東京・小平市の宇野パーティでした。事務局の吉岡美詠子さんと2人で3回にわたってパーティ訪問をしました。2時間ほど活動の様子を拝見し、30分以上にわたって意見交換をしました。それぞれの訪問の総括もメールでやりとりしました。我々が訪問できなかった日の様子についてもメールで密に連絡を取り合いました。
 最後の4回目の訪問はパーティでのテーマ活動の発表会でした。
 宇野パーティ訪問の様子は拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房、2018年)に18頁にわたって詳しく書きました。行松泉パーティ、高橋義子パーティと合わせて「テーマ活動づくりとパーティづくり」としてまとめています。
 この本の表紙には宇野パーティの日常活動の1つ、クリスマス会でのゲームのスナップを掲載させてもらいました。私のラボでの研究テーマは「創造的なテーマ活動づくり」ということなのですが、その前提としてパーティ内での濃密な人間関係の構築が必須です。日常的な人間関係づくりの上に発表会は成立するということになります。この写真はそのことを見事に表現・活写してくれていると思います。
 宇野パーティの果たした役割については拙著に触れていますので手にしていただければ嬉しいです。

 8月31日(土)お通夜に伺いました。式場は親類の方、ラボ教育センターの人、テューター仲間、ラボっ子たちなどで溢れていました。にこやかな宇野さんの写真は彼女の優しい人柄を伝えていました。
 受付をしていた吉岡さんは亡くなられる前日にお会いになったそうです。2人でのパーティ訪問にも話が及び、故人を偲びました。
 パーティ訪問からしばらくして、宇野さんがテーマ活動の発表会の挨拶に立たれたことがありました。的を射た心に残るいい話だったのでメールで感想を伝えたところ、とても喜んでくれました。そして、拙著を送付したときだったでしょうか、お礼のことばとともに自身の病気についても触れられていたように思います。

 ラボ・テューターとしてはまさに脂がのりきった年齢です。さぞかし無念だったことでしょう。
 宇野さん、いろいろありがとうございました。ご冥福をお祈りします。合掌。



●『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房HPより)
〔まえがきより〕
ラボ教育センターという魅力的な教育組織に出合ったのは1998年の夏のことだった。
ラボ付属の言語教育総合研究所での研究活動を通して、ラボの活動が「優れた地域での演劇教育の典型」であることを確信するに至った。
ラボ・テューターやラボっ子は活動のすべてに、私の提起する「ことばと心の受け渡し」を充満させ、他者とシンクロする「からだ」を兼ね備えていたのである。
ここでは、子どもの生理や論理を優先させ、まさに「学びの地平」が拓かれつつあった。
独創的で魅力にあふれたテーマ活動の一端でも紹介できたらという思いで出版を思い立った。

〔目次より〕
まえがき
福田三津夫さんの新著に寄せて=松本輝夫
福田三津夫さんとの運命的な出会い=矢部 顕

第1章 地域の演劇教育─ラボの場合

■ラボ・ワークショップ全国行脚
1すべてはラボ教育センター本部から始まった
2ラボ・テューターとラボっ子から学ぶ
3各地でのワークショップ・アラカルト
4ラボ・テューターとラボっ子の「からだ」

■テーマ活動づくりとパーティづくり─ラボ・パーティ参観記
1研究テーマを設定する
2居場所づくりとテーマ活動─宇野由紀子パーティの巻
3テーマ活動「スサノオ」を創る─行松泉パーティの巻
4ことばとからだのハーモニー─高橋義子パーティの巻
5三つのラボ・パーティから視えたもの

■テーマ活動は地域の演劇教育
1演劇教育とは何か
2演劇教育の育てる力
3テーマ活動は地域の演劇教育
4テーマ活動は限界芸術の一つ
5テーマ活動における表現

■テーマ活動の表現を考えるための本

第2章 新・実践的演劇教育論

*演劇教育の原点を探る1

高山図南雄の「あらためてスタニスラフスキー」
竹内敏晴『主体としての「からだ」』
鳥山敏子の教育実践
副島功の仕事
辰嶋幸夫のドラマ
渡辺茂の劇づくり「LOVE」

*演劇教育の原点を探る2

寒川道夫の光と影
マリオ・ローディと演劇教育
演劇教育としての授業
大学の授業と演劇教育

あとがき
関連資料
初出一覧


〔130〕イケダ自然体操の池田潤子さんが逝去されてもう1年が経ってしまったのですね。

2017年02月20日 | 追悼文
 池田潤子さんが逝去されたのは2016年2月1日のことでしたから、もう1周忌ということになりました。様々な想い出のある池田さんとのことを振り返ってみたいと思います。
1972年に教師をスタートさせて、最も刺激をもらったのが遠山啓編集代表の雑誌「ひと」(太郎次郎社)でした。1973年冬に発行されたのでした。この雑誌の記事と、すぐにスタートした「ひと塾」が私の教育実践に多大な刺激を与えてくれました。「ひと塾」の申し込みの1番はこの年の秋に結婚した連れ合い、2番が私でした。会場は八王子のセミナーハウスでした。
 遠山啓さんだけでなく遠藤豊吉、白井春男、板倉聖宣、つるまきさちこ、竹内敏晴、奥地圭子、鳥山敏子さんなどの名前がすらすらと出てきます。ここで出会った人たちのワークショップなどに頻繁に出入りするのが新卒教師の私でした。
 つるまきさちこさん主宰の「からだとこころの会」で、初めて、野口三千三さんのワークショップを受けることになります。あの野口体操の考案者で、東京藝術大学の教授、劇団などにも多大の影響を与えていた伝説の人でした。本物の日本刀や骨だけの人体模型などを持参しての畳部屋での講習会が印象に残っています。
 池田潤子さんは野口さんの薫陶を得た、鹿児島生まれの元体育の高校教師でした。弟子をとらない野口さんが唯一人弟子と認めた人でした。彼女は日本演劇教育連盟主催の全国演劇教育研究集会や演劇教育セミナーなどの講師を長く続けられました。1980年代の終わりに、「イケダ自然体操」と名乗り始めた頃だったでしょうか、私もワークショップの世話人に志願しました。
 1990年代、やはり妻が池田潤子さんのワークショップの世話人になるということがあって交流の輪がさらに広がりました。
 21世紀に入ってから、2年に一度、手作りの、その年の干支が送られてくるようになりました。特殊な堅い紙で実に器用に折られた、日本的な柄の精巧な置物です。同時にご夫妻の素敵な栞が必ず添えられていました。その1つを紹介しましょう。

 皆様のご健康とご多幸を心から祈念し
2004年が《良くないことが去る年》
でありますように、との願いを籠めて
母子猿を折りました。
 地球上のすべての人類が
字源にありますように
両手を合わせ
良い心と
優しく愛情ある善い行いを
輝く未来に向かって
真っ直ぐに引き伸ばして行ってほしい!と
心から願いつつ
ここに母子一組と栞文をお届けし
新年のご挨拶に代えさせて頂きました。
      平成16年 元旦
        古田俊彦
        潤子(池田)

 この栞には漢和辞典からの引用で「申」の語源が記されていたのです。
 池田さんはその後教室を開かれ、国内外に講習の場が広がりました。とりわけデンマークには何回か呼ばれて行かれたという話を伺っていました。
 雑誌「ひと」に池田さんの実践が掲載されたのは私としても嬉しいことでした。この連載が元になって『くつろいで、くつろいで、とことんくつろいで―イケダ自然体操』(樹心社、2006年)が出版されます。「こんな本が出来ました。お読みくださると嬉しいです。」という文が添えられた御著書が送られてきました。当時私は埼玉大学で授業を始めたばかりでした。早速、授業の課題図書にこの本をノミネートしたのです。
 この本は野口さんとの出会いや教室の発展の様子にも触れられています。

■『くつろいで、くつろいで、とことんくつろいで―イケダ自然体操』樹心社、2006年
 著者の池田さんは、とても優しく、すっとした意志の力が感じられる方です。また、向上心の塊のような方で、常に勉強を続けられています。
 この本を書かれるにあたっても、書いているうちに、どんどんご自身のやり方も変わっていくし、考え方も少しずつ変化していくことで、なかなか本の形にして出版するということに納得してくださらなかったのですが、お願いして5年少々、やっと形にすることができました。
 池田さんの40年以上の体操人生から得られた、素晴らしいものがつまった本です。人間のあり方の根源に迫るイケダ体操の真髄、そして池田さんの感性の素晴らしさを少しで感じていただければと思います。
 どうか、何か素敵なものを1つでも、この本から得ていただければ幸いです。

 野口体操やイケダ自然体操から頂いたものは様々あります。こころとからだの関係性、からだそのものについての認識、聴くということ…教育の根本のところを示唆されたのでした。
 なお、市橋久生さんが池田さんの仕事について簡潔にまとめた心温かい追悼文を書かれています。(「演劇と教育」2016.6月号)

〔116〕「村山眞理子さんのお別れ会」が旅行中に開かれていたことに愕然としました。

2016年11月18日 | 追悼文
  旅行から帰って、時差ぼけの頭で郵便物を整理していたら一枚のはがきを見つけて愕然としました。表裏に次のように書かれていたからです。

  ■村山眞理子 お別れ会のご案内
 謹啓 皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 故村山眞理子(ケーキドマリコ店主)は去る9月25日に闘病の末永眠いたしました(享年67歳)。故人の活動の足跡を、生前お世話になりました皆様と共に、振り返るお別れ会をご案内いたします。ご多忙とは存じますが皆様のお越しを心よりお待ちしております。 尚、ケーキドマリコはこれをもって閉店いたします。これまでのご愛顧、誠にありがとうございました。
                           敬白
                              2016年10月吉日

  ■村山眞理子 お別れ会
・日時:2016年10月23日(日)13:00~20:00
   14:00~/19:00~主催者挨拶を予定しております。
   ※時間内の入退場は自由とさせていただきます。
・会場:西部地域センター3F多目的ホール(東久留米市滝山)
・故人が多く遺した記録(映像・写真・日記・レシピ)や、手作り作品等を展示します。レシピから再現した菓子もご用意致します。
 平服でお気軽にお越し下さいませ。

  1991年、私は教師生活最大の危機を迎えていました。悪戦苦闘して卒業生を送り出したばかりでした。(拙著『ぎゃんぐえいじ-ドラマの教室』晩成書房、に詳述しました)翌年、東京・東久留米第九小学校に転任しました。その時受け持ったのが3年生でした。前年の子どもたちから学んだことを生かしながら、充実した日々を送ることができたのです。その時の学級通信が「宅急便」です。
  次の年4年生に持ち上がりました。この時保護者会の学級委員に立候補して下さったのが、村山眞理子さんでした。保護者会では姉御肌の彼女が、会を取り仕切ってくれました。私は時々話をまとめる程度でした。その村山眞理子さんが若くして亡くなられたのでした。彼女は私より1歳年上でした。
  彼女とのこんな思い出を私は本に書き残しました。『ぎゃんぐえいじ-ドラマの教室』の一節を引用してみましょう。

 「お母さんが動く、お父さんが動く」
 教育は教師だけでできるものではないことを私はあの銀杏組に教わったことは前にも書いた。そのことを証明する<事件>が起こった。
 四年生になっても子どもたちは絶好調だった。新入生の歓迎会をほとんど教師の手を借りないでできるようになっていた。外部から授業を見たいという参観者も多く、そういった小さな出来事も自分たちの成長の糧にしていった。葛岡雄治さんとの共同授業 「夕鶴」の十数時間におよぶ取り組みは、この本の後半で明らかにしたい。
 さて、お母さん方の協力はますます強力なものになっていった。
 学級委員のお母さん方が二学期の終わりに学級活動として、焼き芋、豚汁作り、ゲームで遊ぶということを計画してくれた。これはかなり大がかりな企画で、豚汁のためにかまどをつくらなければならない。大人の男手も数人必要ということだった。
 お母さん方がこの計画を話しに来校されたので、教頭に許可を得ようとしたら、案の定事前の連絡もないのでダメだという。校庭で火を炊くということは前例もないし、裏庭のU字抗も勝手に動かしてはいけないという。管理的な教頭で、日頃から何度もぶつかってきたのでまあ予想されたことではあった。でも許可されない理由がどうしても理解できない。今後のこともあるので引き下がるわけにはいかない。他の教師も大勢いる中、放課後の職員室で激しくやりあった。
「子どもや教師、親が子どものために計画したことを積極的に支えるのが管理職の仕事でしょう。やってはいけない理由がまったく理解できません。」
どうも埒が明かない。そこに割って入ったのが学級委員のお母さん方だった。私と同年齢の骨太のお母さん方があっさりオーケーさせてしまったのだ。火は危なくないように、U字抗はちゃんと元に戻すという条件で。教頭は何も言えなかった。お母さん方が数枚上手だった。
 そのイベントは大成功だった。次の通信を見てもらおう。

 ■学級活動-楽しかったね おいしかったね 
 まずは、飯野さんとともに今回の学級活動の総元締、村山さんのお手紙を紹介しまし
ょう。
「学級活動は、楽しいおいしいで無事終わり、本当に良かったと思っています。二学期
の係の方々にお元気の方もよろしくと、お願いしてあったかいもあって、暖かく、参加
者も九十名に近く、もうこの二つだけとっても大成功と言えると思います。たくさんの
方々の手助けによって、本当にさまざまな作業の助けを借りると、大きな楽しみがえら
れると実感しました。」
 本当にお母さん方の協力態勢は見事でした。マラソン大会が終わって教室に入ってし
ばらくしてから校庭を見ると、もう煙が上がっていました。今回はお父さんの協力もあ
りました。仁平くん、石山さん、大津さん、広谷くんのお父さんという強力メンバーで
した。豚汁のためのかまど造りでは大いに力を発揮してくださったようです。もちろん
女性パワーもすごい。大きな鍋に豚汁をいっぱい作ってくれました。またこれがおいし
いのなんのって。一杯どころか三杯も四杯もおかわりした子がいたくらいですから。私
なんぞは大きなお碗にいっぱいいただきました。これだけでお腹がいっぱいでした。こ
れに焼き芋とおにぎりをいただいて、あとは遊ぶだけとなりました。(略)
                   (「宅急便」№189、93・12・6)

 食事をした後のドッジボールがなかなか感動的だった。四年生はもちろん、お母さん、お父さん、お姉ちゃん、弟妹、と異年齢のグループが全員で楽しんでたのだ。いつまでたっても勝負はつかなかった。…立ち上る煙やこの様子を、一度はストップをかけた教頭はどんな気持ちで見ていたのであろうか。


  豪快な村山さんとは担任を離れてからも関係は続きました。団地でケーキドマリコというケーキ屋さんを開いていた彼女から、妻の誕生日には必ずアップルパイを頼むことにしていたのです。
  「宅急便」学級のお母さんとの会はその後、断続的に10回以上は続いたのではないでしょうか。10名ぐらいのお母さん方がケーキドマリコで食事とケーキを食べながら様々な世間話に花を咲かせたものです。
  私がワインを作るようになったのは村山さんからレシピをいただいたからでした。
  私が担任した村山悟郎君は東京芸術大学を卒業して、芸術家として大成し、様々な賞を獲得しています。東京都現代美術館や青山のアトリエに彼の作品を見に行ったことがありました。現在はウイーンで創作活動をしているとお姉さんは話してくれました。

  それにしても67歳は若過ぎる。合掌

〔111〕演劇教育の重鎮、愛媛の畑野(筆名、本名・酒井)稔さんが逝去されました。

2016年09月14日 | 追悼文
 このブログでも触れていますが、ここ1,2年演劇教育に長年関わってこられた方々が亡くなっています。辰嶋幸夫さん、後藤富美さん、さねとうあきらさん、池田潤子さん、渡辺茂さん…本当に悲しいことです。そして、7月16日に畑野稔さんが逝去されました。
 畑野稔さんは日本演劇教育連盟(演教連)の全国委員として活躍され、毎年、総会や全国演劇教育研究集会などにもはるばる愛媛の地から東京まで手土産持参で足を運んでくれました。全国委員会などでは、愛媛の困難な教育状況を語られるのが常でした。
 畑野さんは早くから演教連のワークショップでスタニスラフスキーシステムを学ばれ、地域での演劇教育を牽引されました。
 畑野さんの愛媛や四国での活動は、私には想像もできない広範なものでした。愛媛新聞の追悼記事を見つけました。

●酒井稔さん死去、愛媛の演劇文化けん引 86歳
(愛媛新聞2016年07月18日(月))
 愛媛の演劇界を長年支えるとともに反戦平和運動を続けてきた酒井稔(さかい・みのる)氏が16日午後10時20分、胆管がんのため松山市の病院で死去した。86歳。内子町出身。自宅は松山市木屋町4の35の1。葬儀・告別式は19日午前10時半から松山市天山3の2の27、ベルモニー会館天山で。喪主は長男哲哉(てつや)氏。
 1957年に現在の「こじか座」の前身となる児童劇団を立ち上げ、以来60年近く愛媛の演劇文化をけん引。教員として勤務した松山東雲中・高校などで、子どもたちに演劇指導した。
 戦時中、海軍飛行予科練習生に志願し、山口県周南市の基地で訓練中に終戦を迎えた。松山市平和資料館をつくる市民の会会長として2003年から毎年、松山空襲の惨状を語り継ぐ資料展を開き、平和の尊さを訴え続けた。広島で被爆し亡くなった松山市出身の俳優丸山定夫の顕彰にも尽力した。
 前県文化協会長、愛媛演劇集団協議会長。15年に愛媛新聞賞。

 さらに次のようなご本人の映像付きの記事も発見しました。

●戦争の悲惨さ伝える「平和展」始まる(愛媛新聞2014年07月25日(金))
 戦争の悲惨さを伝える「平和展」が25日、愛媛県松山市湊町7丁目の市総合コミュニティセンターで始まった。召集令状や遺書など第二次世界大戦に関する資料に加え、今年は集団的自衛権行使を容認する閣議決定を報じた愛媛新聞など7月2日付の全国14紙を並べ、世情を反映した展示となっている。29日まで。無料。
 松山空襲の犠牲者を追悼し平和の大切さを伝えるため市民団体「松山市平和資料館をつくる市民の会」(畑野稔会長)が毎年開催。空襲で焦土化した市街地の写真や市内に落ちた焼夷弾の弾頭など約500点を展示している。
 「死亡児童三名」。雄郡国民学校(現雄郡小)の宿直者が記した帳簿は、松山空襲がもたらした被害を赤裸々に伝える。

  演教連が主催する演劇教育賞に私の実践記録「ことばと心の受け渡し」を推薦してくれたのは畑野さんと種田庸介さんでした。その実践記録を収録した拙著『いちねんせい-ドラマの教室』(晩成書房、2005年)を全国委員会の時にお二人に手渡すことができたのでした。
  「演劇と教育」の原稿を最後にいただいたのは「戦争と教育-軍国少年の戦中・戦後」でした。ファックスで入稿され、何度かやりとりをして完成稿にもっていったのですが、年下の生意気な校正者に一言も文句は言いませんでした。その文章が「演劇と教育」最新号(2016年8+9月号)に再録されています。末尾の文章は畑野さんの遺言と思って、引用したいと思います。合掌

『 修身教育で育てられたり、軍隊で過酷な教育を受けたりしても、根本的な人間そのものについての思索と結びつかない限りそれは空疎でしかなかったことから考えて、「徳育」を教科にして徳目を教え込もうという今の教育行政の方策は何の効果も生まないと思う。また個人の尊厳を謳った憲法十三条や人格の完成を目指した元教育基本法は不変の真理であり、教育がこれに基づいて行われない限り、一方向に向かわせるためではない真に人間を育てる教育の営みにはなり得ない。
 これが苦難の体験を通してつかんだ元軍国少年の結論である。』(2007年8+9月号より再録)

〔106〕さねとうあきらさん逝去、「演劇鑑賞教室を遊ぶ」をめぐっての発言が懐かしい思い出です。

2016年08月18日 | 追悼文
 2016年3月7日、さねとうあきらさんが亡くなりました。体調が思わしくないとは聞いていたのですが、突然のことでことばがありません。さねとうさんは児童文学、児童演劇の巨人の一人と言える方です。

■さねとう あきら(本名・実藤述 1935年1月16日 -2016年3月7日 )は日本の児童文学作家・劇作家。埼玉県狭山市在住。1972年に『地べったこさま』で日本児童文学者協会新人賞・野間児童文芸推奨作品賞、1979年に『ジャンボコッコの伝記』で小学館文学賞、1986年に『東京石器人戦争』で産経児童出版文化賞をそれぞれ受賞。『なまけんぼの神さま』、『おこんじょうるり』、『かっぱのめだま』、『神がくしの八月』、『ゆきこんこん物語』などの創作・評論多数。(ウイキィペディア)

 私が最初にさねとうさんを意識したのは、彼の書いた児童文学書からです。『地べったこさま』や『ゆきこんこん物語』など、齋藤隆介とはひとあじ違った創作民話の世界に魅せられていったのが始まりです。
 『ジャンボコッコの伝記』(1979年刊行。同年、小学館児童出版文化賞受賞)も記憶に残っています。実話に基づく物語で、 東久留米七小のあるクラスにやって来た鶏をめぐる担任と子どもたちのやりとりを描いていました。担任は細田和子さんと聞いています。
 卒業をひかえた彼らは、鶏をどう「処分」するか考えるのです。議論の末、確かみんなで食べてしまうのではなかったでしょうか。鳥山敏子さんの「豚を丸ごと一頭食べる実践」に繋がっていったように推測しているのですが、鳥山さんから直接聞くことはありませんでした。
  私が『演劇と教育』の編集部に在籍していた関係で、さねとうさんの原稿はけっこう読ませていただきました。役得で知り合いになり、亡くなるまでミニコミ「啓」を読んでいただいていました。かつて私も住んでいた狭山市在住というのも何かの縁でしょうか。

 一番記憶に残るさねとうさんとの思い出は、演劇鑑賞教室をめぐっての手紙でのやりとりでした。あるとき、朝日新聞に東久留米市の中学生の投稿が載りました。演劇鑑賞教室を見るのは楽しいのだけど、なぜ感想文を書かなければならないのかという率直な疑問を書いたものでした。それに対してすかさず反応したのがさねとうさんでした。投稿者に対して全面的に賛意を表するものでした。長年児童劇を創作し続けてきたさねとうさんならではの素早い「援護射撃」でした。
 これらの新聞記事に対する感想をすかさず私はさねとうさんに送りました。それとともに、パターン化した観劇後の感想文を書かせるという指導ではなく、劇をめぐっての「子ども座談会」を開くという実践を提起したのです。
  さらに、私が大いに評価する劇団えるむの「ベッカンコおに」(さねとうさん原作)を見たクラスの子どもが、自主的に感想文を原稿用紙に4枚書いてきたのです。これをさねとうさんに読んでもらったところ、これは一級の劇評だと評価してくれました。その顛末が「演劇鑑賞教室を遊ぶ」(拙著『ぎゃんぐえいじ-ドラマの教室』晩成書房)に書かれています。

 さて、不幸は続くものです。脚本研究会「森の会」の後藤富美さんが、2016年7月29日、逝去されました。彼女から学んだことについてはいずれブログで触れることになるかも知れません。ところで、彼女の脚本の代表作が「おこんじょうるり」(さねとうあきら原作) です。なにか因縁めいたものを感じてしまいます。

〔51〕元中学校校長で劇作家の辰嶋幸夫さんが逝去されました。

2015年10月16日 | 追悼文
 8月26日(水)、脚本研究「森の会」の重鎮、辰嶋幸夫さんが逝去されました。9月の例会に欠席されたので、新井早苗さんが連絡を取ってくださり、家族からお話を伺って知りました。連絡を受けた時、私は、あんなに元気だった辰嶋さんがなぜと、茫然自失でした。
 毎月の例会には辰嶋さんはほぼ出席されていました。しかし、私が最後に会ったのは5月の例会でした。この時、辰嶋さんは私に「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」を手渡されました。かねてからどんな脚本を書かれたのか知りたいと言っていたからでしょう。A4、4枚に少し手書きもありましたが、約80作品名がワープロで打ち込んであったのです。
 6月、私は教育実習校見学で珍しく欠席でしたが、辰嶋さんは伊集院静原作の脚色「むしかご」を携えて出席されたそうです。前書きに「遺作」と書かれていたのが気にはなりましたが。遅れて7月にそれを頂きましたが、辰嶋さんは欠席でした。そして、8月はいつも休会です。

 辰嶋さんとは70年代後半に同じ日本演劇教育連盟(演教連)常任委員として出会っていたのですが、彼が中学校の教頭、校長になるにしたがって疎遠になっていきました。ただ演教連としては、毎年の脚本募集の選考委員として途切れることなく、今年まで活躍してくださいました。
 辰嶋さんと親しく話を交わすようになったのはここ10年です。2005年3月に私は小学校の教育現場から身を引きます。定年まで5年を残しての早期退職でした。相変わらず「演劇と教育」の編集代表でしたが、多少自由な身となり、今までできなかったサークル活動に参加するようになりました。「劇あそびと劇の会」と「森の会」でした。「劇あそびと劇の会」では平井まどかさん、「森の会」では辰嶋さんの話をおもに聞きたいという思いからでした。
 実は平井さんも辰嶋ファンで、私と同時に聴講に参加していたのです。そのあたりの事情を平井さんは次のように綴っています。
「(「森の会」参加の)きっかけは、その頃、辰嶋幸夫さんが研究されていた岸田國士についての戯曲論を傍聴させていただいたことだった。私の記録によると、2007年1月の例会で取り上げられた岸田國士『感化院の太鼓』が始まりで、その時は辰嶋さんの<作品随想>がプリント4枚にびっしり印刷されていて、その内容がめっぽう面白かったのでそれから聴講にはまってしまったのである。その後岸田國士の戯曲は『犬に鎖は繋ぐべからず』『女人渇仰』と続き、劇作家も田中澄江になり、やがて辰嶋さんや同人の皆さんご自身の作品を読ませていただくことになり、今日に至っている。」(同人誌「森の劇場」4号、あとがき)

 辰嶋さんは体調を崩され、1,2年欠席されることがあったが徐々に回復され、旧作の改稿、寺山修司など原作の脚色を精力的に続けられました。辰嶋さんの話を聞きたいという我々の願いに応えてくれたのは確かなことです。私の責任編集「森の劇場」4号はまさに辰嶋さんのために作ったものでした。彼の喜ぶ顔が見たくて。
 私は「辰嶋幸夫 創作戯曲 年譜」をめくりながら、これなら数冊の脚本集が作れるだろうと思っています。「辰嶋幸夫全集」でしょうか。最低でも、中学校向脚本集、寺山修司作品脚色集の2冊は間違いなくできるでしょう。

 今年に入ってからも、数本の脚本を書かれていました。辰嶋さんは最期まで劇作家でした。
 辰嶋さん、毎月興味深いお話、本当に楽しかったです。ありがとうございました。合掌。

〔50〕児童劇作や劇あそびの蓑田正治さんが逝去されました。

2015年10月13日 | 追悼文
 蓑田正治さんが亡くなられたことを知ったのは「児童青少年演劇」(日本児童青少年演劇協会、657号、2015.8.25)を読んでのことでした。「追悼・蓑田正治さん」として、石坂慎二さんが蓑田さんの略歴紹介、「困った時の蓑田先生」(木村たかし)、「多くの後進を育てていただきありがとうございました」(加藤早恵)という追悼文が続きます。
 加藤さんの文章の冒頭は次のようになっています。
「蓑田先生が7月1日に亡くなられたとの連絡を、協会の石坂さんから頂いたのは6日の夕刻でした。/3月末から少し体調を崩されて入院され、一旦は退院、4月末からはご自宅近くの病院に転院、それでも回復のために頑張って療養されていたはずでしたのに…。」 享年87歳、元小学校教師、斎田喬に師事し、児童劇作や演劇教育に関わり、劇団の上演脚本なども手がけ、落合聰三郎と「劇あそび勉強会」を設立したそうです。
 多数の著作を残していますが、私の手元にあるのは『劇のある集会活動』(晩成書房、1980)『斎田喬 児童劇作十話』(西村松雄・蓑田正治編、晩成書房、1980)の2冊です。 

 私は1976年に2校目の清瀬市立清瀬第7小学校に赴任し、市内の教育研究会では児童文化部に所属していました。清瀬小学校校長の橋爪平八郎さんが顧問でした。日本児童劇作の会に所属し、脚本を書かれる方でした。彼が蓑田さんを講師に呼び、そこで初めてお目にかかったのです。
 親しく話を交わすことになったのは、それから40年近くたってからでした。雑誌『げき12』(児童・青少年演劇ジャーナル、晩成書房、2013.12)の座談会(演劇の「学習指導要領」試案を読んで)に参加した時でした。児童文化部の講師の件はどうやら記憶にないようでした。 
 この数人での座談会で記憶に残る蓑田発言は、演劇の「学習指導要領」試案(森田勝也)や『げき』に対して、次のように語っていることです。
「私としてはもうちょっと枠を飛び出して今の学校教育の現状を批判的に捉えたうえで、我々の考えていることをアピールするような編集意図をもった方が明確な姿勢を示せるのではないかという感想をもちましたね。」
 学校教育の現状批判をともなった議論を、ということを再三話されたことは、私には嬉しいことでしたが意外な感じもしたのです。『劇のある集会活動』の「推薦のことば」は当時の中央教育審議会会長の高村象平氏だったからです。
 さらに嬉しかったのは、この号で、拙著『実践的演劇教育論』を書評していただいたことです。
「谷川俊太郎、まど・みちお、阪田寛夫、佐野洋子の詩や物語を素材にしている。これらをいろいろな方法で読むのだが、大事なことは、教師がすっかりこの世界に入りこんで、子どもと一緒に遊んでいることだ。これでは子どもが楽しんで遊ばないわけがない。役割を決めて、語りかけたり、応答したり、を楽しんでいるさまが窺える。
 そして現在は、上記のような演劇教育に対する理論と、教室での実践をひっさげて、教員志望の大学生たちに提供しておられる。
 これは、理論とそれに基づく実践の両方を示すことができるという点で、冨田(博之)氏を越えていると言えるかもしれない。」
 最後の一文はあり得ないことであるが、お世辞でも嬉しいことでした。書評を読んで、蓑田さんにお礼の手紙と、ミニコミなどを送らせてもらったのでした。
 訃報を伝えた「児童青少年演劇」の前号の巻頭は蓑田さんの「想像力を育て心を育てる劇あそび」でした。最期までご活躍の蓑田さんでした。合掌。