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後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔813〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」5日目(最終日)、願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)に途中下車。

2025年05月25日 | 旅行記

◆5月16日(金)    5日目(最終日)
⑮願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)
 一路清瀬へ

  ホテル、il Regalo イルレガーロは五色沼入口の素晴らしい風景の中に鎮座しています。イルレガーロはイタリア語でプレゼントの意だそうです。宿泊者は我々だけだったようです。食事は1階のレストランで摂ることができます。窓際の真ん中のテーブルを用意してくれました。彼方には磐梯山が鮮やかに見えます。手前には我が家の車、絵の中に存在しているようで不思議な感じでした。


  さて、最終日はあまり遅くならないように帰宅しようと思ったのですが、妻のために私のお薦めの国宝の願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)に立ち寄ることにしました。国の重要文化財の仏像が数多く拝観できます。


 私は以前に職員旅行で来たことがありました。私の発案企画でしたが、参加者はみんな喜んでくれました。
  私達以外の訪問者は1組だけでした。素晴らしい景色で妻も満足したようでした。

  自宅まで東北自動車道より数十㎞長い常磐自動車道でしたが、途中休みを取りながら暗くならないうちに清瀬に帰れることになりました。たぶん、全走行距離は1000㎞くらいでしょうか。若いときに北海道をレンタカーで走った距離は1200㎞くらいでしたが、まあ、よくこの歳で頑張りました。読んでくださった皆様も、お疲れ様でした。


〔812〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」4日目、一度は行ってみたかった大内宿、さざえ堂、諸橋近代美術館。

2025年05月25日 | 旅行記

◆5月15日(木)  4日目
  丸峰観光ホテルから大内宿まで山道を14~15km
⑫大内宿…福島県南会津郡下郷町大内
  ☎0241-68-3611               
 ここからさざえ堂まで37~38km
⑬さざえ堂…会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404
 ☎0242-22-3163
⑭諸橋近代美術館(ダリ作品多数)…福島県耶麻郡北塩原村檜原剣ケ峯1093-23
 ☎0241-37-1088
 ホテル、il Regalo イルレガーロ着

  前日、夕食を摂る適当な食事処がなく、丸峰観光ホテルで頼んだところ、1人6600円とは目玉が飛び出ました! バイキング、和洋食何でもござれで、それはそれで満足できたのですが、なにしろ凄い人数で少々落ち着きませんでした。でも風呂場は大きい温泉でのんびりできました。

  この日も折角来られた会津の古仏拝観を再度目指したのですが、ことごとく空振りでした。でも1度は行ってみたかった大内宿、さざえ堂、諸橋近代美術館に赴くことができました。
  大内宿に向かう山道はそれほど広くはないのですが、行き交う車のスピードはかなりのものがあります。慎重に無事故を心がけて運転しました。
  朝早いということもあり大内宿はそれほど混雑していませんでした。のんびりゆったり散策を楽しみました。


  途中に「大内宿 街並み展示館」があり入ってみることにしました。


  私達にとって一番の見どころは、階段を上ったところにある神社からの眺めでした。大内宿の街並みが一望の下です。ここに上って初めて大内宿に来た甲斐があったことを実感しました。

 さざえ堂は大きな建物ではないのですが、上り階段と下り階段が交錯しない不思議な造りになっています。世界でも珍しい建造物だそうです。

 会津の古仏拝観が思うようにできなかったので、ならば明日の予定を少し早めてこの日に諸橋近代美術館に行ってしまおうと意見が一致しました。


 諸橋近代美術館は素晴らしいロケーションの中に佇んでいました。通常の美術館巡りの3分の1ぐらいのスピードでゆったりのんびり、丁寧に館内を巡りました。
 ダリ作品が400点以上もあり、ダリ作品に関してはアジア1の所蔵数といいます。
  ちょっとびっくりしたのはダリの彫刻作品がかなり多かったことです。絵画の中から飛び出してきたような、これぞダリ!という作品が目白押しでした。
  撮影可能だった絵画や彫刻、館内からの風景などご覧いただきましょう。


〔811〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」3日目、念願の勝常寺の国宝・重要文化財仏像群を堪能する。

2025年05月25日 | 旅行記

■会津の寺など巡る■
◆5月14日(水)  3日目
 新潟第一ホテルから恵隆寺まで90kmぐらい
  会津坂下ICで下車して4~5km
⑧恵隆寺(立木観音)…河沼郡会津坂下町塔寺松原2944
 ☎0242-83-3171
⑨願成寺(喜多方市)
⑩勝常寺…福島県湯川村大字勝常字代舞1764
 ☎0241-27-4566 (毎週火曜日閉館)
⑪引安寺(会津美里町)
  丸峰観光ホテル着

  車で新潟から福島の会津に越境するという発想を今まで持ったことはありませんでした。しかし今回そうしたことが可能だったのは、新潟で活躍した雲蝶と会津に数多く点在する素晴らしい地方仏が私共に迫ってきたからでした。
  しかしこの磐越自動車道は私にとっては少しばかり鬼門でした。片道1車線のところが多く、しかもトンネルが延々と続くのです。閉塞感に耐えながら到着したのが恵隆寺(立木観音)でした。広い駐車場に悠々車を置いたあと、大きな観光バスが到着しました。会津の古寺としては最も人に知られる観光地になっているようです。


  列を作って拝観した7メートルもある木造千手観音立像、眷属の木造二十八部衆立像、風神雷神はいずれも国の重要文化財です。斗帳という大きな垂れ幕が掛けられているため残念ながら充分に拝観できませんでした。ただ他のお堂で木造薬師如来座像や木造阿弥陀如来座像、木造金剛力士立像が拝観できたのが嬉しいことでした。やはり恵隆寺は仏像の宝庫だったのです。しかし多くの観光客はこちらの像にはあまり関心がなさそうでした。

  移動中でも電話により、上宇内薬師堂や法用寺、中善寺などの仏像拝観の接触を試みたのですが、実現できませんでした。やはり建物の外観上部に多く存在する神社彫刻と異なり、お堂に入っての仏像拝観は難しいものがあります。
  次に向かったのは拝観の可能性がある願成寺(会津大仏)でした。ここの木像阿弥陀如来・両脇侍座像(国重文)にガラス越しではありますが穏やかに対面することができました。訪問客は我々の他には若い男性一人だけでした。

  会津で一番行きたかったのは勝常寺でした。ここにはかつては東北唯一の国宝仏、薬師如来像がおわします。かなり前になりますが、いちど東京上野の東博に「出張」したことがあって、そこで私は対面していますが堂々たる体躯の穏やかな仏像でした。記憶は定かではありませんが、確かこの時は両脇侍は国の重文だったような気がします。今は国宝指定です。
  その後、東北の国宝仏に指定されたのは中尊寺金色堂の仏像群でした。時の流れを感じますね。


  さて勝常寺ですが、「毎週火曜日閉館」とどこかで案内を見たので直接赴くことにしました。しかし観光案内のガイドブックにはこのお寺はほとんど掲載されていません。一抹の不安を抱えながら寺に到着すると、寺の門の脇をなにやら工事している年輩の方に拝観が可能か訪ねました。「住職がいるのではないですか。」と言われ、近くの住居を訪ねたところ、ご住職が快く鍵を開けてくれました。
  まずは本堂の参拝からスタートです。あまりに多くの仏像がありその詳細は記憶できていませんが、鮮明に心に残ったのは東北に広く仏教を広めた徳一上人の座像との対面でした。額から一直線に亀裂が入ったそのお像を幾度本で見たことでしょう。膝がお悪るそうなご住職は私達の質問に丁寧に付き合ってくれました。
  そしていよいよ宝物館へ。堂内に入り明かりをつけていただくと、おそらく10体以上の国宝・重要文化財仏が私達を取り囲んでいました。ここでもいろいろの質問に答えてくださいました。
  撮影は禁止なので、私が会津の仏像のバイブルにしている冊子『会津の仏像ガイド』(あいづふるさと市町村圏協議会、2004年)を掲載します。この表紙が勝常寺の薬師如来座像なのです。
  美しい花々に囲まれた勝常寺訪問は長年の夢が叶ったこの日のハイライトでした。

  このあと、引安寺(会津美里町)に銅像十一面観音と不動明王・地蔵菩薩立像を訪ねるのですが、さすがに「飛び込み」では拝観はなりませんでした。


  心地良い疲れを引きずって一路丸峰観光ホテルを目指しました。


〔810〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」2日目は石動神社(三条市)の圧巻の雲蝶彫刻が登場です。

2025年05月23日 | 旅行記

◆5月13日(火)  2日目
 ホテルルートイン見附から石動神社まで約10km
⑤石動(いするぎ)神社…新潟県三条市吉野屋 *雲蝶作品
 ☎0256-34-5511
⑥本徳寺(燕市)  *雲蝶作品
⑦白山神社(新潟市)  *源太郎作品
 新潟第一ホテル着

  ホテルルートイン見附は昨年も宿泊したところです。大きな浴場をほぼ独り占めでゆっくり身体を癒やしました。朝食はバイキングで品数も豊富でした。
  体調を整えてこの日最初に向かったのが石動神社でした。石段を400段上らなくてはなりません。最初に息切れしたのは私で、妻は淡々と段数を数えて先行します。ユーチューブで下調べしておいたのですが、予想以上にきつかったのは長時間の運転のせいでしょうか。多少汗ばむ陽気でしたが、さわやかな空気が心身に染み込みます。

  社務所にいらっしゃる管理人の方に挨拶をして、じっくり拝観できました。2人で向拝から舐めるように撮影を開始しました。やはり内陣の欄間「鵺退治」「土蜘蛛退治」「俵藤太と龍神」に圧倒されます。


 最も拝観したかった脇障子の「神功皇后と武内宿禰」「加藤清正と高麗人」へ回りました。この2点はアクリル板で保護されているため思うような撮影はできなかったのですが、あとでいただいた2種類のパンフレットを見ていただきましょう。このパンフが素晴らしいのです。

  2人とも大興奮で撮影に励んだのですが、お礼にと妻がお布施をし、お神籤をいっぱい買いました。
  拝観のお礼と感動を伝えに社務所に挨拶に伺うと、なんと座敷に上げていただきお神酒とお菓子の袋をいただきました。「雲蝶は対象の人物を演じながら彫ったのではないか。」というお話がすとんと胸に落ちました。50年追究してきた演劇教育と通底することばに感動を覚えました。
  ライトを当てて教えていただかなくてはわからなかったのが天井の雲蝶作の3枚の絵でした。さらに、びんずる様は雲蝶作というのです。
  ブログ掲載も快く許可していただいて、軽やかに石段をくだっていきました。まさに「満腹」でした。

  拝観希望していた十二神社(加茂市)は非公開、佛興寺(新潟市)は電話が繋がりませんでした。とりわけ佛興寺の寺寳殿を拝観したかったので直接現地に赴いたのですが、お留守のようでした。
  本徳寺(燕市)と白山神社(新潟市)にも拝観し、新潟第一ホテルに辿り着きました。駐車場の件では混乱しましたが、食事は噂に違わぬ充実したものでした。


〔809〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」1日目のハイライトは十二社と西福寺でした。

2025年05月23日 | 旅行記

■新潟の社寺など巡る■
◆5月12日(月)  1日目
 我が家から南魚沼インター経由で十二社までおそらく3時間ぐらいか。
①十二社(南魚沼市)、南魚沼市穴地 *雲蝶作品
 ☎025-777-3054
②西福寺(魚沼市)、2回目の拝観    *雲蝶・源太郎作品
③御島石部(いそべ)神社(柏崎市)、柏崎市西山町石地 *源太郎作品
  ここから都農神社まで20kmぐらい
④都野神社(長岡市)、長岡市与板町与板乙 6045 *源太郎作品
 ☎0258-72-2135
 ここからホテルルートイン見附 -中之島見附インターまで約10km

  清瀬の家を車でスタートしたのは朝の7時前でした。なんとか車のラッシュに巻き込まれたくないという一心でした。下りの関越自動車道を走るということで、徐々に車の数が減っていくのが嬉しいのです。途中休憩を取りながら、出発から3時間ほどで順調に高速を降り、最初の目的地十二社(南魚沼市)を目指しました。
  神社の方はいらっしゃらないのですが、お堂の中には自由に出入りできました。ライトもつけて良いと書かれていて、心置きなく撮影もできました。ここには雲蝶の向拝や欄間の彫刻があります。


  欄間彫刻に圧倒されました。未完成とされているのですがそれが帰って味わい深くさえ見えます。「酒呑童子の大江山の鬼退治」や「鵺退治」が厚彫りされています。この雲蝶作品を凝視しているときに思い出したのがドイツの彫刻家、エルンスト・バルラハでした。ケーテ・コルヴィッツと交流を深めていた作家ですが、いつぞや日本でも展覧会が開かれたことがあるのでご存じの方も多いでしょう。デフォルメされた人体像から作者の思いがひしひしと伝わってきます。

  次に向かったのは、昨秋も訪れた西福寺でした。再訪したのは見落とした雲蝶作品が数点あったからです。地蔵菩薩像、「禁葷酒」の石碑(雲蝶得意の牛像の上に碑)、「寒山拾得」「羅漢様と虎」図でした。そして近年設置された鑿を振るう雲蝶像、昨年はすでに雪囲いがしてあったの見られませんでした。


  今年は観光バスはなかったのですが、すでに10人くらいは訪れていました。
  まずは鐘撞き堂の源太郎の彫刻を堪能しました。階段を上りじっくり拝観しました。さらに、開山堂の向拝、雲蝶の最高傑作の1つです。左右の子どもが可愛く彫られています。中央の烏天狗を囲む人物像を興味深く見ることができます。
  もちろんお堂の中も拝観しました。
  私が考える雲蝶の最高傑作は2体の仁王像です。開山堂の内陣の両脇に置かれています。2メートルはあろうかと思われて迫力満点の像で、元々は山門脇にあったそうです。
  この西福寺だけでも雲蝶は「日本のミケランジェロ」に相応しいと確信します。
  開山堂の内陣は圧巻の一言です。何度見ても飽きない。また訪れる日が来そうです。

  御島石部(いそべ)神社(柏崎市)と都野神社(長岡市)は源太郎の作品が中心です。
  だんだん視えてきた源太郎の彫刻の特徴は、波打つような文様意匠です。ここでも思い出したのは、ドイツ後期ゴシック彫刻の達人、オットーボイレンのマイスターです。緑の写真集にも紹介していますが、幾重にも重なる美しい曲線が多用されているのです。2回目の雲蝶・源太郎詣ででだんだんとその相違が見えてきました。

  次回は三条市の石動神社の圧巻の雲蝶彫刻です。


〔808〕「2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅」ブログでスタートです。

2025年05月22日 | 旅行記

  昨秋の新潟雲蝶の旅についてはこのブログで紹介しました。正確には「石川雲蝶と小林源太郎の彫刻作品を訪ねる旅」ということになります。新潟各地に遺した彼らの膨大な作品を1回だけの旅行で拝観することは不可能です。講師を終了し、バドミントンから身を引いた今年、2回目の新潟雲蝶の旅を実行することにしたのです。
  折角新潟に行くなら越境して仏都会津にも足を伸ばしたいと考えたのは私です。全国500ヶ寺を巡り、行き残したのが会津と出雲でした。ちなみに出雲には来年にでも行こうかなと考えています。こちらはレンタカーになりそうですが。

 さて今回の旅は4泊5日になりました。私が行きたいところをリストアップして、連れ合いが行程を組み、宿の手配もしてもらいました。Google検索では我が家から新潟、会津を経由して、高速自動車道で戻るだけで約750キロ、乗車時間9時間半ほどです。各地の神社仏閣を巡った距離を加えると1000キロは走っているのではないでしょうか。かつてレンタカーで北海道を走った距離を凌駕するかも知れません。
  本日のブログでは今回の行程を紹介しておきます。その詳細は連載する予定でいます。

【2025春、新潟雲蝶と仏都会津の旅】
*車(関越自動車道、磐越自動車道、常磐自動車道)、4泊5日

■新潟の社寺など巡る■
◆5月12日(月)
 我が家から南魚沼インター経由で十二社までおそらく3時間ぐらいか。
①十二社(南魚沼市)、南魚沼市穴地 *雲蝶作品
 ☎025-777-3054
②西福寺(魚沼市)、2回目の拝観    *雲蝶・源太郎作品
③御島石部(いそべ)神社(柏崎市)、柏崎市西山町石地 *源太郎作品
  ここから都農神社まで20kmぐらい
④都野神社(長岡市)、長岡市与板町与板乙 6045 *源太郎作品
 ☎0258-72-2135
 ここからホテルルートイン見附 -中之島見附インターまで約10km

◆5月13日(火)
 ホテルルートイン見附から石動神社まで約10km
⑤石動(いするぎ)神社…新潟県三条市吉野屋 *雲蝶作品
 ☎0256-34-5511
⑥本徳寺(燕市)  *雲蝶作品
⑦白山神社(新潟市)  *源太郎作品
 新潟第一ホテル着

■会津の寺など巡る■
◆5月14日(水)
 新潟第一ホテルから恵隆寺まで90kmぐらい
  会津坂下ICで下車して4~5km
⑧恵隆寺(立木観音)…河沼郡会津坂下町塔寺松原2944
 ☎0242-83-3171
⑨願成寺(喜多方市)
⑩勝常寺…福島県湯川村大字勝常字代舞1764
 ☎0241-27-4566 (毎週火曜日閉館)
⑪引安寺(新鶴村)
  丸峰観光ホテル着

◆5月15日(木)
  丸峰観光ホテルから大内宿まで山道を14~15km
⑫大内宿…福島県南会津郡下郷町大内
  ☎0241-68-3611               
 ここからさざえ堂まで37~38km
⑬さざえ堂…会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404
 ☎0242-22-3163
⑭諸橋近代美術館(ダリ作品多数)…福島県耶麻郡北塩原村檜原剣ケ峯1093-23
 ☎0241-37-1088
 ホテル、il Regalo イルレガーロ着

◆5月16日(金)
⑮願成寺白水阿弥陀堂(いわき市)
 一路清瀬へ


〔807〕クラウス・スリューテルを「新発見」と思いきや、裏切られたり、新たな興味をかき立てられたり…。

2025年05月21日 | 図書案内

   妻のリーメンシュナイダー追跡に同行し、後期ゴシック同時代の彫刻家の群雄割拠に圧倒され続けてきて、妻と『結・祈りの彫刻-リーメンシュナイダーからシュトース』(丸善プラネット)を出版したのが2022年7月のことでした。同年、同書を10冊ほど携えてドイツの研究者や友人に手渡ししたついでに、ドイツからフランスに越境し、南仏のトゥールーズやモワサック、さらには中部のディジョンを訪ね、フランス中世美術を一部堪能しました。その中で気になった彫刻家がクラウス・スリューテルでした。
  今夏、そのスリューテルを初め、フランス中世美術を総なめにする旅行を実行します。南仏のロマネスクはドイツ人夫婦、北仏のゴシックはフランス人家族に車で同行してもらいます。我々で回るまだ見ぬドイツ後期ゴシック彫刻も含めて、わくわくが止まらない渡欧になることは間違いありません。

  一番気になる彫刻家がスリューテルです。ところが日本語文献では『世界美術大全集 ゴシック1』(小学館)でしかお目にかかれませんでした。
 次に手に入れたのが『フランスの歓び』(芸術新潮2002年8月号)で、少し前にブログで詳述したとおりです。
 ネットでスリューテル追跡をしたところ見つかったのが次の文献です。ただこの本はフランス彫刻がメインで、あとはリーメンシュナイダーについてわずかに触れている程度のようです。

■『中世彫刻の世界』越宏一著、岩波書店 2009.6 
…第5章 ロマネスクのモニュメンタル彫刻—その誕生;第6章 ロマネスクのモニュメンタル彫刻—その造形原理;第7章 ゴシックのモニュメンタル彫刻—その誕生;第8章 ゴシックのモニュメンタル彫刻—その造形原理;第9章 後期ゴシック彫刻;終章 ブルゴーニュの後期ゴシックの大彫刻家クラウス・スリューテル

  さて、もうひとつ発見したのが『フランス : ゴシックを仰ぐ旅』でした。

■『フランス : ゴシックを仰ぐ旅 = France, les cathédrales et sculptures gothiques』
    都築響一, 木俣元一著
    新潮社 2005.1 とんぼの本

〔内容〕アミアン—ようこそ、ゴシックへ;サン=ドニ—ゴシック生誕の地は王家の墓所;シャルトル—800年前の巨大タイムカプセル;ランス—聖処女ジャンヌは大聖堂を目指す;ストラスブール—アルザスに咲いた哀しのバラ;ボーヌ—施療院に秘められしファン・デル・ウェイデン;ディジョン—中世屈指の彫刻家スリューテルに会いに;ブールジュ—三層式の聖なる空間;ヴァンドーム—燃えあがるゴシック最後の炎

  早速アマゾンで綺麗な本を安価で購入し熟読玩味したところ、あれあれ残念な結果に終わってしまいました。『フランスの歓び』の焼き直しだったのです。スリューテルに関する記述はまったく同じでした。『フランスの歓び』からゴシックを抽出し手を加えたのが『フランス : ゴシックを仰ぐ旅』だったのです。雑誌掲載を単行本に収録するということはよくあることです。しかもどちらも新潮社でしたので移行は容易だったでしょう。
  しかし残念だったことばかりではなく、旅の参考になることも書かれていました。
  「アミアン—ようこそ、ゴシックへ」の「聖フィルマンの彫刻芸場」は『フランスの歓び』にはない新稿で、魅力的な彫刻を紹介しているのでした。

  旅行後にはその長い旅の報告をしたいと思いますが、その頃には残念ながらこのグーブログは終了になってしまいますが、他に移行したブログでお目にかかりたいと思います。


〔806〕「朝鮮通信使の復元船261年ぶりの来港」矢部顕さんのメール通信です。しっかり読みたいです。

2025年05月20日 | メール・便り・ミニコミ

■朝鮮通信使の復元船261年ぶりの来港
                           矢部 顕
 岡山県瀬戸内市の牛窓港は神功皇后の朝鮮出兵の立ち寄り港の伝説の歴史もある古くから栄えた港町である。江戸時代、将軍の交代時に朝鮮からの友好使節「朝鮮通信使」が計12回の訪問があったが、そのうち9回は船団は牛窓に寄港している。
 2025年5月18日、この朝鮮通信使の船を復元した木造船が261年ぶりに牛窓の港にやってきたのであるから、見に行かないわけにはいかないとの思いをもって駆けつけた。
 木造で箱型の赤い船体には船首に大きな竜が描かれ巨大な帆柱が2本建っていた。韓国の国立海洋遺産研究所が当時の記録や資料を基にして通信使の航海を再現する10年がかりのプロジェクトで建造されたとのこと。全長34メートル、幅11メートル、総トン数149トン、22メートルの帆柱が2本。
 4月28日、韓国釜山を出航、江戸時代と同じルートをたどり月11日大阪南港に到着。関西万博の韓国ナショナルディと関連事業にあわせて来港し、13日〜16日に船内見学者を受け入れたという。
 江戸時代の朝鮮通信使の船も大阪まで来て、淀川を川船で京都まで行き、通信使一行はそこから江戸までは陸路をたどったわけだから、今回も大阪までで、そこで港のそばで関西万博が開催されていた次第だ。
 17日〜18日は釜山への帰路で牛窓に立ち寄り、江戸時代と同じように熱烈な歓迎を受けている風景を見ることができた。かつ18日は一般市民の船内見学が実施されて、貴重な体験をすることができた。        (2025.5.18)
 (*別紙「玄界灘の波濤をこえて」(2001.6.2.)をお読みください)

 

                玄界灘の波涛を越えて
                            ―日韓交流再開に想う―
                                  矢部   顕

  博多に赴任して、駅頭に降り立ったとき驚いたことのひとつは、表示が日本語、英語、中国語、韓国語で書かれていることだった。地下鉄のドアにも次のようなシールが貼られていた。「ドアにご注意ください」、「BE CAREFUL OF THE DOORS」、「開關門時請小心」、「        」。
 この街は、そして九州はアジアにむかって開かれた土地なのだ、という実感をもった。
  国際化時代の掛け声で、あらゆる都市で外国人のための標識が美しくなり、エイゴが氾濫しているが、韓国語、中国語が併記されているところはほとんどないだろう。
 考えてみれば、九州はあらゆる時代に外国とむきあってきた土地だ。とりわけアジアとの門戸であったことに気づく。弥生人渡来、魏志倭人伝、遣隋使、遣唐使、白村江戦、元寇、朝鮮出兵、長崎出島、蘭学、隠れキリシタン、からゆきさん、薩英戦争…次々と脳裏にうかぶ外国との関係の歴史。その歴史の背後にあっただろう膨大な人間のドラマ。

●薩摩焼400年祭
 「1998年10月19日、韓国南原市で採火、20日、韓国海洋大学の実習船ハンナラ号で釜山港から川内港(鹿児島県)にむけて出航。21日、川内港を経て串木野市(鹿児島
県)の浜に到着し、歓迎セレモニー。22日は、串木野市から火を江口港に迎えて火の奉迎式典、その後美山へむかい、400年祭を記念して建設された共同登り窯に点火。受け継がれた技と土と火が400年目にしてはじめて感動の出会いをする」。
 薩摩焼400年祭のニュースに接したとき、記憶の片隅に残っていた韓国語を話す人たちの村のことを思い出した。
  博多大丸で、薩摩焼第14代沈壽官の作品展をみて、神業のごとき技量に驚き、白薩摩に魅了された。この作品を創りあげた人に会ってみたいと思った。
 薩摩焼の窯元、鹿児島県日置郡東市来町美山。美しい山に囲まれたちいさな村の風景は他の村とは趣を異にしていた。どことなく品格が漂っている。「村そのものが名品である」、かつてここを訪れた高名な陶芸家が言ったという。
  「沈壽官」と書かれた表札のあがっている武家門を入ると、韓国国旗がかかげられ、武家屋敷風の家屋に大韓民国領事館とかかれたプレートがある。民間の名誉総領事としての称号ゆえか。掃き清められた庭のむこう、緑したたるなかに工房、展示室、登り窯などが奥にひろがる。
 明治までは、この村では韓国語で語り、薩摩藩の公式韓語通辞はこの村からでることになっていたそうだ。いまでも窯仕事にともなう技術用語は韓国語という。
 串木野の浜に石碑が建っている。「遥かに風涛を越えて吾等が開祖この地に上陸す」。東シナ海は小雨にけぶっていた。
  連行された陶工たちとその子孫は、幾度となく望郷の想いでこの東シナ海を見つめたことであろう。島津の軍隊に朝鮮南原城でとらえられ、拉致され、ついにはこの薩摩に連行され、帰化させられて、以来400年…。その運命のなかで、土を探し、窯を築き、焼き物をつくりつづけて14代。

●朝鮮出兵
  「明日は、熊本で一番大きなお祭り、ボシタ祭りです」。こんなことばを、9月の熊本地区研究会でテューターから聞いた。「ボシタって何語? 日本語なら漢字でどう書くの?」私は訊ねた。
「『滅ぼした』のボシタ」。
  加藤清正が朝鮮をやっつけた(?)ことが祭りの名称だということをはじめて知った。「いまどきボシタはまずいんじゃない?」。「正式の名はあるけど、みんな昔からそう呼んでいる」。
  島津義弘軍とともに加藤清正の軍勢も豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した。加藤軍の若武者が部下を引き連れて釜山上陸後そうそうに投降した。「この戦いには大義がない」として、敵に向かって一矢も放つことなく降伏したのは、かねてより朝鮮の文明の高さを尊敬していたからだという。その武将の名は沙也可。沙也ェ門の記録まちがいとも、加藤軍にとっては恥ずべき汚名であるから偽名とも考えられる。
  文にあこがれ寝返った沙也可は、武によって朝鮮の人々につくし、戦いの後もさまざまな功績で李氏朝鮮の高官となり尊敬をうけてきた。沙也可の子孫で構成される70戸ほどの友鹿洞(ウロクトン)の村、そしてその村を故郷とする人は約500戸4000人という。14代沙也可は長く教職につき、のちに慶尚北道の教育委員会に勤務されていたとのこと。
  
●隠しもっていた目的
  松浦半島の先端、呼子の名護屋城。人影もまばらな夏の夕刻、つわものどもの夢のあと。巨大な城跡の天守閣跡から玄界灘を眺める。壱岐がかすみ、対馬は見えず。そのむこうには朝鮮半島があるはず。弥生人渡来からはじまって、「魏志倭人伝」に書かれている有史以来、いやそれ以前の縄文時代から、ここは朝鮮半島からの最短ルートとしてさまざまな交流のキイポイントの場所であっただろう。
  秀吉は、ここに全国から30万の兵を集め、無謀な朝鮮侵略をくわだてた。1592年、97年、文禄・慶長の役。負け戦で98年には全面撤退したが、その蛮行、殺戮のかぎりは韓国の反日感情の底流になっているとされる。薩摩焼の沈壽官、有田焼の李参平はじめ高取焼、伊万里焼などの始祖となる多くの陶工が拉致され連行された。
  そもそも九州の大名ははじめから高度な陶芸技術をもった人を連れて帰ることの目的を隠しもっていたのではないか。
  島津はのちに薩摩焼の密貿易で大儲けをし、より強大な藩となった。このほかにも、たくさんの人々がさらわれ、ポルトガル商人に奴隷として売られたりして、人さらい戦争の様相が濃い。イタリアには、コリアという姓をもつ200人ぐらいの村があるという。
  
  「朝鮮出兵が運命、異国の地で4世紀――連行の陶工、不戦の武将。先祖が誇り、14代目が杯」こんな見出しでお二人が鹿児島で対面したという記事を見た。
  先祖が異国の地に住み着いて400年。沙也可を誇りに思うという沙也可14代目金在徳(キム・ジュドク)さんと、韓国に思いをはせる沈壽官さん。二人は「沙也可を仲立ちに、過去の不幸な歴史を見つめなおし、両国の距離をもっと縮めたい」と焼酎を酌み交わしながら語り合った、と西日本新聞は伝えている。
  
●朝鮮通信史
  博多駅で、JR九州が企画する旅行「歴史探訪シリーズ『文禄・慶長の役』4日間」のパンフレットを見つけたときは驚いた。こんなことが有り得るのか。こんなことが可能なのか、と。朝鮮侵略の足跡を侵略した側の日本人がぞろぞろと訪ねまわるなど韓国の人が好意をもつはずがないではないか。歴史学者の調査でもなく、ただの旅行者が団体のパックで歩き回る、そんなことが許されるのか。
  内容を見てさらに驚いた。博多出発ではあるが、ごていねいに最初に名護屋城と博物館に行き、また博多にもどって、高速艇ビートル号で釜山に渡る。なんと第14代沙也可の講演まであるではないか。
  キャンプの輸送でお世話になっているJR九州の旅行社ジョイロードの谷富夫氏に訊いてみた。よくぞ訊いてくれたという表情で「あれは私たちのチームが企画したものです。当初、誤解されるのではないかと不安もずいぶんありましたが、正しい歴史認識を知るためにと韓国側にも熱意をもってご相談し協力を得られるまでになったのです」「たいへんに好評で予定したよりもはるかに多く回を重ねています」。
  韓国側も日本側も、そうとうな努力をしていることがうかがわれる。
  時代が大きく変わりつつあることを感じた。
  
  4~5月NHKテレビの人間講座「朝鮮通信使」の講師・仲尾宏氏はラボの前身テックから独立した京都イングリッシュセンターの責任者だった。かつて、お会いしてお話をうかがった折、その時代にありがちな欧米志向偏重でない外国語学校として、初期から韓国語講座をもつポリシイに感心した記憶がある。
  鎖国政策がとられた江戸時代、長崎出島がオランダ中国の唯一の窓口であったことは知っていても、朝鮮が信(よしみ)を通わせる「通信の国」であったことを知る人はすくない。1607年から1811年までの約200年間に、徳川将軍の代替わりなどを祝賀するために計12回、朝鮮から日本へ派遣された友好使節「朝鮮通信使」。
  500人にもおよぶ通信使一行は朝鮮の都・漢城(ソウル)を出発し、釜山から対馬、壱岐を経て、福岡に寄港、黒田藩の威信をかけた接待をうける。さらに瀬戸内海を進み大阪から淀川を上って京都に入る。その後、陸路を江戸まで行進して徳川将軍と国書を交わした。
  使節団員には文才に優れた人々が選抜され、儒教文化に憧れる日本人と各地で交流し多大な影響を与えた。随行の楽団員がいて、民族衣装をまとって演奏し練り歩く光景に、各地で多くの民衆が熱狂して迎えたと伝えられている。
  瀬戸内海の寄港地の近くで育った私が幼いころ見た地元の舞は異国情緒あふれる衣装だったが、あれはいま思えば韓国だったのだ。その時代の名残りの舞だったのだ。
  福岡県立美術館で6月10日より「朝鮮通信使展」が始まる。
  
●ハンセン病
  ハンセン病(らい病)患者の隔離政策の見直しを怠ったとして国の責任を問う裁判で、熊本地裁は原告勝訴の判決を出し、国が控訴を断念(5月23日)するニュースが連日新聞をにぎわしている。
  強制隔離法である「らい予防法」が廃止された年、30年間この問題にかかわってきた私は仲間とともに「らい予防法廃止記念フォーラム」を大阪で開催した。それはわずか5年前。90年間におよぶ強制隔離によって、それ以前からもふくめて、この病気特有の差別と偏見はあまりにも根強く、元患者の人権が回復されることは不可能に近い。
  全国13か所の国立療養所に入所している人々のなかに韓国朝鮮の人の比率が高い。戦時下、朝鮮半島から強制連行され、日本の戦争遂行のため炭鉱で強制労働させられたり、軍属として働かされたとき、劣悪な労働条件、極度の栄養失調などによって発病したのである。戦後、外国人となってしまったこの人たちは日本人としての補償をうけることができない。らいで差別され、外国人として二重に差別されていることを知る人は皆無に近い。
  
●光と影
  「日韓共催ワールドカップまであと1年」のニュースが目立つ。サポーターの交流もあるが、すでに少年サッカーチームの交流試合がさかんにおこなわれていて、ラボっ子でチームの一員として韓国に試合に行った子もいる。
  九州各地の中学高校で修学旅行は韓国というのも多い。草の根のグループの相互訪問もふえてきた。佐賀県などはもっとも多いのではなかろうか。駅頭には韓国旅行のパンフレットがあふれている。
  日本の歴史教科書問題にみられるように影の部分もあるが、確実に光の部分が増えてきている。
  22年前までは、ラボが韓国語をとりあげ交流をしていたことは実に先進的であったが、逆風も多かった。「なんでうちの子に韓国語?」。いま周囲のほうが進んでいる。
  
●もうひとつのアジアのことば
  6月8~11日、総勢45名のラボ・テューターが22年ぶりに訪韓する。新しい時代の幕が開かれようとしている。日本のテューターによる韓国語のテーマ活動『おどりトラ』に、韓国のテューターは感激の涙を流すことになるだろう。かつて日本語を強制し民族の誇りを奪った日本人は、いま韓国の昔話を敬意をこめて韓国語で演じる。
  そして、つづいて次代を担う子どもたちが美しき朝の国を訪れる。日本の津々浦々のラボ・パーティで韓国語『おどりトラ』のテーマ活動が展開される。玄海灘をはさんで、まさに一衣帯水の九州のラボはその先陣をきりたいものだ。近いうちに韓国ラボの子どもたちも日韓「おどりトラ」にふれていくであろう。まさに「ことばがこどもの未来をひらく」。
  「この日本という国にはないものはない。なんでもある。希望だけがない」といまの時代閉塞状況を村上龍は書いた。しかし、ラボっ子たちには希望がある。新しい言葉を知り、新しい友人をつくり、世界の広さを知ることの。
  世界は英語圏だけでできているのではない。「ヨーロッパの言語である英語と、もうひとつのアジアの言葉を子どもたちに与えたい」というラボ設立当初の目標にむかって、韓国、つづいて中国との交流開始、そして韓国との交流再開、いま三度始まろうとしている。
                                        (2001.6.2.)


〔805〕「戦後はじめてのワークキャンプに参加したキャンパーのご逝去の報に接して」(矢部顕さんのメール通信)

2025年05月17日 | メール・便り・ミニコミ

  矢部顕さんのメール通信です。皆さん、じっくり読んでください。

■戦後はじめてのワークキャンプに参加したキャンパーのご逝去の報に接して

   ●山崎富子から、富子シュモーに
 
                                    矢部 顕
 1949年8月、戦後日本で初めてのワークキャンプに参加したキャンパーが今年3月に亡くなられたとの知らせを受けた。
 今年は戦後80年。ワークキャンプに学生で参加したとき20歳としたなら享年は95歳くらいだろうか。その学生キャンパーのお名前は「山崎富子」、そして「富子シュモー」のお名前でシアトルでお亡くなりになった。
 戦後のワークキャンプの始まりとなったのは、広島での「ヒロシマの家建設キャンプ」。原爆で焼け野が原になり、家を失った人たちのために「家を建設しよう」と呼びかけたのはアメリカのクエーカーのフロイド・シュモー氏で、アメリカ人と日本人の大学生が参加した。
 アメリカは原爆投下でたいへんひどいことをしたことを恥じたシュモー氏は、謝罪だけでなくもっと出来ることをしたい思って、1949年8月全米から約4000ドルの寄付を集めて広島を訪れ、家を失った被爆者のために「ヒロシマの家」(住宅20戸と集会所1か所)をワークキャンプで建てた。
(ちなみに、世界で初めてのワークキャンプは第一次大戦後の激戦地フランスのベルダン)
 2012年12月、わたくしは唯一現存する集会所が平和祈念資料館「シュモー・ハウス」としてオープンするということをニュースで知り、さっそく訪問見学した。ワークキャンプの歴史に名を残していた「ヒロシマの家」が実際にあることに驚き、目で確かめたいと思ったからである。
 そこで「シュモーさんのヒロシマの家を語り継ぐ会(現 シュモーさんに学ぶ会)」の方々の粘り強い保存運動なくしては修復して資料展示室として活用されることなどなかったことを知ったのだった。
 そして、展示された資料の中で建設ワークキャンプに参加したうちの日本人5人のサインが書かれた色紙を発見した。わたくしは学生時代から今日までフレンズ国際労働キャンプ(略称 FIWC)というワークキャンプに参加してきたが、そのルーツとも言える5人のお名前だった。FIWCはAFSC(American Friends Service Committee、アメリカ・フレンズ奉仕団)から分離独立したワークキャンプ団体だったからである。
 たまたま訪れたシュモー・ハウスだったが、そこで解説をしてくださったのは「シュモーさんに学ぶ会」の多賀俊介さんという方で、高校教師を定年退職されてから広島平和記念資料館のヒロシマ ピース ボランティアをされているとのことだった。わたくしがフレンズの系統のFIWCのメンバーということもあって意気投合し、今日までずっとお付き合いをしている、関西に講演会講師として来ていただいたこともある。
(矢部のシュモー・ハウス訪問については別紙「Fの遺伝子」をお読みください)
 展示されていた色紙に記された日本人キャンパー山崎富子さん、のちの富子シュモーさんがシアトルでお亡くなりになったことは多賀俊介さんが知らせてくださったのだった。
                              
                               (2025年5月15日)

 

                        Fの遺伝子
                          ――「ヒロシマの家」訪問――
                                          
                                                                                
                                                                        矢部 顕

  「ヒロシマの家 新たな役目」のタイトルの朝日新聞(2012年11月1日)の記事に目がとまった。副題は「米活動家が1949年建設、平和資料館に」。記事は以下のようだった。

――米国の平和運動家フロイド・シュモー氏(1895~2001)が、
原爆投下後のヒロシマで被爆者のためにつくった唯一現存する建
物(広島市中区)が1日、市の平和記念資料館「シュモー・ハウ
ス」としてオープンする。31日の開館記念式にはシュモー氏の次
男や孫2人が米から駆けつけた。

 次男のウィルフレッド・P・シュモーさん(85)は「とても光栄です。父は原爆は大変ひどいことだと心を痛め、謝罪だけでなくもっとできることをしたいと思っていた。ささやかな活動だったけれど、歴史の一部として見にきてほしい」と語った。
 米で大学講師をしていたシュモー氏は1949年8月、全米から約4千ドルの寄付を集めて広島を訪れ、家を失った被爆者のために「ヒロシマの家」(住宅20戸と集会所1カ所)を建てた。
 老朽化のため現存するのは集会所のみ。国道の建設予定地となったが、約40メート離れた場所に3月までに移転し、保存された。広島の戦後復興を支えた外国人についての資料を展示する。――
 この記事とともにシュモー氏の顔写真と建物の写真がそえられていた。

●ワークキャンプ――その方法の系譜
 この記事が目にとまったのは、わたくしが学生時代に参加した、そして今もかかわっているワークキャンプ団体であるフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)の歴史を書いた年表のなかに「ヒロシマの家」の記憶があったからだ。
 第二次大戦後、クエーカーのAFSC(American Friends Service Committee=アメリカン・フレンズ奉仕団)はララ(LARA)(Licensed Agencies for Relief in Asia=アジア救援公認団体、後述)による7年間の救済活動のみならず、国際学生セミナーを開催し、同時にボランティア活動として日本にワークキャンプという方法で復興支援を始めた。最初に開かれたAFSC国際ワークキャンプの日本人参加者に明石康がいた。それとは異なるが、クエーカーは各地でワークキャンプを行っている。その一つがアメリカの学生と日本の学生が参加した戦後日本での最初の国際ワーキャンプであり「ヒロシマの家」建設キャンプであった。広島でのワークキャンプは、その後AFSCに合流して行った。
 その後、このワークキャンプというボランティア活動は多くの団体が取り組んだが、伊勢湾台風復旧キャンプでの最大規模のワークキャンプ につながっている。この頃のAFSC学生国際ワークキャンプの参加者や、広島でのワークキャンプ等に参加した日本人参加者等が中心となって、日本人学生を主体としてのワークキャンプ団体を創設する動きのなかからフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が誕生した。
 AFSCは、1953年12月、ジャクソン・ベイリー夫妻による「滋賀県水害地救援」キャンプを開催し、張知夫、西村寛一、吉田勝三郎、今村忠生らが参加した。これを契機に、近藤精一、今村らが中心となって、FIWC関西委員会を形成していくこととなった。つまりクエーカーのAFSCのワークキャンプから分離独立したのがFIWCで、このころの中心的リーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也がいた。
 このFIWCは2012年の現在も活動を続けている。関東、東海、関西、広島、九州にグループがある。
 このように知識としての「ヒロシマの家」はあったが、現存しているとは思ってもいなかった。新聞記事を見て驚いた。

●シュモー・ハウス見学
 広島平和記念資料館学芸課に問い合わせると、いつでも見学できるとのことで予約などは不要であったが、希望すれば解説員が待機してくださるとのことだった。
 私が訪問したときに解説してくださった方は「シュモーさんのヒロシマの家を語り継ぐ会」のメンバーのおひとりであった。
 このような会があることに驚いた。会の代表の今田洋子さんという方の粘り強い保存運動なくしては、移動し修復してりっぱに保存され、かつ資料展示室として活用されることなど無かったということを知った。建設したシュモーさんと仲間たちの活動もすばらしいが、建物自体がとりわけ価値のあるものではない、ごく普通のどこにでもある町内会の集会所とかわりないものだが、建設した人たちのスピリットに響いて保存運動にとりくんだ人たちがいたことに胸うたれる。この建物は「シュモー会館」という名前で、つい最近までこのあたりの町内会の集会所として使用されていたという事実もまた驚くべきことだった。
 「ヒロシマの家」の昔の写真や説明、それにこの家以外に広島復興支援のいくつもの活動があったことの展示がされていた。現存する極めて少ない資料であろう当時のワークキャンプに参加した学生のサインが書かれた色紙が展示されていて、日本人は5人の名前が読みとれた。そのなかのひとりに山崎富子という名前があった。
 当時のAFSCのワークキャンプのメンバーで、AFSCからFIWCに移行する頃のワークキャンプの歴史にくわしい大津光男さんから教えてもらったお名前だった。山崎さんは大津さんの友人であり、後にシュモーさんの後妻になった方だった。今はシアトル在住とのこと。後日、大津さんに見学に行ったことを伝えると、富子シュモーさんが喜ぶだろうと私のメールを転送したようだった。

1. AFSCの平和的活動
 シュモーさんのことは新聞では平和活動家としか表現されていない。「シュモー・ハウス」の展示ではAFSCのことにふれていた。AFSCはクエーカーの奉仕団体で、1947年ノーベル平和賞を受賞している。彼は戦争中、徴兵を拒否してハーバート・ニコルソンと共に日系人の収容施設で奉仕活動をしていたとのこと。絶対に戦争に加担しないクエーカーの平和主義を貫いた人である。
 戦後は、前記のように当時の金額で200億円ともいわれる、食料、衣料、医薬品などララ物資という名のアメリカ民間の支援もAFSCが中心となって日本に贈られたものだった。戦後の食糧難の時代これで生き延びた日本人はそうとうな数になる。私たちの世代は、ララ物資のひとつ学校給食の粉ミルクいわゆる脱脂粉乳のまずい味を忘れない。
 丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」の展覧会を、いくつもの困難をのりこえてアメリカで最初に開催(1970年)したのもAFSCだった。
つい数日前、漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんが亡くなった。不朽の名作「はだしのゲン」を英訳してアメリカ人に読んでもらおうと考えたプロジェクト・ゲン(1974年~)に参画したFIWCの仲間がいる。つい最近、その彼・阿木幸男から聞いたのだが、アメリカで主にクエーカーの人たちを中心に3000部ほどを販売したとのことだった。
 FIWCの名前で活動しているわたしたちは、Fの意味を深く考えたことがあるのか。フレンズ派(Religious Society of Friends=別名クエーカー)の信仰をもっているわけではないが、その平和主義の思想を受け継ぎたいとの思いがあったから、名前にFがつけられていることを忘れないようにしたい。(2012.12.25.)

 

 

 

 


〔804〕私にとってタイムリー、「フランスの歓び-美術でめぐる、とっておきの旅ガイド」(芸術新潮、2002年8月号)を読む。

2025年05月09日 | 図書案内

  手元に「ドイツの歓び」「イギリスの歓び」(芸術新潮)を揃えていますが、「フランスの歓び」は当面必要がないなと判断したのでした。ところがどうしても読みたくなったのです。それは私が今一番気になっている中世の彫刻家、クラウス・スリューテルのことが書かれているからでした(「中世屈指の彫刻家 スリューテルをもとめて」)。
  スリューテルについてしっかり書かれているのは『世界美術大全集 ゴシック1』(小学館)しか思い浮かびません。ところが最近「シニイ」というサイトは本だけでなく研究論文なども検索できることを知りました。ちなみにリーメンシュナイダーは47、シュトースは13ヒットしました(他の彫刻家は0です)。スリューテルはというとただ1つだけ、「フランスの歓び」に書かれていることがわかったのです。その内容を詳しく見てみると、「ロマネスクを巡る」「ゴシックを仰ぐ」というコンセプトでした。なんと今夏のフランス旅の我々のテーマそのものでした。
  即アマゾンで中古を安く購入、それを熟読の毎日でした。

  後期ゴシックの先駆けとなった彫刻家、ハンス・ムルチャーに先行するスリューテルはフランドル出身、ディジョンで活躍した彫刻家です。エミール・マールの著作には登場しても日本ではあまり知られていません。せめて写真をしっかり取って日本に紹介したいものです。もちろんフランスの写真集も入手したいと願っています。              

  「フランスの歓び」には私たちが拝観したいオータンの「眠るマギのお告げ」「エヴァ」、ランスの微笑む天使、スリューテルの「モーセの井戸」などが活写されていて魅力的です。ボーヌにはロヒール・ファン・デル・ウェイデンの最高傑作の1つ「最後の審判」があったのでした。ディジョンから近いのでここにも足を伸ばそうと話し合っている今日この頃です。

   あっ、鎌田遵さんの写真集『パリ その光と影』(2024年)と「跨線橋のある駅舎」(堀江敏幸「フランスの歓び」掲載)を比較するのもおもしろいかも知れません。


〔803〕5月3日(土)、3万8千人が参集した2025憲法大集会(有明防災公園)、パレードまで完遂しましたよ!

2025年05月04日 | 市民運動

  2025年5月3日、憲法記念日。清瀬の仲間と会場の有明防災公園に着いたのは12時半頃でした。メインステージ開会は1時ですが、すでに多くの人が詰めかけていました。3人分の座る場所を確保するのに昨年より難儀しました。今年の参加者は3万8千人と発表されました。
  天気が良すぎてとにかく暑い! 滅多に被らない帽子を用意して大正解でした。撮影は福田緑。


  若い司会者2人が新鮮でした。ノーベル平和賞被団協の田中煕巳さんは93歳で登壇。プログラムに記載されてない方では沖縄の風の伊波洋一さんがスピーチしました。市民連合連帯のあいさつのの佐藤学さんは政治学者で、教育学者の佐藤学さんではありませんよ。
  3時頃豊洲コースのパレードに参加しました。さすがに暑くて堪えましたが、仲間とビールで乾杯、お疲れ様でした。

   お二人の「本音のコラム」もどうぞ。

◆再審法の改正を
  証拠の全面開示と再審開始決定にたいして検事側抗告を防ぐ

                         鎌田 慧(ルポライター)

 静岡地裁の村山浩昭裁判長が再審開始を決定、「これ以上、拘置を継
続することは耐え難いほど正義に反する」として、袴田巌さんの拘置と
死刑を停止して釈放した。
 が、静岡地検が即時抗告して審理は東京高裁に移され、再審開始決定
が取り消された。最高裁が東京高裁決定を取り消して静岡地裁で再審公
判が始まり、無罪の判決が出されたのは、村山決定から10年半経った20
24年9月。袴田さん逮捕から58年が経った。88歳。無罪判決まで生き抜
いた。

 その半年後、3回目の再審請求をしていた石川一雄さんが誤嚥(ご
えん)性肺炎で死去した。86歳だった。
  女子高校生誘拐殺人事件で一審死刑判決、二審で無期懲役。31年獄中
 にいて仮釈放されたが、本人は「視えない手錠をかけられている」と訴
えていた。冤罪を晴らせないまま世を去らなければならなかった無念
は、菟罪を訴えている人々の共通の思いだ。

 『駱駝が針の穴を通るように難しい」「開かずの扉」などと言われ、
これまでも帝銀事件、三鷹事件、名張毒ぶどう酒事件などの容疑者が、
再審を認められないまま他界した。福岡事件や菊池事件など冤罪を訴え
ながら処刑されたゲースもある。
 「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則だが、証拠の全面開示とせっか
くの再審開始決定にたいして検事側抗告を防ぐ、再審法改正が早急に求
められている。
             (4月29日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)

 ◆改憲のハードル
  主権者の合意形成のない拙速な改憲論は空論

                           斎藤美奈子(文芸評論家)

 5月3日は78回目の憲法記念日。この時期になると必ず話題になるの
が改憲の是非である。
 昨年10月の衆院選で、自民、公明、維新、国民民主など改憲派の議席
が国会発議に必要な3分の2を割り込み、改憲へのハードルはいっそう
高くなった。

 思えばあれほど改憲に意欲を燃やした安倍晋三元首相でさえ悲願は果
たせなかったのだ。在任期間7年半。
 うち3年間(2016年7月の参院選後から19年7月の参院選前まで)は
衆参両院で改憲勢力が3分の2以上だったのに。改憲を望む人たちにし
てみればまたとない好機を逃したことになろう。

 なぜ彼は悲願を達成できなかったのか。
 単純にいえば、あまりに前のめりな首相の姿勢に人々が不信感を抱い
たからだろう。
 通常の世論調査では改憲賛成派が反対派を上回るのに、当時の共同通
信の調査(2016から2020年)では「安倍首相の下での改憲」に「反対」
が常に半数を超えた。有権者のバランス感覚だ。

 同じ共同通信の昨年5月の調査では改憲を「急ぐ必要はない」が65%。
 昨年11月の石破政権発足時のNHKの調査では、新政権が優先して取
り組むべき課題は景気・物価高対策がトップで41%。
 改憲をあげた人は2%だった。今年の調査結果はわからないけど、こ
れが憲法の現在地である。
 主権者の合意形成のない拙速な改憲論は空論にすぎない。
               (4月30日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)


〔802〕中世美術研究の碩学、エミール・マールを継ぐアンリ・フォシヨンの『ロマネスク彫刻』(辻佐保子訳、中央公論社)が手に入りました。

2025年05月02日 | 図書案内

 ティルマン・リーメンシュナイダーの彫刻をヨーロッパやアメリカで追ううちに、同時代の作家にも強く引かれるようになった緑と私でした。美術史的には後期ゴシック期ということになりますが、当然前期ゴシックやロマネスクも心騒ぐものがあります。今一番注目している作家はクラウス・スリューテルで、今夏、ディジョンで彼の最高傑作「モーゼの井戸」を拝観します。ハンス・ムルチャーより少し前の作家でしょうか。
  中世美術研究者としてはマイケル・バクサンドール(英)の著書(ドイツ語未訳、岡部由紀子さんがかなりの部分翻訳していることを最近知りました)が我らの種本になっているのですが、ロマネスクにも徐々に守備範囲が広がってきて、エミール・マール本を8冊手にしていることはブログで触れたとおりです。ソルボンヌ大学でのエミール・マールの後任がアンリ・フォシヨン(1881~1939)で、そのお弟子さんが日本人では吉川逸治(サンサヴァン教会の壁画研究で実績を上げた)、彼の教えを受けたのが訳者の辻佐保子氏です。確か、フォシヨンに師事した日本人研究者の一人が柳宗玄(柳宗悦の次男)だったと思います。

  さて『ロマネスク彫刻』(1975年)は50年前の古本ということで、かなり焼けていて、手入れが必要でしたが、読むのには支障はありませんでした。かなりの写真などが掲載されているのが他に類を見ない特徴だそうですが、柳宗玄の本に比べると歴然とした違いがあります。柳本は自身でほぼ撮影されたもので、二十数年前の出版だから致し方ないでしょう。とてもきれいな写真です。
  内容は素人にはかなり難しいので、少しずつ読み解いていこうと思っています。まずは写真や図版から眺めることにしましょう。一番心引かれた像は、ボーリュのサン・ピエール修道院教会の中央柱の人像です。柱に沿う、俯いた人像が何を表現しているのか、興味は尽きません。今夏の独仏中心の旅で立ち寄れるものなのでしょうか(計画には入っていません)。
  モワサックやスイヤックの彫刻にはかなりのページ数をさいています。モワサックは2回目、スイヤックは初見になります。
  今から旅が楽しみです。