後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔456〕画期的な美術教育「キミ子方式」の提唱者・松本キミ子さんが逝去されました。

2022年03月31日 | 追悼文
  松本キミ子さんが今年の2月23日に逝去されました。新聞の訃報欄に掲載価値のある方だと思うのに、何処にもその形跡がありません。私の3人の師匠のなかで、竹内敏晴さんと冨田博之さんは新聞扱い、村田栄一さんは「無視」されました。元小中高教師は掲載の対象にないというのでしょうか。
 私がその訃報を知ったのはご子息の松本一郎さんからの手紙でした。自然死とも思われる亡くなり方であったようです。キミ子さん、享年81歳でした。

 「キミ子方式」との出会いは雑誌「ひと」を通してでした。仮説実験研究会の会員として雑誌にその実践が掲載されていました。子どもたちが描いた実にリアルな魚の絵が記憶に残っています。どのように指導したのかにとても興味が出ました。どうやら、3原色と黒で色を作り、輪郭線をとらず、1点から隣に隣に描いていくやり方のようでした。
  その後、松本キミ子さんは矢継ぎ早に著作をものにします。キミ子さんはなかなかの文章家で、子どもたちが文字の中で動いて生きているようでした。

・『三原色の絵の具箱』(松本キミ子・堀江晴美、全3巻、ほるぷ出版、1982年)
・『絵のかけない子は私の教師』(松本キミ子・堀江晴美、仮説社、1982年)
・『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子、仮説社、1984年)…『男の家庭科先生』に紹介しました。
・『絵を描くっていうことは』(松本キミ子、仮説社、1989年)

 1970年代の後半、教師7,8年目にして体調を崩し、入院生活を余儀なくされました。
 退院してから思うところがあって「男の家庭科先生」に転身したのです。この時の顛末を福田緑との共著で『男の家庭科先生』(冬樹社)にまとめました。私の著書の中で唯一印税をもらい、完売した本になりました。
 小学校の家庭科教師は5,6年生を教えますが、他の専科に比べて持ち時間が少ないので3年の図工も担当しました。それ以前は3年生以上の担任教師だったので、図工も家庭科も教えたことはありませんでした。

 はてさて、3年生の図工をどう教えるのか、真剣に悩みました。その時に頼ったのは雑誌「ひと」掲載の実践記録でした。この時にキミ子方式との「再会」がありました。
 1973年に雑誌「ひと」(太郎次郎社)が発刊されます。さまざまな民間教育研究団体の連合体のような運動で、代表が数学者の遠山啓さんでした。美術教育は新しい絵の会が参加していました。清瀬では美術教育を進める会が地道な活動を展開していました。2つの会からも学ぶことが多かったです。
 時同じくして松本キミ子さんのキミ子方式なるものが仮説実験研究会などから紹介されたことは、前述の通りです。その考え方や方法論を大いに参考にさせていただきました。

 時や場所は思い出せないのですが、夫婦共に、直接キミ子さんから指導を受けるチャンスがめぐってきました。確か「もやし」を描いたのではなかったかと思うのです。
 その頃我々夫婦はミニコミ「啓」を発行していて、読んで欲しい人に勝手に送付していました。その一人に松本キミ子さんを選びました。そのお返しでしょうか、しばらくして「ビギニングニュース」が送られてくるようになりました。
  2005年に55歳で2人とも自主退職してからもミニコミはずっと送り続けました。その頃から頻繁に海外旅行をするようになりました。その旅行記をキミ子さんはおもしろがって読んでくれました。仕事が一段落して、ソファーに横になりながらゆっくり読むのが嬉しいことだと、はがきに書いてくれました。彼女自身がヨーロッパ滞在経験も多く、興味を持たれたのではないかと思います。
 2008年に緑が最初の写真集『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』を出版すると、有り難くも購読してくれました。
 ミニコミが終刊してからも「ビギニングニュース」が送られてきました。お返しに本ができたら送ろうかなと考えていたところでした。

 ご自身の「生」を十二分に生きられた方でした。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌

〔455〕瀧沢敬三さんの『西方見聞録 西ドイツ一周研究旅行・全記録』から『太陽は黄色だ!』までを「旅」しました。

2022年03月26日 | 図書案内
 福田緑と瀧沢敬三さんとの出会いは、2019年第22回日本自費出版文化賞授賞式の席でした。緑は『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(当時は3部まで)、瀧沢さんは『西方見聞録 西ドイツ一周研究旅行・全記録 1964.2.24.-10.9.』が受賞に輝きました。2人は隣の席に座り、緑はドイツ・ルネサンス彫刻、瀧沢さんは学生時代のドイツ旅行記と、ドイツつながりで話が弾んだということです。
 そして今年の1月の福田緑第2回写真展で私も初めて瀧沢敬三さんにお目にかかりました。談論風発、初めてお話しするという感じではありませんでした。ご著書から受けた印象そのままの熱い情熱がほとばしる方だと印象深く感じたのでした。その後、嬉しいことに『太陽は黄色だ!』を送付いただきました。

 今回のブログで、市販されていない2種類の瀧沢さん企画の本をどうしても紹介したいと強く思いました。
 まず注目したのは『西方見聞録』『太陽は黄色だ!』ともに自費出版でありながら、なぜこのような贅沢でハイセンスな本ができたのかということです。瀧沢さんは数冊のご著書をお持ちで、武蔵野美術大学で長年出版編集室などで仕事されていたので、当然なのかなとも思いました。
 瀧沢さんのまえがきや解説を読んで合点がいきました。本の装丁は2作ともあるデザイナーが手がけたものだったのです。キーワードは「ドイツと日本」ということになるのでしょうか。答えは後程。

 そもそも『西方見聞録』は1964年の東京オリンピックの年に、4か月半かけてドイツを自転車と車で旅した「早稲田大学ドイツ研究会」の学生4人の旅行記なのです。正確には横浜港からヨーロッパに到る33日間、瀧沢さんのパリ・ローマなどの一人旅、ソ連経由で横浜港に帰国したことも含めた全記録です。
*1~4巻と朱色は総説編


 第二巻にドルトムント近くのオスナブリュックを訪れたときのことが書かれています。
「午後8時、講演会。講演後、ドイツ人の版画家と結婚されている、日本人女性と会う。こちらに永住されている加藤園井さん。別れ際に、帰国したら東京にいる妹の征子に、是非あって欲しいと依頼される。」(77頁)
帰国して瀧沢さんはこの願いを叶えました。このことがきっかけで、このご家族との交流が続くのです。
 この「ドイツ人の版画家」ヨハネス・アイトさんが『太陽は黄色だ!』の主人公なのです。「ヨハネス・アイト 東京とオスナブリュックを行き来した芸術家の人生」と副題が付いています。さらに「芸術家ヨハネス・アイトの話をDr.ヴォルフガング・ヘッセが記述」とあります。つまり、ヨハネスさんの伝記ということになるのです。(翻訳は、早稲田大学ドイツ研究会の瀧沢さんの後輩、深瀬昭子さん)
 ヨハネスさんと友人の2人で、インド・パキスタンを経由して日本に旅行したのが、1958,9年のことでした。つまり瀧沢さんたちのドイツ紀行の数年前にドイツから日本紀行を果たした若者がいたことになります。



 この『太陽は黄色だ!』の装釘を引き受けたのがアイト夫妻の次女、グラフィックデザイナーのリサさんです。アイトさんの版画を反転カバーにした実にこったものになっています。日本絵画の技法の裏彩色でしょうか。そしてこの本は日本ブックデザイン賞2017に輝いています。
*この版画が内側になっています。


 さて、最後に種明かしですが、『西方見聞録』の装釘を担当したのもリサ・アイトさんなのです。その素晴らしさを伝えきれないのが残念至極です。
 『太陽は黄色だ!』を読んで、ヨハネス・アイトさんの作品をブックカバーだけではなく、もっと見てみたいと思いました。本の中に作品の写真ページがあれば良かったのになあと思った次第です。 

 さて、『西方見聞録』を読みながら思い出したのは、演劇教育の仲間の髙﨑彰さんが出版した『アカハチ』(沖縄・八重島の英雄オヤケ赤峰を旅して、ハガツサブックス、2020年)でした。髙﨑さんも早稲田大学アジア学会というサークルに所属していて、沖縄を舞台に調査研究を重ねたというのです。学生の時に書いたものを中心にこの本を編んだということです。
  あらためてお二人の仕事に拍手を送りたいと思います。

*『アカハチ』については以前ブログで紹介しました。探してみてください。

〔454〕高橋素子作品を求めて、初めての「夢のイストワール展」に向かいました。

2022年03月23日 | 美術鑑賞
 前ブログの続編です。
 久しぶりに都心に出たので、有効に春分の日を過ごそうということになりました。大崎の「O美術館」で開催されている「夢のイストワール展」に足を伸ばすことにしました。緑の友人で画家の高橋素子さんは第2回福田緑写真展にみえて、制作中の作品(後掲)を見せてくれました。持ち運びが可能な小さな作品でした。
 作品を見ていただく前に、送っていただいた展覧会のプログラムを紹介しましょう。





 
  ネットで調べたら「企画構成 松岩邦男」さんのHPが出てきたので紹介します。

https://revehistoire.web.fc2.com/index.html

 それでは高橋素子作品です。小ぶりなメルヘンチックな絵柄です。優しさが漂う数点でした。この中のどれかが我が家に飾られるかもしれません。(いずれも部分)









 撮影の許可を得ていますので、他の作品をいくつか紹介します。全体的にどれも素敵な作品ですが、とりわけ心に残った作品です。プログラムと照合しながら見ていただくと作者の制作意図が理解できるでしょう。実物はもっと素晴らしいものですが、残念ながら本日15時までの展示です。(敬称略)

*川部律子

*津田のぼる

*高橋千裕

*井関  周

*寺崎城介

〔453〕「ウクライナに平和を! 原発に手を出すな! 市民アクション」 代々木公園に2500人超が集まりました。

2022年03月22日 | 市民運動
  久しぶりの都心での市民集会でした。ウクライナ危機を憂い、あろうことか原発を攻撃するプーチンに抗議をする気持ちが会場の代々木公園に足を向かわせました。
 副都心線の明治神宮前に着いたのが正午ぐらい。そこから地上に出て代々木公園に向かい、いつもの「儀式」のチラシを2,30枚受け取ってベンチでおにぎりを食べ始めたのがようやく12時半頃でした。5分も経たないうちに鎌田慧さんらしき人の声が拡声器から聞こえてきたので、食事もそこそこに会場に急いだのでした。



 舞台の近くに座り込んだのはいつもの通りですが、なんと石畳が冷たいこと。うかつにもクッションを忘れていたのでした。さすが連れ合いはちゃんと持参していました。
 最初参加者数は2500人と言っていたのですが、それより多いと アナウンスされましたが、何人かは不明でした。
 司会はいつもなら女優の木内みどりさんでしたが、2019年惜しくも逝去され、この日は若いピ-スボートの畠山澄子さんでした。そういえばわずかなウクライナカンパはピースボートにたくしたのでした。



 80歳を過ぎてますますの「叛逆老人」鎌田さん、言葉が心に沁みる落合恵子さん、そしてなんと圧迫骨折で杖をつきながら登場したのが90歳超の澤地久枝さんでした。







 さらに、4人の方からのアピールも新鮮で、どんな団体の人かあらためてネットで調べようと思いました。 
 そして、思いがけずに「再会」したのがウクライナの人、ナターシャ・グジーさんでした。初めてのコンサートの会場は失念しましたが、2回目は教育科学研究集会(法政大学)でした。民族楽器バンドゥーラを演奏しながら、伸びやかな美しい歌声を聞かせてくれました。
 こういう政治的な市民集会には参加したことはないと言っていました。ウクライナ危機の緊急参加だったようです。
 今回はバンドゥーラを持たず「ふるさと」を3番まで、さらにウクライナ語でも歌ってくれました。





 そうそう、バンドゥーラ奏者は日本には2人いるそうです。もう一人がカテリーナ・グジーさん、ナターシャ・グジーさんの妹です。「ワタシが日本に住む理由」という番組に登場し、朝日新聞にも出ていましたね。

 集会後、デモ行進には参加できませんでした。2人で向かった先は大崎の「O美術館」でした。次のブログで紹介しましょう。
 最後に、ロシアの侵略について一番的を射たと思われる鎌田慧さんの論考(「さようなら原発1000万人ニュース」31号)を紹介します。是非拡大して読んでみることをお奨めします。



〔452〕改憲案の危険性を伝える、わかりやすい憲法チラシ完成版が届きました。(塚越敏雄さんより)

2022年03月19日 | メール・便り・ミニコミ
 今朝届いたばかりの塚越敏雄さんからの憲法チラシ完成版です。少し前のブログで憲法チラシ案を掲載しました。比較していただけると「進化」の度合いがはっきりわかります。以前のも読み応えはありますけどね。鎌田慧さんのコラムもどうぞ!

▶お世話になります。鎌倉の塚越です。

 改憲派はウクライナ戦争を利用して、改憲国民投票を進めようと活発な動きを
しています。
 「自衛隊明記」「緊急事態条項」を入れる改憲案が世論調査では過半数の賛成
を得ている現状を変えていくには、一人でも多くの人に、改憲案の危険性を伝え
ていく必要があります。
 
 腰越九条の会では、わかりやすいチラシを作ろうと検討を重ねてきました。
添付しますので、ご意見などありましたら、お知らせください。よろしくお願い
いたします。
               t417mabui@nifty.com 塚越敏雄 






◆米軍基地と核工場
鎌田 慧(ルポライター)

 福島原発事故から11年。事故後の悲惨は続いている。それでもいまだ
原発は残存している。
 それどころか、ロシアから原油が入らなくなると宣伝、戦争を奇貨
として再稼働のピッチを上げようとする輩もいる。
 しかし、戦争の危機と原発の危機との一体化を、明確に示したのが
ロシアのウクライナ侵攻だった。

 事故があった3月11日、経済産業省前と東京電力本社前でふたつの
抗議集会があった。その両方に参加。13日は八戸市(青森県)での
「さようなら原発・核燃集会」(ユーチューブ・ライブ)に出席した。
 福井県知事は防衛大臣と面会して原発地帯防衛のための自衛隊配備を
陳情した。
 が青森県下北半島には沖縄・嘉手納につぐ三沢米空軍基地があり
すぐ北側に使用済み核燃料再処理工場がある,試運転開始から15年。
 事故続きで本格生産は疑問視されている。それでもすでに高レベル
放射性物質で汚染されている。

 米空軍基地とプルトニウム工場とが並んでいる間に、米空軍所属
F16の射爆場がある。
 爆弾投棄の訓練が行われなんどかの墜落事故があった「下北核半島」
は斉藤光政さんとの共著のタイトルだが、ここは日本で最も危険な
地域だ。

 30年以上運動を続けている「あおもりネット」共同代表の浅石紘爾
弁護士、大竹進医師、市民運動家の山田清彦さんなどとの集会だった。
       (3月15日東京新聞朝刊27面「本音のコラム」より)

〔451〕リーメンシュナイダー写真展開催の福田緑に、実に丁寧なインタビューをしてくださったのは橋本菜摘さんでした。

2022年03月18日 | メール・便り・ミニコミ
 連れ合い緑のブログに橋本菜摘さんによるインタビュー記事が掲載されています。2人で何度もやり取りをして書き上げてくださった、とてもわかりやすくて丁寧な記事になっています。写真も豊富で、内容も充実しています。
 緑は次のように彼女を紹介しています。

 「橋本さんは第一回目の写真展に来てくださっていたのですが、今回はオミクロン株による新型コロナ感染拡大のため来廊を諦めてオンラインでのインタビューとなりました。リーメンシュナイダーの追いかけ人となった私のことを丁寧に細かく記事にしてくださったので、このブログでもご紹介しておきたいと思います。」

 橋本さんのサイトはこんなふうに書き出されています。
 
●ドイツ中世後期の彫刻家リーメンシュナイダーの彫像に出逢って人生を変えた福田緑さん。「リーメンシュナイダーの追いかけ人(びと)」の情熱に迫る

●福田緑さんは、ドイツ中世後期の彫刻家リーメンシュナイダーの彫像に出逢って「リーメンシュナイダーの追いかけ人(びと)」と自称し、20年間にわた...

 是非このサイト、覗いてみてください。

ドイツ中世後期の彫刻家リーメンシュナイダーの彫像に出逢って人生を変えた福田緑さん。「リーメンシュナイダーの追いかけ人(びと)」の情熱に迫る | [楽活]rakukatsu - 日々楽シイ生活ヲ

福田緑さんは、ドイツ中世後期の彫刻家リーメンシュナイダーの彫像に出逢って「リーメンシュナイダーの追いかけ人(びと)」と自称し、20年間にわた...

[楽活]rakukatsu - 日々楽シイ生活ヲ

 


 緑のブログは続きます。

 「今日3月13日の午後、ある女性からお電話をいただきました。その方もアサココを見て切りぬいておき、絵はがきを買いたいと思ったのだそうですが、その後急病にかかり、ようやく今日申し込みができる状態になったそうです。内容はお任せくださるそうですので、明日にでもお送りするつもりです。
 こうして2月20日のアサココの記事が未だに影響を残してくれていることに深く感謝しています。」

〔450〕「美しいウクライナ人のお嫁さん」矢部顕さんの続報です。

2022年03月16日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部顕さんによるチェルノブイリ原発救援活動でウクライナに派遣されていた日本人と妻のウクライナ人のお話です。今は研究者になっている「彼」が山陽新聞に掲載されていたそうです。メールと合わせて紹介します。ウクライナ危機の今、いろいろと考えさせられました。

◆福田三津夫様

私の友人(年齢は一回り以上の年下)で、チェルノブイリ原発救援活動でウクライナに派遣されていた人がいました。片道切符で行ったのですが、18年間ウクライナで暮らして、数年前に故郷の岡山に帰ってきたときには、うつくしいウクライナのお嫁さんと一緒に帰ってきました。

岡山の何か所かで反原発の講演会をしました。もっとあちこちで反原発の講演会をやりたいと考えていた私。

お嫁さんは、遠い国の岡山で寂しいだろうと思いラボに誘いました。子どもたちの演じる「てぶくろ(ウクライナ民話)」などを見せてあげたり、ラボの若いお母さんと友達になれればいいかなと考えたところ、そうこうしているうちに妊娠して、お身体の調子がすぐれず、実現しませんでした。

最近の年賀状に写真には、二人のかわいいお嬢さんが写っていました。二人の子どものお母さんになっています。

帰省して、彼はしばらくは翻訳などの仕事をやっていたのですが、栃木県の大学からの誘いがあって、転居してしまいました。先日の山陽新聞に彼が載っていましたので添付します。

先回でしたか、「人類にとって、もっとも深刻な思想上の問題」という『ひとが生まれる』(鶴見俊輔著)からの引用を紹介しました。
なんと、驚いたことに、彼・竹内高明くんは、大学の社会思想史の教材として『ひとが生まれる』を使っているとのことでした。 昔からの愛読書だったそうです。

第一章は「中浜万次郎」ですが、第二章「田中正造」、第三章「金子ふみ子」の2人とも栃木県に関係するからとのこと。彼の勤務する大学は栃木県にあって、田中正造が足尾銅山の鉱毒から住民をまもるためにたたかった場所も近いし、金子ふみ子は最後に栃木刑務所で自殺したのでした。

鶴見さんのこの本は、やさしいことばで人間の深い精神性やあるべき社会を中学生に語りかけていますが、大学生の授業で活用していることに竹内くんのセンスを嬉しく思いました。

お嫁さんのお母さんはウクライナで無事のようでしたが、夫婦でのウクライナ支援活動に取り組んでいて忙しそうでした。

矢部 顕


〔449〕「権力の支配者への闘争の手段は非暴力と不服従である」(トルストイ)-矢部顕さんのメールから。

2022年03月12日 | メール・便り・ミニコミ
 今回は、矢部さんのメール、鶴見俊輔さんの文章をじっくり読んでみてください。

◆福田三津夫様

ロシアで思い出しました。

ラボ国際交流の子どもたちをアメリカ・ペンシルバニア州での受け入れをしてくれているメノナイトについて調べていたときに、ウクライナを源流としたロシアのドウホボール教徒のことを知りました。

メノナイトの人たちはドイツから、クエーカーの人たちはイギリスから、いずれも国や国教会の弾圧から逃れ、自分たちの信教を守るためにアメリカに渡ってきたボートピープルだったのですが、ドウホボール教徒の人たちはカナダに渡っていったのでした。

彼らは、メノナイトやクエーカーと同じく、平和主義者で兵役拒否を貫いてきた人たちです。帝政ロシアからの弾圧もあって、かつカナダ政府が歓迎したこともあってカナダへの移住を決めたのでした。(1899年)

1万人以上の渡航費用は、クエーカーやトルストイ主義者それにトルストイ自身などによって基金が設立され、そこから捻出されたそうです。無政府主義者クロポトキンも彼らを援助した。渡航の費用を支援するために、トルストイは『復活』を書いて印税をそれに当てた、ということでした。

『戦争と平和』の作者トルストイの言葉です。
「地上の権力(国家)は、軍隊を中心とする暴力機構の上に成立しており、この暴力こそが権力者が民衆を支配する手段である。われらが戦うべき相手は、国家や民族の名において民衆を戦争に動員し、自らの利己的な目的への利用を図る。そうした権力の支配者への闘争の手段は非暴力と不服従である」

ロシア革命(1917年)が起こって、日本に逃げて来た白系ロシア人の亡命貴族のおばあさんに会ったことがあります。会ったのはもう50年以上も前の学生時代のことです。

群馬県の草津のハンセン病療養所に暮らしていたのです。孫がハンセン病で療養所に入所したのですが、日本語もできない少年の孫の面倒をみるために、おばあさんも日本語は少ししかできないしハンセン病でもないのですが、園長(療養所長)が認めたのでした。

その経緯を鶴見俊輔氏が『むすびの家物語』(岩波書店)書いています。「むすびの家」建設運動の発端です。抜粋を添付します。

療養所の中の、小屋といってもいいくらいの小さな粗末な家にふたりは住んでいました。そのおばあさんは私に言いました。「私たちはトルストイの家の隣に住んでいた。私はトルストイが嫌いです」と語ったのです。わたしが知るトルストイとは違う側面を知っていたのかも知れません。おばあさんにとってはトルストイの思想が過激だったのかも知れません。なにを話したのか忘れてしまいましたが、そのことばは覚えています。

        発端・トロチェフさんのこと
                              鶴見俊輔
 『「むすびの家」物語』より
 どうして戦争を生きのびたかわからない。自分がこうしたから生きのびられたという、自分の決断のときを思いうかべることができない。
偶然というものがある。しかし偶然の前に、戦争は嫌だという自分なりの方向感覚があって、それが偶然とむきあう自分の態度をそのつどきめた。
その戦争が、日本にとって、私にとって、すくなくとも一時的には終わったころ、私はひとりで軽井沢に住んでいた。東京からの疎開者がひきあげてゆき、その冬は、土地の人をのぞいて、人の住んでいる家は、広い地域にもはやばらばらにしかなく、私にとっては一日に一度も他人と言葉をかわさない時間が続いた。
 そうしたある日、電話がなって呼び出された。リトワ二ア人の医者からだった。
「らいだと思うのだが、白系ロシア人の少年がいる。県の医務官に来てもらって、説明したい。ついては、自分は日本語が不自由なので、英語ではなすから、日本語に通訳してほしい」
 医者の家に着くと、すでに県の医務官と少年が来ていた。目の覚めるような美しい少年だった。
 少年はひざがかたくなっていた。麻痺がきている。医者の説明を医務官はきいて、自分でも診察して、
「らいです」
と言った。
 みじかいやりとりのあと、少年は草津の療養所に移されることに決まった。
 十年が過ぎた。詩人大江満雄に連れられて、草津の栗生楽泉園に同じく詩人・批評家山室静と行ったとき、ふと思い出して、
「ここにロシア人の少年が住んでいませんか」とたずねてみた。ロシア人の消息はその後たえていたので、彼はアメリカかどこか別の国に移ったのかもしれないと思い、まだここにいるかどうかうたがわしかった。すると、いるというこたえが返ってきた。
 ひろびろとした土地の林の中に、彼の住む小屋があった。大江さんと一緒にそこを訪れると、彼は義足をつけた足をひきずってあらわれ、なかにいれてくれた。
 一度室内に入ると、そこは、帝政ロシアだった。イコンがあり、ろうそくがあり宮廷風俗を再現した写真(占領軍兵士が読みすてて神田の古書街にながれたライフ誌から切り抜いたアメリカ映画「戦争と平和」の場面だった)が壁にはりめぐらされ、書棚には、古いロシア語の書物がおかれていた。あとでわかったところでは、それらはポタペンコの著作集やプーシキンの全集だった。
 窓ぎわに老女がすわっており、にこやかに私たちをむかえた。少年の祖母であった。
 医師をのぞいて、まわりの人々とのつきあいはないようで、この一戸建ての家に二人きりで暮らして祖母は孫に、自分の教養を惜しみなく伝えた。それは中世日本のお寺に伝わる師ひとりから弟子ひとりへの瀉(しゃ)瀉(しゃ)瓶(びょう)瓶(びょう)相承(そうしょう)相承(そうしょう)を思わせた。
 ロシア語。フランス語。英語。プーシュキン全集。ポタペンコ全集。近所の人々とのつき合いがすくないので、二人の日本語はたどたどしかった。
(中略)
 栗生楽泉園は温泉のある療養所である。療養所の宿舎に泊めてもらって矢島良一園長と夕食を共にし、ロシア人の二人のことを聞くと「少年が入所することになったとき日本語が不自由なのに、日本人だけの療養所に入るのはたいへんだとおばあさんが一緒に入ることを申し出たんです。おばあさんはらいにかかっていなかったんだが、私は、こちらもかかっているということにして、二人で一つの家に住んでもらうことに決めました」
杓子定規で物事を決めない、所長の人柄に感心した。大江さん、山室さんをまじえて、所長とのびのびした一夜を過ごした。その前に、三人が、療養所からまねかれていたこともあり、それぞれ何かはなしをして、ここの文芸欄の常連の何人かと会っておたがいを見知るあいだがらになっていたが、所長と私たちのあいだも、患者と私たちとかわらないあたたかみをもつようになった。
 このとき所長が、法律で決められた、らい隔離説に批判をもち、法律を今の状況に応じてゆるやかに適用するように工夫していたことが、はっきりと、私たちに伝わった。
 訪問を重ねるうちに、祖母はとびとびに一代記をはなしてくれた。ロシアの公爵の家に生まれた。芝居がおもしろくて劇に出てみた。ポーランドの伯爵の家に嫁いだが、夫は第一次世界大戦に出征して戦死した。広大な領地と娘二人が残った。旅に出て、中国の満州についたとき、ロシア革命がおこり、持っているロシアの金のねうちがさがり、領地を失い、故郷にも帰れなくなった。
 その時魔術師の松旭歳天勝の一座が同じ土地に興行に来ていた。思い切ってたのみこんでこの一座に出演し、一行とともに日本に来た。
 日本にきてからは芝居とのむすびつきが、一家のくらしを支えた。こども二人は、残っている写真から見て、光り輝く美しい娘たちであり、長女は松竹によびだされて長編映画の主人公になった。日本映画史初期の大作である。その次にも長編映画をとっているが、二つとも関東大震災でフィルムは焼けた。
 そのころ、ロシアから、重囲をやぶり、赤軍側の軍艦を奪って日本に逃げてきた若い公爵がおり、この人と長女とが結婚して男の子が生まれた。その子が栗生楽泉園にいる彼である。結婚してからも貧しい暮らしはつづいたらしく、そのなかで、おさない子はらいに感染した。若い公爵と別れた母親はやがてアメリカ人と再婚して米国に渡り、早くなくなった。日本に残された祖母、次女、孫は細々と暮らしを続け、戦争下に、軽井沢に移って無国籍の白系露人として生きた。
 革命をのがれて日本に移り住んだ白系露人のおおかたは、日本の敗戦後に、次々に、アメリカに移ったが、らいの孫を抱えた祖母は八十歳をこえて、一人日本にとどまることをえらび、ここでなくなった。
(中略)
 青年はトロチェフと名のる。彼はあるとき、草津から東京までバイクで出るから、その夜泊まる予定の神田美土代町のYMCAで会おうと言ってきた。私は京都に住んでおり、その日の夜行で戻るつもりだったので夕刻、わずかの時間会う約束にした。
 YMCAにつくとトロチェフはすでに来ていて、受付とかけあったが、らちがあかない。
「他のお客さんを不快にするから」
というのが、彼の宿泊をことわる理由だった。
 新薬プロミンの出現以来、らいが感染しないことは医者の証明する事実であり、栗生楽泉園からトロチェフは感染しないという証明書をもらってきている。にもかかわらず、宿泊をことわられるのは彼が義足であり、顔にゆがみが残っているからだ。
「しかし、すでに宿泊の約束を電話でとりつけて、ホテル側はそれを承認しているではないか」
 私は受付にそのことを言ったがゆずる気配はなかった。そのうちに、トロチェフはほうぼうに電話をかけて、アメリカ人の経営する横浜の海員宿舎に宿泊の手続きをすませた。夜行列車の時間のせまっている私は、心のこりのまま東京駅に向かった。
                『「むすびの家」物語』(鶴見俊輔・木村聖哉共著)第一章発端(161p~169p)から抜粋

〔448〕関電の原発マネー不正還流を告発する会から検察審査会向けのスライドショーが届きました。

2022年03月09日 | 市民運動
◆関電の原発マネー不正還流を告発する会 メール登録の皆様へ
一斉メールでお送りします。
事務局で作成していた検察審査会向けのスライドショーが完成しました。7分半
です。
Youtubeにアップし、告発する会のトップページからも見ることができるようにし
ています。
ぜひご覧ください。そして拡散をお願いします。

関電原発不正マネー徹底解明! 起訴しかないやろ!

関電原発マネーが役員等に不正還流していた事件は、特別背任罪や贈収賄罪等の疑いがあるとして、市民が告発しましたが、大阪地検は不起訴にしてしまい...

youtube#video

 


*---------------------------------------------*
関電の原発マネー不正還流を告発する会 
910-0859
福井市日之出3丁目9−3 京福日の出ビル2階
 原子力発電に反対する福井県民会議気付
TEL:0776-25-7784  FAX:0776-27-5773
*---------------------------------------------*

〔447〕ウクライナ危機の今、矢部顕さんの「人類にとって、もっとも深刻な思想上の問題」を読んで欲しいのです。

2022年03月09日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部顕さんからいただいたメールです。ウクライナ危機の今、しっかり耳を傾けたいものです。『「民際人」中浜万次郎の国際交流』再読したいと思います。

◆福田三津夫様

「人類にとって、もっとも深刻な思想上の問題」

●鶴見俊輔著『ひとが生まれる』のなかの第一章「中浜万次郎」のなかに以下のような記述があります。

――――万次郎たちの場合にかえると、捕鯨船ハウランド号の船員の側にも、土佐の漁師の側にも、相手を同じ人間と見る心があったのがしあわせだった。それは、人間にとってあたりまえのことではない。人類が地上にあらわれて以来、人類はほかの動物とちがって、ちがう土地にそだった人間を、自分たちと同じ人間と考えないで、殺したり、追いはらったりする習慣をつくりだしてきた。このことは、今でも人類にとってもっとも深刻な思想上の問題だといってよい。戦争の時にはいろいろな理由をつけて、たたかっている当の相手でない子ども、女、年寄りまでも殺すやりかたを、今でも続けている。―――(鶴見俊輔著『ひとが生まれる』のなかの「中浜万次郎」より)

『ひとが生まれる』は、もう40年以上前の「ちくま少年図書館」(筑摩書房)というシリーズのなかの一冊です。もともと、このシリーズは中学生向けのシリーズでして、鶴見さんが少年向けに書いた唯一の本です。もっと小さい子向けの絵本として『ことばがひろがる』と『わたしが外人であったころ』(いずれも福音館書店)の2冊があります。

『ひとが生まれる』は、副題がー5人の日本人の肖像―で、中浜万次郎、田中正造、他、5人の伝記となっています。中浜万次郎の章が一番成功していると評論家で数学者の森毅が言いました。14歳で漂流してアメリカの捕鯨船に助けられた土佐の漁師の万次郎と、不良少年だった鶴見さんは15歳で父親からアメリカに放逐されたことが重なっているからだろう、と言っています。

『ひとが生まれる』は、少年図書館シリーズが絶版になったあとも、この本だけは文庫本化(ちくま文庫)として残りました。(ラボが、子どもたちの課題図書にして、毎年毎年、何百冊と購入したからです)
が、そのうち、文庫も絶版になったので、鶴見さんと筑摩書房の了解を得て、万次郎の章と講演会記録をもとに『「民際人」中浜万次郎の国際交流』というタイトルの本をラボで発刊したのでした。

ロシアのウクライナ侵攻がとまりません。私の頭の中で、上記の記述をいつも思い起こします。

矢部 顕

〔446〕第2回福田緑・リーメンシュナイダー写真展は植田重雄さんとの「再会」の場でもありました。

2022年03月08日 | 美術鑑賞
 植田重雄『神秘の芸術 リーメンシュナイダーの世界』(新潮社、1976年)は日本で初めてのリーメンシュナイダーに関する単行本です。その後、植田さんはこの本の神秘主義的な観点を整理して『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社1997年)を完成させます。これが生活クラブ生協の「本の花束」というブックレビューに紹介されていたのを緑が見つけて購入し、彼女はリーメンシュナイダーに魅せられていくのです。
 緑の写真集(全4巻)出版まで日本にはリーメンシュナイダーの写真集はなく、我々にとっては唯一『リーメンシュナイダーの世界』が「リーメンシュナイダーを歩く」ガイドブックになっていました。

 不思議な縁が続くものです。
 今回の写真展を国分寺司画廊開催に導いてくださった国分寺市内在住のUさんは、かつて、お連れ合いの研究か、お仕事の関係でフライブルクなどのドイツに滞在されていらしたときに植田さんと交流があったというのです。写真展の会期中に、植田さんの『守護聖者』(中公新書、1991年)を見せてくれました。リーメンシュナイダー作の「聖バルバラ」「聖マグダレーナ」「聖ウルバン」の写真も掲載されています。ぱらぱらと頁をめくるうちに、あることに気がつきました。古本屋で偶然手に入れた「芸術新潮」(特集:聖女たちとやさしいキリスト教、1994年7月号)の植田解説「日本人のための 目で見るキリスト教入門」「いざというときお願いしたい 聖人・聖女大集合」は『守護聖者』が基になっていることに。
*「芸術新潮」(特集:聖女たちとやさしいキリスト教、1994年7月号)はアーヘン市立ズエルモント=ルートヴィヒ美術館所蔵「聖なるかたち 後期ゴシックの木彫と板絵」展、国立西洋美術館、愛知県美術館、1994年)を紹介している。





 そしてもう1冊、植田解説の基になっている本がありました。それが『聖母マリヤ』(岩波新書、1987年)です。この本にもリーメンシュナイダー作品の写真が多数掲載されています。(「マリヤとイエスを抱くアンナ」「聖母の嘆き」「マリヤの昇天」「ローゼンクランツのマリヤ」)緑の写真集にも掲載されているファイト・シュトースやミヒェル・エーアハルトの代表作も紹介されています。
 この本のある写真に目が釘付けになりました。ヒンメルスフォルテン修道院の写真です。リーメンシュナイダーの作風に似た聖母子像が写っているのです。この修道院はビュルツブルクにあり、2人で徒歩で訪ねたところでした。無人の教会内に恭しく入って撮影していたところ注意されてしまったのでした。ここには公開されていないリーメンシュナイダー作品「キリストの受難像」があり、後日画像を送っていただき、掲載できたのです。(写真集第Ⅱ巻)
 この修道院には他のリーメンシュナイダー作品はないはずです。それとも『聖母マリヤ』の「聖母子」は模刻なのでしょうか。謎が一つ増えました。植田さんに伺っておくべきでした。

 生前、植田さんと交流をもたせていただきました。緑が植田さんに手紙を書き、3,4通手紙をいただいています。一度ご自宅に招かれ、お話を伺いました。亡くなられる2,3年前のことになるでしょうか。

 不思議な縁は続くものです。
 今回の写真展になんと植田さんのご子息がいらしてくださったのです。私たちがあまり忙しそうにしていたのでそのまま帰られたというのです。緑が、ひょっとしたら植田さんの家族の方でしょうかと連絡を取ったらやはりそうでした。植田宅にお邪魔したときに2人の拙著『ヨーロッパ2人旅行、22日間』(私家版)を差し上げたのですが、それを持ってこられていたというのです。
 わずか1週間の写真展でしたが、いろいろな出会いがあり、忘れられない濃密な時間と空間になりました。多くの皆さんに感謝いたします。

〔445〕ウクライナ危機の今、久しぶりに駅頭でマイクを握りました。

2022年03月08日 | 市民運動
 清瀬・憲法九条を守る会、清瀬・くらしと平和の会は、市民センターだったり、リモートだったり、定例会を継続しているのですが、コロナ禍もあり駅頭宣伝活動は控えてきました。しかし、3月6日(日)、ウクライナ危機の今、何か訴えたい、行動したいということで久しぶりに駅頭でマイクを握ることになりました。
  私たちの動きに応えてくださった市民グループがあり、清瀬駅に集まってくれたのは全部で11人でした。終了時に残っていた人で写真撮影をしました。





  「プーチンが戦争を止めれば戦争は終わる。ウクライナが戦争を止めればウクライナはなくなる」
と書いたデモ参加者がいたことをデンマーク大使が伝えていました。まさにウクライナ危機は「プーチンの戦争」だと思います。ネオナチと民族主義者がウクライナを牛耳っていて、ウクライナの虐殺を阻止するために侵攻するのだという「大義」はフェイクとしか考えられません。

  ロシアの侵略を許してしまった一端は日本にもあると思います。
 2014年、ソチオリンピックに欧米首脳は参加を見送ったのに、安倍晋三首相は参加しました。欧米の厳しい経済制裁に対して、北方領土問題を抱える日本はロシアに対して「微温的」対応に終始していました。2016年、安倍首相は郷里の山口でプーチン大統領を歓待し、「ウラジミール」「シンゾウ」と呼び合い、親密さを演出しました。その後、経済協力の名目でロシアに3000億円の融資をしたことが新聞に書かれていました。
 しかし、その成果は出ず、北方領土返還要求を4島から2島に切り替えたにもかかわらず、交渉は頓挫しました。北朝鮮拉致問題とともに安倍政権下では1ミリも前進しなかったのが歴史的事実です。
  そうした反省もせずに火事場泥棒的に「核共有」などと言い出す始末です。憲法九条や非核三原則を国是としている日本の元首相として立ち振る舞いに疑念が増すばかりです。

  原発を15基有しているウクライナの原発がロシアから攻撃を受けています。核戦争の始まりと私は認識しています。54基の原発を抱える日本はどう身を処していくのでしょうか。我々市民自身で考えなければならない問題です。


 ◆ロシア軍は撤退せよ
  核爆弾ばかりか、原発も核戦争の手段になる恐怖を証明

  鎌田 慧(ルポライター)

 この原稿を書いているあいだにも、ロシア軍によるウクライナへの
侵略が続き、多数の市民が殺戮(さつりく)されている。どうしたらこの
非道の軍隊を撤退させられるのだろうか。
 プーチン大統領がウクライナのNATO加盟の動きなどロシア離れに
苛立(いらだ)ったにしても、武力で政権を変えようとするとは想像でき
なかった。

 第二次大戦以降でも朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争などで兵士
以外にも多くの人たちが戦火に巻き込まれて死んだ。
 いまプーチンは街を破壊し、住民を殺害しながら、ウクライナの
「中立化」「非武装化」「政権交代」を要求し、死者ばかりか膨大な
避難民を発生させている。
 そのひとりひとりに、彼はどう責任をとろうとするのか。

 大国による周辺国の主権無視の暴虐が、21世紀になっても公然と
行われている。アジアでもこれから起こりそうだ。
 ロシアの侵略戦争は各国の軍備強化を引きだす。

 安倍晋三元首相、得たりとばかり米製「核」の「共有」論を展開、
日本維新の会の松井一郎代表ばかりか自民党の福田達夫議員や世耕弘成
議員なども同調している。

 プーチンは核兵器使用を脅しに使い、チェルノブイリやザポロジエ
原発を制圧。
 ついに現代は核爆弾ばかりか、原発も核戦争の手段になる恐怖を
証明した。
 日本政府は防弾チョッキの供与を決めた。武器輸出準備のつもりか。
  (3月8日東京新聞朝刊25面「本音のコラム」より)

〔444〕今だからこそ、「憲法を変えると、どうなるの?」第2版の原案です。(塚越敏雄さん)

2022年03月08日 | メール・便り・ミニコミ
 ウクライナ危機の今、自民党などの改憲策動が蠢いています。それに棹さす鎌倉の市民グループに連帯の意を込めて転載させていただきます。いつものように画面を大きくしてご覧ください。私に連絡を取れる方はご意見ご感想をお願いします。
 本号でついに444号です。

 ◆いつもお世話になります。鎌倉の塚越です。
 ウクライナ情勢がたいへん気になるところです。
 この危機を利用して、自民党などは参院選後の改憲国民投票につなげようとし
ています。
 昨年5月の各紙世論調査では、改憲賛成が半数を越えていましたから、このま
までは憲法改悪が成立してしまうかもしれない危機的状況にあると思います。
 こうした認識にたって、多くの人に改憲の危険性を分かりやすく伝える必要が
あると考え、私たちはこの2月に「憲法を変えると、どうなるの?」を2500
部印刷しました。その後、改訂を繰り返し、第2版の原案ができましたのでお送
りします。
 気づかなかった間違いや、更に改善した方がよい点などありましたら、ご指摘
くださると助かります。
 t417mabui@nifty.com 塚越敏雄




〔443〕リーメンシュナイダー作品の来日、実は4回! だったようです。

2022年03月05日 | 図書案内
 少し前のブログでリーメンシュナイダー作品の来日は3回だったということを書きましたが、申し訳ありません、4回の間違いでした。新たな事実が判明するかもしれないので、でもこれも断言はできませんが。
 我々夫婦が初めてリーメンシュナイダー作品に出合ったのは1999年、ミュンヘンのバイエルン国立博物館でのことでした。リーメンシュナイダーの代表作「聖マクダラのマリア」を見て、妻の緑は「リーメンシュナイダー追いかけ人」になろうと決めたのです。
 それから約20年、我々夫婦2人は膨大なリーメンシュナイダー作品をドイツと周辺のヨーロッパ、アメリカ、カナダまで拝観し回ってきたのでした。

 それ故に、私たちがリーメンシュナイダーに出合う以前についてのことはまったく不案内というのが正直のところです。
 毎年、上野の国立西洋美術館にはさすがに多くの欧米の芸術作品が来日していると思われるので、ネットでかつての特別展覧会の歴史を調べてみたのです。その結果、1972年にリーメンシュナイダー作品が来日していたことはお伝えしたとおりです。

  そして、さらにリーメンシュナイダー追跡は続きました。
 その結果、1984年「ドイツ美術展 中世から近世へ」が国立西洋美術館で開かれていたのでした。
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 そしてなんと、ニュルンベルクのゲルマン国立博物館(当時はドイツ民族博物館と呼称)から思いがけない作品が来日していたのです。リーメンシュナイダーがなんと3点です。おそらくこれがリーメンシュナイダー2回目の来日と思われます。
  「三王礼拝」、「チューリンゲンの聖エリザベート」、「聖ラウレンティウスと聖ステファヌス」(周辺作家)
 さらに驚いたのはリーメンシュナイダーのライバル、ファイト・シュトース作品が2点「驢馬に乗るキリスト」(弟子作)、「油の釜の中のヴィトゥス」(6月近刊『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』に掲載)が来ていたのです。
 そして、ペーター・デル(父)の「『七つの大罪』連作中の六つの像」。たぶん十数センチくらいの小品ですが、実に素晴らしい彫りをしています。私どもが探して探して辿り着いた作品でした。レリーフが得意なデルは丸彫りも一流でした。間違いなくペーター・デル(父)の代表作です。
 デルと同様に驚いたのがオットーボイレンのマイスターの「偶像を崇拝するソロモン王とシバの女王」 です。この作品は記憶にないので、いつもは常設展示されていないのかもしれません。
 さらにさらに、ハンス・シュバルツのメダルも多数来日していたのです。
  アダム・クラフトの工房作、「家庭内政母子像」も発見しました。

〔442〕「ウクライナ危機を口実にした核武装を推進しようとする勢力の 跋扈(ばっこ)は許さない」(山崎久隆さん)に共感します。

2022年03月04日 | メール・便り・ミニコミ
 たんぽぽ舎から毎日貴重な情報が送られてきます。「転送歓迎」ということですので、とりわけ私が共感し、すぐにでも皆様に読んでいただきたい山崎久隆さんの論考を紹介します。


◆たんぽぽ舎です。【TMM:No4419】
2022年3月3日(木)地震と原発事故情報−
             6つの情報をお知らせします
                      転送歓迎
━━━━━━━ 
1.2022年3月5日(土)〜12日(土)
  東海第二原発いらない!第3波一斉行動
集中日:3月5日(土)14時〜15時(目安)
呼びかけ:「東海第二原発いらない!首都圏ネットワーク」

 ※たんぽぽ舎は、
  日 時:3月5日(土)14時〜15時15分
  場 所:JR御茶ノ水駅3ヶ所
  内 容:チラシ配布、アピール、横断幕・のぼり旗を掲げます。

2. 〈3・11〉2つの抗議行動にご参加を
 3月11日(金)日本原電本店前と東電本店前で集会

○第44回日本原電本店抗議:17:00〜18:00
   主 催:「とめよう!東海第二原発首都圏連絡会」
   協 力:「再稼働阻止全国ネットワーク」
○第102回東電本店合同抗議行動:18:45〜20:00
   呼びかけ:経産省前テントひろば、たんぽぽ舎
※2つの案内ビラがたんぽぽ舎にあります。取りに来ていただいて、
 配布のご協力をお願い致します。
━━━━━━━ 
※3・11日本原電本店へ「『東海第二原発の再稼働工事』
 やめて下さい」の署名を提出します。
 ぜひ、ご持参をお願いいたします。
         「とめよう!東海第二原発首都圏連絡会」
━━━━━━━ 

┏┓ 
┗■1.安倍晋三元首相が核武装(米軍の核兵器国内配備)の
 | 議論を求める
 | ウクライナ危機を口実にした核武装を推進しようとする勢力の
 | 跋扈(ばっこ)は許さない
 └──── 山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)

 2月27日のフジテレビの番組「日曜報道」で安倍元首相は「核共有」
もタブー視せず議論を、などと主張した。
 これはNATO加盟国の一部が米軍と核兵器を共有する仕組み
「ニュークリアシェアリング」政策を採用していることについて、
日本でも議論すべきだと主張したもの。
 一方で、日本は核拡散防止条約の加盟国であり、非核三原則を持って
いることから「被爆国として核を廃絶する目標は掲げなければ
ならない」とも語ったという。
 だが、この二つの立場は、どうやっても両立はしない。
 既に論理が破綻している。

1.非核三原則が切り崩される

 非核三原則政策そのものについても、実態としては米軍が核兵器を
日本に来る前にわざわざ外すとは到底考えられないことだ。
 ラロック証言やライシャワー発言、そして「世界滅亡マシーン」の
著者でペンタゴン・ペーパーズの公表で有名な内部告発者ダニエル・
エルズバーグ氏による証言も米軍核兵器が日本に持ち込まれていた
ことが明らかになっている。
 それは以下の内容だ。
 山口県岩国市沖に長期停泊した米海軍揚陸艦サン・ホアキン・
カウンティ号が核兵器を積載していたことを、日本政府は米側から
知らされながら、ひた隠しにしていた。その後も有事には核を持ち込む
ことを密約していた。
 これが事実だが、非核三原則が「無意味」であったわけではない。
 少なくても今日まで、核武装を主張する勢力は少数で、長く続いた
安倍晋三首相の時代であっても非核三原則を破棄することは
出来なかった。

◎ 安倍氏は、ロシアのウクライナ侵攻を議論する中で、ドイツや
ベルギーなどNATO諸国が自国に米国の核を置いていることを多くの
日本国民は知らないとした上で、「世界はどのように安全が守られて
いるかという現実についての議論を、タブー視してはならない」と
述べた。
 自らがなしえなかった核武装への道を、ロシアのウクライナ侵略を
梃子にして切り開こうする、
 あまりにも薄汚い野望には、さすがに支持する者は少ないだろう。
 しかし、この国のマスメディアの軽薄さ、政治家の底の浅さを繰り
返し見せつけられてきたことから、そう遠くない将来に、この種の
攻撃が実を結ぶ恐れをひしひしと感じる。

◎ 安倍氏は、ウクライナが1994年の「ブダペスト覚書」でロシア、
米国、英国による安全保障と引き換えに核兵器保有を放棄した経緯に
触れて「あの時に一部戦術核を残していればどうだったかという議論も
行われている」と指摘したという。
 核兵器を残しておけばプーチンに侵攻されなかったといわんばかり
だが、そんなことは誰にも分からない。
 むしろ核兵器を持っていたらもっと早くに、核兵器を直接奪い取るか
破壊することを目的に侵攻していたと考える方が自然だ。
 日本が核兵器を持てば、中国やロシアなどから、真っ先に核攻撃の
対象となることは明白だと思う方が自然である。

2.厳しく激しい批判をもっと多く集めよう

◎ 中国新聞は28日に 安倍氏「核共有」発言に広島の被爆者ら
「あきれる」「軽々しい」と報じた。
 「あきれてものが言われん。発言を取り消してほしい」。広島県
被団協の箕牧(みまき)智之理事長(79)は憤る。「広島、長崎の犠牲を
踏まえ、日本は非核三原則を堅持し続けてきた。ロシアの姿勢に左右
されず、守り続けなければならない」と強調した。
 もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(77)も「核兵器廃絶の動きが
世界で広まる中で、非常に軽々しい発言で危険。核兵器の非人道性を
知っている戦争被爆国としての在り方が問われる」と指摘。
 「被爆の実態を伝え続けなければならない」と力を込めた。

◎ 平和活動に取り組むNPO法人のANT−Hiroshima
(広島市中区)の渡部朋子理事長(68)は「元首相という発信力のある人
が発言すれば、日本が引っ張られる恐れがある。日本人がウクライナ
情勢に不安を感じているのに乗じて核武装を議論しようとするのは
許せない」と批判した。

◎ 近年、こうした核武装の主張に対して、厳しく批判することが
少なくなっている。野党も国会などで追及しきれなくなっている。
 安倍氏が首相時代の2020年、広島の平和記念式典において非核
三原則の堅持や核兵器のない世界の実現をと、挨拶をしている。
 それからわずか2年も経たないうちに、核武装(共有も同じ事)を公
言していることに、自民党は責任を取るべきである。

◎ 岸田首相に対しての質問で、首相はやはり「非核三原則の堅持や
核兵器のない世界の実現」と答弁しているが、こんな答弁に何の保証も
ないことは、質問をしている法もわかりきっている。
 具体的に保証をさせるために、具体的な行動に取り組むことを
求めなければならない。
 核兵器禁止条約への批准は当然のこと、核の傘を放棄すること、
非核三原則を法制化することなどを要求していく時である。