後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔109〕「劇団ひこばえ通信」の後は「ひこばえ親子きょういく塾会報」でした。

2016年08月30日 | 図書案内
  横浜の村上芳信さんが、地域のミュージカル活動から手を引かれたということで「劇団ひこばえ通信」が100号で終刊になったことはこのブログでお知らせしました。(ブログ19,70参照)でもたぶんじっとしてられないのが村上さん。今度は中学生の学習の手助けをするという活動を始められました。そこで早速「親子きょういく」というミニコミがスタートです。これは「ひこばえ親子きょういく塾会報」ということになりますが、昨日届いたのがすでに2号で、A4版38頁立てという立派なものです。写真もふんだんにあり、とても読みやすいものになっています。
  内容は以下の通りです。

〔通信のメニュー〕
1(伴走レッスン)育鵬社版教科書・新編中学社会「新しい日本の歴史」研究
  三社の教科書を読みくらべ、「満州事変からフジフ・太平洋戦争」を検討する!
2(夏休み体験学習)地球温暖化 大豆戸・菊名打ち水大作戦に参加!
  8.1「菊名川の上に集まれ!打ち水大作戦!!」写真展
3(夏休み自由研究1) 私の生活する地域(保土ヶ谷区峰岡町)の放射線量を測定する!
(夏休み自由研究2) 電気を使ってパンを焼き電気による発熱を味わう!
4(研究ノート)「世界で学力No1の国家フィンランドの教育」映画評と書評
 (1)映画評  マイケル・ムーア監督「世界侵略のススメ』2016.5.29 ララポート・トホーシネマ
 (2)書評   アマンダ・リプリー『世界教育戦争』 中央公論社
4 わたしの方丈記(編集後記)
                       発行 親子きょういく塾事務所 

 『(伴走レッスン)育鵬社版教科書・新編中学社会「新しい日本の歴史」研究
  三社の教科書を読みくらべ、「満州事変からフジフ・太平洋戦争」を検討する!』の1部を紹介しましょう。
  横浜といえば大阪と並んで、育鵬社の教科書が使われていることで有名です。日本会議のメンバーも多く関わって作られた右翼的・保守的な教科書です。
  教科書採択の事実経過を村上さんは次のように書かれています。

◇横浜市では育鵬社版教科書が採択されて
 (略)横浜市は2009年8月に8区の中学校で自由社版歴史教科書を採択し、2010年度から使用されていましたが、その後、2011年8月4日には育鵬社版を全市採択して2012年度より全市で使用してきていました。
 そして2015年8月5日、教科書改訂による2016年度以降の新編教科書の採択にあたり、横浜市教育委貫会は定例会で育鵬社版の歴史と公民の教科書を採択することを決定しまし
た。今年度から横浜では社会科教科書として新編中学社会版が使用されております。

  教育委員会での採択が実にきわどいものであったことは以下の記述でわかります。最後は教育長判断だったのですね。太平洋戦争を、アジア解放のための戦争という大東亜戦争ととらえる教科書を支持する教育長、教育委員がいることに驚きを禁じ得ません。

◇三社の教科書(「満州事変からアジア太平洋戦争まで」)を比較研究する!
 わたしは育鵬社版教科書が使用されるようになった今年度、親子きょういく塾生(中学3年生)の定期テスト勉強をサポートする(伴走レッスン)の授業は、昨年度のおこなっていた理科に加えて社会科でも行なうことにしました。親子きょういく塾生の前期中間テストの試験範囲は育鵬社「新編中学社会 新しい日本の歴史」の「第5章 二度の世界大戦と日本」でした。その範囲には「満州事変からアジア・太平洋戦争まで」が含まれていました。わたしは(伴走レッスン)に先立って育鵬社「新い日本の歴史」とともに、東京書籍「新しい社会 歴史」と帝国書院「中学生の歴史」とを読み、3社の教科書を比較研究する方法で研究いたしました。
 育鵬社版と他の教科書を読み比べるために前述の2社のものを選んだのは、新しい教科書を採択する2015年8月5日の横浜市教育委貫会で、(委員による無記名での採決の結果、歴史については8社から帝国書院と育鵬社が3票ずつ、公民は7社から東京書籍と育鵬社が3票ずつと票が割れたため、規則で岡田教育長が決定した(2015、8、6朝日新聞記事)」ことを参考に選んだものです。

〔108〕劇団風の子機関誌「風の子」は40号、まさに「持続する志」ですね。

2016年08月29日 | 図書案内
  劇団風の子機関誌「風の子」(劇団風の子協議会発行、600円)を送っていただきました。不定期刊行で40号を数えました。まさに「持続する志」という感じです。表紙はいつもながらの滝平二郎のきり絵です。
  私が唯一「風の子」に登場したのは29号(1992年)でした。当時、「学級崩壊」のクラスを抱えながら、「演劇と教育」の編集代表になり、「風の子」の座談会に呼ばれたのです。「福田三津夫さんに聞く、演劇教室などをめぐって」(特集、多田徹・対話の旅)という記事になりました。聞き手は、多田さん、宮下雅己さん(多田さんの弟)、中島紀さんという豪華メンバーでした。多田さんが終始にこやかで、ゆったりした雰囲気のなかで自由に話させていただいた記憶があります。今では多田さんと宮下さんは故人となられました。
  さて40号ですが、「劇団風の子国際児童演劇研究所」と「四十年目を迎えた風の子の沖縄公演」の2大特集で、それぞれ読み応えがあります。小学校と大学講師を経験している私からすると、「保育実践と児童演劇……西垣吉之―子どもが表現することの意味」が最も興味がある記事でした。
「子どもとの関係性を変えるためにまず大切なことは、大人の側が変わることです。」
「子どもたちが思考をするその姿そのものや思考のプロセスを評価することが大切だということです。」
  抜き書きなので、何を言われているかわかりづらいと思いますが、是非原文に当たられることをお勧めします。

□40号・目次(2016年、78頁)
拝啓 多田徹様……………………………………金田 拓
 ―これからに向かって―
劇団風の子国際児童演劇研究所
この十年(2006~2015)そしてこれから……中島 研
●研究所・常任講師座談会
授業の中から
五期十年(25期~29期)の実践を追う
      菊池大成・霜山由子・若林こうじ
      大澗弘幸・田中つとむ (司会)中島研
四十年目を迎えた風の子の沖縄公演…………上村洋
―沖縄で活動する「シマナイチャー劇団員」からみた沖縄―
●インタビュー
宮古島・花園保育園園長・金谷福代先生に聞く(聞き手/上村 洋)
―島の子どもたちに生の舞台を―(聞き手/上村 洋)
沖縄県東村・有銘小中学校校長・古謝治先生に聞く
―「授業とはまた別の時間」を体験させたい
琉球・沖縄史の特性と子ども文化…………浦添 正光

東日本大震災からの五年をふり返って………岩崎 道弘
―福島県文化センターの活動と文化施設のもっ社会的役割―
●特別寄稿
脳発達と演劇鑑賞(芸術体験)の関係……ジャッキー・e・チャン
―科学と芸術はよいチームである―
児童演劇からの学び……古賀由美子
―学生が「保育や教育の現場」に入る前に―
保育実践と児童演劇……西垣吉之
―子どもが表現することの意味―

 39号も紹介しておきましょう。とりわけ4人の「多田徹論」が興味深かったです。

□39号・目次(2012年、64頁)
特集①多田徹論
■劇団員から見た多田徹 中島茜
「多田徹と劇団風の子」?風の子1期生の末弟末妹のひとりとして思う
■劇作家としての多田徹 さねとうあきら
「いつも子どものすぐそばで」?多田徹の戯曲を読み解く
■運動家・組織者としての多田徹 荒木昭夫
「畏兄・多田徹の夢」
■風の子と共に生きた多田徹/その足跡を追う
「ありがとう多田徹さん」 細沼淑子

特集②東日本大震災と劇団風の子
■福島を拠点に、これからも活動を続けます 澤田修
■岩手県釜石市訪問報告 信清敬子
幼稚園・保育園で「遊びの広場を」
■福島の子どもたちの中で目にしたもの 木島理恵子
「ガラスバッチ」をご存知ですか
■福島県相馬市の仮設住宅で公演 田中つとむ
「元気と幸せ」をもらったのは自分自身だった
■ワークショップと語りで 大森靖枝
宮城と福島の子どもたちの中に

  「風の子」のバックナンバーを読み返していたら、ついつい『劇団風の子五十年史(一九五〇~二〇〇〇年)』(劇団風の子協議会、2,001年、2,000円)を紐解いていました。そしてさらに『ぼくのロングマーチ』(多田徹、大月書店、1,995年)を再読することになりました。多田さんは私の師匠の一人・冨田博之さんの思い出を次のように書かれていました。

「冨田さんとも古くからのおつき合いだった。風の子が初めて全国巡回に乗り出した頃(一九五〇年代の後半)、大阪で開かれた全国教研を傍聴に行った時に初めてお会いしたのだが、その時は“児童劇団相手にせず”という感じで名刺ももらえなかった。それが「カレドニア号出帆す」や「ボッタ子行進曲」などを創り続けるうちにすっかり仲良しになり、そのうちモービル文化賞を、冨田さんと風の子同時受賞ということにもなったのだった。冨田さんは理論派で、よく資料的に勉強されていて、啓発されることが多々あった。アメリカでの「児童演劇の憲法」といわれる原則を教わったのも氏からだった。そして我々はそのタブー破りに熱中したりしたものだった。冨田さんとはいつも仲良く論戦をしていたが、教えられること多大だった。博識多学な氏に代わる児童演劇研究者は当分は出ないだろうと思う。」131,2頁

〔107〕「福島を忘れない!全国シンポジウム・現地見学」参加は、深く心を揺すぶられた時間でした。

2016年08月23日 | 市民運動
 「第4回 福島を忘れない!全国シンポジウム・現地見学」(反原発自治体議員・市民連盟主催)が、8月20(土)、21日(日)福島県で開かれました。初めての参加になりましたが、もう少し早く時間を作るべきでした。すべての日本人はフクシマの人たちの話を聞き、フクシマの現実を知る必要があるのです。
 朝7時に新宿に集合し、バス1台で福島市に向かいました。参加者は50名弱といったところで、バスはほぼ満席です。参加申し込みが定員オーバーしたため自家用車などで現地に向かう人もいました。
 私がフクシマ以後(2011.3.11)福島県に入るのは3回目です。フクシマ1周年に、郡山の開成山球場で大集会がもたれました。前日のプレイベントには鎌田慧さんやドイツの原子力倫理委員会のメンバーなどの話が聞けました。大江健三郎さんや加藤登紀子さんは、大集会に駆けつけてくれました。
 その翌年だったでしょうか、やはり郡山で、ラボ教育センターのワークショップを開かせてもらいました。
 そして今年、全国シンポジウムもさることながら、フクシマを見たいという思いで、現地見学に惹かれて清瀬の仲間三人と参加したのです。

『第4回 福島を忘れない!全国シンポジウム』の様子は、早速、反原発自治体議員・市民連盟サイトに報告されていました。(多少補足させてもらいました)

■『第4回 福島を忘れない!全国シンポジウム』(反原発自治体議員・市民連盟サイトより2016-08-20)於、ホテル福島グリーンパレス
 20日(土)「 第4回 「 福島を忘れない!全国シンポジウム」を開催。反原発自治体議員・市民連盟を中心に、福島の原発事故被害地域の自治体議員・市民の皆さんにご協力いただいて「全国シンポジウム実行委員会」を立ち上げての開催です。福島を始め、北海道から四国までの様々な地域からの150名の参加がありました

*開会の挨拶 福士敬子(元東京都議会議員)1:30
【講演】浪江町の馬場町長の話。『福島第一原発事故 その時浪江町は』
原発事故の時には、普段はつまらないことまで報告に来ていた東電が、何の報告も情報も持って来なかった。浪江町では、テレビ等の報道で判断して避難や役場の移転を決めた。そして今、町の人口は減っているのに世帯数が急激に増えているということ。避難先の事情で、家族がバラバラになっていくというのです。
【各自治体からの報告】
・菅野清一川俣町議会議員『避難解除地区の現状は』
・小川貴永さん(双葉町 避難者訴訟原告団事務局次長)『原発立地の町村は』
・志田篤川内村議会議員『避難解除の村は』
・金井直子さん(楢葉町 避難者訴訟原告団事務局長)
・木幡ますみ大熊町議会議員『大熊町の現状』
 それぞれの町村の事情によって帰還にはそれぞれ問題があることが分かりました。放射線量が下がったといって、すぐ帰れるわけではないことがよく分かりました。

【記念イベント】として、漫才コンビ「おしどり」マコ&ケン『ふくしまの今』
→東電の記者会見に、興味をもって記録を始めたこと。もっと知りたくて記者会見に参加し始めたこと。今もずっと続けていて、記者も東電社員も人事移動で次々と変わったので、一番の古株になっていること等々。ふくしま関連の興味深い問題を楽しく話していただきました。

*まとめ 柳田真(たんぽぽ舎)
*閉会の言葉 佐藤英行(北海道・岩内町議会議員)4:45

  最後に、次の集会宣言が採択されました。

         集会宣言

 3.11東日本大震災から5年と5ヶ月を超えた本日、第4回「福島を忘れない!全国シンポジウム」を開催しました。北海道から関東・北陸・四国まで県外の自治体議員・市民95名が参加、地元福島から浪江町長をはじめ原発被害自治体議員、ADR原告団、原発告訴団など多数お出でいただき、150名を超すこれまで最大の集いとなりました。
 原発立地自治体の双葉町・大熊町、全村避難の浪江町、避難解除地区の川俣町、避難解除後の楢葉町、川内村の現状報告を受け、放射能汚染による経済的被害と健康被害は増え続け、精神的な苦痛による被害も拡大していることがわかりました。
 東京電力福島第1原発事故による最も過酷な被害は、亡くなった方や家族の自己責任とされ、国と東京電力の加害責任はいまだ不問に付されたままです。原発収束作業や除染作業に膨大な税金が投入されながら、原発事故による被害の補償と賠償責任は不十分なままで、生活を守るには裁判で争う以外ない現状です。しかも、国は居住制限と避難指示解除準備区域の避難指示を段階的に解除し、福島県・国は、自主避難者への住宅無償提供を2017年3月で打ち切り、汚染された故郷への帰還を強制しています。そればかりか東京電力福島第1原発の汚染水対策や廃炉作業が進んでいないにもかかわらず、川内原発に続き伊方原発の再稼働を強行しました。
 本日ここに、地方自治体議員と市民は、「福島を忘れない」原点を再確認し、福島の原発事故被害自治体議員・被害者と手をつなぎ、国と東京電力の責任を厳しく問うことを誓いました。
 住む場所を奪われ暮らしをおびやかされ、先祖代々のふるさとに帰れない悲劇を、他の原発立地自治体で繰り返してはなりません。熊本地震が示す切迫する大地震・津波・火山の大爆発の危機に、全国の自治体議員と市民は、福島から学び福島で闘う議員・市民と手を結び、全世界の原発に反対する人々とともに、原発を止めるために力を尽します。
 私たちは、ふるさとを守り、子どもたちの未来を守るため、福島を忘れず、原発再稼働に反対し、原発に頼らない社会を自治体から、全国の地域からめざすことをここに宣言します。
       2016年8月20日
            第4回福島を忘れない!全国シンポジウム参加者一同

 原発被害者自治体議員・原告団との交流と懇親会(5:00~7:30)にも参加して、旧交を温めることもできました。
そして次の日、福島の原発、津波の「爪痕」を案内してもらいました。バスに同乗して地域の様子、3.11の当日やその後の人々の様子を詳しく語ってくれたのは前日もシンポジウムで話をしてくれた木幡ますみ大熊町議会議員でした。ユーモアを交えながら、したたかに明るく、しぶとく闘っている新人議員です。3.11の数日前にも、地震があったので原発は止めてほしいと電話をしたというのです。筋金入りの反原発論者です。
  下掲したのは見学の予定表です。現地参加者と東京からの参加者のバス2台を連ねての見学でした。

8月21日、福島現地見学行程表

*現地(郡山中央交通)先行車に、東京からのバス1台が続きます。
7:30  福島グリーンパレス出発
8:30  飯館村役場(村会議員の説明)
9:30  南相馬市道の駅(トイレ休憩)水の確保
10:00 出発
10:30 浪江町請戸浜視察(教育委員会横山さんの話)
12:30 浪江町役場(役場隣の体育館横に仮設トイレあり)
14:15 四倉道の駅(昼食休憩・トイレ)
15:00 出発
16:30 福島駅前着 解散

 飯館村は確かに「日本で一番美しい村」かも知れません。しかし、豊かな木々が生い茂る山間の道を抜けると、そこに無残なフレコンパックの山です。3段から5段に積まれ、それを覆い隠すグリーンシートとフェンス、普通車からは見えないが、バスからはもろ見えです。3年しかもたないといわれているフレコンパックは、この先どう処理するのでしょう。 
  浪江町請戸浜の視察は深く心に残るものでした。かつて小学校の教師で、現在は教育委員会に勤めている横山さんは、あの津波でご両親を亡くしています。お連れ合いや娘さんはまさに九死に一生を得ました。教師としてまずは子どもたちの安全を図り、我が子のことは後回しだったことを語りました。
 1階は崩壊して柱だけ残り、2階はほぼ完全な形で残っている建物が所々に散在しています。請戸小学校もまさにその状態で建っています。横山さんの娘さんはこの時ここの6年生だったそうです。今後この地域は住居不可ということになるということでした。
 河合弘之弁護士が中心で作った映画「日本と原発 4年後」の大きなテーマの1つは請戸地区の問題でした。「助けてくれ!」という叫び声を聞きながら原発の崩壊ということで退去命令が下り、泣く泣くその場を去らなくてはならなかった事実、自衛隊が完全武装で現れたときのショックと戸惑いということが描かれていました。同じことを横山さんも語っていました。 
  この請戸の浜からは福島原発第1号機が見えるのです。わずか4キロ先に霞んで見えました。
  国道6号線を南下して、福島第1原発の脇をすり抜けていきます。ここ10キロぐらいは、自動車の通行のみ可能という地域です。福島第1原発の脇に近づくにつれて放射能の線量がどんどん上がっていくのです。バスの中で6ミリシ-ベルトを記録したのです。東京などでは、0.05ミリシ-ベルトということですから、100倍の線量ということになります。しかしこれはあくまでバスの中での数値です。自動車の通行のみ可能というこの区間の所々に若い警察官が立っているのです。木幡さんは盛んに彼らのからだを心配していました。
 福島第一原発から数キロの四倉道の駅で昼食を摂り、一路東京に向かったのでした。
  実はこの日未明に、 経産省前テントが強制撤去されました。数人は新宿から直行したのでした。

  来年の「第5回 福島を忘れない!全国シンポジウム・現地見学」は、2017年7月16日、17日に決定しました。日本人として1度はフクシマを体験してほしいと思います。

■参考文献、『福島原発の町と村』布施哲也、七つ森書館、2011年、原発メルトダウンの年の暮れに書き上げた労作です。著者は反原発自治体議員・市民連盟の言い出しっぺの一人。
■NHK論説委員による原発討論です。NHKも少し見直しました。
「どこに向かう 日本の原子力政策」総合 8月26日(金) 午後11時55分~午前0時49分
出演 司会:西川吉郎解説委員長、小林恵子 島田敏男・板垣信幸・関口博之・竹田忠・水野倫之・髙橋祐介 各解説委員
http://www.dailymotion.com/video/x4ql7be_%25E3%2581%25A9%25E3%2581%2593%25E3%2581%25AB%25E5%2590%2591%25E3%2581%258B%25E3%2581%2586%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2581%25AE%25E5%258E%259F%25E5%25AD%2590%25E5%258A%259B%25E6%2594%25BF%25E7%25AD%2596_tv

〔106〕さねとうあきらさん逝去、「演劇鑑賞教室を遊ぶ」をめぐっての発言が懐かしい思い出です。

2016年08月18日 | 追悼文
 2016年3月7日、さねとうあきらさんが亡くなりました。体調が思わしくないとは聞いていたのですが、突然のことでことばがありません。さねとうさんは児童文学、児童演劇の巨人の一人と言える方です。

■さねとう あきら(本名・実藤述 1935年1月16日 -2016年3月7日 )は日本の児童文学作家・劇作家。埼玉県狭山市在住。1972年に『地べったこさま』で日本児童文学者協会新人賞・野間児童文芸推奨作品賞、1979年に『ジャンボコッコの伝記』で小学館文学賞、1986年に『東京石器人戦争』で産経児童出版文化賞をそれぞれ受賞。『なまけんぼの神さま』、『おこんじょうるり』、『かっぱのめだま』、『神がくしの八月』、『ゆきこんこん物語』などの創作・評論多数。(ウイキィペディア)

 私が最初にさねとうさんを意識したのは、彼の書いた児童文学書からです。『地べったこさま』や『ゆきこんこん物語』など、齋藤隆介とはひとあじ違った創作民話の世界に魅せられていったのが始まりです。
 『ジャンボコッコの伝記』(1979年刊行。同年、小学館児童出版文化賞受賞)も記憶に残っています。実話に基づく物語で、 東久留米七小のあるクラスにやって来た鶏をめぐる担任と子どもたちのやりとりを描いていました。担任は細田和子さんと聞いています。
 卒業をひかえた彼らは、鶏をどう「処分」するか考えるのです。議論の末、確かみんなで食べてしまうのではなかったでしょうか。鳥山敏子さんの「豚を丸ごと一頭食べる実践」に繋がっていったように推測しているのですが、鳥山さんから直接聞くことはありませんでした。
  私が『演劇と教育』の編集部に在籍していた関係で、さねとうさんの原稿はけっこう読ませていただきました。役得で知り合いになり、亡くなるまでミニコミ「啓」を読んでいただいていました。かつて私も住んでいた狭山市在住というのも何かの縁でしょうか。

 一番記憶に残るさねとうさんとの思い出は、演劇鑑賞教室をめぐっての手紙でのやりとりでした。あるとき、朝日新聞に東久留米市の中学生の投稿が載りました。演劇鑑賞教室を見るのは楽しいのだけど、なぜ感想文を書かなければならないのかという率直な疑問を書いたものでした。それに対してすかさず反応したのがさねとうさんでした。投稿者に対して全面的に賛意を表するものでした。長年児童劇を創作し続けてきたさねとうさんならではの素早い「援護射撃」でした。
 これらの新聞記事に対する感想をすかさず私はさねとうさんに送りました。それとともに、パターン化した観劇後の感想文を書かせるという指導ではなく、劇をめぐっての「子ども座談会」を開くという実践を提起したのです。
  さらに、私が大いに評価する劇団えるむの「ベッカンコおに」(さねとうさん原作)を見たクラスの子どもが、自主的に感想文を原稿用紙に4枚書いてきたのです。これをさねとうさんに読んでもらったところ、これは一級の劇評だと評価してくれました。その顛末が「演劇鑑賞教室を遊ぶ」(拙著『ぎゃんぐえいじ-ドラマの教室』晩成書房)に書かれています。

 さて、不幸は続くものです。脚本研究会「森の会」の後藤富美さんが、2016年7月29日、逝去されました。彼女から学んだことについてはいずれブログで触れることになるかも知れません。ところで、彼女の脚本の代表作が「おこんじょうるり」(さねとうあきら原作) です。なにか因縁めいたものを感じてしまいます。

〔105〕「学校教育における政治的中立性についての実態調査」(自民党)はまさに学校教育密告サイトですね。

2016年08月15日 | 学校教育
 今年の7月初旬に、自民党文部科学部会から下掲の「学校教育における政治的中立性についての実態調査」が自民党のサイトに登場しました。これはまさに学校教育密告サイトです。

●学校教育における政治的中立性についての実態調査(自由民主党)
 党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
 学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
 そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することにいたしました。皆さまのご協力をお願いします。

 このサイトについては当然のことですが、ネットでかなり批判されて、7月18日終了ということになったそうです。そのあたりの顛末を朝日新聞は次のように伝えています。

●自民、「政治的中立を逸脱」した教師の事例をネット募集(朝日新聞、2016年7月9日) 
 自民党が党公式ホームページ(HP)で、教育現場での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募るネットアンケートを始めた。18、19歳に選挙権が拡大されたことを受け、「主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れ」があることを調査理由に挙げている。ネット上では「この調査こそ教育への政治的介入」と批判の声も出ている。
 自民党HPは、調査の呼びかけで「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実」と断定。「高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出される」などと主張し、「不適切な事例」をアンケート形式で情報提供するよう呼びかけている。
 HPには当初、教育現場で「子供たちを戦場に送るな」と主張する教員がいるとする表現があり、その後、「安保関連法は廃止にすべきだ」と訴える教員がいるとの表現に変えられたが、いずれも削除された。
 同党の木原稔文部科学部会長は7日、この取り組みについて「18歳の高校生が特定のイデオロギーに染まった結論に導かれることを危惧してます」とツイッターで説明している。

●「木原みのる氏」のツイッター
 残念ながら教育現場に中立性を逸脱した先生がいます。18歳の高校生が特定のイデオロギーに染まった結論に導かれる事を危惧してます。そこで、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施します。皆さまのご協力をお願いいたします。

 ちなみに木原氏はあの日本会議国会議員懇談会のメンバーです。ウイキィペディアでは次のように書かれています。

*木原 稔(きはら みのる、1969年(昭和44年)8月12日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)、財務副大臣、創生「日本」事務局長。過去に、自民党文部科学部会長、自民党青年局長、防衛大臣政務官(第2次安倍内閣)。熊本県熊本市出身。(ウイキィペディア)

 そしてあろうことか、馳文科相はこれに理解を示したというから開いた口がふさがりません。

●教育の「政治的中立」調査 馳文科相が自民に理解(朝日新聞、2016年7月12日)  
 自民党が党公式ホームページ(HP)で、学校での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」の情報提供を呼びかけていることについて、馳浩文部科学相は12日、閣議後の記者会見で「党として、たぶん実態がどういうものか分からず、(把握するには)どうしたものか、と考えた中の一案だ」と理解を示した。
 馳文科相は「教育現場では政治的中立性を守ってほしい」とし、「例えば『給付型奨学金についてどの政党がどう主張しているか、なぜ今求められるのか』を考えるのなら中立性に配慮したことになるが、いい悪いとまで述べることは、私はよした方がいいと思っている」と語った。
 自民党は6月、HP上に投稿フォームをつくり、「中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」と断定。投稿者の氏名や連絡先、職業とともに、「不適切事例」について「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」を明らかにして記入するよう求めている。

 しかし、ここ1年の間に教育だけに限ってみても、政府筋から様々な右翼的な物言いが発せられてきています。国立大学の卒業式など行事に国旗・国歌を位置づけること、教員の政治的中立「違反に罰則」、さらに「岐阜大学で、卒業式などに君が代を歌わないのは恥ずかしい」馳発言など、枚挙にいとまがありません。そういえば、森元首相の教育勅語は良いことが書いてある、「オリンピックで選手が国歌を歌わないのはみっともない」発言など、言ったものがちの風潮が出てきているのでしょう。日本国憲法の精神をないがしろにする発言は見過ごすわけにはいきません。
もう少し詳しく知りたい場合は、下記のブログを開いてください。

〔29〕今回からは陳情ではなく請願です。「国旗・国歌に関する国立大学への要請に反対する請願」
〔42〕9月議会には“教員の政治的中立「違反に罰則」に反対決議を求める請願"します。
〔76〕 馳文科相「恥ずかしい」発言はとても恥ずかしいですね。

自民「政治的中立調査」のその後については、朝日新聞が丁寧にフォローしています。

●自民「政治的中立調査」、警察に一部提供 部会長が意向(朝日新聞、2016年8月2日) 自民党がホームページ(HP)で実施した「学校教育における政治的中立性についての実態調査」について、木原稔・党文部科学部会長は1日、投稿された情報のうち明らかに法令違反と思われるものなど一部を警察当局に提供する考えを示した。いじめや体罰など政治的中立と関係のない通報があったといい、こうした情報も対象という。
 部会後、報道陣の取材に答えた。木原氏によると調査実施後、部会内のプロジェクトチーム(PT)で非公開で議論。投稿の内容は公表せず、今後の議論に向けた参考とする方針を確認した。木原氏は「SOSを発していたり、明らかな法令違反だったりして、無視できないものがある。例えばいじめや体罰で、しかるべきところに報告する」と話した。
 これまで公職選挙法違反と判断されるものは文部科学省に情報提供するとしていたが、「公選法違反は警察が扱う問題」と、捜査当局への提供を示唆した。
 PTは学校での政治的中立性を確保するための最終提言を出す予定。木原氏は「(調査結果の)中身はボリュームがあり、全部処理し切れていない」とし、時期は明言しなかった。

〔104〕矢部顕さんに紹介された、BS番組「将校は、砂漠に木を植えた―インドに渡った隼戦闘機隊員―」は驚きの連続でした。

2016年08月06日 | テレビ・ラジオ・新聞
 ある日、1つのメールが入りました。ラボ教育センターの言語教育総合研究所でお世話になった元事務局長の矢部顕さんからでした。

〔7月16日(土)20:00~20:50 NHKBS1スペシャル「将校は、砂漠に木を植えた―インドに渡った隼戦闘機隊員―」杉山龍丸さんのことが放映されます。杉山龍丸さんは、私たちが学生の頃お世話になった方です。生涯をかけて、インドの砂漠を緑にしようとした方で、インドでは、「独立の父はマハトマ・ガンジー。緑の父はタツマル・スギヤマ」と言われている方です。〕

 この番組を録画しておいて、暫くして見てびっくりしました。主人公の杉山龍丸さんは、波瀾万丈の人生を送った素晴らしい人だったのです。私は再放送を期待しています。

■「将校は、砂漠に木を植えた~インドに渡った隼戦闘隊員~」(NHKのサイトより)
 インドの不毛地帯を農地に変えた1人の日本人がいる。杉山龍丸(1919-1987)。元日本陸軍の技術将校だ。戦時中、フィリピンで隼戦闘機隊の整備を担当、壊れた機体を執念で修理して飛ばし、“幽霊部隊”を作り上げた人物だ。戦後インドに渡った杉山は、自らの私財を投げ打って緑化に身を捧げた。その裏にあった思いとはなにか?戦時中の整備日誌など、膨大に残された記録から、戦争の大義を見つめた杉山の足跡をたどる。
                【出演】杉山満丸

 私がラボ教育センターに関わるようになってからの大きな収穫は、元会長の松本輝夫さんや元事務局長の矢部顕さんに出会ったことでした。そのあたりの顛末については、拙著『実践的演劇教育論』に詳しいので、読んでくださると嬉しいです。
 岡山在住の矢部さんとは今回のように時々メールの交換をする間柄です。
  矢部さんは、同志社大学で鶴見俊輔さんに師事し、学生仲間と一緒に奈良市にライ回復者社会復帰セミナーセンター「交流(むすび)の家」を数年かけて作ります。その後谷川雁の影響でラボ教育センターに就職することになるのです。ラボでは竹内敏晴さんをワークショップ、鶴見俊輔さんを講演会に招いたのも矢部さんです。
 竹内敏晴さんの講演が切っ掛けで呼ばれたラボ言語教育総合研究所の定例会の食事会後には、必ずコーヒーを一緒に飲むという間柄でした。
 そして、一冊の私家版『Fの遺伝子』が送られてきました。〔矢部顕作文集、2006~2015〕
様々な機関誌紙などに寄稿した者を集めたものです。私共夫婦のミニコミ「啓」に寄せていただいた文章も再録されています。市販されていないのが残念です。(168頁)

●『Fの遺伝子』もくじ
Fの遺伝子 
キイワードは不便
『あけぼの』コラム
演歌とは演説の歌 
まぼろしの「ラボランドたかはし」
出雲と会津
霊峰熊山の石積遺跡 
『「民際人」中浜万次郎の国際交流』の本が出来るまで 
講演記録 もうひとつのアメリカ 
谷川雁の物語論 
ライとラボと谷川雁 
「サークル主義」をめぐる雁と鶴
鶴見俊輔とラボ教育運動 
40年ののちの覚書 
再刊を願う人たちとの出会い
唐桑再訪 
唐桑紀行 
38年後の唐桑半島の風景 

 そして、 時々東京では視聴できない山陽放送のコピーがCD化されて送られてきます。矢部さんも登場されるシーンが多くありました。
 先日も、久しぶりに新横浜駅で対面し、話が尽きることはありませんでした。、

*RSKイブニングニュース特集「交流の家の半世紀-ハンセン病回復者との絆」2013.12
*RSKイブニングニュース特集「ハンセン病療養所の高校 最後の同窓会」2014.7
*RSKイブニングニュース特集「象の消えた動物園、鶴見俊輔さんとハンセン病」2015.10*メッセージRSK地域スペシャル「隔離された法廷-ハンセン病 司法の人権侵害」2016.6

     
 『Fの遺伝子』に掲載されている「講演記録 もうひとつのアメリカ」は矢部さんの博覧強記ぶりを遺憾なく示すものでした。その感動、共感を伝えたところ、下掲のようなメールが届きました。我々に突きつけられた大きな「問題提起」です。

■矢部顕さんからのメール

 福田三津夫様
                   ワークキャンプに関わってきたひとつの理由
                      「メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」をめぐって
   
 福田さんにお読みいただきましたわたくしの講演記録「もうひとつのアメリカ—―メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」は、於:京大会館と場所名は入れていますが、京大生に話したのではなく、京都の「自衛官人権ホットライン」というグループの集会での講演でした。このグループは鶴見俊輔さんがかかわってできたグループです。
 このグループの機関紙に掲載するために、グループの方がテープ起こしをしてくださったものです。

●ワークキャンプという方法
 福田さんに詳しくお話したことはないかもしれませんが、わたくしは学生時代から今日までフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)という名称のワーク(労働)キャンプ団体にかかわってきました。このワークキャンプ運動にこだわってきたのは、いくつか理由がありますが、ひとつには、ヨーロッパやアメリカにおいては「良心的兵役拒否」者の受け皿としてワークキャンプが機能していたということを知って感激したからです。
 徴兵拒否が法的に認められている国では、徴兵の期間と同じ期間軍事的な仕事ではない仕事に従事する。その仕事とはワークキャンプに参加して平和的な建設的な労働に従事するのです。
 ワークキャンプの起こりは第1次世界大戦の直後にフランスのベルダン地方で戦争で破壊された町の復興のワークキャンプが最初です。クエーカーのピエール・セレゾールという人が、集団の力を戦争という破壊的な行為ではなく平和の建設のために使おうと、敵国同士だったヨーロッパの各国の青年たちに呼びかけたのが始まりです。
 日本には第2次大戦後、やはりクエーカーのアメリカフレンズ奉仕団(America Friends Service Committee・AFSC)が敗戦の復興支援としてワークキャンプという方法を持ち込みました。AFSCのワークキャンプに参加した日本の青年たちが、AFSCから分離独立してFIWCをつくりました。このころのリーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也さんがいます。

●私の学生時代
  私たちの学生時代はベトナム戦争の時代で、世界的にベトナム戦争反対の運動が盛り上がった時代でした。日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を中心として反戦平和運動がとても活発な時代でした。
  日本の米軍基地からベトナムに戦争に行く兵士たちに、脱走を呼びかけるチラシを撒いたグループがありました。ほんとうに米軍基地から脱走してきた兵士があらわれたのです。そこで、米軍と日本の警察に見つからないようにして脱走兵を別の国に逃がすことを主とした活動とする脱走兵支援グループができました。このグループの名前はJATEC(ジャテック・Japan Technical Committee for Assistance to U.S Anti―War Deserters=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)といってべ平連の裏組織的なグループでした。
 『となりに脱走兵がいた時代―ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社、644頁、1998年5月初版)が発行されて、30年の年月を経て活動の全貌の一部が公になりました。
 この支援組織にかかわって彼らを匿って逃走の手助けをして私と同年代のアメリカ兵に接したとき、「私だったらどうするのか?」を問わざるをえませんでした。
  良心的兵役拒否の思想に興味を持ったのは、これがきっかけでした。ヨーロッパやアメリカには良心的兵役拒否の長い歴史があることを私は初めて知ったのです。
 ところで、米軍基地から脱走してきたアメリカ兵は徴兵制(当時アメリカには徴兵制があった)によって軍隊に加わったのですが、彼らはアメリカには良心的兵役拒否を法的に認める制度があることなど全く知りませんでした。

●今の時代
 安保法案成立や憲法改正論議の今、私たちの学生時代よりも、今のほうが日本において徴兵制の実現性が高いような気がします。兵役拒否の伝統が無い我が国ですが、クエーカーやメノナイトの歴史に学ぶべきだと思うのです。日本の人たちは、クエーカーやメノナイトの300年にわたる兵役拒否の長い歴史を知らなすぎます。
 ラボ国際交流でラボっ子のホームステイを受け入れてくれているグループにペンシルバニア州のメノナイトがありますが、ラボ事務局もラボ・テューターもメノナイトについて知らなすぎます。
 中国支部広島地区のテューターからの要望で、「メノナイトとは何か?」という講演をしたことがあります。その時のレジュメを添付します。A4で開いてください。
 広島在住のテューターのみなさんへの話ですので、戦後、広島の復興に尽くしたクエーカーの話をまず最初にしました。そして、クエーカーと同じような絶対平和主義の思想をもつメノナイトについて話したのです。レジュメですから、内容は想像していただくしかないのですが、今回、京都での講演記録をお読みいただいていますのでレジュメでも理解できると思います。
 以前お渡しした冊子『筑紫島に吹く風プラス』のほうには、わたくしの4回のペンシルバニア・メノナイト訪問についての印象記というかエッセイを収録していますので、すでにお読みいただいたことがあると思います。思想や信仰の自由を求めて新大陸アメリカに渡ってきた歴史をもっている彼らが、いま、どのような日常の生活をしているかを私が出会った人々をとうして描いたエッセイです。
                                                 2016.8.15矢部 顕