後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔487〕塚越敏雄さんからタイムリーな「米中戦争の最前線は、日本?」(腰越九条ニュース190号)が届きました。

2022年06月25日 | メール・便り・ミニコミ
 いつもながら、力作「腰越九条ニュース」が今し方届きました。
 ちゃんと読めますように。





◆福田三津夫様 
「腰越九条の会」(鎌倉)の塚越です。
腰越九条ニュース190号ができましたので、添付します。
今回は、「米中戦争の最前線は、日本?」という見出しで、次の内容を書いてみました。
○ウクライナ侵攻と日本への影響
○作られていた 戦争計画
○軍事力の強化・拡大で平和が守れるのか?
○「憲法改正」されたら、どうなる?

 お読みくださりるとありがたいです。t417mabui@nifty.com 塚越敏雄

〔486〕小学校学習田の代かきのための水入れ―足踏み水車ってご存知ですか? (矢部顕さんのお便り)

2022年06月24日 | メール・便り・ミニコミ
 お久し振りでした、矢部顕さんのお便りです。
 岡山の子どもたちが足踏み水車で田んぼに水を入れています。



◆小学校学習田の代かきのための水入れ
   ――足踏み水車ってご存知ですか?

田植えをするためには、田んぼに水を入れて代かきをします。
どのようにして田んぼに水を入れるのか?
傾斜地などでは水路から自然に水が田んぼに入るようなところとか、ため池の水を引いてきて入れるとか、このあたりではエンジンポンプや電動ポンプで水路から田んぼに水を入れます。

ポンプが無い時代はどうしていたか。江戸時代中期から昭和20年代までは、人力足踏み水車で水を田んぼに入れていました。

学校田の側の水路に、この人力足踏み水車を設置して、子どもたちが水車に載って体重をかけて水車を回すのです。そうすると水が田んぼに入るのです。

ふつう水車というと川の流れの水の力で回るのですが、これは逆で、人が体重をかけて回して水を汲み揚げるのです。
子どもたちの父母も祖父母も見たことが無いものです。民俗資料館などで見ても、たぶん何をする道具なのかわからないでしょう。

近所の農家の倉庫の奥に眠っていたものを頂戴して、修理して使用出来るようにしました。
いただいたものは大正時代の日付が書かれていました。

子どもたちは、最初はおっかなびっくりでモタモタしていましたが、あっという間に上手にできるようになりました。水路に落ちる子はいませんでした。「落ちた子は、そのままプールに入るぞー」と言ったのですが・・・・・・・。
                                        
矢部 顕

〔485〕拙稿「映画『教育と愛国』(斉加尚代監督)を観て」が新聞に掲載されました。

2022年06月21日 | 映画鑑賞
 「週刊新社会」から求められて原稿を書きました。6月22日(水)に掲載されました。
 『教育と愛国』は2時間ぐらいの映画です。グループで鑑賞して、教育の現在(いま)について語り合うと良いなと思っています。映像でとらえた教育の背景に、日本の政治や社会が鮮やかに浮かび上がってくるのを感じています。
 新聞記事を掲載しやすいように切り貼りコピーしました。見出しなど私の原文と多少の違いもあるし、コピーは読みづらいので原文も掲載します。




          映画「教育と愛国」(斉加尚代監督)
                     福田三津夫
 2005年3月、33年間勤めてきた東京都の公立小学校教師を、定年まで5年残して、同業者の連れ合いと同時に自主退職した。年々歳々教育現場に漂う息苦しさを感じてのことだった。1999年、石原慎太郎東京都知事の誕生と共に、自己申告書を基にした人事考課制度という学校の会社化、日の丸・君が代の強制ともいえる国家主義化が登場した。
 そして教育界にとって決定的な悪夢だったのが、2006年、第1次安倍内閣による教育基本法の改悪だった。この時、私は埼玉大学非常勤講師一年目、国会での改悪反対集会に馳せ参じていた。
 映画「教育と愛国」(斉加尚代監督)は昨今の保守的右翼的な教育界の潮流とそれに抗う人々をリアルに描いている。
 冒頭に登場するのは、礼儀正しい挨拶はどれかという教科化された道徳授業の一コマ。①「おはようございます。」と言いながらお辞儀をする。②言った後お辞儀をする。③お辞儀の後に言う。正解は②だという。教科には科学的知見と評価をともなうことを前提にすればこれはブラックユーモアと揶揄するしかない。
 さらに、道徳の教科書検定では、教材としてパン屋が和菓子屋に変更指示される。学習指導要領・道徳科の愛国心項目に呼応させるためだ。
そして映像は延々と続く教育反動化の波を生々しく描いていく。
「歴史の記述をきっかけに倒産に追い込まれた大手教科書出版社の元編集者や、保守系の政治家が薦める教科書の執筆者などへのインタビュー、新しく採用が始まった教科書を使う学校や、慰安婦問題など加害の歴史を教える教師・研究する大学教授へのバッシング、さらには日本学術会議任命拒否問題など」(映画HPより)
 とりわけ、「新しい歴史教科書をつくる会」の理論的指導者のことばに背筋が凍るものを感じざるを得なかった。
「歴史を学ぶ必要は無い。」「戦争に負けたのは弱かったからだ。」「反日的、左翼的史観を廃し、伝統を引き継ぐ日本人を育てなければだめだ。」…
 後期ゴシックの彫刻が好きで、ドイツを十数回訪れている我々夫婦は、歴史に真摯に向き合うドイツの教育を実感している。ユダヤ人の強制収容所送りの会議をしたヴァンゼーでは教師を交えた高校生同士の激論の場面に遭遇した。ダッハウなどの多数の強制収容所の保存維持、アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)などに人々を送り込んだベルリン近郊のグルーネヴァルト駅のネームプレート表示、町中の強制連行されたユダヤ人などの名前を彫った無数の真鍮板など、負の遺産を大切にしている。
 教師としての我が身を反省するばかりだが、ひとつの光明を見た。
 アウシュヴィッツの見学で衝撃を受けた次の日、列車のなかで1人の若い日本人の女性に出会った。彼女は兄の影響でユダヤに興味を持ち、アウシュヴィッツに向かうという。将来は漫画家を目差しているそうだ。
 町田市立国際版画美術館で「彫刻刀が刻む戦後日本」展は、戦後の版画運動と教育版画運動に光を当てている。日本の教育が培ってきたものが垣間見られた。同時に 「教育と愛国」を見ながら、日本の教育の過去・現在・未来を多くの人と語り合いたいと思うのである。

○プロフィール
1949年生まれ。元小学校教師。現在、白梅学園大学非常勤講師。
元「演劇と教育」編集代表。清瀬・憲法九条を守る会。著書に『いちねんせい-ドラマの教室』『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』(晩成書房)など。


 斉加尚代さんと毎日放送映像取材班は2019年に『教育と愛国 誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店)を出版して大きな反響を呼んでいます。私はこれから読んでいこうかと思っています。



 なお、あるブログでこの映画と本を取り上げています。いつもながら鋭い読み込みや鑑賞眼に舌を巻いています。取って置きのお勧めブログです。

◆kenroのミニコミ「教室の後ろに戦争が立っていた」
https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/82de023650a91cc04d6165a5035c308a

〔484〕届いたばかりの「九条の樹」(東久留米「九条の会」発行)は実に読みでがありました。

2022年06月20日 | メール・便り・ミニコミ
 東久留米「九条の会」発行の「九条の樹」が送られてきました。2か月ぐらいに1回発行になるのでしょうか。本号で95号ですから、かなりの歴史があります。B5版で4頁ですが、内容が濃くて読みでがあります。
 今号、1面には写真入りで、このブログでも紹介した5月3日の憲法記念日、憲法集会のレポートです。2,3面は永田浩三(武蔵大学教授)さんの「戦争とメディア」と題した講演会の記録です。直接お話を聞いてみたかったです。永田さんの教え子たちの朗読劇についてもこのブログで取り上げていますので探してみてください。そして4面はこちらもたびたびブログに登場いただいている憲法審査会ウオッチャーの西崎典子さんの貴重なレポートです。
 ブログの写真が不鮮明で読みにくいときは拡大して見てください。実物をご覧になりたい方は直接連絡をとってください。担当は鈴木さん(電話042-473-9489)です。





 ◆「骨太」方針の中身
鎌田 慧(ルポライター)

 ロシア・ウクライナ戦争は停戦に至ることなく、破壊と死者をふやし
続けている。その間に進んでいるのが、政府の「防衛力強化」の画策
である。
 防衛費は毎年、過去最大更新を記録して、いまや5兆4000億円。
 さらにこれを倍増して11兆円にするとは、今回の戦争以前の方針
だった。対日貿易赤字を解消したいトランプとの首脳会談(2018年
9月)で、安倍元首相が「防衛力強化」を約束していた。

 その年に策定された「防衛計画の大綱」に先駆け、「GDP(国内
総生産)比2%」と自民党がすでに提言していた。
 そして急速にふえたのがFMS(対外有償軍事援助)に基づく契約
だった。
 防衛省中央調達契約額をインターネットで引くと、2020年度に
米空軍省から購入したF35戦闘機一式だけでも、1157億円。

 FMSの総額は4000億円余り。日本トップを独走してきた三菱重工を
上まわっている。
 前年度はおよそ7000億円にも達していて、三菱重工の倍以上。FMS
は代金先払い、米側が金額を勝手に変更して、価格高騰を招いている。

 日本経済は、トランプ、バイデンと続くバイ・アメリカン(米国製品
を買え)政策に支配されてきた。
 国債残高1026兆円。骨太方針どころか白骨方針。戦争はすべてを
破壊し、膨大な死者をつくり出す。兵器のバカ買いで平和は守れない。
      (6月14日「東京新聞」朝刊25面「本音のコラム」より)

◆沈思実行(104)
  北海道電力(泊原発)再稼働最優先の落とし穴
  原発安全を証明できず−8年たっても
   鎌田 慧

 運転停止を訴えられた北海道電力(以下、北電)は、10年たっても、
もたもた、泊原発再稼働の安全性を証明できなかった。
 本来ならば、訴えている原告が、原発は安全性を欠き、住民の人格権
を侵害する、と立証すべきだ。
 しかし、科学的、技術的知見は、事業者たる被告にあるのだから、
被告の北電が危険性はないことを立証する必要がある。5月31日、札幌
地裁が出した運転差し止め命令の骨子である。

 「被告がこれを尽くさない場合、原発が自然現象に対する安全性を
欠き、事故による住民の人格権の侵害のおそれがあると事実上推定され
る」「8年半という期間は社会通念に照らして短くない。被告がなお
立証を終えられないことは、安全面や、審査における問題の多さ・
大きさをうかがわせる」

 原子炉の変更許可申請から8年半がたっても、北電は安全性を立証
できない。
 こりゃもう駄目だ、と裁判所が匙(さじ)を投げた。
 政府は、経済財政運営指針「骨太の方針」で、「防衛力の抜本的
強化」とともに、「安全最優先の原発再稼働」を主張している。
 とにかく「再稼働」させようという魂胆だ。

 しかし、肝心の「安全」が証明できないのだから、安全抜きの「最
優先の原発再稼働」となる。無責任極まりない。
 札幌地裁の判決は、再稼働を急がせる政府の鼻先に、「差し止め」
命令書を突きつけた英断だ。
 北電は、泊原発の防潮堤の地盤が、液状化の可能性がない、と証明
できなかった。いつになったら証明できるか、まったくわからない。

 このように安全審査が長期化している原発は、廃炉決定以外の36基(
建設中を含む)中、19基もある。
 まして、原子力規制委員会の審査を通過しても、再稼働できるとは
かぎらない。
 周辺自治体の議会の反対や地域住民の反対運動がある。

 岸田内閣は、原油の輸入減や地球温暖化にかこつけ、とにかく電力
会社の利益のために再稼働させようとしている。
 しかし、原発の恐怖は、ウクライナ戦争でも再度立証された。
 一基の原発の存在が、「防衛力強化」を台無しにする矛盾!
          (6月15日発行、週刊「新社会」8面より)

〔483〕映画『MINAMATAーミナマター』を見て、シンポジウム「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」に参加しました。

2022年06月15日 | 映画鑑賞
  結婚するまで練馬区に住んでいながら、池袋駅から徒歩数分の立教大学構内に足を踏み入れたことはありませんでした。師匠の冨田博之さんは立教大学で講師をしていたり、同じ立場の如月小春さんの教え子から連絡があり、卒論の協力を求められたりしながら大学に立ち寄ることもありませんでした。そうそう、実は、我々夫婦の共同ミニコミ誌「啓」も100号までこの大学の一角に収められているのですが。
  6月11日(土)、立教大学タッカーホールで「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」という集会がありました。映画『MINAMATAーミナマター』鑑賞もできるというので参加しました。300人を超える参加者でした。 



◆内容
13:00 映画『MINAMATAーミナマター』(115分)
1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家ながら、酒に溺れ、荒んだ生活を送っていたユージン・スミスのもとに、情熱的な日本人通訳者アイリーンが訪れる。水俣病で苦しむ人々を撮影してほしいというのだ。説得に応じ、水俣に足を踏み入れたユージン。現地で目にしたのは厳しい現実だった。偏見に晒された患者、力で押さえつける工場、分断。水俣病と共に生きる人々に向き合ったユージンとアイリーンの姿を、俳優ジョニー・デップがプロデューサーを引き受け映画化した。日本では2021年秋公開。

15:00 シンポジウム「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」
「多くの子どもが甲状腺がんに苦しんでいる」などないと否定する政府や福島県。放射線被曝による健康影響を口にすれば、「風評被害」や「差別」を招くと批判され、被害者が声をあげられない状況が続いてきました。しかし、今年1月、6人の甲状腺がんの若者が立ち上がり、裁判を提起しました。
そこにある事実が政策を導かず、政策が事実と科学をねつ造するという構造は、水俣病と共通しています。アイリーン・美緒子・スミスさんとともに、これからの道筋を考えます。


  映画も見どころ満載でしたが、圧巻だったのはパネルディスカッションでした。
  パネリストは以下の通りです。(チラシにも書かれています。)

*アイリーン・美緒子・スミス(グリーンアクション代表)
*井戸謙一弁護士(311 子ども甲状腺がん裁判、子ども脱被ばく裁判弁護団長)
*311 子ども甲状腺がん裁判の原告
*河潤美弁護士(311 子ども甲状腺がん裁判弁護団)
*砂川浩慶教授(立教大学社会学部メディア社会学科)

コーディネーター:白石草(パネルディスカッション司会)
総合司会:熊澤美帆(311 子ども甲状腺がん裁判弁護団)

  パネルディスカッションでしばしば胸が締め付けられたのは、311 子ども甲状腺がん裁判の原告3人(全員で6名、現在17~28歳)がパネルの向こうに登壇し、マイクで発言したときでした。









  福島原発事故が起こったとき、彼らは6歳から16歳でした。その後小児甲状腺がんであることが判明します。そもそも小児甲状腺がんは年間100万人に1~2人しか発生しない希少な癌ですが、福島県では事故後、38万人の子どもから少なくとも293人の小児甲状腺がんが発生しているそうです。
 そして、今年の1月27日、東京電力ホールディングス株式会社を6人が提訴し、そのうちの3人が集会に参加して発言したのです。
  彼ら6人の発言は『通販生活』(2022年夏号)に大きく取り上げられ、集会でもそのコピーが配布されました。

  元気溌剌、我々と同世代のアイリーンさんを初めとして、原告の3人、そしてパネリストすべてがきらきらしていてその闘う姿が素敵でした。
 さて、私に何ができるのでしょうか。


◆沈思実行(102)
  裏切られた少女のねがい
  日本復帰で沖縄は本当に救われるだろうか?
                       鎌田 慧

 テレビ朝日の名物番組「朝まで生テレビ」は、今年35周年を迎えた
そうだ。
 これまで420回放送されたが、沖縄をテーマにしたのは5回だけ、
という。
 この事実を掘り起こした朝日新聞の記者の問題意識は貴重だ(同紙
5月18日)
 この番組の名物司会者・田原総一朗さんは、その理由を「残念ながら
沖縄の基地問題は視聴率がこないから」と言って退けている。
 それでも、朝日の沖縄支局に駐在していたTBSのニュース
キャスター・筑紫哲也や、その後継者・金平茂紀は、もっと頻繁に
沖縄の番組をつくってきたであろう。

 「視聴率がこない」。つまり「視聴者の食いつきが悪い」ということ
だが、それがマスコミと沖縄との関係をよく示している。
 沖縄はニュース・バリューと視聴率の間の暗闇に落されてきた。
 5月15日、沖縄復帰50年。この50年に一回の大イベント。それなりに
報道された。が、本号がでるころはどうなっているのだろうか。

 沖縄のひとたちにとって、本土復帰は、「憲法9条への復帰」と
期待されていた。「核抜き、本土並み」。それが平和な生活への悲願
だった。
 が、実際は復帰から50年経って、全国の米軍専用施設面積に占める
沖縄の割合は、現在70%復帰時は59%だった。だから11%も
ふえたのだ。

 まして、いまや問答無用とばかり、県知事が率先反対し、県民の70%
が反対している、辺野古米軍新基地建設のために、「マヨネーズ状」と
いわれる90メートルの海底にむけて、政府は膨大な岩石を、あたかも
賽の河原に石を積むように、毎日、ムダに投入し続けている。
 しかし、その過酷な現実は、復帰50年の「記念日」にむけた報道の
一例として、辛うじて報道されただけなのだ。

 「復帰で 沖縄はほんとうに すくわれるのだろうか 沖縄には 
日本復帰で 平和になりたいという 強い強いねがいがある」
 1972年5月15日、朝日新聞に掲載された、小学校5年の少女の詩
「私のねがい」の一部である。
 そのねがいは、みごとなまでに裏切られた。
            (6月1日週刊「新社会」8面より)

〔482〕細田和子さんに導かれた町田市立国際版画美術館「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」は発見の連続でした。

2022年06月14日 | 美術鑑賞
 細田和子さんは版画教育の重鎮(日本子どもの版画研究会会長)でもあり、染織家としても超一流の方です。
 かねがねご芳名は私の脳裏にはインプットされていましたが、親しくお話しさせていただくようになったのは1997年からの3年間、私が在職していた東久留米市立第九小学校に嘱託で来られてからです。3年生の図工を担当されたように記憶しています。
 その後久しぶりにお目にかかったのは2009年、練馬区立美術館で「細田和子染色&キッズ・ゲルニカ展」が開催されたときでした。その時に驚いたのは、版画教育の第一人者というだけではなく、細密な「エッチング」技法を駆使した染織家としての一面でした。
 さらに、私の練馬の実家でのミニ家族展「和の集い」や第1回福田緑リーメンシュナイダー写真展(練馬・古籐ギャラリー)にも足がご不自由にもかかわらず駆けつけてくださったのでした。今年の1月の第2回福田緑写真展(国分寺司画廊)にもお見えになりました。
そのおり、町田市立国際版画美術館に指導された子どもたちの版画出展のことをうかがい、いつか行ってみたいと思っていました。
 5月25日(水)はシルバーデーでした。清瀬から車で1時間半、木々が生い茂る自然豊かな空間に美術館はありました。コロナ禍で混み合うこともなく、ゆったりと心ゆくまで味わって鑑賞することができました。

 まずはこの展覧会の概要を眺めていただきましょう。美術館のサイトです。

http://hanga-museum.jp/exhibition/index/2022-512

■彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動(美術館サイトより)
町田市立国際版画美術館 開催期間:2022.04.23〜2022.07.03

~工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった~
子供の頃に版画を作ったことはありますか?
日本の多くの学校で版画を学ぶのは、版画を普及した戦後の文化運動と深い関りがあります。
本展は戦後日本で展開した2つの民衆版画運動を紹介します。1つは社会運動を版画で伝え、アマチュアに版画を広めた「戦後版画運動」(1947~1950年代後半)。もう1つは戦後版画運動から派生し、全国の小中学校の教員が学校教育のなかへ版画を広めた「教育版画運動」(1951~1990年代後半)です。
これらの運動の原点には1947年に日本で紹介された中国木刻(木版画)の存在があります。現実を切り取った中国木刻のリアリズムは、戦争の傷や苦しい生活に悩む当時の人々に大きなインパクトを与えたのです。

2つの民衆版画運動のなかで作られた作品には平和への願い、社会へのまなざし、工場や農家の仕事、田舎から都会まで様々な土地での生活が実感をもって刻まれています。約400点の豊富な作品と資料を通して、これまであまり知られることのなかった版画史の一側面に光を当てることで、戦後の開発と発展のかたわらにある「もう1つの日本」が浮かびあがってくるでしょう。


 日本の「戦後版画運動」と「教育版画運動」に大きく影響を与えたのは、魯迅が提唱した中国木刻(木版画)の存在だったという事実に驚く人もいるのではないかと思います。魯迅はいち早く中国で『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』やフラン・マズレールの『木刻連環画面 ある男の受難』を出版します。中国木刻の出発点になった作品集です。

 さて、展示作品を見ていろいろな「発見」がありました。
 丸木位里・赤松俊子(丸木俊)さんの『ピカドン』の実物を初めて見ました。小さなペン画の絵本でした。丸木俊『ひろしまのピカ』(小峰書店)の原型ではないでしょうか。

*群読構成した「教室はまちがえるところだ」が掲載されています。


 私が群読構成した「教室はまちがえるところだ」は中学校教師だった蒔田晋治さんの作品です。静岡の戸塚廉さんが発行していた「おやこ新聞」で紹介され全国に広まっていったと理解しています。蒔田さんは作文や版画指導にも卓越していたということは知っていましたが、教え子の海野光弘さんが版画家であり、優れた版画指導者であったということは知りませんでした。その指導作品も数多く出展されていました。
  「教育版画運動」の推進者として大田耕士、箕田源二郎、国分一太郎などの他、多数の参画があり生活綴り方と生活版画は隆盛を極めました。無着成恭、石田和男。佐々木賢太郎、坂本小九郎など実践者が綺羅星のごとく登場したのです。細田和子さんはその最終ランナーだったのでしょうか。
細田さんはこの展覧会に、2箇所で登場されます。山口県地福小学校での民話版画集の実践、東京・東久留米市の神宝小学校でのキッズゲルニカ国際子ども平和壁画です。後者はピカソのゲルニカと同サイズの大作です。



  「教育版画運動」の頂点の1つが坂本小九郎指導の「虹の上をとぶ船」(八戸市立湊中学校養護学級)と思われます。今回全8作品が鑑賞できます。生活に根ざしたファンタジー性を有しているということで評価が高い作品です。





 大田耕士が宮崎駿監督の義父であることを初めて知りました。宮崎アニメに「虹の上をとぶ船」が登場する由来について次のコラムが解き明かしてくれています。



  「戦後版画運動」と「教育版画運動」についての詳細は240頁に凝縮された図録がお勧めです。家に戻って気を引かれるページからじっくり眺めてみたら、様々なことを発見できました。学芸員の町村悠香さんの巻末論考「生活を、もっと生活を」は力作です。



  細田和子さんの仕事についてさらに知りたい方は、次の2冊がお勧めです。素晴らしい作品集です。
○『細田和子 染色展-子どもの版画 教育実践から』1999年
推薦の序文:針生一郎、前半染色作品、後半民話版画集からキッズゲルニカ国際子ども平和壁画までの指導作品



○『細田和子 思いを染める』2012年
推薦の序文:松永勲、テーマ:家族、いのち、環境破壊、祈り、ふるさと、花・樹・天空 これから、


 
  最後に、新聞記事を紹介しましょう。町田から帰ってきてしばらくして、朝日新聞にこの美術展のことが大きく取り上げられていました。部分ですが読んでみてください。


 
 ネットで調べたら、毎日新聞にも5月18日(水)夕刊に記事があったようです。高橋咲子記者でした。

 7月3日(日)まで開催していますよ!

〔481〕里見実さんご逝去、あらためて『被抑圧者の演劇』などの著作を読み直したいと思います。合掌。

2022年06月08日 | 追悼文
 里見実さん(本名は實さんのようです)ご逝去の訃報が家族の方から届いたのは今年の5月末のことでした。2020年3月から難病になり、5月9日に永眠されたということでした。享年86歳ということになるのでしょうか。
 里見さんの生涯のお仕事を的確に凝縮されたお葉書の一文を紹介します。
「皆様との活気に満ちた共同の活動、思い出多い海外の旅、広く深い書物の世界での飽くことなき逍遥 それは夢の中で最後まで實を支えてくださったのでしょう。」



 里見さんからご自身の翻訳書をいただいたことがあり、そのことをブログ〔226〕「新刊『レッジョ・エミリアと対話しながら』(カルラ・リナルデイ著、里見実訳)は、じっくり対話しながら読みます。」に書きました。そこでは里見さんとの出会いや交流について書いていますので読んでくだされば幸いです。
 里見さんの仕事についてはウィキペディアが参考になります。前述した翻訳書を加える必要がありますが。

■里見実(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

里見 実(さとみ みのる、1936年 -2022年 )は、日本の教育学者。國學院大學文学部名誉教授。専攻は教育社会学。前「ひと」編集委員。演劇ワークショップ活動も展開、第三世界の民衆文化運動の翻訳や紹介の仕事もしている。パウロ・フレイレの著作の翻訳で知られ、日本におけるフレイレの研究の第一人者。
東京都出身。東京大学大学院人文科修了。
○著書
『とびこえよ、その囲いを ― 自由の実践としてのフェミニズム教育』新水社 2006年
『学校でこそできることとは、なんだろうか』太郎次郎社 2005年
『希望の教育学』太郎次郎社 2001年
『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社 2001年
『働くことと学ぶこと ― わたしの大学での授業』太郎次郎社 1995年
『学校を非学校化する ― 新しい学びの構図』太郎次郎社 1994年
『パウロ・フレイレを読む ― 抑圧からの解放と人間の再生を求める民衆教育の思想と』太郎次郎社 1993年
『地球は、どこへ行く? ― ゴルフ場・再生紙・缶コーヒー・エビの授業』太郎次郎社 1993年
『ラテンアメリカの新しい伝統 ― 〈場の文化〉のために』晶文社 1990年
『もうひとつの学校へ向けて』筑摩書房 1986年
『被抑圧者の演劇』晶文社 1984年
『伝達か対話か ― 関係変革の教育学』亜紀書房 1982年


 少しダブりますが〔226〕で書いてないことに触れておきましょう。
 そもそも里見さんに注目したのは村田栄一さんの導きでした。先輩教師として憧れの存在だった村田さんの責任編集『教育労働研究』(社会評論社、全11巻、10巻まで村田さん11巻は武藤啓司さんの編集) のなかに、「さとみみのる」がたびたび登場したのです。〔「国民」形成と歴史教育〕というタイトルで5回連載しています。
 そして『もうひとつの学校へ向けて』(筑摩書房)は村田さんと里見さんの往復書簡で構成されていました。当時村田さんは22年間の小学校教師を辞め、バルセロナに遊学していたのでした。その間のお二人のやり取りが本になったのです。
 飯能市の自由の森学園を主会場に、10日間にわたって、リーデフ98フレネ教育者国際会議が開催されたときの実行委員長が村田さんで、毎月の実行委員会は国学院大学の里見研究室で開かれたのでした。このあたりの顛末は〔226〕をご覧ください。
 村田さんが2012年1月21日、76歳で亡くなられた後に、村田さんを偲ぶ会が開催されました。私は海外旅行中で参加できなかったのですが、パネルディスカッションに里見さんが登壇されたということを聞き及んでいます。



 2,3年前のことです。鎌田慧さんの書庫に案内され、好きな本を持っていって良いと言われました。その時、私が選んだのは『被抑圧者の演劇』(晶文社)でした。
 里見さんが出された太郎次郎社からの本は私もかなり揃えています。
 里見さんの逝去に際し、改めてご著書を読み直そうと決意した次第です。

 最後に、里見さんの本を多数出版している太郎次郎社エディタス(現在の出版社名)の「たろじろ通信」(ネット配信)19号に里見さん追悼の記事が出ていたので紹介します。数日前に届いたばかりです。

「去る5月9日、教育社会学者の里見実さんが逝去されました。
里見さんは多くの著書・訳書を手がけられたほか、小社で刊行していた雑誌「ひと」の編集代表委員として、多くの教育実践者をエンパワメントしてこられました。下記のページにて小社から刊行した書籍の一覧を掲載し、弔意と謝意を示します。

【訃報】里見実さん http://www.tarojiro.co.jp/news/6266/

今月のえりぬきは里見さんの著書『学校でこそできることとは、なんだろうか』(2005年)より「後記」です。
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能力については、基本的に私は不可知論の立場だ。昔から火事場の馬鹿力というではないか。人間の能力には、どのように変化するかわからない複雑さ、多面性、未確定性があり、そのわからなさにこそ、生きた人間の姿がしめされているのだろうと思う。

にもかかわらず、いえそうなことがある。人を「賢く」したり、その精神を豊かにする環境というものが、たしかにあり、またその逆もある、ということ。だから、すぐれた才能はいつもおなじ時間と空間から、一塊になってうまれてくる。人間を育てる場や文化というものが、たしかにあるのだろうと思う。その逆な場や文化、も。

日本の学校は、いま、どういう場として存在しているだろうか?……つづきはこちらから
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◆勇気ある人びと      鎌田 慧(ルポライター)

 6月4日、天安門33年。戦車の前に立ち塞がる若者の姿を思い
起こす。彼は今どうしているのか。この日どれだけの学生が殺害
されたのか。

 ロシア軍がウクライナに侵攻したあと、ロシアの政府系テレビの
女性編集者が、生番組放送中のスタジオで「戦争反対」と書かれた
紙を掲げた。
 良心と勇気。二つの映像は、見たひとびとの胸を熱くした。
 その感動は世界の多くの人たちの行動の支えになった。

 モスクワの「赤の広場」でも、サンクトペテルブルクのネフスキー
大通りでも、政府へのデモ行進があった。3月中旬までに1万5千人
が拘東されたと伝えられている。

 19世紀ロシア皇帝下で、ドストエフスキーが死刑宣告後に、恩赦で
シベリア流刑。スターリンを批判したソルジェニーツィンは1945年
11月、逮捕投獄、ラーゲリ送りとなった。

 そして、いままた強権プーチンの侵略戦争と国内大弾圧。
 プーチン反対の国内運動の報道は減少したが停戦にむけた国際的な
運動がこれから強まるのは必定だ。
 バイデン政権のミサイルと戦車を送り続け火に油を注ぐ行為は、
理性的な解決策ではない。

 日本国憲法前文「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から
永遠に除去する」ための国際社会での「名誉ある地位」とは、米政権に
追従するのではない、停戦と和解に努力することのはずだ。
     (6月7日「東京新聞」朝刊23面「本音のコラム」より)

〔480〕貴重な後期ゴシック彫刻のドイツ語文献『DER SCHNITZALTAR』(彫刻祭壇)に少々興奮気味です。

2022年06月06日 | 図書案内
 福田緑・第2回リーメンシュナイダー写真展は、今年の1月に東京・国分寺市の司画廊で開催され、コロナ禍にもかかわらず予想外の多くの方にご来場いただきました。6日間で500人近くが足を運んでくださいました。
 その中に日本で初めてリーメンシュナイダーの本『神秘の芸術 リーメンシュナイダーの世界』『リーメンシュナイダーの世界』を出版された植田重雄さんのご子息夫妻がいらっしゃいました。
 先日、写真展に尽力してくださったU夫妻にセッティングをしていただき、U夫妻とご子息夫妻と緑が会食をしました。私は残念ながら体調が悪く不参加でした。U夫妻はフライブルクなどドイツ滞在中に植田重雄さんと親しく交流されていたということです。
 会食から数日してご子息から段ボール1つが送られてきました。植田重雄さんの蔵書のなかから中世彫刻に関係するドイツ語の本を送ってくださったのです。



 その中に『DER SCHNITZALTAR(彫刻祭壇)』(Herbert Schindler、副題:南ドイツ・オーストリア・南チロルの作品と彫刻家、1978年)が含まれていました。今まで一人ひとりの彫刻家に光を当てた図録は数多く入手できましたが、彫刻家列伝とその作品についての本は、イギリスのマイケル・バクサンドールの『芸術と彫刻家』しか持っていませんでした。この手の本はドイツではあまり出版されていないようなのです。
 我々のバイブルといっても良い『芸術と彫刻家』の第1版が出版されたのが1980年、『DER SCHNITZALTAR(彫刻祭壇)』はその2年前に出版されています。ひょっとしてバクサンドールはこの本を読んでいたかなと思って文献欄を探したら、やはりあるではないですか。

 『DER SCHNITZALTAR(彫刻祭壇)』にはまあまあの数の写真が載っていました。我々には馴染みのラインベルガー祭壇、リーメンシュナイダーやシュトースの作品、ハンス・ロイ、ミヒャエル・パッハーなどの他に、初見の作品も多く掲載されていました。
 気になった作品は次の3点です。
 まずは、表紙の祭壇です。鮮やかに彩色が施されていますが、どの場面もかなり多くの人物が彫られています。カルカーの教会で馬がたくさん彫られていた祭壇を思い出します。しかし、この表紙の祭壇がある都市と所蔵されている教会や博物館がまだ特定できていません。
 2つ目は、オーストリアのリンツ近くのマウアの教会か博物館にありそうです。マリアの被昇天の場面でしょうか、実に人物がいきいきしています。天使は歌を歌っているのでしょうか、独特の表情です。それらを見上げる表情豊かな人物たち。作者はセバスチャン・クリーヒバウムという説もあるようです。



 3つ目は北オーストリアのZwettlの群像、一度見たら忘れられない個性的な面々です。蛇のようなものに巻かれている人物はいったい誰なのでしょうか。



 いずれにしてもこの3点、必ずや探し当てて実物を目にしたいものです。
 まだまだ個性豊かな彫刻がドイツ語圏には眠っていそうです。

◆最後の彫刻はチェコのアダモフに存在していました。マウアとアダモフの祭壇をこの秋の長旅で確認してきました。ブログ〔519〕をご覧ください。「答え合わせ」です。

〔479〕村上芳信さんから『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社』 と「蘖(ひこばえ)」51号が送られてきました。

2022年06月06日 | 図書案内
 先日、村上芳信さんから『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社』と地域総合誌「蘖(ひこばえ)」51号が送られてきました。いずれも大判のA4判、前書は98ページ、後書は80ページと充実したものです。
 村上さんはこのブログでもたびたび登場いただいていますが、私よりも年長の元中学校教師です。横校労という少数組合の闘士と名を馳せていた頃からその存在は知られていました。私との接点は、彼が後年演劇教育を志向されてからです。退職後は地域の演劇活動に尽力されました。編著も多いのですが、『夢を演じる! 横浜で演劇教育と地域演劇をつくる』(晩成書房)が主著です。

 『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社』の編纂刊行委員会のまとめ役が村上さんです。まずはどのような本なのか概要を眺めてもらいましょう。



■『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社』(版元ドットコムHPより)
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」編纂刊行委員会(編集)
発行:晩成書房 A4判 98ページ 定価 1,800円+税

初版年月日 2022年2月20日
書店発売日 2022年4月14日

●目次                                             
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」発刊にあたって
大寶山本乘寺 第45世 住職 渡邉言之 総代 青木秀男
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」発刊のごあいさつ
八杉神社 宮司 照本 禎 総代 伊東孝幸
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」推薦の辞
大倉精神文化研究所 理事長 平井誠二               
序にかえて(本書のガイドブックとしての使い方について)

1 わが町大豆戸(まめど)の本乘寺・八杉神社(本乘寺・八杉神社のコース)
 [1]本乘寺
参道入口→山門→本堂→開基小幡泰久墓→開山顕本法華宗日什碑→當山歴代の墓→本堂須弥壇・天井画・梵鐘→釈迦堂(タイの仏像)→戦歿者供養碑→庚申塔 ・本乘寺資料
  
 [2]八杉神社
由緒沿革高札→神橋・大豆戸根川→二の鳥居→狛犬→拝殿・奥の殿→彫刻→お神楽→破風・木鼻→拝殿前の狛犬→階段・石垣・石灯籠 →敷石→境内社→八杉神社創立70周年記念大祭式

2 お城(大豆戸城・篠原城)があった地域(杉山神社跡地へのコース)
  
 [1]大豆戸城
1大豆戸城(安山城)・ 安山→2本乘寺・八杉神社の裏山→3大豆戸桜田公園→4大豆戸塚田公園→5大豆戸菊名用水沿いのお稲荷様 →6道念前の町
  
 [2]篠原城
1篠原城(金子城)・ 城山案内板1→城山案内板2→篠原城「城山」探訪
  
 [3]杉山神社跡地
1杉山神社跡地・お稲荷様→お地蔵様 →遺蹟調査
  
 [4]大西・杉山神社の狛犬と社殿の調査

3 もうひとつの大豆戸・「堀上」地域(大豆戸不動尊へのコース)
  
1JA横浜→2横浜市水道局→3大豆戸交差点→4港北区総合庁舎→5大倉山交差点→6富士食品工業→7大豆戸不動尊

あとがき(編纂刊行委員会あいさつ)
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」刊行委員会 村上芳信

目次                                             
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」発刊にあたって
大寶山本乘寺 第45世 住職 渡邉言之 総代 青木秀男
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」発刊のごあいさつ
八杉神社 宮司 照本 禎 総代 伊東孝幸
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」推薦の辞
大倉精神文化研究所 理事長 平井誠二               
序にかえて(本書のガイドブックとしての使い方について)

1 わが町大豆戸(まめど)の本乘寺・八杉神社(本乘寺・八杉神社のコース)
 [1]本乘寺
参道入口→山門→本堂→開基小幡泰久墓→開山顕本法華宗日什碑→當山歴代の墓→本堂須弥壇・天井画・梵鐘→釈迦堂(タイの仏像)→戦歿者供養碑→庚申塔 ・本乘寺資料
  
 [2]八杉神社
由緒沿革高札→神橋・大豆戸根川→二の鳥居→狛犬→拝殿・奥の殿→彫刻→お神楽→破風・木鼻→拝殿前の狛犬→階段・石垣・石灯籠 →敷石→境内社→八杉神社創立70周年記念大祭式

2 お城(大豆戸城・篠原城)があった地域(杉山神社跡地へのコース)
  
 [1]大豆戸城
1大豆戸城(安山城)・ 安山→2本乘寺・八杉神社の裏山→3大豆戸桜田公園→4大豆戸塚田公園→5大豆戸菊名用水沿いのお稲荷様 →6道念前の町
  
 [2]篠原城
1篠原城(金子城)・ 城山案内板1→城山案内板2→篠原城「城山」探訪
  
 [3]杉山神社跡地
1杉山神社跡地・お稲荷様→お地蔵様 →遺蹟調査
  
 [4]大西・杉山神社の狛犬と社殿の調査

3 もうひとつの大豆戸・「堀上」地域(大豆戸不動尊へのコース)
  
1JA横浜→2横浜市水道局→3大豆戸交差点→4港北区総合庁舎→5大倉山交差点→6富士食品工業→7大豆戸不動尊

あとがき(編纂刊行委員会あいさつ)
「わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社」刊行委員会 村上芳信


 村上さんは体調の悪化から地域演劇にも関われなくなって、自宅を開放しての無料塾を開くと同時にその会報誌「親子きょういく」を発行します。そこには教え子のことや、鎌倉の社寺巡りも頻繁に掲載されました。しかしご夫妻の体調の悪化にともないそれも叶わなくなり、近隣の本乘寺・八杉神社探索に切り替えたようです。本乘寺・八杉神社探索の顛末について「親子きょういく」に掲載されましたが、それらが元になって『わが町大豆戸(まめど)の寺社 本乘寺・八杉神社』がまとめられたようです。
 村上さんの凄いところは、「老後は悠々自適の生活を!」というにはほど遠い生き方をしていることではないでしょうか。一生涯学び、思索しながら言語化しそれを発信し続けています。ミニコミだけではなく、東京新聞などのマスメディアにも働きかけています。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168193

  「蘖(ひこばえ)」51号については表紙と目次を紹介します。まさに「地域総合誌」の様相を呈していますね。