元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

引き寄せの法則から見た偉人伝(「苦労しなければりっぱな人になれない」)の間違い

2022-12-03 09:27:26 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 引き寄せの法則;「こうはなりたくない」から発せられた思考についてはそこに意識を向けてはならない!!

 引き寄せの法則とは、思ったこと(思考)は磁石のように引き寄せられて現実に実現するというものである。これは、健康、富、人間関係など日常生活のすべてのことに応用できるといわれている。しかし、難しいのは、引き寄せの対象である「思考」の「こうありたい」「ああありたい」というのが、「ああはなりたくないなあ」という反対の感情から生じているものであることが多い。この場合には、「ああなりたくない」というそのネガティブな思考が強く意識されるたときには、そのネガティブな思考そのものが実現してしまうということである。そうであるなら、肥満であるという感情を感じているならスリムな体を、また貧乏だという感情を感じていたなら、生活が豊かになることは永遠にないであろう。というのも、スリムや豊かな生活ではなく、それは肥満・貧乏というそのネガティブな事実を引き寄せてしまうからである。一時期、引き寄せの法則が取りざたされたことがあったが、それらの本(「引き寄せの法則ーエイブラハムとの対話」「ザ・シークレット」など)が示したのは、このネガティブな思考をどうするかという方法論に尽きるといっても言い過ぎではないと思う。そうでなければ、こうしたい、ありたいという積極的な思考を実現することができないのである。
 
 さて、そう考えたとき、我々「日本人」は、偉人伝を読む際に、苦労に苦労を重ねて立派な人になったという話を聞かされてきたように思う。例えば、今では交通事故を誘発するなどの理由でなくなっているが、小学校の校庭に薪を背負った姿で読書する二宮金次郎の銅像があったものである。彼は家が貧しかったので仕事で生活の糧を得ながら、「苦労して」勉強し藩の財政を救うような思想家になり、渋沢栄一が日本資本主義の父であったなら、彼はその日本資本主義の祖父であるといわれる人物である。それほどのものになるには、血のにじむような努力のかいあってのものであると教わってきた。また、私の心に残っているのは、野口英世である。家が貧乏で母が働きにでて子供の面倒を見てやれないことから、小さい彼はいろりの火により大やけどを負い手が使えず「勉学」により食べていくことを 決心するのだが、ある名医の手術により手が使えるようになり、医師の道を歩むことになるというものである。まさに、貧しい、苦労などがテーマになった偉人伝である。エジソンについても、電球の発明で、フィラメントの材料に使うもので最後は日本の竹であったと思うが、それに行きつくまで失敗に失敗を重ねてたどり着くまでの努力を苦労話として聞かされてきたのだ。今の若い人たちはそうではないと思うが、貧しい、苦労をしないと立派な人にはなれないと、我々「団塊の世代」以前の人は、教わってきたように思う。

 日常生活のことで、健康や人間関係であっても、最終的には幸福だと感じることだと思う。これら偉人伝や親から教えられてきた底に流れる考え方は、苦労しないと幸せになれないよ(偉人伝ならりっぱな人になるには苦労しなければ・・)と教えられてきたのだ。しかし、引き寄せの法則からいうなら、苦労しなければならないというネガティブな思考は、まずは苦労しなければ幸福をつかみ取れないということになる。しかし、苦労しなければならないという発想は、捨てなければ、すぐには幸福にはなれないのである。思うに、偉人伝の人物は、苦労などと思ったのではないのではないか。目標に向けて努力していく際には、本人たちは苦労を苦労と思わなかったはずである。勉強がしたくてしたくてたまらないほどの欲求に突き動かされて、また、発明の実現に向けて何回も何回も試みる、その実現に向けての努力は実は苦労ではなかったはずである。我々、特に団塊の世代以前の者にとって注意しなければならないのは、苦労しなければ幸福はつかみ取れないという発想はいったんおいて考えるべきではないか。努力は必要であるが、本当は、それは苦労でもなんでもないのである。

 引き寄せの法則を考えた場合に、「苦労しなければ実現できない(幸福になれない)」というのは、まずは「苦労そのものを引き寄せる」ことになるのだ。そうではなく、引き寄せの法則から言ったら、直接、素直に、「幸福なりたい」という積極的な思考そのものを考えなければならないのだ。

 <余談=戦後の日本の経済復興について> 団塊の世代より「以前」の人間が戦後の復興の担い手であったことは間違いない。これらの世代は、苦労話の偉人伝を聞かされてきた世代である。戦後の復興期に経済がまだうまく回っていなかったころ、努力だけでなく、確かに他人から見たら苦労したのではないかと思う。これらの人々は、渦中にいる多くの者にとっては、生活に一生懸命で苦労を苦労と思わなかったのではないか。時には、それを苦労とは感じたかもしれないが、戦後の復興にはそれでも生活をよくする原動力となったはずである。このように、総じてこの時代は確かに苦労を苦労と感じないような努力が必要であったのだと思う。
 経済的には世界と肩を並べてレベルになった今では、そんな苦労話の偉人伝は必要ないのではないかと思う。偉人伝を話するにしても、エジソンの例から言わせれば、苦労というのではなくて、何回もフィラメントの材料に挑み続けたのでこの材料ではだめだと分かり、結果、日本の竹がそれに適合したというような書き方でよいのではないかと思う。

 <考察> 引き寄せの法則は、突き詰めれば、科学的思考であるように示されていても、結局は、信じるか信じないかである。私みたいに年をとってきて考えてみると、信じる方向に考えるようになっている。自分は、昔から、金には頓着がない方であるが、一方で生活に困らないだけの最低の資力があればいいという信念のもとに生きてきたものであるが、現実に今はそういう状況になっている。また、ある時点で、失敗したことを考えてみると、確かにマイナスの考え方が勝っていたとも考えられ、引き寄せの法則が全般にわたって適用されていたように感じる。

 ※参考 「斎藤一人俺の人生」(斎藤一人著)P134~ 特に苦労話に基礎をおく偉人伝(二宮金治郎)について

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