今や国の方で「労働市場の弾力化」を図り「リスキング・リカレント教育」の徹底を!!
日本的雇用慣行として、今も依然として基本的にあり続ける「終身雇用」と「年功賃金」は、大企業や官庁を中心として今も存在しています。終身雇用とは、大雑把に言えば採用時から定年退職まで基本的にその会社の従業員であり続けるということで、年功賃金とは読んで字のごとく、年の功に応じて、すなわち年齢や勤続年数に応じて給料が上がっていくシステムのことをいいます。日本経済は、戦後の復興期において、西暦で言うと1955年(戦前の経済水準を超えたので翌年の経済白書で「もやは戦後ではない」とされた。)から1070年ごろまで経済成長率10%を実現していたあの時代に出来上がっていった、西洋に追いつき追い越せのスローガンの下、日本アズナンバー1ともてはやされた驚異的な経済成長の中で生まれたシステムであるということです。
経済拡大の下で労働需要も拡大する中で、企業は卒業した時点で学生をそのまま大量に雇用するということが行われ、これが今の新卒一括採用です。そこでは、会社が責任をもって、若い労働力を社内で訓練して、当該会社に定着させるということがなされました。会社で訓練したスキルを利用して会社に利益をもたらす、若い時にはそれなりに、そして労働者が熟練期に入ると最高の利益をもたらした上で、定年になるので、「年功」と会社の「利益」はそのまま相応するものではないが、そこは高度経済成長の下で多少の調整が容認されたので、年功賃金は実に合理的なものであった。また、定年退職までの一定のスキルを保持している年齢までは、会社が責任をもって雇用を維持するという終身雇用も実にうまくいくシステムであったといえよう。労働者にとっては、若くころはあまり給料は少ないが、一定の年齢にあるとこれくらいはもらえる、結婚もできる、定年時にはそれなりの役職に上がれるといった夢ももつことができたのである。このころは、経済成長による社会全体の所得向上によって、賃金ベースの向上(いわゆるベースアップ)とともに、自分自身のスキルアップ(自己啓発・企業が受講させる研修)による年功賃金の向上が加わったので、さらに賃金の向上が見られたのである。また、会社にとっては、自分ところで研修・訓練しなければならないが、そのかわり、労働者の囲い込みにつながるし、定年までの労働者を雇うことにより、会社の将来の「設計図」が持てたのである。終身雇用と年功賃金は労働者にとっても、会社側にとってもWINーWINの関係にあったのである。日本型雇用システムは、失業率を低下、そして労使の安定的な雇用環境にも寄与した。労使双方で春闘で安定的な賃上げを維持できたのである。
【ただし、先ほど、一定の年齢になると結婚できるといいましたが、この日本型雇用慣行(終身雇用・年功賃金)が想定する労働者は、今のような社会構造ではなく、戦後まもなくの社会システムの中で育成されたものであって、妻が専業主婦である男性正社員でした。つまり、夫が外で働き妻が専業主婦として家計を守るという形です。給料の中にも配偶者手当や今も残っている所得税の配偶者控除がありました(現在も残っています)。そのことは、女性労働者にとっては、この終身雇用と言うのは、蚊帳の外であったのである。女性は結婚すると当然のように退職するとか、女性については、もっと若くして定年制度が設けられているような就業規則がまかり通っていたのである。】
実は、この日本的雇用慣行(終身雇用・年功賃金)は、民間の中で熟成されていったもので、国が「こう」せいといったものではないようです。これに主体的に働いた民間の事業者に、松下幸之助がいる。昭和4・5年の大恐慌のころ、従業員総出で在庫商品の販売を行い、一人も解雇せず会社が従業員の人生に責任をもつという精神を地に付けたという。では国の方ではどうしたかというと、そういった民間の経営方針には手を突っ込まず、計画・財政・金融面で側面的に援助したのである。池田勇人首相の「所得倍増計画」がある。これは、1960年を基準年度として、1970年までの10年間にGNPを2倍にするという計画を立てた(宣言したといっていい)、そして実際に動かしたのは、細部計画として、全国総合開発計画を立て、公共事業を拡大して、新産業都市を打ち出して集中的に開発を図ったのである。そして、その計画は6年半で達成してしまったのである。実際のところ、国・公共団体・金融機関が支援し、民間で作りあげたのが、この日本型雇用慣行システム(終身雇用・年功賃金)でもあった。
ところが、1970年代を過ぎるとうまく動かなってくる。先ほど挙げた女性の労働者の考え方が、男女平等の観点から立ち行かなくなってきたことやさらには膨れ上がった非正規社員の扱い うまくいかなくなったので年功賃金の定年退職前の給与を固定すること さらにグループ内・外への労働者の派遣等で対応せざるをえなくなります。このころから、日本経済は、持続的で高い経済成長は維持できなくなり、若い世代に支えられていた人口構造も変化して、雇用環境もIT化の実現でよりテクノロジー部門へシフトしていきます。うまく行っていた経済システムの要素はすべて失われたといっていいのです。そうこうするうちに、1990年代には失われた20年・30年と言う長期にわたり停滞し、世界でも若い人々よりも超高齢化社会の問題が浮上してきました。いまや、労働環境は大きく変化してきています。確かに終身雇用も年功賃金も日本の雇用慣行かもしれませんが、作りあげた労働環境の要素の一つとして存在しないのも事実です。
ではどうするべきか。まずは教育の内容の変更でしょう。新戦力に備えた(例えばIT化)をどんどん育成することです。そして、人生100年時代では、いつでも新しい分野に挑戦できる労働者の育成については、国の方で面倒を見るべきです。(リスキング リカレント教育) 従来の日本的雇用慣行(終身雇用や年功賃金)で企業で面倒を見るということは不可能となってきています。そして、企業間をいつでもだれでも自由に行き来できるような労働市場の開発が求められます。いまの日本の労働市場はあまりにも硬直的であるように思われます。必要な部門への技術・資本の移動は、難なく出来ても、一番の問題は労働力の移動です。例えば、離職した者が次の会社に就職した場合に、賃金が下がるのが一般的ですが、同じ職種であれば、同じ賃金レベルにでもいいはずです。ここには、会社を移動した場合には、同一のレベルで評価するシステムが存在しないことがあります。評価システムはその会社独特のものが、今に日本にはあるからです。他社にいけばその人物の評価はできないことになります。もちろん、先に述べた国のリスキング・リカレント教育も欠かせません。必要とあらば、法的にも自由に労働の移動ができるシステムを用意することも必要かもしれません。外国の例も参考にしながら、日本的慣行を見直すべき時期にすでに来ているのでしょう。
参考 101のデータで読む日本の未来 宮本弘暁著p241~ 当該データや考え方は自分なりに解釈し、これを構成しなおした。
日本を創った12人 池田勇人編 松下幸之助編
日本的雇用慣行として、今も依然として基本的にあり続ける「終身雇用」と「年功賃金」は、大企業や官庁を中心として今も存在しています。終身雇用とは、大雑把に言えば採用時から定年退職まで基本的にその会社の従業員であり続けるということで、年功賃金とは読んで字のごとく、年の功に応じて、すなわち年齢や勤続年数に応じて給料が上がっていくシステムのことをいいます。日本経済は、戦後の復興期において、西暦で言うと1955年(戦前の経済水準を超えたので翌年の経済白書で「もやは戦後ではない」とされた。)から1070年ごろまで経済成長率10%を実現していたあの時代に出来上がっていった、西洋に追いつき追い越せのスローガンの下、日本アズナンバー1ともてはやされた驚異的な経済成長の中で生まれたシステムであるということです。
経済拡大の下で労働需要も拡大する中で、企業は卒業した時点で学生をそのまま大量に雇用するということが行われ、これが今の新卒一括採用です。そこでは、会社が責任をもって、若い労働力を社内で訓練して、当該会社に定着させるということがなされました。会社で訓練したスキルを利用して会社に利益をもたらす、若い時にはそれなりに、そして労働者が熟練期に入ると最高の利益をもたらした上で、定年になるので、「年功」と会社の「利益」はそのまま相応するものではないが、そこは高度経済成長の下で多少の調整が容認されたので、年功賃金は実に合理的なものであった。また、定年退職までの一定のスキルを保持している年齢までは、会社が責任をもって雇用を維持するという終身雇用も実にうまくいくシステムであったといえよう。労働者にとっては、若くころはあまり給料は少ないが、一定の年齢にあるとこれくらいはもらえる、結婚もできる、定年時にはそれなりの役職に上がれるといった夢ももつことができたのである。このころは、経済成長による社会全体の所得向上によって、賃金ベースの向上(いわゆるベースアップ)とともに、自分自身のスキルアップ(自己啓発・企業が受講させる研修)による年功賃金の向上が加わったので、さらに賃金の向上が見られたのである。また、会社にとっては、自分ところで研修・訓練しなければならないが、そのかわり、労働者の囲い込みにつながるし、定年までの労働者を雇うことにより、会社の将来の「設計図」が持てたのである。終身雇用と年功賃金は労働者にとっても、会社側にとってもWINーWINの関係にあったのである。日本型雇用システムは、失業率を低下、そして労使の安定的な雇用環境にも寄与した。労使双方で春闘で安定的な賃上げを維持できたのである。
【ただし、先ほど、一定の年齢になると結婚できるといいましたが、この日本型雇用慣行(終身雇用・年功賃金)が想定する労働者は、今のような社会構造ではなく、戦後まもなくの社会システムの中で育成されたものであって、妻が専業主婦である男性正社員でした。つまり、夫が外で働き妻が専業主婦として家計を守るという形です。給料の中にも配偶者手当や今も残っている所得税の配偶者控除がありました(現在も残っています)。そのことは、女性労働者にとっては、この終身雇用と言うのは、蚊帳の外であったのである。女性は結婚すると当然のように退職するとか、女性については、もっと若くして定年制度が設けられているような就業規則がまかり通っていたのである。】
実は、この日本的雇用慣行(終身雇用・年功賃金)は、民間の中で熟成されていったもので、国が「こう」せいといったものではないようです。これに主体的に働いた民間の事業者に、松下幸之助がいる。昭和4・5年の大恐慌のころ、従業員総出で在庫商品の販売を行い、一人も解雇せず会社が従業員の人生に責任をもつという精神を地に付けたという。では国の方ではどうしたかというと、そういった民間の経営方針には手を突っ込まず、計画・財政・金融面で側面的に援助したのである。池田勇人首相の「所得倍増計画」がある。これは、1960年を基準年度として、1970年までの10年間にGNPを2倍にするという計画を立てた(宣言したといっていい)、そして実際に動かしたのは、細部計画として、全国総合開発計画を立て、公共事業を拡大して、新産業都市を打ち出して集中的に開発を図ったのである。そして、その計画は6年半で達成してしまったのである。実際のところ、国・公共団体・金融機関が支援し、民間で作りあげたのが、この日本型雇用慣行システム(終身雇用・年功賃金)でもあった。
ところが、1970年代を過ぎるとうまく動かなってくる。先ほど挙げた女性の労働者の考え方が、男女平等の観点から立ち行かなくなってきたことやさらには膨れ上がった非正規社員の扱い うまくいかなくなったので年功賃金の定年退職前の給与を固定すること さらにグループ内・外への労働者の派遣等で対応せざるをえなくなります。このころから、日本経済は、持続的で高い経済成長は維持できなくなり、若い世代に支えられていた人口構造も変化して、雇用環境もIT化の実現でよりテクノロジー部門へシフトしていきます。うまく行っていた経済システムの要素はすべて失われたといっていいのです。そうこうするうちに、1990年代には失われた20年・30年と言う長期にわたり停滞し、世界でも若い人々よりも超高齢化社会の問題が浮上してきました。いまや、労働環境は大きく変化してきています。確かに終身雇用も年功賃金も日本の雇用慣行かもしれませんが、作りあげた労働環境の要素の一つとして存在しないのも事実です。
ではどうするべきか。まずは教育の内容の変更でしょう。新戦力に備えた(例えばIT化)をどんどん育成することです。そして、人生100年時代では、いつでも新しい分野に挑戦できる労働者の育成については、国の方で面倒を見るべきです。(リスキング リカレント教育) 従来の日本的雇用慣行(終身雇用や年功賃金)で企業で面倒を見るということは不可能となってきています。そして、企業間をいつでもだれでも自由に行き来できるような労働市場の開発が求められます。いまの日本の労働市場はあまりにも硬直的であるように思われます。必要な部門への技術・資本の移動は、難なく出来ても、一番の問題は労働力の移動です。例えば、離職した者が次の会社に就職した場合に、賃金が下がるのが一般的ですが、同じ職種であれば、同じ賃金レベルにでもいいはずです。ここには、会社を移動した場合には、同一のレベルで評価するシステムが存在しないことがあります。評価システムはその会社独特のものが、今に日本にはあるからです。他社にいけばその人物の評価はできないことになります。もちろん、先に述べた国のリスキング・リカレント教育も欠かせません。必要とあらば、法的にも自由に労働の移動ができるシステムを用意することも必要かもしれません。外国の例も参考にしながら、日本的慣行を見直すべき時期にすでに来ているのでしょう。
参考 101のデータで読む日本の未来 宮本弘暁著p241~ 当該データや考え方は自分なりに解釈し、これを構成しなおした。
日本を創った12人 池田勇人編 松下幸之助編
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