名参謀、補佐役の要件・条件等は?
黒田官兵衛は、名参謀であったが、名補佐役ではなかった。堺屋太一著の「組織の盛衰」によると、参謀の条件としては、単なるトップの相談役ではなく、動員計画から作戦・陰謀までの企画を行うトップであるとしている。そのためには、「創造力」がなにより重要であるとしている。創造力の裏付けには、的確な現状把握と将来予測がなければならないとし、創造力に対する3つの条件を上げる。その創造力には(1)情報の収集・分析と先見性(2)実現可能性(3)企画に対する積極性(推進力といいかえることができると思われる)が必要である。織田信長が本能寺で光秀の謀反にあったときの官兵衛の働きは、まさにこの条件が発揮された、さえたるものであろう。いち早く織田信長が暗殺されたことの情報を把握し、秀吉に進言し、いち早く戦いの相手の高松城主と和睦し、瞬く間に京都に駆け上ったのである。黒田官兵衛は、この名参謀の要件を備えた人物であった。
ところで、黒田官兵衛は、名補佐役と言えるであろうか、否である。同じく堺屋太一の「組織の盛衰」によると、補佐役の3条件として、
1、自分の功を顕示しないことへの喜びである。自分が、オレがではなく、むしろ自分の案がトップの名で発表されることへの喜びを感じるというのである。
2、トップの基本方針の枠を超えない
3、絶対に「次期トップ」ではあり得ないことである。
次期トップとみられることは、他の次期トップの皆と功を争うことになるし、さらにはトップとも功を争うことになるのであるから、絶対「次期トップ」とみられてはならないのである。官兵衛は、「秀吉のため」ということで行動し、例えば、荒木村重の謀反に対し単身説得に出かけ、地下牢に閉じ込められて、変節を促されたが決して曲げなかったのである。あの素早さと頭の回転の速い官兵衛の鈍重さといえる一面であった。まさに、1.2.の条件は満たしていたといえるのである。しかし、3.の条件を満たしていなかったのである。
次期天下を狙うものとして、トップから見られていた。織田信長が暗殺されたときに、官兵衛が「殿、運がめぐってまいりましたなあ」と秀吉にと言ったときから、こやつ俺の本心を見抜きおってと思われ、俺と一緒で天下を狙うやつだを秀吉に思わせた。事実、秀吉死後の関ヶ原の戦いのときに、関ヶ原の本陣には参加せず(息子を参加させた)、自分は九州で近隣を攻め滅ぼしていた。関ヶ原の相手方に参加する者をやっつけるという名目で家康の許可を受けていたとされるが、九州を平定して中国地方を攻め入り、日本の家康の「東」方に対抗しようとしていたといわれる。最後の天下取りの野望であったと思われる。ところが、天下分け目の戦い=関ヶ原の戦いは、官兵衛は少なくとも数日はかかると見ていたが一日で終わってしまったのである、そして家康からすぐに「もういいだろう」と九州平定にはストップがかかる。一方、息子が関ヶ原で功をあげたということで、福岡で派遣されるのに伴い、息子に家督を譲り隠居してしまう。
最後まで、彼の生涯は、決して補佐役ではなくて、名参謀であったのであるが、彼の類まれなる才能がそうさせたのであろう。(注1) それに対し、竹中半兵衛は、もって生まれた、名補佐役であり、名参謀であったと思われる。
(注1)では、なぜ天下を取れなかったのか。それは、もう一つの条件は、「運」である。時代がそういう時代ではなかったのである。彼がもう少し早く生まれていたなら、どうにかなっていたのではないか。
黒田官兵衛は、名参謀であったが、名補佐役ではなかった。堺屋太一著の「組織の盛衰」によると、参謀の条件としては、単なるトップの相談役ではなく、動員計画から作戦・陰謀までの企画を行うトップであるとしている。そのためには、「創造力」がなにより重要であるとしている。創造力の裏付けには、的確な現状把握と将来予測がなければならないとし、創造力に対する3つの条件を上げる。その創造力には(1)情報の収集・分析と先見性(2)実現可能性(3)企画に対する積極性(推進力といいかえることができると思われる)が必要である。織田信長が本能寺で光秀の謀反にあったときの官兵衛の働きは、まさにこの条件が発揮された、さえたるものであろう。いち早く織田信長が暗殺されたことの情報を把握し、秀吉に進言し、いち早く戦いの相手の高松城主と和睦し、瞬く間に京都に駆け上ったのである。黒田官兵衛は、この名参謀の要件を備えた人物であった。
ところで、黒田官兵衛は、名補佐役と言えるであろうか、否である。同じく堺屋太一の「組織の盛衰」によると、補佐役の3条件として、
1、自分の功を顕示しないことへの喜びである。自分が、オレがではなく、むしろ自分の案がトップの名で発表されることへの喜びを感じるというのである。
2、トップの基本方針の枠を超えない
3、絶対に「次期トップ」ではあり得ないことである。
次期トップとみられることは、他の次期トップの皆と功を争うことになるし、さらにはトップとも功を争うことになるのであるから、絶対「次期トップ」とみられてはならないのである。官兵衛は、「秀吉のため」ということで行動し、例えば、荒木村重の謀反に対し単身説得に出かけ、地下牢に閉じ込められて、変節を促されたが決して曲げなかったのである。あの素早さと頭の回転の速い官兵衛の鈍重さといえる一面であった。まさに、1.2.の条件は満たしていたといえるのである。しかし、3.の条件を満たしていなかったのである。
次期天下を狙うものとして、トップから見られていた。織田信長が暗殺されたときに、官兵衛が「殿、運がめぐってまいりましたなあ」と秀吉にと言ったときから、こやつ俺の本心を見抜きおってと思われ、俺と一緒で天下を狙うやつだを秀吉に思わせた。事実、秀吉死後の関ヶ原の戦いのときに、関ヶ原の本陣には参加せず(息子を参加させた)、自分は九州で近隣を攻め滅ぼしていた。関ヶ原の相手方に参加する者をやっつけるという名目で家康の許可を受けていたとされるが、九州を平定して中国地方を攻め入り、日本の家康の「東」方に対抗しようとしていたといわれる。最後の天下取りの野望であったと思われる。ところが、天下分け目の戦い=関ヶ原の戦いは、官兵衛は少なくとも数日はかかると見ていたが一日で終わってしまったのである、そして家康からすぐに「もういいだろう」と九州平定にはストップがかかる。一方、息子が関ヶ原で功をあげたということで、福岡で派遣されるのに伴い、息子に家督を譲り隠居してしまう。
最後まで、彼の生涯は、決して補佐役ではなくて、名参謀であったのであるが、彼の類まれなる才能がそうさせたのであろう。(注1) それに対し、竹中半兵衛は、もって生まれた、名補佐役であり、名参謀であったと思われる。
(注1)では、なぜ天下を取れなかったのか。それは、もう一つの条件は、「運」である。時代がそういう時代ではなかったのである。彼がもう少し早く生まれていたなら、どうにかなっていたのではないか。
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