足尾鉱毒事件の被害者の生の声はなかなか政府に届きませんでした。足尾鉱山から渡良瀬川に流れ出した鉱毒は流域の住民に甚大な被害をもたらし被害民は押出しというデモ行進を東京まで行おうとしましたが途中官憲に阻まれて被害を聞く機会が失われようとしていました。国会議員で会った田中正造は被害民の生の声を聞けと政府に要請します。何人かの被害民はようやく東京にたどり着き時の農商務大臣であった榎本武揚に会い被害の実情を訴えました。榎本武揚は被害民の訴えを聞き被害地視察と政府内に鉱毒調査委員会を立ち上げます。しかし足尾鉱山は政府内に関係者が多いことや鉱山は当時、外貨獲得に有望で国策として進めていて被害を断つための操業停止にいたらず代わりに渡良瀬川の治水事業に変えられてしまいました。その後田中正造は被害民の立場に立ち政府が動かないと知ると議員を辞職して天皇直訴におよびます。最後は自らが治水事業で廃村になる谷中村に入り政府に対峙しました。田中正造の行動は、その後の多くの公害・薬害事件の被害者救済の運動に力を与えてきました。
歴史は繰り返されると言いますが、公害事件でも薬害事件でも被害の声はなかなか政府に届かず政官民癒着の構造から政策によって捻じ曲げられてしますことがほとんどです。田中正造を想い起しながら被害者の生の声を聞いて対策を講じることが真の問題解決につながると痛感している今日です。
歴史は繰り返されると言いますが、公害事件でも薬害事件でも被害の声はなかなか政府に届かず政官民癒着の構造から政策によって捻じ曲げられてしますことがほとんどです。田中正造を想い起しながら被害者の生の声を聞いて対策を講じることが真の問題解決につながると痛感している今日です。