
野幌市街の神社の発祥は、野幌兵村の発意によるものでした。
明治19(1886)年、現在の天徳寺付近に伊勢大神宮遥拝所として小祠が建立されました。これが現在の野幌錦山神社の創始となりました。
明治25(1892)年に野幌兵村練兵場(現・野幌公民館付近)一隅に移転しました。その後、32(1899)年5月、兵村会の決定に基づき、人を派遣して伊勢大神宮より御分霊を拝載、33年には本殿、拝殿、社務所などを整え、35(1902)年2月、北海道庁長官あて「神社創立願」を提出に至ります。
しかし、この願いは届きませんでした。なぜなら、明治34(1901)年の第一次桂内閣成立以降、政府は神社整理の方向を打ち出し、原則、一村一社の方針を明らかにしつつありました。野幌には、既に北越殖民社の野幌神社明治35(1902)年1月・社号公称許可)があり、その意味では先を越されてしまったのでした。この農民の集落に公許の神社がないという事態は、誇り高い彼等にとって到底我慢できることではありませんでした。
明治35(1902)年3月、「江野幌神社創立之願再進ノ件」が、北海道庁長官あてに江別外二村戸長宮城昌章より提出されました。これには理由書が添付されていました。曰く、一村一社は金科玉条のものではなく、実地において十分調査を願いたい。もし、「江野神社」が不許可との場合は、紛擾や犯罪行為すら発生の恐れがあるので、この際、慎重に再度検討して欲しいと、なにやら凄みをきかせた物言いとなっています。
再願書は、七つの理由を挙げた。うち、注目すべきは、(1)既に「江野神社」の建物等設備は十分に整っている。目祭典など執行を制止しているが、これ以上兵村内の不満を抑えきれない。(2)公許の野幌神社へは、一里余りある。しかも、収穫後の秋祭りは、「降雨打続キ、道路泥濘甚シク、婦女子等ヲシテ里余ノ道ヲ怪テ来拝セシムル如キハ、到底成シ得ヘカラス」云々、でした。
結局、どうのように理由付けしても、「江野神社」の公許は難しく、実現したのは、当初から呼び慣されていた錦山神社(無格社)として社号公称を許されてたことでした。しかし、それは「神社創立願」から40年を経た昭和17(1942)年7月まで待たなければなりませんでした。
当時の錦山神社の位置は、一番通り(現国道12号)に面した練兵場の東側一画、三反歩に拝殿などを設けました。主神・天照皇大神、左座・豊受大神、右座・加藤清正公を奉遷しました。
大正9(1920)年に至り、同地を野幌林業試験場の職員住宅の用地に譲渡しました。そのため、神社は昭和2(1927)年10月に野幌兵村の中心地、2番通りに面した中隊本部跡地に移転しました。
註:江別市役所「新江別市史」260-261頁参照。
写真:錦山天満宮
北海道江別市野幌代々木町38-1
錦山天満宮については、下記をご覧下さい。
http://www.nishikiyama.or.jp/top.html
明治19(1886)年、現在の天徳寺付近に伊勢大神宮遥拝所として小祠が建立されました。これが現在の野幌錦山神社の創始となりました。
明治25(1892)年に野幌兵村練兵場(現・野幌公民館付近)一隅に移転しました。その後、32(1899)年5月、兵村会の決定に基づき、人を派遣して伊勢大神宮より御分霊を拝載、33年には本殿、拝殿、社務所などを整え、35(1902)年2月、北海道庁長官あて「神社創立願」を提出に至ります。
しかし、この願いは届きませんでした。なぜなら、明治34(1901)年の第一次桂内閣成立以降、政府は神社整理の方向を打ち出し、原則、一村一社の方針を明らかにしつつありました。野幌には、既に北越殖民社の野幌神社明治35(1902)年1月・社号公称許可)があり、その意味では先を越されてしまったのでした。この農民の集落に公許の神社がないという事態は、誇り高い彼等にとって到底我慢できることではありませんでした。
明治35(1902)年3月、「江野幌神社創立之願再進ノ件」が、北海道庁長官あてに江別外二村戸長宮城昌章より提出されました。これには理由書が添付されていました。曰く、一村一社は金科玉条のものではなく、実地において十分調査を願いたい。もし、「江野神社」が不許可との場合は、紛擾や犯罪行為すら発生の恐れがあるので、この際、慎重に再度検討して欲しいと、なにやら凄みをきかせた物言いとなっています。
再願書は、七つの理由を挙げた。うち、注目すべきは、(1)既に「江野神社」の建物等設備は十分に整っている。目祭典など執行を制止しているが、これ以上兵村内の不満を抑えきれない。(2)公許の野幌神社へは、一里余りある。しかも、収穫後の秋祭りは、「降雨打続キ、道路泥濘甚シク、婦女子等ヲシテ里余ノ道ヲ怪テ来拝セシムル如キハ、到底成シ得ヘカラス」云々、でした。
結局、どうのように理由付けしても、「江野神社」の公許は難しく、実現したのは、当初から呼び慣されていた錦山神社(無格社)として社号公称を許されてたことでした。しかし、それは「神社創立願」から40年を経た昭和17(1942)年7月まで待たなければなりませんでした。
当時の錦山神社の位置は、一番通り(現国道12号)に面した練兵場の東側一画、三反歩に拝殿などを設けました。主神・天照皇大神、左座・豊受大神、右座・加藤清正公を奉遷しました。
大正9(1920)年に至り、同地を野幌林業試験場の職員住宅の用地に譲渡しました。そのため、神社は昭和2(1927)年10月に野幌兵村の中心地、2番通りに面した中隊本部跡地に移転しました。
註:江別市役所「新江別市史」260-261頁参照。
写真:錦山天満宮
北海道江別市野幌代々木町38-1
錦山天満宮については、下記をご覧下さい。
http://www.nishikiyama.or.jp/top.html
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