ここに、興味深い資料があります。
明治44年(1911年)2月22日の野幌兵村部会の会議録です。
この会議の冒頭、江別村長でもある部会長名越源五郎は小作問題2月、心中の憂いを洩らしました。
「1昨年度(注・明治42年)ヨリ俄然賃地料ヲ直上セシ為メ 当時賃借人中直下若クハ延納等ノ儀ニ付種々ノ要求アリタリ 併シ之レ素ヨリ至当ノ賃貸料ナリシヲ以テ只一時ノ申出ニ止マリシモ 之レガ為メ当時聊(いさき)カ事務上ニ障害を蒙リシ感ナシトセス」(野幌兵村部会会議決録)。
名越の言は抑制されたものになっていますが、相当以上に小作人の不満が高じ、一歩間違えれば事態は争議に発展しかねない、そこまで緊迫したのでしょう。
それは、また、地主側の危機感のあらわれでもありました。
名越は、地主側の小作人に対する姿勢に関し、注文をつけました。
「地主ト小作人トハ親子又ハ主従ノ如キ感想ヲ有セサレバ 到底完全ナル結果ヲ納ムル克ハス故ニ小作人ヲ安堵セシメ又可及的便宜ヲ与ヘ 之ヲ導クニ於テハ 自然永住ノ念厚ク従テ耕作ニ熱心ノ結果ハ即チ相互ノ利益ニシテ」(同前)云々です。
表現は穏やかではありますが、この説諭の底流には、名越の時代への認識があったと思われます。
明治も後期、この頃から道内各地での小作争議が目立ち始めました。
明治39年(1906年)、上川・比布村の比布殖産合名会社農場における小作料引き上げなどを契機とした激しい抗争がありました。
明治41年には、余市郡仁木の毛利農場の小作人が土地解放要求を前面に掲げて闘いました。
この争議は小作人側が余市の多くの町民の応援を受けて勝利するなど、道内的に農民運動の高まりがひたひたと足元まで押し寄せてくる、そんな思いが名越の言の背景にはあったのではないでしょうか。
さて、大正2年(1913年)に実施されました産業調査を基に、江別の小作状況を小走りに眺めていきましょう。
小作は、通常、開墾小作と普通小作に分けられます。
大正初期の江別は、農耕地ニ適スル大部分之個所ハ 皆夫々成墾シアルヲ以テ 新ニ小作人募集ノ方法ヲ設クルノ要ナク」(同前)云々と、既に開墾小作の時代が終わったことを告げています。
ただし、泥炭地ではありますが、土地改良可能な箇所に、若干の開墾小作の姿を認めてはいます。
普通小作の借入農地面積は、最高で10町、最低で五反、平均は4町歩です。
契約期間は、通常で5年以内ですが、全体の3割程度が永久小作、長期小作権者となっています。
彼らへの土地売買価格は、一反歩につき1円(最高2円、最低50銭)となっています。
この産業調査の中の農業金融調査・対人信用借金状況によれば、全農家戸数1千234戸中、555戸が負債を有し、その約49%(273戸)が小作人です。
全体の負債総額は1万415円です。そのうち、借金のための借金が約52%、生活費や病気、葬儀のためが約25%、大半が追い詰められた末の借金です。
これに対し、土地購入や造田、あるいは農具や家畜購入は合わせて約23%でした。
こうした積極的な経営展開の借金は、地主に多く、前者の切羽詰まった末の借金は小作人に多いことは、いまさら付言するまでもありません。
註 :江別市総務部「新江別市史」340-342頁.
写真:松下新太郎家(八幡)のエンジン脱穀機(昭和12年)
同上書337頁掲載写真5ー10を複写・掲載いたしております。
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