江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

明治時代の衣服

2008年12月20日 | 歴史・文化
 一般庶民の服装は、平服・労働服共に和服が主でした。
 多くの服は、上方地方から移入される小玉織(甲玉とも書き、コータマ共呼ぶ)という茶色の格子縞の生地で作られていました。その上に男女共黒襟の半天を着るのが通常でした。

 一方、労働服に用いられていたのは、モジリ(ムジリともいう。一名ハンチャともいう)服でした。この服は、紺木綿盲地または白地に紺の細縞である生地で、袖を三角形、短裾に仕立て、肘と脛を現して、自由に行動できるようにしていました。労働者は勿論、上・中流の者も、労働の際にはこれを用いていました。
 また、農家の男子の場合は、股引に腹掛・脚半などの軽装などが用いられ、女子もモンペなどが次第に利用されるようになりました。

 外套は、サクリ(サシツヅリともいう)を用いていました。これは、奥羽地方から多く移入されたものでしたが、自家でも作っていました。表裏二枚に合わせて紺糸で刺し綴ったものでした。色調や布質はそれぞれ変わっており、外套または半天の代わりに用いていました。松前・江差地方では、婦人は衣類の上に帯を締め、その上にサクリを着て、真田盲地の前垂れ(前掛け)を締めるのが普通でした。ただし、サクリを着ない時には、半天を用いました。

 子守着には、ネンネコがあり、当時代の末期頃には、外国製のケット(角巻の前身)が一部で流行されるようになりました。
上流家庭では、平生は小玉織を着て外出する時は銘仙を着ていました。羽織と和服の同地のものを揃えて用いていました。婦人は、薩摩飛白の本場物の単物と、小納戸銘仙の羽織を着ることを誇りとしていました。
 しかし、当代の末頃から羽織は、普段着として流行していました。
紋服は、羽二重を上とし、木綿のものもあり、殆どの家で持っていました。官吏などは、武士の礼服である五つ紋を使い、庶民は三つ紋でした。また、これに合わせる袴は、仙台平を上とし、次は嘉平治で、小倉地を下としました。小児は、角袖の和服が普通で、小玉織・盲地が主に用いられており、絹物は珍しかったようです。祝日などのは、唐桟織・小倉地袴を着用していました。

 また、アイヌによって制作された織物は、アッシが広く道内各地で労働者として大いに利用されていました。それはアッシがおひょう・あかだも・しなの木の皮の繊維から作られていたため、丈夫でしかも雨水が容易に浸透しない特色をもっていました。また、この織物は、容易く入手可能であることが利点でした。
 一方中流の人たちには蝦夷つづれも用いられていました。これは、紺木綿にアイヌ模様を背・裾などに縫い込んたもので、アイヌの他一般家庭でも作製していました。上流の婦人の中には、高価な蝦夷錦をもって作った帯を用いるものもありました。

 足袋は、黒または紺が主流でした。普段履物は、多く雑木の二枚歯下駄で、労働の際には、わらじ・つまごなどの藁沓が用いられました。
 雨具には、回し合羽(刺し織)や、和紙に渋を塗った紙合羽などがありました。

 衣類の仕立てについて、上等品の仕立ては仕立て屋が行い、これを依頼するというという形式を獲っていたようです。多くは、婦女子が自分で仕立てていました。婦女子は、必ず和裁を倣うことが常識となっていましたので、町には、多くの御針の支障がおり、三人、五人位が集まり教えを受けていました。

註:北海道「北海道史」987-989頁.
写真:「移住者の服装」
   開拓記念館にて撮影許可を得て、掲載いたしております。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人力軌道 | トップ | 飛鳥山神社から江別神社に改称 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事