江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

赤いサイロ

2008年08月28日 | 歴史・文化
 酪農地帯のシンボルであり、冬期飼料の貯蔵に欠かせないサイロは、江別の風物です。

 江別駅を過ぎると左方眼下に見える石狩川の雄姿と共に、右に拡がる太平原に点々と見える赤いサイロは、北海道の風物であり、江別太そのものの姿といえます。
 江別太のサイロとしては、江南社が進出した翌年広い幌向原野の真中に、野幌の布川レンガによる仮称「100トンサイロ」は泥炭湿地に何十本もの電柱が打ち込まれた基礎工事によるもので、いまもって偉容を誇っています。
その後、越後村には基礎レンガ上部木造サイロ(後に総レンガとなる)、昭和3年には高間が道博展示の北欧の空洞レンガ(いまのセラミック)によって築造、翌4年には中橋も地上30尺の高いサイロなど続々と建てられました。

 このサイロができるまでは、秋に刈り取られたデントコーンは、畑や屋敷内に縦積みされ、冬期間雪を掘りわり馬ソリで搬出、十日分位ずつ手押しカッターで切り小屋貯めされましたが、吹雪などの時期は大変な苦労でした。またサイロはできても、吹上カッターが普及するまでのサイロ切込み作業は、ハシゴをかけ「み」や「タボ(バナナかご様の容器)」で、手渡しで貯蔵していました。

 このように酪農が盛んになると、主要道路ごとに各戸交替で共同集荷が行われ、サイロの切込み共同作業など、農家の連帯性を強めるもとともなりました。

 当時の風物史としては、早期各生産者番号がふされた牛乳缶集荷の馬車、道路わきの草を喰む牛の群れ(道路放牧)、そして秋も深まる頃のサイロの切込みを伝える発動機とカラカラと威勢よく吹き上げられる切込みの音が、早朝から時には深更まで周辺の築堤にこだまし、活気を呈していました。

註:江別太開基百年記念事業協賛会「江別太郷土史」92-93頁参照。
写真:野幌湯川公園界隈のサイロ

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