江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

戸長以前

2020年03月14日 | 歴史・文化

 開拓使の本府が置かれた札幌周辺では、計画的に集落づくりが進められました。

 明治4年(1871年)にツイシカリと呼ばれていた一帯が対雁村となりました。
11年には札幌郡字江別太に江別村新設の件が、14年7月には石狩郡に篠津村を置く旨の布告が出されました。
 これらに伴い、各村には戸籍や土地の権利などの業務を行う担当者が任命されました。
戸長、副戸長、伍長などと職名は変わりましたが、要は開拓使が、村々を掌握するための末端組織を整備しようとしていたのです。

 明治政府は、近代国家への脱皮を目指し、富国強兵を政策の軸に据えました。
その為、人民の掌握を何よりも必要とし、戸籍の整備を急ぎました。
戸籍は、教育・兵事・徴税など国家の土台作りに欠かせないからです。
府県にあっては、同時に、幕藩時代の村からの脱却を目指しました。
 ただ、北海道では大いに事情を異にしていました。
函館やその付近、札幌小樽や根室など一部を除いて、人煙も稀な地域がほとんどだったからです。
例えば、明治6年の北海道の総人口は約17万人、石狩国のうち夕張・樺戸・雨龍・空知・上川の各部にあっては、いまだ町村未置(『開拓使事業報告』第1編・地理)でした。
つまり、これらの地域では、郡はあっても町村がなく、まとまった集落もありませんでした。

 開拓使設置当初の北海道内の地域差は歴然としていました。
それでも、府県同様に戸籍のための大小区制、戸長・総代など地域の役職者の任免が繰り返されました。
 明治12年7月、「郡長以下職制別紙ノ通相定」(達第14号)として、郡・戸長役場の制度ができあが利ました。
 戸長についていえば、戸長職務取扱所ハ戸長役場ト称スヘシ」と、戸長役場の設置が布告されました。
これを受けて、翌年2月、対雁・江別村2か村戸長に千徳兵衛が任命されました。


註 :江別市総務部「新江別市史」349頁.
写真: 元禄御国絵図 <北海道大学付属図書館所蔵>」
   同上書67頁図2-4元禄御国絵図<北海道大学付属図書館所蔵>」を複写・掲載いたしております。

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