コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

リボルバー

2008-10-08 18:27:45 | レンタルDVD映画
http://www.astaire.co.jp/revolver/

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(1998)」や「スナッチ(2000)」を出して、こんなシャープでフェイクでスピーディでスタイリッシュな娯楽映画をつくる監督がイギリスにいたのかとびっくりさせたガイ・リッチーの新作。それはひどかった「シューテムアップ」http://www.shootemup.jp/news.htmlに続けて観たのだが、もしこの順序が逆だったら、いかにご贔屓のクライブ・オーウェンさんであろうと、途中で3倍速に早送りしていたのは間違いない。

ガイ・リッチー作品の特徴である、今回も手の込んだコンゲームの仕掛け合いに個性豊かな面構えの俳優陣が見どころ。レイ・リオッタの上田吉二郎ばりのオーバーアクション演技が、例によって寡黙演技のジェイスン・ステイサムと好対照にからみ、この先もコンビを組ましたいくらい。レイ・リオッタには心外かもしれないが、出演作多数といえどもこれが代表作ではないか。また、イタリアマフィアの兵隊役でおなじみの太っちょ・ヴィンセント・パストーレ。川谷拓三や室田日出男が実は・・・、といった儲け役でよかったね、と肩を叩きたくなる。

ガイ・リッチー組の映画はつくっている現場も楽しそうだ。「スナッチ」のブラッド・ピッドなんて、「ファイト・クラブ」のパロディをそれは嬉しそうに演っていた。この作品でも禿頭凄腕変人殺し屋のソーターは「レオン(1994)」のパロール。映画館で観たかったなあ。
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喪失の国 日本

2008-10-06 00:06:25 | ブックオフ本
『喪失の国 日本-インド・エリートビジネスマンの「日本滞在記」』(M・K・シャルマ 山田和 訳 文春文庫 2004年刊)

1992年から1年8か月間の滞在記である。当たり前のようでいて、当たり前ではないのは、日本と比較として、インドについて書かれている。それも現代インドについて。91年に近代化に舵を切ったインド政府から派遣され、異文化理解のために訪日したためだが、インドの37歳のインテリが、カースト制や経済近代化について語るのをはじめて読んだ。

そうしたアジア人の眼にくわえ、イギリスの植民地だった歴史から、イギリスから学んだ「紳士(ジェントルマン)」の眼をもって日本を眺めてもいる。さらに、著者の受け入れ先となったシンクタンクの社員・佐藤氏による日本文化や会社についてのレクチャーが挿入されるため、日本人インテリとインド人インテリによる90年代の日本社会論にもなっている。

ただし、著者を日本に送り出したインドの上司に比べると、ほぼ同じ立場と年配らしい佐藤氏の日本論はかなり見劣りがする。著者の上司は、「日本はアメリカのディズニーランドになるかもしれないね。同時に日本はアメリカにおける経済的ヴェトナムになるかもしれないよ」といったそうだ。この上司・ヴィクラマディティヤ氏に著者・シャルマが心服しているのも肯ける。

「アメリカは軍事力を、ヴェトナムを軍事上の実験場にして確立し、いっぽう日本を後期資本主義の実験場にして、盤石(ナンバーワン)の地位を確立しようとしている」

不安顔の著者を茶目っ気たっぷりに笑いながら、さらにこう続けたそうだ。

「最も未熟な自己実現の方法は殺し合いだよ。賢い者は血を流さず政治、つまり交渉でそれを手に入れる。さらに賢い者は経済だけで手に入れる。そして最も賢い者は日々の労働の中にそれを見出して他に求めない。これは本来逆なってはならないものだ。
 ところが愚かで貪欲な人間は、平和を求めるがゆえに経済発展を望み、経済発展を望むがゆえに政治力を求め、政治力を求めるがゆえに軍事力を高める。その結果、幸福を得るために集められたはずの金は、再生産しない兵器の購入に消えてしまう。
 これはじつは政治家たちにとって旨味のある話でもあるのだ。何しろ、兵器というものは売り手と買い手が示し合わせて値段をつければいいからね。集めた金の再分配のシステムとしては、これほどつごうのいいものはない。
 いまの世界がこの無意味な「大口消費」を最終段階とする構造をもっている限り、幸福のための資金はいつまでも無限の闇に吸い取られていく。近視眼的に見れば平和を維持するために防衛戦の能力は必須だ。
 ところが不幸なことに、現代では核による先制攻撃能力の確保以外にそれはありえない。だがシャルマジー(シャルマさんという呼びかけ)、遠目に見れば、平和の手段が戦争であることは大矛盾だよ。そうだろう」

92年の日本に、いやそれ以前にも今日でも、こんなことを部下に語る上司はめったにいないだろう。その上司に見込まれたシャルマジーだから、インドとはまったく異なる日本の食習慣やビジネス観について、優れた洞察力を随所に示すだけでなく、三島由紀夫と『金閣寺』批判や極東軍事裁判におけるパル判事の論点の誤読など、日本の政治思想へ鋭い切り込みも見せる。こんな部下も日本にはめったにいない。

インドの近代化のために日本の経験を学ぼうと来日したシャルマジーにとって、今日の日本は明日のインドと考えるから、すべては他人事ではない。さまざまな日本についての見解と同量のインドへの見解が述べられ、一種のルポルタージュとして読める。また、シャルマジーは日本に来てはじめて女性に恋をし、デートをする。その瑞々しい心の動きは青春記でもある。

しかし、この本の白眉は、シャルマジーの帰国後にある。シャルマジーは現在どうしているか。政府や企業の幹部になって対日交渉に辣腕を振るっているのか。いないのである。そこがいい。

(敬称略していません)

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ヒトラーの贋札

2008-10-01 19:59:52 | レンタルDVD映画
http://www.nise-satsu.com/

ナチスがユダヤ人技術者や専門家の手を借りて、ポンドやドル紙幣の贋札プロジェクトをザクセンハウゼン強制収容所につくった実話に基づく。この「ベルンハルト作戦」の中心となった国際的な偽札犯サリーや共産党員であり印刷技術者だったプルガーなど、ユダヤ人「作戦協力者」側の視点で描かれているが、娯楽映画として文句なしに面白い。

どこがおもしろいか。妻を強制収容所で殺された筋金入りの共産党員プルガーは、ナチスの戦争遂行を阻むため、贋札づくりを巧妙にサボタージュして、完成を遅らせる。おかげで、自らだけでなく、仲間たちの命も危険にさらす。一方、日々を生き残るだけを信条とする偽札犯サリーは、プルガーのサボタージュにやきもきしながら、結局は完璧な贋札完成にこぎつける。生存と反ナチの葛藤が、まだるっこしい内面描写に仮託されず、具体的な人物(実在の人物でもある)に象徴されてわかりやすいのだ。

唯々諾々と従っても、サボタージュしても、秘密を知るユダヤ人たちはいずれは殺される運命にあるが、プルガーはユダヤ人全体のために死のうとし、サリーは眼前の仲間たちのために生きようとし、贋札プロジェクトの遂行と妨害に、それぞれがギリギリの線まで食らいついていく。使命と仕事がぶつかり合い、互いに一歩も退かない。生殺与奪を握るナチスさえ、二人には後景に退いている。

プルガーはナチスに抵抗した英雄と讃えられ、後に本を書き、こうして映画化もされ、ユダヤ人がただ虐殺されただけでなく勇敢に戦いもした、とサリーを含めて仲間たちが生きた証明を果たした。サリーは? プロフェッショナルとして、贋札づくりに全力を尽くしただけだ。その毎日のなかで、弱者をいたわり、密告を止め、仲間を守る。自らのルールと倫理のみに従うサリーにとっては、戦争悪でさえ後景に退いている。

勧善懲悪という娯楽映画の定石を守りながら、極限状態の中でさえ人間は善悪に葛藤するだけでなく、さらに善悪を越えた人間のあり方を示して痛快なのだ。いかなる審級もないときでさえ、人は自らの内に正しき道を見出す。サリーだけのことではない。

収容所のひとつ壁の向こうでは、毎日のようにユダヤ人が殺されていく。その銃声や悲鳴を聴きながら、贋札づくりに励むユダヤ人たち。とはいえ、打ちひしがれているだけではない。休憩時間や昼休みには、ダンスや笑い話にも興じる。たとえば、「アウシュビッツに神がいないのはなぜか?」「選別されてしまうからさ」、全員爆笑。

ドイツ映画である。日本でこんな戦争娯楽映画ができるだろうか?





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追悼 ポール・ニューマン

2008-10-01 11:29:06 | レンタルDVD映画
そうですか。Mさんの19歳の名画は、「スティング」でしたか。
http://9101.teacup.com/chijin/bbs

俺は「ひとりぼっちの青春」でした。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/archive?b=30

19歳というのは、ものぐるしい季節でしたね。子どもではないけれど、大人ではない。大学に入ってはみたけれど、何かが始まったという手応えはなく、方向も定かではない。ただ、うろうろして、とりあえず映画館の薄暗がりに溶け込もうとしたりする。

ポール・ニューマンはアイリッシュの役柄を演じることが多かった記憶がありますが、ユダヤ系らしいです。アメリカの映画スターにしては、背が高くなく、とりたててハンサムでもない。ただ、表情がとても豊かでした。若い頃の「暴力脱獄」や「ハスラー」では、上唇が少しめくれ気味で、そこが労働者階級の若者の率直な不満や反発心をあらわしていて、よかったですね。

レッドフォードとコンビを組んだ「スティング」や「明日に向かって撃て」では、中年にさしかかった兄貴分といった役どころでしたが、いたずらっぽく動く眼と邪気のない笑顔が魅力的なのは相変わらずで、映画のなかでそのまま歳をとってきた風でした。いろいろな役柄をやるんだけれど、ポール・ニューマンとして観客の記憶に残る。それが映画スターなんですね。そのなかで、異色だったのは、「ロード・トゥ・パーテーション」の悪役くらいですか。この映画は、トム・ハンクスが「子連れ狼」の拝一刀、ポール・ニューマンが柳生石舟斎になるものです。

「スティング」(1973年)は、レトロな道具立てに凝った先祖帰りの映画でした。いわゆるアメリカ社会の闇を抉った社会派映画が流行した70年代には異色の、アメリカを問い直す問題意識や反体制思想とは無縁の娯楽映画をめざしたものでした。騙し騙されのコンゲームを通して、これは映画なんだ、作り物なんだ、という自覚を観客にうながす、いわゆる社会派映画への批評的な映画でもあったと記憶しています。

ならば、悪役ロネガンを演じるのはもっと大物のハリウッドの老俳優、たとえばエドワード・G・ロビンソンあたりをもってくるのが常道であり、またレッドフォードとニューマンというビッグネームの敵役に、ほとんど無名のロバート・ショウは釣り合いません。野卑で強欲なだけのロネガンという造型も、1935年のシカゴを舞台にしたファンタジーなコンゲーム映画としては、リアルすぎてユーモアに欠けている気がします。

大プロデューサー・ザナックの製作であり、アカデミー賞を受けたように、たぶん、この作品は社会派映画をつくる独立系プロダクションに対するハリウッドからの反撃作品ではなかったかと思います。しかし、ロバート・ショウがロネガンを演じたように、往年のハリウッドスター映画そのものはつくれなかった。誰の作為や意図でもなく、そうなってしまった。時代の空気というものかもしれません。ただし、ロバート・ショウのロネガンが現代的(1970年代)であることで、この映画は深みを得ました。失敗したはずなのに成功する。こうした結果オーライがまま起きるので、映画はおもしろいのでしょう。

(敬称略)



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