コタツ評論

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ヒトラーの贋札

2008-10-01 19:59:52 | レンタルDVD映画
http://www.nise-satsu.com/

ナチスがユダヤ人技術者や専門家の手を借りて、ポンドやドル紙幣の贋札プロジェクトをザクセンハウゼン強制収容所につくった実話に基づく。この「ベルンハルト作戦」の中心となった国際的な偽札犯サリーや共産党員であり印刷技術者だったプルガーなど、ユダヤ人「作戦協力者」側の視点で描かれているが、娯楽映画として文句なしに面白い。

どこがおもしろいか。妻を強制収容所で殺された筋金入りの共産党員プルガーは、ナチスの戦争遂行を阻むため、贋札づくりを巧妙にサボタージュして、完成を遅らせる。おかげで、自らだけでなく、仲間たちの命も危険にさらす。一方、日々を生き残るだけを信条とする偽札犯サリーは、プルガーのサボタージュにやきもきしながら、結局は完璧な贋札完成にこぎつける。生存と反ナチの葛藤が、まだるっこしい内面描写に仮託されず、具体的な人物(実在の人物でもある)に象徴されてわかりやすいのだ。

唯々諾々と従っても、サボタージュしても、秘密を知るユダヤ人たちはいずれは殺される運命にあるが、プルガーはユダヤ人全体のために死のうとし、サリーは眼前の仲間たちのために生きようとし、贋札プロジェクトの遂行と妨害に、それぞれがギリギリの線まで食らいついていく。使命と仕事がぶつかり合い、互いに一歩も退かない。生殺与奪を握るナチスさえ、二人には後景に退いている。

プルガーはナチスに抵抗した英雄と讃えられ、後に本を書き、こうして映画化もされ、ユダヤ人がただ虐殺されただけでなく勇敢に戦いもした、とサリーを含めて仲間たちが生きた証明を果たした。サリーは? プロフェッショナルとして、贋札づくりに全力を尽くしただけだ。その毎日のなかで、弱者をいたわり、密告を止め、仲間を守る。自らのルールと倫理のみに従うサリーにとっては、戦争悪でさえ後景に退いている。

勧善懲悪という娯楽映画の定石を守りながら、極限状態の中でさえ人間は善悪に葛藤するだけでなく、さらに善悪を越えた人間のあり方を示して痛快なのだ。いかなる審級もないときでさえ、人は自らの内に正しき道を見出す。サリーだけのことではない。

収容所のひとつ壁の向こうでは、毎日のようにユダヤ人が殺されていく。その銃声や悲鳴を聴きながら、贋札づくりに励むユダヤ人たち。とはいえ、打ちひしがれているだけではない。休憩時間や昼休みには、ダンスや笑い話にも興じる。たとえば、「アウシュビッツに神がいないのはなぜか?」「選別されてしまうからさ」、全員爆笑。

ドイツ映画である。日本でこんな戦争娯楽映画ができるだろうか?






追悼 ポール・ニューマン

2008-10-01 11:29:06 | レンタルDVD映画
そうですか。Mさんの19歳の名画は、「スティング」でしたか。
http://9101.teacup.com/chijin/bbs

俺は「ひとりぼっちの青春」でした。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/archive?b=30

19歳というのは、ものぐるしい季節でしたね。子どもではないけれど、大人ではない。大学に入ってはみたけれど、何かが始まったという手応えはなく、方向も定かではない。ただ、うろうろして、とりあえず映画館の薄暗がりに溶け込もうとしたりする。

ポール・ニューマンはアイリッシュの役柄を演じることが多かった記憶がありますが、ユダヤ系らしいです。アメリカの映画スターにしては、背が高くなく、とりたててハンサムでもない。ただ、表情がとても豊かでした。若い頃の「暴力脱獄」や「ハスラー」では、上唇が少しめくれ気味で、そこが労働者階級の若者の率直な不満や反発心をあらわしていて、よかったですね。

レッドフォードとコンビを組んだ「スティング」や「明日に向かって撃て」では、中年にさしかかった兄貴分といった役どころでしたが、いたずらっぽく動く眼と邪気のない笑顔が魅力的なのは相変わらずで、映画のなかでそのまま歳をとってきた風でした。いろいろな役柄をやるんだけれど、ポール・ニューマンとして観客の記憶に残る。それが映画スターなんですね。そのなかで、異色だったのは、「ロード・トゥ・パーテーション」の悪役くらいですか。この映画は、トム・ハンクスが「子連れ狼」の拝一刀、ポール・ニューマンが柳生石舟斎になるものです。

「スティング」(1973年)は、レトロな道具立てに凝った先祖帰りの映画でした。いわゆるアメリカ社会の闇を抉った社会派映画が流行した70年代には異色の、アメリカを問い直す問題意識や反体制思想とは無縁の娯楽映画をめざしたものでした。騙し騙されのコンゲームを通して、これは映画なんだ、作り物なんだ、という自覚を観客にうながす、いわゆる社会派映画への批評的な映画でもあったと記憶しています。

ならば、悪役ロネガンを演じるのはもっと大物のハリウッドの老俳優、たとえばエドワード・G・ロビンソンあたりをもってくるのが常道であり、またレッドフォードとニューマンというビッグネームの敵役に、ほとんど無名のロバート・ショウは釣り合いません。野卑で強欲なだけのロネガンという造型も、1935年のシカゴを舞台にしたファンタジーなコンゲーム映画としては、リアルすぎてユーモアに欠けている気がします。

大プロデューサー・ザナックの製作であり、アカデミー賞を受けたように、たぶん、この作品は社会派映画をつくる独立系プロダクションに対するハリウッドからの反撃作品ではなかったかと思います。しかし、ロバート・ショウがロネガンを演じたように、往年のハリウッドスター映画そのものはつくれなかった。誰の作為や意図でもなく、そうなってしまった。時代の空気というものかもしれません。ただし、ロバート・ショウのロネガンが現代的(1970年代)であることで、この映画は深みを得ました。失敗したはずなのに成功する。こうした結果オーライがまま起きるので、映画はおもしろいのでしょう。

(敬称略)