コタツ評論

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しゃべれども しゃべれども

2007-11-19 21:23:44 | レンタルDVD映画
『ダイハード4』とどちらを観ようかと迷った。この映画を観て、日本映画は案外おもしろい位置にいるのではないかと思った。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD10582/index.html

美人だが、つっけんどんな話し方しかできず、男に振られた女。大阪弁のしゃべりのせいで、クラスに溶けこめない転校小学生。あまりの口下手で野球解説をクビになった元プロ野球選手。ふとした縁でまだ二つ目の今昔亭三つ葉の話し方教室に通うことになり、「まんじゅう怖い」を習いはじめるが、という話。

衝撃的な事件は起こらず、思い巡らすような謎は示されず、火花散るような激情もない。ローカルな日本の東京ローカルの下町で、コミニュケーション下手な男女が、落語というこれまたローカルな話芸を入り口にして、戸惑いつつ心を開き互いを受け入れていく、そんな物語だ。

淡々とした日常に起きる小さな出来事やちょっとした会話に、気持ちが揺れ心が動き、次の小さな出来事やちょっとした会話に繋がっていく。こんな風に、こじんまりと日常を描いて心地よい映画は、もしかすると、日本でしか作れないのかもしれないと、ふと思った。

アメリカ映画のように世界マーケットを背負わず、ヨーロッパ映画のようにアメリカ映画に拮抗しようと肩肘張らず、韓国や中国映画ほどソフトパワーの輸出という国策を担ってもいない。もちろん、インドや東南アジア諸国のような娯楽の王様の地位はとっくに失い、かといって何か啓蒙や芸術を目指すというわけでもない。

日本人観客向けというローカルなマーケットで、興行収入から製作費と宣伝費が回収できて、ビデオDVDとTV放映権料で利益が上がればいい、という程度の商業主義で作られた映画を観ることができるのは、稀な幸運かもしれないと思ったのだ。

多様な嗜好を持つ中間層が、「適正規模」の映画マーケットを形成しているとすれば、それは日本以外にないのではないか。

ただし、市井の日常を淡々と描くといっても、痛切な民族誌的郷愁に裏づけられていた、かつての小津や成瀬作品とは似て非なるものだ。『東京物語』はすでに喪われてしまった東京の物語だった。戦後はもちろん、彼らの戦前に封切られた作品でさえ、先の敗戦の記憶をそこに重ね合わさずにはいられないものだ。

まだ起きていない出来事を感じ取ることを予感というが、ちょうど、漱石の『坊ちゃん』が、痛快無比の青春小説ではまったくなく、「坊ちゃん」や「山嵐」、「うらなり」が時代に負けて四散していく、まるで戦争に突入していく日本の暗い未来を暗示したかのような結末と同様に、小津や成瀬の映画には滅びの色と匂いがある。

この『しゃべれども しゃべれども』は、そうした民族誌的な記憶の束縛からは自由である。もしかしたら、それは何か新しい、少なくともある特異な立ち位置ではないかと思ったのだ。とりたてて語らず、さりげない仕草で、しかし人々のかけがえのない人生が描かれている映画が、日本から次々と生まれてくるなら、それは喜ばしいことだろう。

三つ葉を演ずるTOKIOの国分太一が爽やかな好演。「火焔太鼓」の一席は見事といっていいのではないか。悪評紛々たるジャニーズ事務所だが、若い才能を押し出す力はやはり図抜けている。ヒーローやハンサム、ヤクザやキチガイではなく、平凡な男を好ましく演じられるジェームス・スチュアートや小林桂樹のような俳優は、いつでも貴重だ。

また、伊東四朗扮する師匠・今昔亭小三文の「火焔太鼓」は、さすがにそれ以上。伝法な八千草薫の「まんじゅう怖い」を聴けるのも楽しい。一人芝居として、科白のように落語を語るのは、いかに上手くとも落語ではないという落語ファンの声が聞こえそうだが、なまじの落語家の顔色なからしめる説得力と楽しさがあったのは間違いない。

傑作でも名作でも秀作でもなく、ましてや問題作などではなく、話題作ともいえないが、月見草(@太宰治)のような佳作を日本映画は作り続ければいい。

うん、やはり最後の抱擁シーンは不要だった。手を繋ぐくらいでよかったと思うな。

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