コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

バベル

2007-11-05 02:00:11 | レンタルDVD映画
モロッコの砂漠を走る観光バスのなかで、夫・ブラッド・ピットと話す妻役のケイト・ブランシェットが出てきただけで、うつらうつらしてしまった。出てくるだけであくびが出るほど退屈な女優としては、ほかにエマ・トンプソンがいる。二人とものっぺりした顔だが、名女優と誉れ高いのは知っているし、そう認めてもいるので、ただ俺とは相性が悪いだけなのだろう。

イニャリトゥという監督とも、相性が悪いようだ。『バベル』は一発の銃弾がモロッコ、メキシコ、東京、アメリカで引き起こす事件と背景が交錯する人間模様だが、モロッコの場面をメキシコとずっと取り違えて観ていた。メキシコにもイスラム教徒がいるのかと自らの無知に驚いてしまった。相性が悪いと熱心にスクリーン(実際はTV画面だが)を見入ることもできないのである。

イニャリトゥの前作『21g』も退屈で堪らなかった。夫と子どもを交通事故で失った女(ナオミ・ワッツ)、女の家族を轢き殺した罪悪感で破滅していく男(ベニチオ・デル・トロ)、女の夫の心臓移植された男(ショーン・ペン)、それぞれの苦悩がうんざりするほど延々と語られる物語だった。

二作品とも、深い心の傷を負ってその痛みに堪えながら懸命に生きる人間が描かれ、しかし他者とふれあうことで絶望には陥らず癒されていくという、内面的なロードムービーのように思えた。深くて重いテーマに奇をてらわないリアリズム描写を重ね、登場人物はささやかだが確かな希望の手応えを見出ていくという作風で、映画祭や批評家から高い評価を受けたのも頷けるものだ。

そんな傑作と評判の高い作品なのに、なぜ俺は退屈してしまうのか。すぐに思いつくのが、スター俳優の演技合戦に辟易してしまうという点だ。ハリウッドやメジャーの映画で稼いでいるが、一方で人類的な課題を見据える良心的な作品に出演し、そこで俳優としての高い演技力を証明したいという熱意に鼻白むのだろう。

それはイニャリトゥの映画づくりへの違和感とそのまま重なる。地味だが重要なテーマを扱った作品を撮りたいなら、何もブラッド・ピットやケイト・ブランシェット、最近売り出しのメキシコの二枚目、ガエル・ガルシア・ベルナルやナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ、ショーン・ペンといった、演技派の折り紙付きとはいえスターを起用する必要はないと思えるのだ。

俺の印象としても、『バベル』なら、やはり菊池凛子とメキシコ人家政婦役のアドリアナ・バラッザが鮮烈だった(菊池凛子の場合は、その未成熟な裸体と性器露出のインパクトが多分に占めるが)。錚々たるスターを並べずとも、どこの国の演劇界でも、歴史風土や階層感情が刻まれた平凡ながらユニークな容姿の男女俳優はいるはずだし、役柄にはまった新人を見つけだすことは可能だろう。

素人目にはそう思えるが、イニャリトゥはそうしなかった。俺には不自然だが、イニャリトゥには必然なのは、興行的な目算だけでなく、たぶんリアリズムのとらえかたにすれ違いがあるからだろう。一言でいってしまえば、イニャリトゥはクソリアリズムではないかと思う。クソをそのまま映すような、クソみたいに平板な解釈を当てはめた人物像しか出てこないから、俺は退屈してしまうのではないか。

いや、別に何か複雑な心理描写や不条理な情動を求めているのではない。クソみたいな脚本にクソみたいな演出は困るが、凡庸な企画であっても俳優の資質や力量、時代性によっては、ときたま輝くようなシーンを観ることができる。ここでは俳優を象徴的に挙げているのであって、監督や脚本家・製作者以外の映画づくりに関わる多くの人々の現場の創造性を指す。

映画史上最高の傑作といわれる『市民ケーン』がけっしてオースン・ウエルズだけの創意工夫ではなく、創意工夫という点ではウエルズ以上の貢献をしたスタッフが少なからず存在した制作裏話が明らかになっているように、映画はつくりものであるが、映画づくりはつねにドキュメンタリなのだ。トリュフォーが『アメリカの夜』で見せたように。絵空事のつくりものが、本来の筋書きや演出を越えて、別の物語や音楽を観客の内面にまで届かせるとき、それは監督や製作者の映画ではなくなっている。

イニャリトゥの映画には、この映画づくりのドキュメンタリ性が致命的に欠けているように思える。もちろん、イニャリトゥはそれに自覚的だし、もしかすると監督のなかでももっとも自覚的な一人だろうと自負しているかもしれない。彼の一貫したテーマは、異文化の理解であり、他者との出会いであり、人間(じんかん)に真のコミュニケーションは成り立つのかという疑問なのだから、当然だろう。

しかし、下手の横好きに思えるのだ。良心的な映画で高い演技力を発揮したいというメジャーのスターをキャスティングするとき、良心的な映画で高い演技力を発揮したいというメジャーのスターという自意識のままの演技-スターの色気もなく演技メソッドからの逸脱もない-を見せられて、カット! OKを出したとき、そこに現場の固有なドキュッメンタリ性がかけらもないことに気づかず、満足の笑みを浮かべているイニャリトゥが見えてしまうのだ。

そうした「神の視点」を所与とする監督をイモといい、そうした監督がつくる映画を俺はイモ映画と呼んでいる。

余談だが、菊池凛子の聾者演技に、聾者団体からクレームがついたそうだ。その当否はともかく、チエコ(菊池凛子)への視線にはやはり俺も少し嫌悪感を抱いた。陰毛と性器露出シーンが繰り返された。昔、「必然性があれば、ヌードになります」といって失笑を買った女優がいたが、チエコが裸になることに何か必然性があっただろうか、という疑問は残る。

かつては日本の女のあそこは横に付いていると思っている外国人がいたそうだが、それと同列のただの下司な視線のように思えた。あるいは、オタク文化輸出にともない、『キルビル』にセーラー服の殺し屋が登場したように、日本の女子中高生が海外でも「萌え」の対象となっているらしい。イニャリトゥの無軌道な性衝動に駆られるチエコ造型や裸体も、そうしたことを当て込んでのことかもしれない。

いずれにしろ、裸のチエコに良心的な衣装として聾者の障害を着せた気がする。そうしたつけたり扱いに聾者団体は敏感に反応したのかもしれないが、それ以前に、現代社会のコミュニケーションの不成立を聴覚障害に重ねたというだけでも、ほとんど間違いであり、うかつにも差別的な心性を露呈してしまっていると思える。それとも、障害者も清く正しく美しく生きているだけでない、と留保したいのであれば、何をかいわんやである。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする