以前に朝7時から放送されているNHK『おはようニッポン』アナウンサー、首藤奈知子さんのきわめて保守的な服装について疑問を呈した。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/archive?b=15
今回は、『ちりとてちん』が終わった8時30分のニュースに登場する森本健成アナウンサーについて指摘しておきたい。
彼の問題は服装ではなく、髪型である。毎朝、変わるのである。ある日は後ろへ撫でつけたかと思えば、右から流したり、左からにしたり、ディップで少し尖らせたり、前髪を櫛の目のように揃えたり、無造作にいくつかの束にしたり、この一か月間だけでもめまぐるしく変わっている。逆にいえば、髪型が決まらないのだ。
NHKは不偏不党の公共放送として、公益性を標榜してきたのは周知の通りである。そのNHKが8時30分のニュースという朝の顔の一人に森本健成アナウンサーを起用したのに、とりたてて不満はない。ただ、森本健成さんが日々、大胆にあるいはわずかに髪型を変えていることの悪しき影響について、NHKは気づいていないのではないか。それとも気づいていて放置しているのか。とすれば、いったいどうしてなのかと困惑している視聴者は俺以外にもけっして少なくないと思われるのだ。
出勤前のあわただしい時間に、昨日から続いている出来事、今朝起きた事件、今日の予定を押さえておきたいという視聴者が朝のニュースを視ている。通勤に利用する電車は滞りなく動いているか、道路は渋滞していないか、雨は降らないか、などである。そんな今日に役立つ生活情報を求めている視聴者に、不要不急な森本健成さんの髪型を気にさせてしまうとすれば、いささかなりとも公益性を損なってやしないかと懸念するのである。私たちは、何かを気にしている人を見ると、その人が気にしていることが同じように気になるものだ。
たとえば、電車の中で、一心に枝毛をつまみ切っている女性を見つければ、どうしてもその女性の多少寄り眼になった顔や枝毛を探す器用な指先から眼を離せず、やがていらいらしてくるという経験は誰しも持っているはずだ。森本さんの髪型が変わるのが気になるのは、この枝毛を気にする女性が気になるのと同じことだという見方もあるだろう。そんな些細なことを気にするほうがおかしい、見なければいいのだと。
しかし、枝毛取りの女性がTV画面に映されることはないが、森本健成さんとその髪型は毎朝TVに登場して、チャンネルを切り換えない限り、否応なく眼に入るのである。電車の中と公共放送番組は同じ公共圏であるが、その影響範囲は比較にならない。また、枝毛をつまみ切るという行為は、そこにいささかなりとも政治性を帯びることはない。私的な身づくろいを電車の中で行っている不快さは、人前で楊枝を使ったり、肩に落ちたふけを払ったりするのと同様に、見場の悪いマナー違反ではあっても、ことさらに咎め立てされるほどのことではないだろう。
しかし、森本健成さんの髪型いじりは、その行為がある種の人々を間違いなく直ちに不快にさせ、不安にさせると容易に推測できるのである。まず、全国数百万人の禿頭の人々、そして全国数千万人の「髪の毛が薄くなったかな」と気にしている人々に、自らの髪と髪型について不必要に気にさせるきっかけを与えていることは間違いない。気にせずにおこうとようやく自らを律している人々に、強制的に禿や薄毛を思い起こさせようとしている、徒に刺激しているといわれても返す言葉はないはずだ。少なくとも、そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない。「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」に配慮するのが当然の時代にあっては、自明のことだ。
鳥越俊太郎や佐藤浩市のように、初老や中年に至っても黒髪が溢れているような人は、こうした毛髪に不自由な毛髪弱者の人々にとって、もちろん愉快な存在ではない。おもむろに髪をかき上げる仕草に、メルセデスのスポーツタイプやフェラーリをこれ見よがしに乗り回す成金と同様な「持てる者」の傲慢さを感じる場合もあるだろう。しかし、毛髪弱者の人々も、鳥越俊太郎や佐藤浩市が、拝金主義者のように選択や願望の結果そうなったのではないことは知っている。毛髪弱者の人々に若年は少ないから、遺伝や宿命はあるという大人の分別は持っているのである。
しかし、そうした大人の分別をもってしても、森本健成さんの髪型いじりは、彼ら毛髪弱者にとって正視に耐えがたいのではないか。同じ「持たざる者」のあがきを毎朝見せつけられなければならない不条理に困惑してやしないか。もちろん、森本さんに罪はない。石持て打たるるべきは、やはり、首藤奈知子さんの保守に偏った服装について論じたときと同様に、周囲の番組プロデューサーやディレクターの感性に露呈する、NHKの「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮の乏しさである。
「森本ちゃん、今朝の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話に、嘲笑と赤面を想像しないとすれば、その人は他者と自分をも「見えない人間」(L・エリスン)として、規定していることに他ならない。
さらに、森本問題にはもうひとつの重要な背景がある。森本さんが毎日髪型をいじるほど気にせずにいられない毛髪弱者になりかかっているとすれば、スタジオ内の強烈なライトに日々当てられ、乾燥した埃まみれの空気を頭皮に晒されているからにほかならない。艶やかな黒髪に明眸皓歯の新人アナウンサーが数年も経てば、生え際が大幅に後退したり、ごま塩頭や白髪に変貌していく様は、誰しも知るところであり、親近感を抱いた孫ほどのアナウンサーを見ては、「若いのに気の毒な」と心を痛めている老婆もいるという話も聞く。
森本アナウンサー個人に対して、「PC:ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮が乏しいとか、分別ある大人としては見苦しく潔くないという非難を軽々にすべきではないのは、彼がこうした職業病の被害者であるという側面を看過し得ないからである。
もう一度、「森本ちゃん、今日の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話を想像してほしい。「~いるね(笑)」としてみたとき、手が震えるほどの怒りを感じないだろうか。頭髪の激減という職業病に悩まされた一人の中堅アナウンサーが、いささか神経症的にその欠損を補おうとあがいている様を、それを毎朝見せられて我が事のようにハラハラしている視聴者を、まとめて嘲笑する(笑)ではないか。
そこに、NHKの盲目的な多数派への信奉、つまりは権力政治への無自覚な指向と、身近な人権侵害を無視できる非知性的な怠惰を伺い知るのは、けっして俺だけではないと信じる。(「盲目的な~信奉」もPC上問題ありだが、PCを教条主義的に利用しているのではないかという誤解を避けるために、あえて使用した)。
誤解なきよう付言すれば、俺は毛髪については「持たざる者」ではない。しかし、「持てる者」でさえ、森本健成さんの毎朝の髪型いじりについては、これくらいは考えるのである。ならば、「持たざる者」の心中いかばかりかを思うのである。
ただし、森本さんに上記のような動機はまったくなく、たんにもう少し格好良く映りたいと自惚れている、というわずかな可能性も排除するわけにはいかない。その場合は、NHKに訂正して陳謝したいし、森本さんには、「朝っぱらから、余計な心配させるな!」という苦言を呈したい。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/archive?b=15
今回は、『ちりとてちん』が終わった8時30分のニュースに登場する森本健成アナウンサーについて指摘しておきたい。
彼の問題は服装ではなく、髪型である。毎朝、変わるのである。ある日は後ろへ撫でつけたかと思えば、右から流したり、左からにしたり、ディップで少し尖らせたり、前髪を櫛の目のように揃えたり、無造作にいくつかの束にしたり、この一か月間だけでもめまぐるしく変わっている。逆にいえば、髪型が決まらないのだ。
NHKは不偏不党の公共放送として、公益性を標榜してきたのは周知の通りである。そのNHKが8時30分のニュースという朝の顔の一人に森本健成アナウンサーを起用したのに、とりたてて不満はない。ただ、森本健成さんが日々、大胆にあるいはわずかに髪型を変えていることの悪しき影響について、NHKは気づいていないのではないか。それとも気づいていて放置しているのか。とすれば、いったいどうしてなのかと困惑している視聴者は俺以外にもけっして少なくないと思われるのだ。
出勤前のあわただしい時間に、昨日から続いている出来事、今朝起きた事件、今日の予定を押さえておきたいという視聴者が朝のニュースを視ている。通勤に利用する電車は滞りなく動いているか、道路は渋滞していないか、雨は降らないか、などである。そんな今日に役立つ生活情報を求めている視聴者に、不要不急な森本健成さんの髪型を気にさせてしまうとすれば、いささかなりとも公益性を損なってやしないかと懸念するのである。私たちは、何かを気にしている人を見ると、その人が気にしていることが同じように気になるものだ。
たとえば、電車の中で、一心に枝毛をつまみ切っている女性を見つければ、どうしてもその女性の多少寄り眼になった顔や枝毛を探す器用な指先から眼を離せず、やがていらいらしてくるという経験は誰しも持っているはずだ。森本さんの髪型が変わるのが気になるのは、この枝毛を気にする女性が気になるのと同じことだという見方もあるだろう。そんな些細なことを気にするほうがおかしい、見なければいいのだと。
しかし、枝毛取りの女性がTV画面に映されることはないが、森本健成さんとその髪型は毎朝TVに登場して、チャンネルを切り換えない限り、否応なく眼に入るのである。電車の中と公共放送番組は同じ公共圏であるが、その影響範囲は比較にならない。また、枝毛をつまみ切るという行為は、そこにいささかなりとも政治性を帯びることはない。私的な身づくろいを電車の中で行っている不快さは、人前で楊枝を使ったり、肩に落ちたふけを払ったりするのと同様に、見場の悪いマナー違反ではあっても、ことさらに咎め立てされるほどのことではないだろう。
しかし、森本健成さんの髪型いじりは、その行為がある種の人々を間違いなく直ちに不快にさせ、不安にさせると容易に推測できるのである。まず、全国数百万人の禿頭の人々、そして全国数千万人の「髪の毛が薄くなったかな」と気にしている人々に、自らの髪と髪型について不必要に気にさせるきっかけを与えていることは間違いない。気にせずにおこうとようやく自らを律している人々に、強制的に禿や薄毛を思い起こさせようとしている、徒に刺激しているといわれても返す言葉はないはずだ。少なくとも、そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない。「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」に配慮するのが当然の時代にあっては、自明のことだ。
鳥越俊太郎や佐藤浩市のように、初老や中年に至っても黒髪が溢れているような人は、こうした毛髪に不自由な毛髪弱者の人々にとって、もちろん愉快な存在ではない。おもむろに髪をかき上げる仕草に、メルセデスのスポーツタイプやフェラーリをこれ見よがしに乗り回す成金と同様な「持てる者」の傲慢さを感じる場合もあるだろう。しかし、毛髪弱者の人々も、鳥越俊太郎や佐藤浩市が、拝金主義者のように選択や願望の結果そうなったのではないことは知っている。毛髪弱者の人々に若年は少ないから、遺伝や宿命はあるという大人の分別は持っているのである。
しかし、そうした大人の分別をもってしても、森本健成さんの髪型いじりは、彼ら毛髪弱者にとって正視に耐えがたいのではないか。同じ「持たざる者」のあがきを毎朝見せつけられなければならない不条理に困惑してやしないか。もちろん、森本さんに罪はない。石持て打たるるべきは、やはり、首藤奈知子さんの保守に偏った服装について論じたときと同様に、周囲の番組プロデューサーやディレクターの感性に露呈する、NHKの「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮の乏しさである。
「森本ちゃん、今朝の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話に、嘲笑と赤面を想像しないとすれば、その人は他者と自分をも「見えない人間」(L・エリスン)として、規定していることに他ならない。
さらに、森本問題にはもうひとつの重要な背景がある。森本さんが毎日髪型をいじるほど気にせずにいられない毛髪弱者になりかかっているとすれば、スタジオ内の強烈なライトに日々当てられ、乾燥した埃まみれの空気を頭皮に晒されているからにほかならない。艶やかな黒髪に明眸皓歯の新人アナウンサーが数年も経てば、生え際が大幅に後退したり、ごま塩頭や白髪に変貌していく様は、誰しも知るところであり、親近感を抱いた孫ほどのアナウンサーを見ては、「若いのに気の毒な」と心を痛めている老婆もいるという話も聞く。
森本アナウンサー個人に対して、「PC:ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮が乏しいとか、分別ある大人としては見苦しく潔くないという非難を軽々にすべきではないのは、彼がこうした職業病の被害者であるという側面を看過し得ないからである。
もう一度、「森本ちゃん、今日の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話を想像してほしい。「~いるね(笑)」としてみたとき、手が震えるほどの怒りを感じないだろうか。頭髪の激減という職業病に悩まされた一人の中堅アナウンサーが、いささか神経症的にその欠損を補おうとあがいている様を、それを毎朝見せられて我が事のようにハラハラしている視聴者を、まとめて嘲笑する(笑)ではないか。
そこに、NHKの盲目的な多数派への信奉、つまりは権力政治への無自覚な指向と、身近な人権侵害を無視できる非知性的な怠惰を伺い知るのは、けっして俺だけではないと信じる。(「盲目的な~信奉」もPC上問題ありだが、PCを教条主義的に利用しているのではないかという誤解を避けるために、あえて使用した)。
誤解なきよう付言すれば、俺は毛髪については「持たざる者」ではない。しかし、「持てる者」でさえ、森本健成さんの毎朝の髪型いじりについては、これくらいは考えるのである。ならば、「持たざる者」の心中いかばかりかを思うのである。
ただし、森本さんに上記のような動機はまったくなく、たんにもう少し格好良く映りたいと自惚れている、というわずかな可能性も排除するわけにはいかない。その場合は、NHKに訂正して陳謝したいし、森本さんには、「朝っぱらから、余計な心配させるな!」という苦言を呈したい。