コタツ評論

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小泉の「郵政解散」

2005-08-13 12:19:11 | ノンジャンル
について、おかしな言説が出てきているが、小泉が郵政法案の否決を内閣不信任と受け止め、解散権を行使することは何の問題もない。また、郵政反対派の選挙区に賛成派の対立候補を立てるのもごく当然のこと。刺客とか、同士討ちとか、印象操作もたいがいにすべき。旗幟を明らかにするのは、議会制民主主義と政党政治の原則じゃないか。また小選挙区制になって派閥が機能しなくなりゃ、党議拘束が相対的に強化されるのは、理の当然。政策の良否や小泉への好悪以前に、手続きとして妥当であるかどうかが最重要。アメリカという「先生」が後ろで監視している「ホームルーム政治」であっても。
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世の中住みにくくなった

2005-08-13 12:18:19 | ノンジャンル
と最近の若い者は・・はいつの時代にも繰り返し嘆息されてきたのでしょうな。統計では、日本は世界一の長寿国、殺人件数も先進国中きわめて低レベル。所得配分もまだ格差は少ない。かつて、赤旗が「日本の貧困」という連載を始めたとき、これは赤旗でなくては読めないなとかなり期待したが、3食ジャンクフードやホカ弁食べさせられる共働き家庭の児童なんてのが登場して、それなら俺の小学校時代からそうだったわいと舌打ちしたことがある。昔、ゴルバチョフのソ連を旅したとき、駅に住む難民みたいな群衆に圧倒されていたら、同行したおっさんいわく、「この人たちは自ら家を捨ててきてホームレスになった。アメリカでは家から追い出されてホームレスになる。いったい、どちらが貧しいと思う?」。アメリカはまぎれもなく世界一富める国だが、その貧困層の生活はアフリカあたりの最貧国国民より低劣、乳幼児死亡と殺人による死亡を除いても、スラムの平均寿命は最貧国を下回るそうだ。生き地獄というのはあるのだな。
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法学部教授

2005-08-07 12:09:29 | ノンジャンル
法科大学院で大変だろう。
たこつぼ研究者は受験指導できないもの。
東大法学部だろうが、中大法学部だろうが、司法試験はWスクールというより、専門学校のおかげで受かってきた。かつて中央法が法曹に大派閥を築きながら、近年合格者が低迷しているのは、神田から八王子にキャンパスが移転したからが定説。受験専門校から遠くなって学生は通いにくくなったわけ。雨後の竹の子のごとく乱造された法科大学院の生命線は合格率。受験専門校の「カリスマ講師」でも呼ばないと合格率は上げられないわな。医師国家試験の合格率と似たようなことになっていくのかな。そういや、医師国家試験の合格率ランキングを最近見かけないな。
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素朴であることの間違い

2005-08-06 12:15:33 | ノンジャンル
言論の自由とは、言論の自由という制度である。
何ものにも縛られず自由にものをいう権利であるが、この場合の「何もの」とは実はあらゆるものではなく、明確に特定される。したがって、上司が部下に「君は黙ってなさい」と意見を封じたり、組合集会で数を頼んで1人を吊し上げて一切の抗弁を聞かなかったり、多数の前で話していて大声の野次をかぶせられたときなど、いずれもやられた方は言論の自由を主張できない。言論の自由とは関係ないから。また、その上司や吊し上げた者や野次を飛ばした人が、一般論や自らの問題として、言論の自由を語ったり主張しても何ら矛盾はない。また、彼らが、「相手の意見をよく聞いて話し合って問題を解決していこうよ」と言い出しても、「あれっ?」と思う方が間違い。
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読者と自由

2005-08-06 12:11:17 | ノンジャンル
ネットの「読者」を「不特定多数」とするなら、既成の新聞・雑誌メディアと何ら変わりない。ならば、ネットにおける特権的なメディア批判は無効である。ネットにおいては特定少数の読者が対象ではないかと思う。「不特定多数の読者」を前提としたときから、既成メディアがそうであるように、どこまでも書き手(読み手も)は無責任になりうる。また、自由とは恣意のことではない。自由とは公権力に縛られないという意味。「何しようと俺の自由だろ」というのは間違いで、それなら「俺の勝手」というべき。「俺の勝手」が周囲や世間に通らないのは、抑圧でも疎外でもなく、ましてや弾圧などではない。したがって、「ほんとうに自由」などというものはない。あるのは制度としての画餅の自由であり、「自由でありうる」という個々人の運動だけだろう。そして、運動とは社会の制約や制限と不可分であり、言論においてはそれを内面化する必要さえある。容赦のない罵倒で知られる吉本隆明は、まず晦渋な文章で書いてから、「ようするに、こいつはタダのバカである」などと「校正」していくそうだ。
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