にちょっと驚いた。「暴力事件」になったことに。なんだい、いまどきの高校野球部じゃ、体罰やらないのか? 昔から、高校の野球部は腕っぷしに自信のある不良の巣。ほっとけば、酒煙草あったりまえ、ビンタバシバシ、ケツバットガンガンでなければ、治めようがないだろう。疑似兵役みたいなものなんだから、「暴力」も含めた身体の訓練は不可欠。頭だけでなく、身体でも記憶したり考えるし、それができることがわかる。勉強もせずに日に5時間も6時間も猛練習するのと、運動もせずに塾を掛け持ちして寝る間も惜しんで受験勉強するのとは等価。どちらもやるのが理想だが、スポーツ産業と受験産業に奉仕する歪みから、少年たちには等身大以上の負荷がかかる。ただし、高校野球は苫小牧駒沢高のように地域の活性化に寄与する公共財といえるから、選手たちの負荷は地域住民の共感によってカタルシスを迎え、やがて解消できる。つまり、高校野球はいわれるような集団主義だけでなく、日本には珍しく、傑出した能力や強い精神力を褒め称える文化なのだ。受験界もこれに学ぶべきである。思考力の中心である論理的に考えるということの訓練に、チームやグループなどの集団主義の働きは有効だろうし、五感を働かせるという反復運動も必要なはず。くわえて、学習に関して傑出した能力や個性を褒め称える、地域が共感できる仕組みをつくれるかどうか。高校野球の選手に地域住民が共感するのは、球児たちの大多数が向都離郷せずに、そのまま地元で暮らし続けるからだ。だから、高校野球という文化的記憶は再生産される。田舎の秀才や俊才が向都離郷せずに、少なくともUターンして地元で活躍できる場が地域に用意されねば、その知的な能力や精神力は再生産されず、公共財にはなり得ない。これからこうあるべきだという話ではない。かつての日本はかなりそうだったらしい。明治以降、学歴エリートは海外留学してキャリアを積んだ。そのまま欧米に残れば、高い収入と最先端の研究環境を得られたものを、それらをあえて袖にして、「世界の片田舎」である日本に帰国した。また、かつての日本の田舎では、生涯学習的な職業分野だった医師と教員が知的リーダーであり、ときには貧家の秀才のスポンサーともなった。すでに医師と教員に地方インテリの矜持はなく、貧家の秀才の立身出世も死語になったが、やはり人とスポンサードは必要だ。サッカー? Jリーグはたしかにプロ野球モデルを否定して欧州や南米のクラブチームを理想にして誕生したといわれるが、実際は高校野球や社会人野球に近いじゃないか。夏の甲子園を鼻先で嘲笑ってはならない。文化としても、ビジネスモデルとしても。地元といっても少なからぬ甲子園球児が有名野球校に越境入学だ、苫小牧駒沢も中心選手は大阪から入学しているって? いいんだよ、東京以外は均質な田舎なんだから。
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