『再び使われることのないように祈る。』
修がそう言った時、笙子と黒田の脳裏に『今だ!』と言う号令が響いた。
炎の触手が修の身体に届くその瞬間に確かに修の身体は脱皮した。黒田は急ぎ修を胎児化させ、笙子は自分の子宮へ胎児を導いた。
その間、不思議なことに笙子も黒田も自分がいま何をしているなどという意識はなく、コンピュータに制御された機械のように坦々と動いていた。気が付くとすべてが終わっていてまるで夢でも見ていたような感覚があった。
「うまくいったようだね。」
突然、眠っていたはずの一左が口を利いたので二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「長いこと力を使っていなかったからね。自信はなかったが…。」
修によく似た話し方と表情がいままでとは全く別人だということを物語っていた。
「一左大伯父さま…起きてらしたのね。」
笙子が言うと一左は修にそっくりな笑顔を見せた。三左に支配されていたときとは容貌も異なって、誰が見ても修の祖父に間違いはなかった。
「ご無事で何よりです。御大…。」
黒田は感激したように一左の手を取った。
「面倒かけたね。黒田。笙子さんも…。
御腹の具合はどうかね? 修は元気にしているかね?」
目を細めながら笙子の膨らんだ御腹の辺りを見つめた。
「大丈夫ですわ。まだ少し皮膚の再生に時間がかかりそうですけれど。
早く出せと暴れていますわ。」
「そうかね…。よかった…。
透…雅人。どれ…こちらへ来て顔を見せてくれ。」
それまで呆然と突っ立ていた二人は一左の呼ぶ声で我に返り、言われるままに一左の傍へと駆け寄った。不安げな二人の顔を見て一左はますます温かい笑みを浮かべた。
「修の自慢の子どもたちだな。なるほど…甲乙付け難い。
心配しなくていいぞ。お父さんは笙子さんの御腹の中だ…。」
二人は互いに顔を見合わせた後、笙子の方を窺った。
笙子はにっこり笑って御腹をさすって見せた。
一左は少し離れたところに力なく腰を下ろしている次郎左に目をやった。
「次郎左よ。おまえの後見としてのやり方が何もかも間違っていたとは思わんよ。
おまえはおまえなりに一族の安泰を考えて事なかれを決め込んだのだろう?
戦えば徒に犠牲者を増やすと…何しろ誰も修ほどの力を持ち合わせていないからな…。
修がおまえに言ったことは気にするな。修の樹としての記憶は断片的なものだ。
後はおまえの心を読んだに過ぎんよ。」
「俺はただ…宗主のおまえを犠牲にしても一族の者たちが無事なら致し方ないと考えたんだ。
あやつがまさか…身内を次々と殺していくほどのワルだとは思ってもみなかった。
今思えばなんと愚かなことを…いい大人が雁首揃えて三左の前から逃げ出したわけだからな。
ただひとり立ち向かえと悪鬼の前に残された修にしてみれば、俺たちのしたことはあまりに酷い仕打ちだったのだろうて…。」
次郎左は後悔頻りだった。
「さて…次郎左…潔斎所の準備をしてもらえるか?
そろそろ修を出してやらねば…。」
「ああそれは俺がやりましょう。」
黒田が祈祷所の裏手の方へ駆けて行った。
「ならば、樹への捧げ物として作ったあれを出してきてくれ。今年新調して納めた筈だが…」
「承知した。しかし…丈が合うだろうかな?」
次郎左も祈祷所の奥の供物部屋へ向かった。
祈祷所の裏手にある潔斎所は祖霊を祀るときに宗主や後見が身を清める場所だが、独自の祖霊祀りを宗教とは考えていない紫峰では儀式や行事専用の風呂場のようなものである。
跡取りが生まれると産湯をつかわせたり、病後の厄除けなどにも使われる事があり、ここで湯を使うことは祖霊の護りを受けることと考えられている。
用意ができたという黒田の知らせで皆は潔斎所に集まった。5~6人は入れるかという湯船の手前に小さな籠が置かれ、柔らかなタオル地の布が敷かれてあった。
「笙子さん…産むのかね?」
一左は訊ねた。産むのであれば男たちは外で待機していた方がいいだろうと考えたのだ。
笙子は笑って答えた。
「産むのは…まだ無理ですわ。短時間過ぎて私の身体がそこまで整っていません。
籠に移動させます。」
籠の前で両膝をつくと笙子は両手を下腹の前へ差し出した。やがてその両手の上に乗るほどの嬰児が姿を現した。嬰児が泣き声をあげた。透たちは息を呑んで小さな修を見つめた。
「修…おめでとう…。」
笙子はそう呟くと嬰児を籠に寝かせた。
黒田がその子を抱き上げて湯を使わせようとすると一左が手を差し出した。
「私が…。修が生まれた時に立ち会ってやれなかったからな。」
一左は嬰児の肩を支えると、湯船にそっと浮かべてやり、小さな身体を清めてやった。
「修…よく耐えたな…。たったひとりで…よくがんばった…」
目を細め本物の祖父は幼子をいとおしげに抱きしめた。
黒田が真新しいバスタオルを脱衣場のソファの上に敷くと、一左は嬰児のぬれた身体を拭いてやりながらその上に寝かせた。
透が小さな顔を覗き込んだ。雅人もちょっと赤ん坊に触れてみた。赤ん坊は二人を見つめ愛らしい笑みを浮かべた。
「こんなに小さかったんだ。修さんも。」
「赤ん坊ってこんなに柔らかいんだね。」
笙子が微笑んで頷いた。そのまま捨てておけばおけばやがて消えてしまう命。何かあればすぐにでも壊れてしまいそうな身体…。
「そうだよ。透。雅人。生まれたばかりのおまえたちはきっとこんなふうに修には見えたんだ。
だからおまえたちをほっておけなかった。
だけど…そのとき修はまだ小学生…。それからの修の苦労をおまえたちは決して忘れてはいけないよ…。」
一左は二人にそう諭した。二人は深々と頷いた。
次郎左が畳紙に包まれた樹への供物を運んできた。それを機に黒田は修をもとの姿に戻すことにした。
「さあ…そろそろ当主にご帰還願いましょうか。」
黒田は修の細胞の一つ一つに急激な成長を促した。やがて赤ん坊は幼児へ、幼児から少年へ、少年から青年へと成長した。少年時代からの修の姿はおぼろげながら二人の記憶に残っている。
あの小さな赤ん坊からは想像もできないような成長を遂げた修は、いま伸びやかな肢体をソファの上に横たえていた。
激しい運動を終えたかのように大きく肩で息をした後、修はそっと目を開けた。
心配そうな四つの目が覗き込んでいた。
「やあ…。透…雅人。ただいま…。」
二人は思わず修に飛びついた。二人の重さで修は起き上がれずにいた。
「修さん!お帰り!」
「大丈夫?」
笑顔半分困ったような顔ををしている修に雅人が訊いた。
「ああ。大丈夫…大丈夫だけど…ちょっと待って。タオルくらい巻かせてくれ…。
笙子…あっち向いてて。」
笙子は今更遅いわよと言いたげに肩をすくめると背中を向けた。
黒田が目を逸らしながらくすくす笑った。
一左は次郎左から畳紙を受け取ると修に差し出した。
「話は後だ。修よ。樹の御霊へ奉納された祭祀の衣装を着なさい。
外へ出て一族に相伝が無事済んだことを報告しなければいけない。」
修は頷いた。黒田が手伝って透や雅人に衣装の着付けなどを口伝しながら手早く準備をした。
祈祷所の扉が開かれた。
外ではようよう騒ぎも収まって、身づくろいをしなおした長老衆が祈祷所の前に控えていた。
先導の役目を果たす悟と晃の二人がまず姿を現した。彼らは外扉の両側へ控えた。
現宗主と後見が並んで現れた時、皆は息を呑んだ。真の宗主が戻ってきたことを長老衆は即座に察知した。同時に、その後の自分たちへの処罰が気になりだして気持ちが落ち着かなかった。
黒田と藤宮の長が続いた後二人の継承者。
最後に祭祀のための衣装を纏った修の姿を目にした途端、長老衆の心に罪の意識と恐怖が沸き起こった。
祈祷所の扉が固く閉ざされた。
扉の前中央に報告のために立った修は、不安に右往左往する長老衆の心を哀れむかのようにいま静かに彼らの姿を見つめていた。
次回一番目の夢最終回へ
修がそう言った時、笙子と黒田の脳裏に『今だ!』と言う号令が響いた。
炎の触手が修の身体に届くその瞬間に確かに修の身体は脱皮した。黒田は急ぎ修を胎児化させ、笙子は自分の子宮へ胎児を導いた。
その間、不思議なことに笙子も黒田も自分がいま何をしているなどという意識はなく、コンピュータに制御された機械のように坦々と動いていた。気が付くとすべてが終わっていてまるで夢でも見ていたような感覚があった。
「うまくいったようだね。」
突然、眠っていたはずの一左が口を利いたので二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「長いこと力を使っていなかったからね。自信はなかったが…。」
修によく似た話し方と表情がいままでとは全く別人だということを物語っていた。
「一左大伯父さま…起きてらしたのね。」
笙子が言うと一左は修にそっくりな笑顔を見せた。三左に支配されていたときとは容貌も異なって、誰が見ても修の祖父に間違いはなかった。
「ご無事で何よりです。御大…。」
黒田は感激したように一左の手を取った。
「面倒かけたね。黒田。笙子さんも…。
御腹の具合はどうかね? 修は元気にしているかね?」
目を細めながら笙子の膨らんだ御腹の辺りを見つめた。
「大丈夫ですわ。まだ少し皮膚の再生に時間がかかりそうですけれど。
早く出せと暴れていますわ。」
「そうかね…。よかった…。
透…雅人。どれ…こちらへ来て顔を見せてくれ。」
それまで呆然と突っ立ていた二人は一左の呼ぶ声で我に返り、言われるままに一左の傍へと駆け寄った。不安げな二人の顔を見て一左はますます温かい笑みを浮かべた。
「修の自慢の子どもたちだな。なるほど…甲乙付け難い。
心配しなくていいぞ。お父さんは笙子さんの御腹の中だ…。」
二人は互いに顔を見合わせた後、笙子の方を窺った。
笙子はにっこり笑って御腹をさすって見せた。
一左は少し離れたところに力なく腰を下ろしている次郎左に目をやった。
「次郎左よ。おまえの後見としてのやり方が何もかも間違っていたとは思わんよ。
おまえはおまえなりに一族の安泰を考えて事なかれを決め込んだのだろう?
戦えば徒に犠牲者を増やすと…何しろ誰も修ほどの力を持ち合わせていないからな…。
修がおまえに言ったことは気にするな。修の樹としての記憶は断片的なものだ。
後はおまえの心を読んだに過ぎんよ。」
「俺はただ…宗主のおまえを犠牲にしても一族の者たちが無事なら致し方ないと考えたんだ。
あやつがまさか…身内を次々と殺していくほどのワルだとは思ってもみなかった。
今思えばなんと愚かなことを…いい大人が雁首揃えて三左の前から逃げ出したわけだからな。
ただひとり立ち向かえと悪鬼の前に残された修にしてみれば、俺たちのしたことはあまりに酷い仕打ちだったのだろうて…。」
次郎左は後悔頻りだった。
「さて…次郎左…潔斎所の準備をしてもらえるか?
そろそろ修を出してやらねば…。」
「ああそれは俺がやりましょう。」
黒田が祈祷所の裏手の方へ駆けて行った。
「ならば、樹への捧げ物として作ったあれを出してきてくれ。今年新調して納めた筈だが…」
「承知した。しかし…丈が合うだろうかな?」
次郎左も祈祷所の奥の供物部屋へ向かった。
祈祷所の裏手にある潔斎所は祖霊を祀るときに宗主や後見が身を清める場所だが、独自の祖霊祀りを宗教とは考えていない紫峰では儀式や行事専用の風呂場のようなものである。
跡取りが生まれると産湯をつかわせたり、病後の厄除けなどにも使われる事があり、ここで湯を使うことは祖霊の護りを受けることと考えられている。
用意ができたという黒田の知らせで皆は潔斎所に集まった。5~6人は入れるかという湯船の手前に小さな籠が置かれ、柔らかなタオル地の布が敷かれてあった。
「笙子さん…産むのかね?」
一左は訊ねた。産むのであれば男たちは外で待機していた方がいいだろうと考えたのだ。
笙子は笑って答えた。
「産むのは…まだ無理ですわ。短時間過ぎて私の身体がそこまで整っていません。
籠に移動させます。」
籠の前で両膝をつくと笙子は両手を下腹の前へ差し出した。やがてその両手の上に乗るほどの嬰児が姿を現した。嬰児が泣き声をあげた。透たちは息を呑んで小さな修を見つめた。
「修…おめでとう…。」
笙子はそう呟くと嬰児を籠に寝かせた。
黒田がその子を抱き上げて湯を使わせようとすると一左が手を差し出した。
「私が…。修が生まれた時に立ち会ってやれなかったからな。」
一左は嬰児の肩を支えると、湯船にそっと浮かべてやり、小さな身体を清めてやった。
「修…よく耐えたな…。たったひとりで…よくがんばった…」
目を細め本物の祖父は幼子をいとおしげに抱きしめた。
黒田が真新しいバスタオルを脱衣場のソファの上に敷くと、一左は嬰児のぬれた身体を拭いてやりながらその上に寝かせた。
透が小さな顔を覗き込んだ。雅人もちょっと赤ん坊に触れてみた。赤ん坊は二人を見つめ愛らしい笑みを浮かべた。
「こんなに小さかったんだ。修さんも。」
「赤ん坊ってこんなに柔らかいんだね。」
笙子が微笑んで頷いた。そのまま捨てておけばおけばやがて消えてしまう命。何かあればすぐにでも壊れてしまいそうな身体…。
「そうだよ。透。雅人。生まれたばかりのおまえたちはきっとこんなふうに修には見えたんだ。
だからおまえたちをほっておけなかった。
だけど…そのとき修はまだ小学生…。それからの修の苦労をおまえたちは決して忘れてはいけないよ…。」
一左は二人にそう諭した。二人は深々と頷いた。
次郎左が畳紙に包まれた樹への供物を運んできた。それを機に黒田は修をもとの姿に戻すことにした。
「さあ…そろそろ当主にご帰還願いましょうか。」
黒田は修の細胞の一つ一つに急激な成長を促した。やがて赤ん坊は幼児へ、幼児から少年へ、少年から青年へと成長した。少年時代からの修の姿はおぼろげながら二人の記憶に残っている。
あの小さな赤ん坊からは想像もできないような成長を遂げた修は、いま伸びやかな肢体をソファの上に横たえていた。
激しい運動を終えたかのように大きく肩で息をした後、修はそっと目を開けた。
心配そうな四つの目が覗き込んでいた。
「やあ…。透…雅人。ただいま…。」
二人は思わず修に飛びついた。二人の重さで修は起き上がれずにいた。
「修さん!お帰り!」
「大丈夫?」
笑顔半分困ったような顔ををしている修に雅人が訊いた。
「ああ。大丈夫…大丈夫だけど…ちょっと待って。タオルくらい巻かせてくれ…。
笙子…あっち向いてて。」
笙子は今更遅いわよと言いたげに肩をすくめると背中を向けた。
黒田が目を逸らしながらくすくす笑った。
一左は次郎左から畳紙を受け取ると修に差し出した。
「話は後だ。修よ。樹の御霊へ奉納された祭祀の衣装を着なさい。
外へ出て一族に相伝が無事済んだことを報告しなければいけない。」
修は頷いた。黒田が手伝って透や雅人に衣装の着付けなどを口伝しながら手早く準備をした。
祈祷所の扉が開かれた。
外ではようよう騒ぎも収まって、身づくろいをしなおした長老衆が祈祷所の前に控えていた。
先導の役目を果たす悟と晃の二人がまず姿を現した。彼らは外扉の両側へ控えた。
現宗主と後見が並んで現れた時、皆は息を呑んだ。真の宗主が戻ってきたことを長老衆は即座に察知した。同時に、その後の自分たちへの処罰が気になりだして気持ちが落ち着かなかった。
黒田と藤宮の長が続いた後二人の継承者。
最後に祭祀のための衣装を纏った修の姿を目にした途端、長老衆の心に罪の意識と恐怖が沸き起こった。
祈祷所の扉が固く閉ざされた。
扉の前中央に報告のために立った修は、不安に右往左往する長老衆の心を哀れむかのようにいま静かに彼らの姿を見つめていた。
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