「ええっ? それ誰なんですか?」
なにがなんだかさっぱり分からない会話を目の前でされても、史朗は戸惑うばかりだった。
修と彰久は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
「なにね…。修さんが言うのは、君は前世で僕の息子の華翁だったらしいということなんですよ。」
彰久は言った。『前世って…どうかしてないか?この二人?』史朗は目を丸くした。
「これは芝居じゃないぜ。史朗ちゃん。実はね。この間、偶然、僕らの記憶が一致してね。
千年前に友人だったことが分かったんだ。
で…君の今の記憶も千年前のものなんだよ。しかもその記憶は彰久さんの前世、鬼面川将平の嫡男で華翁という人のものなんだ。」
『完全にいかれてる…。』史朗は天を仰いだ。千年って…そんな記憶が残ってるわけが無いだろ…。でも…待てよ。華翁という言葉には覚えがある。
「華翁…鬼面川…閑平(やすひら)…。」
史朗は呟くように言った。彰久が頷いた。
「そうです。史朗くん。思い出しましたか?」
「少しだけ…でも信じられません。信じたくもありません。」
史朗は明らかにパニック状態だった。修はこれ以上史朗を混乱させるのは酷だと思った。
「いいよ。信じなくても…。無理することはない。
こんなことそう簡単に理解できるもんじゃないんだから…。
彰久さん。 それでいつ発ちます? あなたひとりでは危険ですよ。
僕が御伴します。 どうやら村には小さな温泉宿があるようですから、旅行と称してそこに待機しています。 何かあればすぐに動けるでしょう。」
修のその言葉に彰久は微笑んだ。
「嬉しいですね。 あなたが来て下されば心強いことこの上ない。仕事のこともありますので、今すぐというわけにはいきませんが…来月早々でいかがでしょう。」
「ぼ…僕も行きます。このままじゃなんだか寝覚めが悪いし…。」
史朗がそう言うと二人はまるで父親のような優しい眼差しで史朗を見つめ、心から嬉しそうに頷いて見せた。
洋館の大きな窓から夕闇に包まれたモノクロの景色を見ていると思い出したくもない過去のことが浮かんでくる。
あの林は…笙子と自分の隠れ場所。幼い二人が心と身体に受けた傷をなめあってきた場所…。
「話してしまえばよかったのに…。」
不意に背後から笙子の声がした。後ろからそっと笙子は修の腰に手を回して抱きしめた。
「笙子は心を病んでいてどうしようもないんだって…誰にも治せないんだ…てね。
どうしてそこまで庇うの…?何で自分を悪者にしちゃったりするの…?」
修は答えなかった。背中に笙子の温かい身体が触れる。柔らかな香りが修を包み込んだ。
「酷いことばかりしてるわ…私。 あなたの目の前でだって平然と…。」
「もう…いいよ。何も言わなくていい…。
遊びに理由が必要だというなら、全部僕のせいにしてもかまわない…。
そうしておけば、誰からもから君が指を指されることもない。
誰も理解してくれなくても…何を言われても…僕は平気だ。」
笙子が手を離して修の横に並ぶと修がそっと肩を抱いた。
「忘れないで…笙子…。君が僕を護ってくれたんだよ…。君のここで…僕は生き延びた。」
笙子の腹部に修の手が触れた。笙子の頬を思いがけず涙が伝った。
「僕を救ったのは…間違いなく君自身の胎なんだから…。」
「私の…? これは本当に私のものかしら…?」
修は思わず笙子を抱きしめた。癒してやれないのか…この傷を…この苦しみを。
自分の身体を自分のものと信じることができないもどかしさを…。
どれほどの大きな力を持っていようと人の心を前にしてはなす術もなく…全くの無力…。
ただ笙子のありのままを何もかも受け入れてやるしかない。それが今の修にできることのすべてだった。
外の世界で戦うとなれば長い間の紫峰家の沈黙を破ることになる。
できる限り無関係な人と関わらないように細心の注意を払わなければならない。
紫峰家の不思議な力の存在を世の人に知られてはならない。
「宗主のおまえが禁を犯すというのだから、それなりの訳があるのだろうが…。」
紫峰の力を使うことになるやも知れないと断りを入れてきた修に一左は言った。
「身内が二人関わっています。玲子の婚約者と笙子の彼氏ですが…この二人は鬼面川の一族で…。」
「あの将平と閑平…か? では…彼等もおまえと同じで先祖の魂を引く者…だな。
珍しいことだ。 これほど身近にそういう者が何人も現れるのは…。
その事自体に何か大きな意味があるに違いない。」
一左はしばらく目を閉じて考えた。これが必至のことであるならば反対しても無駄なこと。
紫峰が外に力を向けるのは何もこれが初めてというわけではない。
つい百年くらい前までは時にはそうせざるをえないこともあった。
「藤宮には借りがある。ここできっちり返しておきなさい。手を貸して差し上げたらいい。」
一左が許可を出すと修は深く礼をした。宗主といえど隠居の意見には敬意を払うのが暗黙のしきたりだ。
「修…どうせなら息子たちにも実践訓練をさせたらどうかね。いい機会だと思うが…。
連れて行ってもあの二人なら足手纏いにはならんだろう?」
思いついたように一左は言った。修はちょっと眉を上げて頷いた。
「そうですね。多分…来るなと言っても来るでしょうよ…。
そこのふたり! 馬鹿やってないで顔をだしなさい!」
修がそう言うとばたばたと階段を降りる音がして透と雅人が一左の部屋まで猛スピードで駆け込んできた。
「あはは…。覗き見かね…。困った奴らだ…。」
孫たちの泡食ったような顔を見て一左は笑った。
「修…気をつけた方がいいぞ。新婚さんの部屋を覗いてしっかり…保健の勉強をしとるかも知れん。わははは…。」
眉を顰めて修は二人を見た。二人は思わず一歩退いた。
「まあ…気付いてはいたけどね。で…何か勉強になりましたかね?」
二人はぶんぶんと首を横に振った。
「だろうね…。まあ…それはそれとして…。
聞いていたと思うが、来月早々に出かけることになった。今のところ相手も特定できないし、正直どんな状況に陥るかも知れない。十分気を引き締めてかかること。
いいね…。」
修が念を押すと二人はまた無言でうんうんと頷いた。
「えらく静かじゃないか…? まだ何か悪さしてたのか? 」
「してないってば…。ただ…気になっただけで…。」
『あっよせ!』雅人が顔を顰めて透を止めようとしたが透がうっかり口を滑らせた。
「何が…。」
「修さん…抱き合ってても以前ほど楽しそうに見えないから…。」
修は愕然とした。『よくそこまで観察してるね…。』
正直いって痛い言葉だった。癒してやりたい一心で、今の修はまるで笙子の保護者のようになってしまって、笙子との逢瀬を楽しむ余裕がなかったことに気が付いた。そのことがかえって笙子の心に負担をかけているのかもしれない。
「ふ~ん。覗きは1回や2回じゃなかったわけだ。僕もいちいち気に留めてなかったけど…。
まさか何もかんも見てたとか…?」
「そこまで失礼なことはしてませんですぅ…。修さんひとりじゃないんですからぁ…。」
「ごめんなさいです…。もういたしませんです…。」
一左が腹を抱えて笑っている。修も馬鹿馬鹿しくなってそれきり二人を叱らなかった。
軽く旅に出ることになった経緯を話し、必要な準備をしておくようにとだけ指示した。
旅の準備をしながら史朗は不安で胸が一杯になっていた。いくら親戚とはいえ見も知らぬ人のところを訪ねるのだし、人が亡くなっている上に、鬼だの、生まれ変わりだの、訳の分からないことを言う人たちと道連れ…。
ふいにあの修のあの視線を思い出してぞっとした。
『…殺すからね…。』は多分本気なんだろう。『僕は絶対に裏切ったりしないってば…。修さん信じてくださいよ…。だって…。』
仕度の手を止めて史朗はちょっと溜息をついた。史朗の脳裏に浮かんだのは修のようで修ではない人の顔…。『樹さま…。』と史朗はその人の名を呼んだ。その声ではっと現実に戻った。
何を口走ってるんだ僕は…。こんなこと今まで一度もなかったのに…。あの二人に影響されてどこかおかしくなったんじゃないだろうな。
自分だけでもしっかり現実を見ていなくちゃ…と史朗は思った。
次回へ
なにがなんだかさっぱり分からない会話を目の前でされても、史朗は戸惑うばかりだった。
修と彰久は顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
「なにね…。修さんが言うのは、君は前世で僕の息子の華翁だったらしいということなんですよ。」
彰久は言った。『前世って…どうかしてないか?この二人?』史朗は目を丸くした。
「これは芝居じゃないぜ。史朗ちゃん。実はね。この間、偶然、僕らの記憶が一致してね。
千年前に友人だったことが分かったんだ。
で…君の今の記憶も千年前のものなんだよ。しかもその記憶は彰久さんの前世、鬼面川将平の嫡男で華翁という人のものなんだ。」
『完全にいかれてる…。』史朗は天を仰いだ。千年って…そんな記憶が残ってるわけが無いだろ…。でも…待てよ。華翁という言葉には覚えがある。
「華翁…鬼面川…閑平(やすひら)…。」
史朗は呟くように言った。彰久が頷いた。
「そうです。史朗くん。思い出しましたか?」
「少しだけ…でも信じられません。信じたくもありません。」
史朗は明らかにパニック状態だった。修はこれ以上史朗を混乱させるのは酷だと思った。
「いいよ。信じなくても…。無理することはない。
こんなことそう簡単に理解できるもんじゃないんだから…。
彰久さん。 それでいつ発ちます? あなたひとりでは危険ですよ。
僕が御伴します。 どうやら村には小さな温泉宿があるようですから、旅行と称してそこに待機しています。 何かあればすぐに動けるでしょう。」
修のその言葉に彰久は微笑んだ。
「嬉しいですね。 あなたが来て下されば心強いことこの上ない。仕事のこともありますので、今すぐというわけにはいきませんが…来月早々でいかがでしょう。」
「ぼ…僕も行きます。このままじゃなんだか寝覚めが悪いし…。」
史朗がそう言うと二人はまるで父親のような優しい眼差しで史朗を見つめ、心から嬉しそうに頷いて見せた。
洋館の大きな窓から夕闇に包まれたモノクロの景色を見ていると思い出したくもない過去のことが浮かんでくる。
あの林は…笙子と自分の隠れ場所。幼い二人が心と身体に受けた傷をなめあってきた場所…。
「話してしまえばよかったのに…。」
不意に背後から笙子の声がした。後ろからそっと笙子は修の腰に手を回して抱きしめた。
「笙子は心を病んでいてどうしようもないんだって…誰にも治せないんだ…てね。
どうしてそこまで庇うの…?何で自分を悪者にしちゃったりするの…?」
修は答えなかった。背中に笙子の温かい身体が触れる。柔らかな香りが修を包み込んだ。
「酷いことばかりしてるわ…私。 あなたの目の前でだって平然と…。」
「もう…いいよ。何も言わなくていい…。
遊びに理由が必要だというなら、全部僕のせいにしてもかまわない…。
そうしておけば、誰からもから君が指を指されることもない。
誰も理解してくれなくても…何を言われても…僕は平気だ。」
笙子が手を離して修の横に並ぶと修がそっと肩を抱いた。
「忘れないで…笙子…。君が僕を護ってくれたんだよ…。君のここで…僕は生き延びた。」
笙子の腹部に修の手が触れた。笙子の頬を思いがけず涙が伝った。
「僕を救ったのは…間違いなく君自身の胎なんだから…。」
「私の…? これは本当に私のものかしら…?」
修は思わず笙子を抱きしめた。癒してやれないのか…この傷を…この苦しみを。
自分の身体を自分のものと信じることができないもどかしさを…。
どれほどの大きな力を持っていようと人の心を前にしてはなす術もなく…全くの無力…。
ただ笙子のありのままを何もかも受け入れてやるしかない。それが今の修にできることのすべてだった。
外の世界で戦うとなれば長い間の紫峰家の沈黙を破ることになる。
できる限り無関係な人と関わらないように細心の注意を払わなければならない。
紫峰家の不思議な力の存在を世の人に知られてはならない。
「宗主のおまえが禁を犯すというのだから、それなりの訳があるのだろうが…。」
紫峰の力を使うことになるやも知れないと断りを入れてきた修に一左は言った。
「身内が二人関わっています。玲子の婚約者と笙子の彼氏ですが…この二人は鬼面川の一族で…。」
「あの将平と閑平…か? では…彼等もおまえと同じで先祖の魂を引く者…だな。
珍しいことだ。 これほど身近にそういう者が何人も現れるのは…。
その事自体に何か大きな意味があるに違いない。」
一左はしばらく目を閉じて考えた。これが必至のことであるならば反対しても無駄なこと。
紫峰が外に力を向けるのは何もこれが初めてというわけではない。
つい百年くらい前までは時にはそうせざるをえないこともあった。
「藤宮には借りがある。ここできっちり返しておきなさい。手を貸して差し上げたらいい。」
一左が許可を出すと修は深く礼をした。宗主といえど隠居の意見には敬意を払うのが暗黙のしきたりだ。
「修…どうせなら息子たちにも実践訓練をさせたらどうかね。いい機会だと思うが…。
連れて行ってもあの二人なら足手纏いにはならんだろう?」
思いついたように一左は言った。修はちょっと眉を上げて頷いた。
「そうですね。多分…来るなと言っても来るでしょうよ…。
そこのふたり! 馬鹿やってないで顔をだしなさい!」
修がそう言うとばたばたと階段を降りる音がして透と雅人が一左の部屋まで猛スピードで駆け込んできた。
「あはは…。覗き見かね…。困った奴らだ…。」
孫たちの泡食ったような顔を見て一左は笑った。
「修…気をつけた方がいいぞ。新婚さんの部屋を覗いてしっかり…保健の勉強をしとるかも知れん。わははは…。」
眉を顰めて修は二人を見た。二人は思わず一歩退いた。
「まあ…気付いてはいたけどね。で…何か勉強になりましたかね?」
二人はぶんぶんと首を横に振った。
「だろうね…。まあ…それはそれとして…。
聞いていたと思うが、来月早々に出かけることになった。今のところ相手も特定できないし、正直どんな状況に陥るかも知れない。十分気を引き締めてかかること。
いいね…。」
修が念を押すと二人はまた無言でうんうんと頷いた。
「えらく静かじゃないか…? まだ何か悪さしてたのか? 」
「してないってば…。ただ…気になっただけで…。」
『あっよせ!』雅人が顔を顰めて透を止めようとしたが透がうっかり口を滑らせた。
「何が…。」
「修さん…抱き合ってても以前ほど楽しそうに見えないから…。」
修は愕然とした。『よくそこまで観察してるね…。』
正直いって痛い言葉だった。癒してやりたい一心で、今の修はまるで笙子の保護者のようになってしまって、笙子との逢瀬を楽しむ余裕がなかったことに気が付いた。そのことがかえって笙子の心に負担をかけているのかもしれない。
「ふ~ん。覗きは1回や2回じゃなかったわけだ。僕もいちいち気に留めてなかったけど…。
まさか何もかんも見てたとか…?」
「そこまで失礼なことはしてませんですぅ…。修さんひとりじゃないんですからぁ…。」
「ごめんなさいです…。もういたしませんです…。」
一左が腹を抱えて笑っている。修も馬鹿馬鹿しくなってそれきり二人を叱らなかった。
軽く旅に出ることになった経緯を話し、必要な準備をしておくようにとだけ指示した。
旅の準備をしながら史朗は不安で胸が一杯になっていた。いくら親戚とはいえ見も知らぬ人のところを訪ねるのだし、人が亡くなっている上に、鬼だの、生まれ変わりだの、訳の分からないことを言う人たちと道連れ…。
ふいにあの修のあの視線を思い出してぞっとした。
『…殺すからね…。』は多分本気なんだろう。『僕は絶対に裏切ったりしないってば…。修さん信じてくださいよ…。だって…。』
仕度の手を止めて史朗はちょっと溜息をついた。史朗の脳裏に浮かんだのは修のようで修ではない人の顔…。『樹さま…。』と史朗はその人の名を呼んだ。その声ではっと現実に戻った。
何を口走ってるんだ僕は…。こんなこと今まで一度もなかったのに…。あの二人に影響されてどこかおかしくなったんじゃないだろうな。
自分だけでもしっかり現実を見ていなくちゃ…と史朗は思った。
次回へ