鬼の声の正体や鬼面川を取り巻く忌まわしい気配の謎を知るためにこの村を訪れた修たちだったが、道夫の急死によって時間を取られ、結局は何の解決も見ないままに今回は引き上げざるをえなかった。
孝太や隆平のような頼もしい後継者たちに会えたのだけが救いで、彰久も史朗もそのことだけはおおいに満足していた。
「再来月には鬼遣らいがあるで、それまでにはなんとか決めんならん。悪いがまた出直してもらえるか。」
数増はそう言うと自分の家で作った野菜などを沢山持たせてくれた。
末松の姿が道夫の葬儀のときから見えないので心配した彰久が訊ねると、どうやら体調を崩したということで臥せっているらしかった。
「丈夫い人だで心配ないわ。いろいろあって疲れただけだで。寝とっても悪態はつけるでな。」
数増は笑った。
隆平は名残惜しそうに透や雅人と別れを告げ、孝太は彰久や史朗に伝授の礼を言った。
彰久は自分たちが帰った後、孝太や隆平に万一のことがないように内緒でまじないをかけ、修も握手に紛れて二人の身体に防御の印を遺した。
隆弘は土地の土産物を隆平に持たせてよこしたが本人は姿も見せなかった。
釈然としない旅の後ではなんとなく落ち着かない気分ではあるが、翌月の連休辺りに再び一緒に村へ行くことを約束して、皆はいつもの生活へと戻っていった。
職場で会う人毎に、休暇はどうでしたと訊かれるたびに、修は『いや実は知人の葬式でね。』と答え、『来月半ばくらいにまた行かなければならないんだよ。』と伏線を張った。
やっぱり休暇は普段からきっちりとっておくべきだなと改めて思った。
紫峰家の古文書の鬼面川に関する部分ををコピーして隆平宛てに送ったのは帰宅してから2~3日してからのことだが、隆平だけでなく孝太からも早々に丁寧な礼状が届いた。
この二人の手紙にはあの末松からの手紙のようなおどろおどろしい気配はなく、どうやら鬼面川の若い層にはそれほど問題はないように感じられた。
修たちの町でもこのところ朝夕はめっきり涼しくなって、うっかり窓を開けて眠ったりすると風邪をひきそうだった。特に紫峰家の洋館は少し奥まった林の中にあるので、街中よりはずいぶんと気温が低くなる。管理人兼お手伝いの多喜は主のための秋冬の仕度に余念がなかった。
修が生まれたこの洋館は、修の結婚が決まった時に祖父の計らいで大改装され、子どもの頃のあの暗いイメージはすべて払拭されていた。多喜としては修の両親の頃からここで働いていることもあって、全く姿を変えてしまった洋館を見るのは寂しいことだったが、代わりにちょくちょく修が姿を見せるようになったのが何より嬉しかった。
笙子が帰って来る時にはこの洋館が新婚夫妻の居間や寝室になる。家具も厳選されたものが備え付けられ、壁紙や絨毯、カーテンなど落ち着いた美しい装飾が施され、いつでも主人夫妻を迎える準備は整っていたが、笙子が若奥さまとしてここにじっとしていることなどほとんどなかった。
「雅人くんに怒られちゃった。 『いい加減にしてよね。』だって…。」
笙子が呟いた。
「ねえ…。 修。 私、別に悪気はなかったんだけどなあ。」
柔らかな肌掛けの感触と笙子の肌の温もりが、修を半ば眠りの世界へ引きずり込もうとしていた矢先、笙子は思い出したように言った。
「ん~。 何の話…? 」
「だから…雅人くんを嗾けるっていう…冗談よ。」
『ああ…その話か…。』と、修は思った。
「微妙な年頃なんだよ。それでなくても君のその一風変わった感覚について行くのは大変だ。」
欠伸を噛み殺しながら修は言った。
笙子はむっとした顔をしていきなり修を跨いでドカッと腰を下ろした。
「誰が大変だって? どこ探したって、こんなに分かりやすいお姉さまはいないわよ。」
修は笙子の重みにちょっと顔を顰めたが、両手でぽんぽんと笙子の両方の腿を叩いて言った。
「ギブアップ! 笙子! 降参!」
笙子はそのまま修の上に身体を重ねた。
「別にいいと思わない? 好きか嫌いかってだけで…。 単純明快に。」
「う~ん。 悪いこととは思わないけどね。 性別という社会的規範をぶっ飛ばすほど同性を好きになってみないと僕にも何とも言えないなあ…。 そこまでの経験はまだないからな…。
好きになっちまえばそれまでなんだろうけど。 」
修はぼんやりと天井の方を見ていた。
「誰かさんを好きになってみたら?」
「…本気で僕を怒らせたい?」
修の声が怒気を帯び、笙子に向ける眼つきが険しくなった。
こういう時の修とは下手に議論はしない方が得策…。
笙子は鼻先でふふんと笑うと思いっきり自分の身体を修に押し付けた。
修は再び天井を仰いだがその目にはもう怒りの色は浮かんでいなかった。
「誰かさん見てるわよ…。」
笙子の囁くような言葉に修は辺りを探った。
二人が慌てふためく気配と『やべえ!』と言う声をキャッチした。
「あいつら…またか…。」
修は呆れたように溜息をついた。
腹を抱えて笑う笙子を尻目に、修は二人めがけて拳骨とメッセージを送った。
「ここから先は18禁!」
修の拳骨とメッセージを受け取った二人は、じんじんする拳骨の痕を撫でながら『やあ~。まずったぜ。』と言い合った。『勉強しそこなった。』
「なあ…あれおまえのことだろ…。」
透が訊いた。雅人は無言で頷いた。
「修さんて人はさ。男惚れされるタイプなんだよな。
普段は静かで穏やかなのに、いざとなると気っ風はいいし、度胸はあるし、面倒見がいい。
ちょっと女に優しすぎるのが玉に瑕…。
おまえってばここへ来た当初から修さん命だったし…。僕もずいぶんやきもち焼いたけどさ…。」
透は思い出し笑いをした。
「あの人は、僕のこと絶対に恋愛の対象には見てないよ。 僕の方が一方的に惚れてるだけ。
いいんだよ。僕は修さんの右腕になって役に立ちたいだけさ。恩返しができればそれで…。
ただね…笙子さんの悪戯が気に喰わないんだ。」
笙子の悪戯に悪意はないが、そのことで修が傷つくのを雅人は黙って見ていられなかった。
修は何度傷つけられても何も言わない。ただ笑って許してしまう。
それが修の優しさなのか、弱さなのかは分からないけれど、見ているほうがたまらない。
或いはひょっとしたら、女のすることなんて目くじら立てるほどのことじゃないとでも思っているのかもしれないが…。
「あ…。メールだ。 隆平くんからだぜ。」
隆平のメールは入力間違いが多くて、ひどく慌てているような感じがした。
『父がかんかんに怒っています。
僕が孝太さんから祭祀の所作と文言を教わっているのがばれてしまったのです。
今は孝太さんも出入り禁止で…会うこともできません……。
父が……。』
なぜか内容も途切れ途切れで、まるで誰かの目を盗んで助けを求めているようにも思えた。
透は内容確認のメールを送ったが返事はなかった。
「どうしよう。雅人。ここから隆平くんのことが分かるかい?」
「普通なら分かるはずなんだけど…誰かに邪魔されてるみたいで。」
二人はなんだか胸騒ぎを覚えた。修に伝えるべきかどうか…。
「取り敢えず、修さんのところへ行こう!」
「だ…だって今お取り込み中で…。」
「そんなのいつだってできるんだからさ。行こうぜ!」
雅人は強引に透を引っ張った。
二人は暗い林の道を修のいる洋館に向かって急いだ。
いつもならそんなにかからない道のりがものすごく長く遠く感じられた。
次回へ
孝太や隆平のような頼もしい後継者たちに会えたのだけが救いで、彰久も史朗もそのことだけはおおいに満足していた。
「再来月には鬼遣らいがあるで、それまでにはなんとか決めんならん。悪いがまた出直してもらえるか。」
数増はそう言うと自分の家で作った野菜などを沢山持たせてくれた。
末松の姿が道夫の葬儀のときから見えないので心配した彰久が訊ねると、どうやら体調を崩したということで臥せっているらしかった。
「丈夫い人だで心配ないわ。いろいろあって疲れただけだで。寝とっても悪態はつけるでな。」
数増は笑った。
隆平は名残惜しそうに透や雅人と別れを告げ、孝太は彰久や史朗に伝授の礼を言った。
彰久は自分たちが帰った後、孝太や隆平に万一のことがないように内緒でまじないをかけ、修も握手に紛れて二人の身体に防御の印を遺した。
隆弘は土地の土産物を隆平に持たせてよこしたが本人は姿も見せなかった。
釈然としない旅の後ではなんとなく落ち着かない気分ではあるが、翌月の連休辺りに再び一緒に村へ行くことを約束して、皆はいつもの生活へと戻っていった。
職場で会う人毎に、休暇はどうでしたと訊かれるたびに、修は『いや実は知人の葬式でね。』と答え、『来月半ばくらいにまた行かなければならないんだよ。』と伏線を張った。
やっぱり休暇は普段からきっちりとっておくべきだなと改めて思った。
紫峰家の古文書の鬼面川に関する部分ををコピーして隆平宛てに送ったのは帰宅してから2~3日してからのことだが、隆平だけでなく孝太からも早々に丁寧な礼状が届いた。
この二人の手紙にはあの末松からの手紙のようなおどろおどろしい気配はなく、どうやら鬼面川の若い層にはそれほど問題はないように感じられた。
修たちの町でもこのところ朝夕はめっきり涼しくなって、うっかり窓を開けて眠ったりすると風邪をひきそうだった。特に紫峰家の洋館は少し奥まった林の中にあるので、街中よりはずいぶんと気温が低くなる。管理人兼お手伝いの多喜は主のための秋冬の仕度に余念がなかった。
修が生まれたこの洋館は、修の結婚が決まった時に祖父の計らいで大改装され、子どもの頃のあの暗いイメージはすべて払拭されていた。多喜としては修の両親の頃からここで働いていることもあって、全く姿を変えてしまった洋館を見るのは寂しいことだったが、代わりにちょくちょく修が姿を見せるようになったのが何より嬉しかった。
笙子が帰って来る時にはこの洋館が新婚夫妻の居間や寝室になる。家具も厳選されたものが備え付けられ、壁紙や絨毯、カーテンなど落ち着いた美しい装飾が施され、いつでも主人夫妻を迎える準備は整っていたが、笙子が若奥さまとしてここにじっとしていることなどほとんどなかった。
「雅人くんに怒られちゃった。 『いい加減にしてよね。』だって…。」
笙子が呟いた。
「ねえ…。 修。 私、別に悪気はなかったんだけどなあ。」
柔らかな肌掛けの感触と笙子の肌の温もりが、修を半ば眠りの世界へ引きずり込もうとしていた矢先、笙子は思い出したように言った。
「ん~。 何の話…? 」
「だから…雅人くんを嗾けるっていう…冗談よ。」
『ああ…その話か…。』と、修は思った。
「微妙な年頃なんだよ。それでなくても君のその一風変わった感覚について行くのは大変だ。」
欠伸を噛み殺しながら修は言った。
笙子はむっとした顔をしていきなり修を跨いでドカッと腰を下ろした。
「誰が大変だって? どこ探したって、こんなに分かりやすいお姉さまはいないわよ。」
修は笙子の重みにちょっと顔を顰めたが、両手でぽんぽんと笙子の両方の腿を叩いて言った。
「ギブアップ! 笙子! 降参!」
笙子はそのまま修の上に身体を重ねた。
「別にいいと思わない? 好きか嫌いかってだけで…。 単純明快に。」
「う~ん。 悪いこととは思わないけどね。 性別という社会的規範をぶっ飛ばすほど同性を好きになってみないと僕にも何とも言えないなあ…。 そこまでの経験はまだないからな…。
好きになっちまえばそれまでなんだろうけど。 」
修はぼんやりと天井の方を見ていた。
「誰かさんを好きになってみたら?」
「…本気で僕を怒らせたい?」
修の声が怒気を帯び、笙子に向ける眼つきが険しくなった。
こういう時の修とは下手に議論はしない方が得策…。
笙子は鼻先でふふんと笑うと思いっきり自分の身体を修に押し付けた。
修は再び天井を仰いだがその目にはもう怒りの色は浮かんでいなかった。
「誰かさん見てるわよ…。」
笙子の囁くような言葉に修は辺りを探った。
二人が慌てふためく気配と『やべえ!』と言う声をキャッチした。
「あいつら…またか…。」
修は呆れたように溜息をついた。
腹を抱えて笑う笙子を尻目に、修は二人めがけて拳骨とメッセージを送った。
「ここから先は18禁!」
修の拳骨とメッセージを受け取った二人は、じんじんする拳骨の痕を撫でながら『やあ~。まずったぜ。』と言い合った。『勉強しそこなった。』
「なあ…あれおまえのことだろ…。」
透が訊いた。雅人は無言で頷いた。
「修さんて人はさ。男惚れされるタイプなんだよな。
普段は静かで穏やかなのに、いざとなると気っ風はいいし、度胸はあるし、面倒見がいい。
ちょっと女に優しすぎるのが玉に瑕…。
おまえってばここへ来た当初から修さん命だったし…。僕もずいぶんやきもち焼いたけどさ…。」
透は思い出し笑いをした。
「あの人は、僕のこと絶対に恋愛の対象には見てないよ。 僕の方が一方的に惚れてるだけ。
いいんだよ。僕は修さんの右腕になって役に立ちたいだけさ。恩返しができればそれで…。
ただね…笙子さんの悪戯が気に喰わないんだ。」
笙子の悪戯に悪意はないが、そのことで修が傷つくのを雅人は黙って見ていられなかった。
修は何度傷つけられても何も言わない。ただ笑って許してしまう。
それが修の優しさなのか、弱さなのかは分からないけれど、見ているほうがたまらない。
或いはひょっとしたら、女のすることなんて目くじら立てるほどのことじゃないとでも思っているのかもしれないが…。
「あ…。メールだ。 隆平くんからだぜ。」
隆平のメールは入力間違いが多くて、ひどく慌てているような感じがした。
『父がかんかんに怒っています。
僕が孝太さんから祭祀の所作と文言を教わっているのがばれてしまったのです。
今は孝太さんも出入り禁止で…会うこともできません……。
父が……。』
なぜか内容も途切れ途切れで、まるで誰かの目を盗んで助けを求めているようにも思えた。
透は内容確認のメールを送ったが返事はなかった。
「どうしよう。雅人。ここから隆平くんのことが分かるかい?」
「普通なら分かるはずなんだけど…誰かに邪魔されてるみたいで。」
二人はなんだか胸騒ぎを覚えた。修に伝えるべきかどうか…。
「取り敢えず、修さんのところへ行こう!」
「だ…だって今お取り込み中で…。」
「そんなのいつだってできるんだからさ。行こうぜ!」
雅人は強引に透を引っ張った。
二人は暗い林の道を修のいる洋館に向かって急いだ。
いつもならそんなにかからない道のりがものすごく長く遠く感じられた。
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