椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

6月20日のまち 旧前田家本邸 その15

2019-06-30 12:17:31 | 建築

酒井美意子「ある華族の昭和史」から

・父はドイツやフランスに私費留学したほか、頻繁に欧米諸国へ出張し、陸軍きっての外国通となる。

武官というものは任務が機密諜報であることは公然の秘密であるが、父もまた滞在国の要人や各国の駐在武官達とゴルフやブリッジに興じながら軍の機密を探り合い、社交界の美人たちとワルツを踊りながら情報を蒐集した。

・彼は屡々(しばしば)、滞在国の美青年を使ったり何人もの男女のスパイを操って軍の高官に接近させ、動員兵力、倉庫、航空技術などを探らせた。それを暗号に組んで参謀本部あてに通報する。これをするには途方もない費用がかかるが、父はすべて私費でまかなった。

・昭和十二年十二月、弘前第八師団を率いた前田部隊はソ連国境の綏陽(すいよう)に布陣して防衛にあたった。零下四十度の雪原である。ソ連軍は絶えず越境して来て小競り合いになるが、父は相手の挑発に乗るなと厳命して、事態を穏便に収拾することに心を砕いた。

・しかし当時、植田軍司令官が統率する関東軍やその配下の第三軍(山田乙三中将)の中にはいまだに日露戦争の勝利に溺れて「ソ連恐るるに足らず」と嘯(うそぶ)く将官が少なくなく、事ごとに父と衝突した。

・父は日本陸軍の実力と物量では、飛行機と戦車を主とする大平原の戦闘は勝ち目がないと進言し、中国とソ連の両国を敵とする二正面作戦は絶対に回避すべしと繰り返し意見具申する。わけても関東軍の参謀長の東条英機中将とは屡々(しばしば)机を叩いて激論を交わした。

・だが戦争回避を主張すればするほど、前田中将は弱気と見られ、関東軍の作戦に楯つくと疎(うと)まれて、遂に十四年一月に解任され、予備役に編入されてしまった。

・十四年九月、父はノモンハン惨敗の報を聞いたとき、日記に「残念至極」とのみ書き、愚かな指導者のためにむざむざ犠牲にされた多くの兵卒たちを思やって怒りを抑えかねた。

・太平洋戦争が始まると、父はボルネオ方面陸軍最高指揮官を拝命して軍務に服したが、十七年九月五日、司令部のあるクチンからミリに向け飛行中に消息を絶った。以来、陸海軍合同の捜索の末、十月十七日ビンツル沖の海中から飛行機の残骸とともに遺骨も引き揚げられた。父が愛用の「陀羅尼勝国(だらにかつくに)」の軍刀が”く”の字に曲がり、衝撃のすさまじさを物語っていた。

・墜落の原因は一人の目撃者もないことから、エンジン故障説、落雷説、敵機の襲撃説などが憶測された。戦後になってアメリカ太平洋艦隊の某提督の、「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」との話が伝えられたが、それとてもさだかではない。

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日本でゾルゲが逮捕されたのが1941年(昭和16年)、処刑は1944年(昭和19年)ということにも影響があるのかどうか。

前田利為は、東条英機と同期でいずれ陸軍大臣、首相といわれた人物であったので、戦後に戦犯とされて処刑されることになったかもしれません。

戦争は、有能な人物から先に命を奪っていくこともありそうです。

前田利為がどういう人物かも知らずに駒場公園を訪れて、この広大な建物を見学することになったのは不思議としか言いようがありません。カメラもくたびれるはずです。

時代も土地も家柄も選んで生まれることはできない・・・・・

けれど、伝えたい思いは伝わるのだ、ということではないでしょうか。

 


6月20日のまち 旧前田家本邸 その14

2019-06-30 09:36:47 | 建築

 階段周りも気になります。

洋館2階は侯爵家の居住空間だったようです。とくに夫人室が立派で豪華でした。

イギリス製の家具が並べられ、壁紙・カーテンなども特別のように感じられました。

前田利為侯爵の夫人菊子について こちら 

旧姫路藩酒井家の出身とのこと。

菅原道真の加賀前田家よりも土師氏→大江氏を先祖とする酒井家の方が格上!ということのようです。

世界恐慌は1929年(昭和4年)→ こちら

このころ円高となっていたようですから、多くの調度品購入や高級建材をふんだんに使うことができた、ということかもしれません。

また、前田利為は情報収集という役割もあったようなので、外国人バイヤーから多くの情報を提供されたということもありそうです。

私のカメラが豪華な部屋にびっくりしたらしく、2階で動かなくなってしまったのが残念です。


6月20日のまち 旧前田家本邸 その13

2019-06-28 15:16:15 | 建築

1階で魅力的だと思ったのは階段下のスペースでした。

マントルピースと隠れたところにソファがあります。

こういったスペースをイングルヌックというのだとか。

待合室とか来客同士が挨拶を交わすとかさまざまに使われたことでしょう。

広い部屋よりも小さな部屋のほうが居心地がいいのではなかろうか・・・・と思ったりします。

広壮な家を建てようかとお考えの方はご一考を。


6月20日のまち 旧前田家本邸 その12 つづき

2019-06-28 15:12:04 | 建築

窓についてもそれぞれが表情が異なっているように感じられます。

ガラスの縁が外側でカットされているのと内側でカットされている部屋があるようです。

たとえば太陽光線が部屋に入り床で虹色になる効果があるんだとか。

食堂です。

イギリスで暮らしたことから、食事は洋風であったようです。

前田利為夫妻は、内外の接客でパーテイ続きであったようで、外国人の賓客の接待のほかに軍人の宴会も開かれたようです。

 


6月20日のまち 旧前田家本邸 その12

2019-06-28 14:44:16 | 建築

意匠に使われている装飾は、ギリシア由来の「アカンサス」というものだとか。

→ こちら  

 

あちこちに使われていて、装飾が過剰じゃないか・・・・ギリシアがヨーロッパ思想の源として尊重されているからなのだろうか、などと思ったりしたのですが、よくみると菊の葉に似ているんですよね。

アザミの種類でアザミはキク科だったとは。なおアカンサスはハアザミ属でキツネノマゴ科とのこと。またアザミはスコットランドの国花のようです。→ こちら

 

キクもアザミも食用になる、ということにも共通点があります。

酒井美意子によれば、父である前田利為は、いずれ日本に革命が起こると考えていたようですが、それでも残るもの、としてこの建物を考えたのではないでしょうか。

確かに数々の変遷にも関わらず残っています。

前田利為について こちら

戦死した加賀のお殿様の遺言としてこの建物があるような気がしてきます。

 

 

 

 


6月20日のまち 旧前田家本邸 その11

2019-06-27 19:48:50 | 建築

イギリスのカントリー・ハウス風の意匠だとのこと。

チーク材の梁です。

ドアの高さで部屋のそれとなく格付けがあったりするのだとか。

軍人の客と華族・皇族の客を通す部屋があったそうです。

細部の意匠が各部屋で違うとのこと。

マントルピースの周囲の壁紙は金唐紙(凝革紙)とのこと。

(つづく)


6月20日のまち 旧前田家本邸 その10

2019-06-27 19:06:08 | 建築

欲張って、洋館も見学しました。

こちらでは、見学される方たちが大勢いましたので、写真をあまり撮ることができませんでした。

男性のボランティア・ガイドの方から詳しい説明をしていただきながら、10数人のグループで回りました。

あちこちの装飾にびっくりです。

洋館の1階は、お客様のおもてなしスペースとのこと。

(つづく)


6月20日のまち 旧前田家本邸 その9

2019-06-27 13:01:40 | 建築

再び、案内パンフレットから

・和館は、主に外国からの賓客をもてなすために建てられ、四季折々の前田家の行事にも用いられました。木造2階建ての近代和風建築で、庭園側から見ると銀閣寺とプロポーションが似ています。茶室や待合も備え、洋館とは渡り廊下で繋がっています。

・洋館と和館を結ぶ渡り廊下は、中央の東屋を境にして洋館側は洋風、和館側は和風のデザインになっています。設計者の塚本靖は、その境界に小松城の葭島(よしじま)御殿兎門扉を用いて「洋式より和式に移る際に自然に気分を転換させる設計」にしたといいます。この扉は現在、小松市立博物館に所蔵されています。

(ネットで調べたところでは金沢・兼六園成巽閣に所蔵されている?)

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職人さんたちの気合や意気込みがあちこちに感じられます。

この昭和の初めのころ、日本は円高で昭和恐慌と呼ばれる状況であったようです。

前田利為侯は景気浮揚も兼ねての工事を決断したのではないでしょうか。

 

酒井美意子「ある華族の昭和史」 講談社文庫 1986年 

を並行して読むと、日本史のさまざまな疑問が解けていく気がしてきます。

酒井美意子は前田利為の長女で、「華族」には様々な役割があったのだ、ということがわかります。

前田家は、戦国時代から明治まで生き延びてきた、ということも着目するべきではないでしょうか。

 

明治維新を乗り切るには、現代人がなかなか理解できない多種多様な能力が必要であったのだ

と垣間見る思いがします。

少しでもその力を分けてもらいたいですよね。


6月20日のまち 旧前田家本邸 その8

2019-06-27 12:01:48 | 建築

茶室です。

この水屋が新鮮に感じたりします。

小さな部屋に開口部分が機能的に考えられています。

出入口はもちろん、会話が途切れないように、器を外に出すとか。

天井です。

密談のためにこういった部屋が必要だったのでしょうね。

刀を持ち込めない、あるいは壁の耳、障子の目を許さない

膝をつき合わせて1人の人間として話をする・・・・・

 

現代人の、茶の湯の優雅さとは縁遠い私からは、なるほどほんとうの贅沢とは茶室の形にあるのだと発見した思いがします。

戦国武将が到達した心安らぐ空間・・・・・平和の1つの形を現すものなんですね。

もしかしたら茶室を輸出できて、茶道具やお茶、茶碗も・・・・