酒井美意子「ある華族の昭和史」から
・父はドイツやフランスに私費留学したほか、頻繁に欧米諸国へ出張し、陸軍きっての外国通となる。
武官というものは任務が機密諜報であることは公然の秘密であるが、父もまた滞在国の要人や各国の駐在武官達とゴルフやブリッジに興じながら軍の機密を探り合い、社交界の美人たちとワルツを踊りながら情報を蒐集した。
・彼は屡々(しばしば)、滞在国の美青年を使ったり何人もの男女のスパイを操って軍の高官に接近させ、動員兵力、倉庫、航空技術などを探らせた。それを暗号に組んで参謀本部あてに通報する。これをするには途方もない費用がかかるが、父はすべて私費でまかなった。
・昭和十二年十二月、弘前第八師団を率いた前田部隊はソ連国境の綏陽(すいよう)に布陣して防衛にあたった。零下四十度の雪原である。ソ連軍は絶えず越境して来て小競り合いになるが、父は相手の挑発に乗るなと厳命して、事態を穏便に収拾することに心を砕いた。
・しかし当時、植田軍司令官が統率する関東軍やその配下の第三軍(山田乙三中将)の中にはいまだに日露戦争の勝利に溺れて「ソ連恐るるに足らず」と嘯(うそぶ)く将官が少なくなく、事ごとに父と衝突した。
・父は日本陸軍の実力と物量では、飛行機と戦車を主とする大平原の戦闘は勝ち目がないと進言し、中国とソ連の両国を敵とする二正面作戦は絶対に回避すべしと繰り返し意見具申する。わけても関東軍の参謀長の東条英機中将とは屡々(しばしば)机を叩いて激論を交わした。
・だが戦争回避を主張すればするほど、前田中将は弱気と見られ、関東軍の作戦に楯つくと疎(うと)まれて、遂に十四年一月に解任され、予備役に編入されてしまった。
・十四年九月、父はノモンハン惨敗の報を聞いたとき、日記に「残念至極」とのみ書き、愚かな指導者のためにむざむざ犠牲にされた多くの兵卒たちを思やって怒りを抑えかねた。
・太平洋戦争が始まると、父はボルネオ方面陸軍最高指揮官を拝命して軍務に服したが、十七年九月五日、司令部のあるクチンからミリに向け飛行中に消息を絶った。以来、陸海軍合同の捜索の末、十月十七日ビンツル沖の海中から飛行機の残骸とともに遺骨も引き揚げられた。父が愛用の「陀羅尼勝国(だらにかつくに)」の軍刀が”く”の字に曲がり、衝撃のすさまじさを物語っていた。
・墜落の原因は一人の目撃者もないことから、エンジン故障説、落雷説、敵機の襲撃説などが憶測された。戦後になってアメリカ太平洋艦隊の某提督の、「ジェネラル・マエダはB29の編隊が撃墜した」との話が伝えられたが、それとてもさだかではない。
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日本でゾルゲが逮捕されたのが1941年(昭和16年)、処刑は1944年(昭和19年)ということにも影響があるのかどうか。
前田利為は、東条英機と同期でいずれ陸軍大臣、首相といわれた人物であったので、戦後に戦犯とされて処刑されることになったかもしれません。
戦争は、有能な人物から先に命を奪っていくこともありそうです。
前田利為がどういう人物かも知らずに駒場公園を訪れて、この広大な建物を見学することになったのは不思議としか言いようがありません。カメラもくたびれるはずです。
時代も土地も家柄も選んで生まれることはできない・・・・・
けれど、伝えたい思いは伝わるのだ、ということではないでしょうか。