平尾魯仙「安門瀑布紀行」平尾魯仙顕彰会 平成二十九年 という本を入手しました。
この本の巻末に、前の記事にある3つの滝の絵が掲載されています。
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本文より
「安門瀑布紀行」は、最近になって宮内庁書陵部に存在が確認された画帳で、平尾魯仙の正真正銘の直筆本である。
画帳三冊(五二画)と解説書一冊からなり、「明治九年夏六月改写、六九翁平尾亮致」の奥付があり、画一,二二には宮内省図書印が押してある。
この画帳は、文久二年(1862)六月一日(旧暦)、魯仙が五五歳の時に弟子の三上仙年らと共に、領内随一の佳景といわれる「暗門の滝」を見に行った際の記録である。
弘前から徒歩で西目屋の奥、暗門の滝を写生に出掛ける三日に亘る探訪であった。滝までの道のりは約九里(35㎞余)もあり、今と違って非常に不便な所であったが、滝の全景の見える所を探しだし、三の滝、二の滝、一の滝と遂にその全景を写すことに成功した。
「安門奇勝」はその写生画をもとにして、初めて見た感激を心象風景画として、一心不乱に描き、全部で四十枚の画稿に三日間でまとめあげたものである。
「安門紀行」は更にそれらに、急峻な岩を藁縄(わらなわ)でよじ登る場面なども加えて、五二枚の彩色画にし、さらに紀行文を添えて完成させた。
慶応元年(1865)、この「安門紀行」を京都出張の弘前藩士須藤勝五郎に託し、前関白近衛忠熈公の高覧に供した後、慶応二年、近衛家護衛のため京都に上った弟子の三上仙年が持ち帰った。その際、近衛公より和歌短冊と杯を下賜されている。
魯仙は明治九年七月の明治天皇東北ご巡幸に祭し、文久二年に画いた「安門紀行」を、斎戒沐浴し改写して「安門瀑布紀行」として完成させ、天覧に供した。その際、これを献上しようとしたが果たせず、心残りのまま逝去した。それを前述の様な縁により、魯仙の外孫(三上思清、土岐安)が明治二八年に近衛篤麿公爵を通して皇室へ働きかけることによって献納が実現したと平尾家に伝えられている。
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平尾魯仙は国学者でもあったので万物に霊魂ありという思想を持っていたのだとか。
そのためか、気迫といったものを感じたりします。
また明治維新前後の津軽藩と近衛家との関係が垣間見えたりします。
安門の滝が暗門の滝とされる理由について興味深い説があったりします。→
こちら
現在では観光用に道が整備されているようで、ネットで写真や動画がアップされています。
それでも、江戸末期に命がけで出かけて描いたというあれこれの絵はたいへん貴重なものとして感じられます。