椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

家族のアルバムから 1

2023-02-22 00:55:33 | 藤村瞬一

神戸のグループホームでお世話になっている97歳になった義姉が老衰でそろそろ準備を、ということで古いアルバムを開いたところ、1枚の写真が目に入りました。

35年ほど前の家族旅行の写真です。

中央は主人の従姉の方で、江田島の旧海軍兵学校でお勤めされていて見学に誘ってくださったときのものです。

この方の娘さんが神戸在住で、義姉のあれこれの用事をしていただくことになり、たいへん助かりました。

見学では、人間魚雷「回天」に衝撃を受けたことを思い出します。

「回天」について 周南市「回天」記念館HPは こちら

 

主人は、朝遅く出かけて夕方には帰ってきて子どもたちと接する時間は多かったように思います。

年子の息子たちは、このころ二男のほうが大きくて、こちらがお兄ちゃん?とほかの方から言われて長男がむくれておりました。

それにしても、この写真がすぐ目に入ったのは、なぜなのでしょうか。

主人は義姉のことが気にかかったのか、それとも国際情勢が気になったのか。

主人は亡くなっても、このように身近に存在するものとして感じられます。

かえって頼もしい面もあるような。

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多大な軍事費によって最新型の軍艦をそろえた最強の海軍が戦争末期にこのような「回天」を兵器として使ったことはそれほど知られていないのではないでしょうか。

回天記念館HPから

日本側の戦死者は、回天搭乗員106名、回天整備員36名ほか合計145名(訓練中の殉職者、戦後の自決者を含める)で、さらに回天戦に参加した未帰還の潜水艦は8隻で、その搭乗員数は811名を数えます。

日本に原爆投下を決断させた1つに、日本軍が飛行機による特攻とともにこのような攻撃をさせていたこともありそうに思います。

現代では海中ドローンという無人の兵器があるそうですが、日本は原子力潜水艦を考慮中とか。また、日本は判断ミスで人命軽視を繰り返すのでしょうか?

犠牲となった多くの人たちは、不毛な悲劇を繰り返してほしくないはず。

日本は声高く平和を主張する義務があると思います。

(追加の写真です)

敗戦が濃厚になると、何でもアリで少しでも戦果を上げたいになっていくのでしょうか。

 

 

 


9月16日のまち

2021-09-28 14:23:49 | 藤村瞬一

秋のお彼岸の前に墓参りに出かけました。

長雨であったりしたので、いつもとはちょっと違うような。

ワイルドとでもいうか。

主人の墓は見晴らしの良いところにあります。下の写真の緑が鮮やかにみえるところは

狭山湖の堤防です。

墓石の周りの草取りをして、上を見上げたら、青いハート☆

霊園近くの畑に大きなカボチャが。ハロウィン用でしょうか?

吾亦紅(ワレモコウ)がきれいです。

キンモクセイがたくさん咲いて香りを放っていました。ついつい災害の警告に感じたりします。

 

天候不順とはいっても季節は巡ってきますね。

四季をしっかり感じることが免疫力を高めることに通じることになりそう。


2月21日のまち

2020-03-07 15:52:24 | 藤村瞬一

命日の前日に墓参りに出かけました。

墓前というものはなぜか落ち着く場所に感じられたりします。

このブログのカテゴリーにあります「藤村瞬一」をご覧いただければと存じます。

 

運動不足なので、少し足を延ばして西武球場前駅のそばの金乗院山口観音に寄ってみました。

金乗院については こちら

奈良時代創建とのことですが、今やさまざまな時代の、あるいはさまざまな国の仏像があり、

先進的な?場所のようにも感じられたりします。

1999年に建てられたという五重塔が奥まったところにあります。

 

そういえば、この先にある狭山湖と多摩湖の境を通って武蔵村山に出かけたことがありました。

2012年5月のことです。→ こちら

主人は今の家に引っ越してきたときに、サムライの夢を見たとかで家のまわりに塩をおいたことがあります

遠い昔、このあたりは戦場となったことがあったのでしょうか。

 

主人の墓は見晴らしの良いところにあります。見張ってくれているのかもしれません。

 


5月28日のまち アメリカ軍産複合体

2019-05-28 23:43:01 | 藤村瞬一

また片付けの中で、主人の書いたものを見つけました。

小原敬士編「アメリカ軍産複合体の研究」日本国際問題研究所 1971年

筆者は、

小原敬士、藤村瞬一、片岡寛光、泉昌一、斎藤 真、木村修三、清水知久(執筆順)となっています。

小原敬士先生による「はしがき」によると、1969年の春、日本国際問題研究所で「アメリカ軍産複合体」に関する専門研究部会を組織し、1年間定期的に会合をもって共同研究を行った成果であるとのこと。

小原敬士先生については こちら

「軍産複合体」のさまざまの側面について分析を行ない、それをまとめたものとしては、わが国で最初のものではないか、とあります。

主人は「軍産複合体の起源をめぐって」という題で40頁余りで論じています。

統計表を多用している部分を引用するのは難しいため、最後のまとめの部分から一部ご紹介いたします。

・このようにみていくと、アメリカ国民にとっては第2次世界大戦とはなんであったかと問われれば、まさに「繁栄であった」と答えるよりはほかにない。いいかえれば、ニューディ―ルがなしえなかったことを戦争がやりとげたのである。第1次世界大戦につづく2度目の異常な繁栄の体験は、もはや道義問題をのり越えて戦争を評価するという考え方が国民の中に、なかんずく企業家や政治家の間に浸透したのも当然のことであるといえよう。

 

・いったん不況が到来すればその打開策としてきわめて効果的であった軍備の拡張の道を安易に想起しがちになる。つまり産業が軍の調達によって切り抜けようとする、いわゆる軍産複合の企業マインドが経済界一般に浸透したのも、まさに第2次世界大戦の経験ゆえであり、これが国防景気の反動として急激な経済の停滞に見舞われると、発展途上国における内乱への軍事介入(朝鮮戦争あるいはヴェトナム戦争)を絶好の景気回復策として利用するようになる。

 

・こうしてアメリカは、戦争を準備し、連合国の兵器廠の役割を果たすことによって、たしかに不況を脱却し、それどころか異常な繁栄すら手に入れることができた。しかしその反面、みずからもっとも理想とする自由企業の精神を喪失するという高価な犠牲をも払わねばならなかった。

 

過去30年間にわたって累積されてきたこのアメリカの軍産複合体制は、一時に除去してしまうことはきわめて困難な事業かもしれない。しかしアメリカはこの体質から脱却しない限り、現在世界最強を誇る経済力を次第に弱体化し、長期的には生存不能に陥ってしまうことにもなりかねない。アメリカの将来は軍産複合体との戦いにかかっているといっても過言ではない。

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この論文が書かれた1971年は、主人はまだ独身で埼玉大学非常勤講師でした。

主人の書いたものでは、もっともシャープなものとして感じられたりします。

結婚して子どもができたため、こういった表を多用して分析するようなことができなくなったのか、それとも軍産複合体に触れたりするようなことはやめようと思ったのか、聞いてみたい思いに駆られます。

 


5月17日のまち 

2019-05-17 23:50:24 | 藤村瞬一

押し入れの隅にあった段ボール箱から、主人の雑誌などに書いた記事の切り抜きが出てきました。

進路を考えている高校生向けに書いたものがありましたのでご紹介いたします。


『国際関係のより深き洞察を』

 1990年10月、まさかと思われた東西ドイツの統一が実現した。また東ヨーロッパでは、自由と民主化を求めて民衆が支配権力に立ち向かい、想像もできなかったことだが、社会主義体制は音を立てて崩れ落ちた。

 東ヨーロッパは、今ようやく落ち着きをを取り戻しつつある。しかし真の再生はこれからが正念場であろう。と言うのは、これらの国々で当初高く掲げられていた民主革命の旗は、経済的により恵まれた生活を求める人々の波によってかき消されようとしているからである。

 もし自由と民主化を求めるという当初の目標が見失われるようなことがあると、再び元の暗い時代への逆戻りとは言わないまでも、それを繰り返すであろう歴史の出発点に再び立ち戻ってしまうことにもなりかねない。

 西ドイツの作家ギュンター・グラスが、東西ドイツの統一に熱狂する両ドイツ国民に向かって「心の準備のない急激な統一は有害である。統一を達成するためには、まだまだ精算されねばならないことがたくさんある」と警告している言葉に耳を傾けよう。

 国際関係学という学問は、単に国家間の交渉、国際経済発展の予測・展望という問題だけを扱う学問ではない。人間が人間らしく生きる社会をどう築くか、どう守り抜くかを根底に据えて学ぶことが不可欠なのである。

 国際化の時代と言われるが、華々しい国際社会での現象だけに目を奪われていては、地球に真の平和が訪れる日は遠いのである。

(福武書店「学部学科徹底研究」1991年)

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 人間が人間らしく生きる社会をどう築くか、どう守り抜くか を考えずに

国際化の波に乗り遅れるな、リニア新幹線だ、5G革命だ、と煽られているような気がします。

 そういえば、1991年は、まだ神戸の震災も東北大震災も起きる前でした。

震災の教訓から、安全性を確かめること、災害の被害を減らすことが必要である、とつけ加えたいと思います。

 




ヒロシマ原爆投下の日 その4

2019-01-26 15:47:14 | 藤村瞬一

最終講義には私も出かけましたが、プリントは用意してあったものの声も以前の張りがなくなっていて、どちらかというとわかりにくいものであったかもしれません。

ヨーロッパの戦地を訪ねたこととかヒトラーのことを話したほうがよかったのに、と思ったりしました。

よく考えてみると、17歳で原爆に遭遇し、広島のこの世のものとは思えない惨状は主人の心身に大きな影響を与えたのだと思います。

最後の入院で認知症になったかと思ったとき、メモ用紙に広島と書いて得意そうな顔をしていたことを思い出します。

名前が書けない状態であったのに・・・・・

17歳から亡くなるまで、なぜこのような戦争が起きるのか、を調べた時間は、ほかの方よりもずいぶん長かったのではないでしょうか。

先日、主人のノートにメモを見つけました。

                 

80歳ぐらいになって書いたものだと思います。

 

 戦争の本質 

競争、利潤の無限大の追及(→追求ですね)人間の拮抗心、征服(支配)欲、優位、信仰

 とのことです。

欲や拮抗心などを煽られて戦争への道に踏み込まないように、参考にしていただければと思います。

 


ヒロシマ原爆投下の日 その3

2019-01-26 00:57:40 | 藤村瞬一

5.広島が一貫して投下目標に選ばれた理由

(イ) 西日本最大の軍事都市で7本(現在は6本)の川の洲の上にあり、川が防火の働きをして焼夷弾攻撃に適さず、通常の空襲目標から外れていた。このため無傷のまま残され原爆の目標に最適とされた。

(ロ) 京都と同様、三方を山で囲まれ爆撃効果が大きいとみられた。

(ハ) 七つの川と中央にT字形の珍しい橋(相生橋という)があり、また川の流れに直角に進めば、七本の川があるので必ず広島を探し出せるからと、地形上、目視爆撃には格好の目標になった。*夜間や雲に覆われた天候の時に使われるレーダー爆撃は地上からのレーダー妨害波によって原爆の信管が誤って作動し自爆する恐れがあったので使えなかった。

(二) 広島には連合軍の捕虜収容所がないとみられていた。*実は一か月前の沖縄から飛来した4機のB-24爆撃機のうち、撃墜され捕虜となった米兵など23名が広島城の地下壕に収容されていた2名を除いて被爆死したといわれる。→ こちら

 

6.原爆慰霊碑のこと

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 

 これは有名な、広島の平和公園にある原爆慰霊碑(正式には広島平和都市記念碑という)に書かれてある碑文である。この碑文の英訳はあまり知られていないので、紹介しよう。それは

   Let all the souls here rest in peace;

        For we shall not repeat the evil.

  この碑文は、昭和27年7月26日、元広島高等学校教授で当時広島大学の雑賀忠義教授が、碑文などの造詣が深く、当時の濱井信三市長の委嘱を受けて、自ら筆をとって書き上げたもの。慰霊碑の設計者は同じく広高出身の建築家・丹下健三である。

 ところが同年11月、広島で開かれた世界連邦アジア会議に出席したインドの国際法学者R.B.パル(Radhabinod Pal)博士――東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張した判事――が「原爆を落としたのは日本人ではない。・・・・・・ これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかった」と批判したのに対し、濱井市長は「過去の戦争は明らかに過ちであった。あの碑の前に立つ人々が誰であれ、自分に関する限り、過ちは繰り返さないという誓いと決意を固めることが、将来の平和を築く基礎であり、現在生きている人たちが、それを実践したとき、はじめて地下の霊は安らかに眠ることができる」と反論した。

 また雑賀教授もパル博士あて英語(専攻が英語・英文学で、和歌山出身のアメリカ2世で英語が達者)で上述の碑文の英訳とともに反論の書簡を送り「広島市民であるとともに、世界市民であるわれわれが、過ちを繰り返さないと霊前に誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の心情であり,良心の叫びである。”広島市民の過ちではない”といった狭量な立場に立つ時は、過ちを繰り返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。・・・・・・また(アメリカだけの過ちであるというのは)仏陀の、論理のための論理に陥るな、という戒めに反するではないか」と反論した(11月11日)。

 最近、日本の歴史学者の間でも歴史の流れに反するような修正主義的な主張をするのが目立つ。原点に立ち返る必要を痛感するため、敢えてこのエピソードを紹介してこの一年の、そして本学における講義の幕を閉じたい。静聴ありがとう。


ヒロシマ原爆投下の日 その2

2019-01-25 00:59:08 | 藤村瞬一

3.幻の声、その日の広島放送局

 当日、午前11時ころだったと思うが、苦しそうな男の声で「こちら広島放送局、感度あったら応答ねがいます」を繰り返す連絡放送があったのを記憶している。

 当時は個人用のラジオなどはなかった時代で、寮の廊下のスピーカーから流れていた。「JOBK、JOBK=大阪放送局のコールサイン=」という呼び掛けが入っていたようにも思う。

 ところが1992年に元NHKラジオ番組制作担当の白井久夫氏が書いた『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波新書)によると、当時呼び掛けたのは女性アナウンサーだったり、呼び掛けの内容が私の記憶とかなり違っていたりして、50年も前のこと、私の記憶力にも自信がなくなってしまったが、読み進んでいくと、当日大阪や岡山の放送局と連絡をとろうと繰り返すうち、疲れてきたので、何人かの局員が放送担当外の人も交替でマイクの前に立って叫び続けたとのこと。

だから内容もまちまちだったとのこと。記憶違いでなかったので一安心した。記録や聞き取りの限界を示す一つのエピソードとして紹介しておきたい。

4.東練兵場の老婆のことなど

 プリントには見出しだけなのですが、たびたび聞かされてきたことや残っているメモから

 勤労動員が休みの日で、本来ならば爆心地方面に出かけるところを、主人のいた寮だけが行事があったのだとか。→ こちら

 ・6日当日は、被爆して顔もよくわからなくなってしまった寮生が戻ってきて、夜、機械油を体に塗ったりして看病した。苦しんでうめいていて恐ろしいと思った。

 ・7日に親類宅の様子を見に現在の広島駅北側のあたりを歩いていたら、肩から下げていた水筒に老婆が飛びついて来て怖くて逃げてしまった。

 ・トラックからのおにぎりの配給を待っているとき、倒壊した家の梁に挟まれて動けなくなった姉が猛火に包まれるのを見届けるしかなかった女学生からその話を聞かされた。見ず知らずの人間にでも話さずにはいられなかった?

 


ヒロシマ原爆投下の日 その1

2019-01-21 20:31:31 | 藤村瞬一

主人である藤村瞬一が亡くなってもうすぐ5年になります。

主人の遺した書類の中から、大学の最終講義のプリントが出てきました。最終講義は1997年1月13日に行われています。

ヒロシマ原爆投下の日

1.「エノーラ・ゲイ」(原爆投下機)などの進入経路

 当日のBー29、3機の進入について様々な説があったが、現在は米第21航空軍509混成航空群の作戦任務13号が公開され、全貌が明らかとなった。

 それによると、8月6日午前0時37分(日本時間)、気象観測機3機、広島、小倉、長崎へ出発。テ二ヤン島から広島まで片道約2,400キロ、6時間30分の航程。午前7時すぎ3機は豊後水道を北上、伊予灘で分散、広島担当の「ストレート・フラッシュ」号は、広島上空を3回旋回した後、7時25分ごろ「第1目標を狙え」の暗号無線。

 「エノーラ・ゲイ」と随伴の計測器投下の「グレート・アーチスト」号、写真撮影機「Rー91」号の3機は、午前1時45~49分、テニアンを出発、日本に近づくと高度を9,000メートル近くまで上げ、7時50分四国の大島上空を通過、8時6分松永上空で進路を西方に変え、投下目標から22キロ離れた八本松(現在の東広島市付近)の上空9,480メートルから原爆を投下(午前8時15分17秒)、その後ほとんどダイビングするような角度(60度)で、時速528キロの猛スピードで急降下、高度1,800メートルのところで右旋回しつつ急上昇(加速して離脱距離をできるだけ延ばすため)原爆が投下後、高度600メートル弱で爆発(8時16分)するまでの43秒の間に爆心地から13キロ離れ(可部上空)爆風や熱線の被害から逃れた。

なお写真撮影機「Rー91」は2機とやや離れ、爆発の様子を南側からカメラに納めた。3機は広島上空を3回旋回し、四国の中央を横切る形で帰途についた。

 

2.なぜ、B-29の爆音を耳にしなかったのか?

  4発の大型爆撃機B-29は高々度を飛んでいても、独特の大きな爆音を出す。それが1万メートル近い高度から時速528キロの猛スピードで急降下すれば、かなりの爆音を轟かせて飛ぶはずだ。しかし私には爆音を聞いた記憶がない。

広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』 朝日新聞社 1975年 や 

 長田新編『原爆の子』上下、岩波文庫 1990(1951)年 

には何人かが”物凄い爆音を聞いた”とか”銀色に輝く大きなB-29を見た”ということが書いてある。私がいた寮は爆心地から6キロ離れた所にあって、頭上1,800メートルまで急降下してくれば、そこら一帯に大きなエンジン音がしたはず、と思うのだが聞いた記憶がない。ピカッと光って、それからいきなりドカン!と隣室に爆弾が落ちたような轟音に襲われ、しばらくして、静かになったので、布団をかぶったまま外に飛び出した次第だ。

 いまだに解けないナゾの一つである。

 


7月22日のまち お墓まいり

2015-07-23 08:55:00 | 藤村瞬一
猛暑が続いているため、朝の墓まいりに出かけることにしました。
このごろは7~10日に1度ぐらいの割合で出かけます。
ウォーキングコースとして理想的な感じがしております。

午前7時50分出発、途中、ご近所の方と立ち話をしてお墓には午前8時25分到着でした。
お墓は椿峰ニュータウンがよく見えるところにあります。

途中でも椿峰ニュータウンがよく見える場所があります。


ここは、背後には狭山丘陵の森があって涼しい風が吹いています。
国有地で売地の看板があります。


売れないのであればその間安く貸す、ということはできないものでしょうか。
珈琲や軽食のお店があれば、と思うようなところなので・・・・

主人のお墓に刻んでもらった「瞬」にはさまざまな思いが湧いて来たりします。


主人は、瞬間的な思考が得意だったなぁとか。

年齢差のある結婚は、主人にとっては介護その他の面でよかったかもしれません。
私にとっては、主人から得られた知恵をどう生かすかという課題があります。

「老」および「死」について考えたくないという方たちが多いように思われますが
それでは行政を批判できないのではないか、と思うこのごろです。

猛暑にも関わらず、元気に咲く花があちこちにあります。






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