椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2020年6月 青森へ その3

2020-06-30 01:03:09 | 樹木

この橋の名前が出てこなくて・・・・・松桜橋(しょうおうばし)なんですね。

青森はタクシーが便利です。

 

橋のたもとにあるヤマボウシです。ハナミズキよりもたくましい感じです。

青森は三密があまりないところなので、それが売りになるのかもしれません。


2020年6月 青森へ その2

2020-06-30 00:31:19 | 青森

都道府県をまたぐ移動自粛の解除は19日でしたので、今回は22日から24日までの2泊3日で

宿泊は青森駅に近いダイワロイネットホテルででした。

食事提供は7月からとのことで、23日の朝食は長尾中華そばで煮干し味のラーメンを☆

青森は、旅行者の目で見ると、けっこう気配りのまちです。

新町通りでは歩道に屋根があります。

ベンチもあちこちに。

新町通りのバス停の案内板です。

衰退するという日本での先進県は青森といえますが、悲観しなくてもよさそう。

青森への旅行でリフレッシュをどうぞ。


2020年6月 青森へ その1

2020-06-28 13:28:19 | 日本を元気に

実家の母が昨年10月に亡くなり、相続に関しての用事があり青森に出かけました。

今までと違って、長期自粛で気持ちも萎縮しているのかおっくうというのが正直な気持ちでした。

夕方、大宮駅から東北新幹線へ。

窓から見る、空、山の稜線と水田の緑、樹木は

夕方のせいもあって、私の気持ちにぴったり、というか・・・・・

 

なるほど、こういう励まし方も大事かもしれないと思いました。

 

 

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その11

2020-06-27 12:33:08 | 環境を考える

わずかの時間で、まさにタイムトラベラーとなった国分寺駅までの帰り路は、気温が高いにも関わらずひんやりしていて有難いものでした。

山吹が・・・・(ここにも道灌が、みたいな)

樹木と水はほんとうに大事だと思います。

日本のあれこれの開発は見直す必要がないでしょうか。


6月9日のまち 東京・国分寺で その10

2020-06-26 23:23:16 | 美術館・博物館

長屋門の奥に武蔵国分寺跡資料館がありました。

銅造観世音菩薩立像です。可愛らしい感じです。

武蔵国分寺の軒先瓦が創建期と再建期では違うんだとか。

瓦の郡の刻印が俺たちが一番、と主張しているような。

武蔵国分寺は郡に競い合わせて造ったのかもしれません。

模様や刻印を見ていると元気が出るのはなぜなんでしょうか。


6月9日のまち 東京・国分寺で その9

2020-06-26 10:18:22 | 高齢化社会

この長屋門は、隠居所として使われた後に、幕末から明治時代に分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業して、教育や書画など多方面に活動する拠点として利用されたそうです。

国分寺市教育委員会による「旧本多家住宅 長屋門・倉 見学のしおり」より

村医者・本多雖軒

 天保6年(1835)に国分寺村名主本多良助の四男として生まれた雖軒は、16歳の時に下谷保(しもやほ)村(現国立市)の医者本田覚庵(かくあん)のもとで医学・詩文・書画等を学び、その7年後には長崎へ遊学の旅に出るなど、充実した青年時代を過ごしました。

 覚庵のもとを離れた文久元年(1861)に府中宿で医者を開業し、小川新田(現小平市)名主の娘ちかと結婚すると、慶応元年(1865)には国分寺村へ帰郷します。長屋門を拠点に村医者を営んだ雖軒のもとには、小平・府中・三鷹市域の村々をはじめ、多摩川を越えて八王子や町田市域周辺の患者も通院していたようです。

 書家としても知られ、依頼に応じて多くの幟(のぼり)・扁額(へんがく)などに詩句や語句を揮毫(きごう)した他、自ら書画会を主催するなど、生涯を通じて書画に対する情熱を抱き続けていました。また、府中宿時代には剣術・国学・和歌も習得するなど、北多摩郡を代表する知識人としても活躍しました。さらに、村の教育にも熱心で、明治17年(1884)まで訓導(くんどう・小学校教員)と教導職(きょうどうしょく)を歴任し、同43年(1910)村医者を辞した後は、晩年まで書画や文筆活動に勤しみ、大正5年(1916)に82歳で亡くなりました。

 

こちらのタンスは薬を入れておくもののようです。


本多雖軒は森鴎外の父である森静男に髭なども似ています。

明治時代の医療や教育は、目立たないところで支えられていたという気がします。

 

現代の脆弱性といったものを変えるには、具体的な歴史で考えてみることが大事ではないでしょうか。

脆弱性に気づかずに忙しくしている、ということもありそうです。えっ、スマホのせいもある?

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その8

2020-06-25 14:18:34 | 建築

寺院の国分寺のすぐ近くに、国分寺市重要有形文化財の旧本多家住宅「長屋門」がありました。

代々国分寺村の名主であった本多家の屋敷の入り口に、表門と先代当主の隠居所を兼ねて、江戸時代末期に建てられたものだとか。

シンプルで合理的に感じられるのは、コロナウィルスのせいかもしれません。

隠居となった先代が門番に?

耳が遠かったりしたら・・・・・

たぶんお世話をする人がついていて、大丈夫なんでしょうね。

 

江戸時代から明治にかけて、国分寺村は堅実な合理性をもった名主がいてよかった☆

ということが感じられたりしました。

湧水地がすぐ近くにあるようなこの土地は、かなり価値があったのではないでしょうか。

守り方というものを参考にする必要があると思います。

 

高齢者もいろいろな形で防衛に参加できる、のではないでしょうか?

また当時もさまざまな疫病があったはず。

疫病対策として、この建物をみる、ということも大事そうです。

*****************************

それにしても、幕末期にこんな価値のある土地は大丈夫だったんだろうか、と思ったりしたんですが

よく考えてみれば、近藤勇はこの近くの出身でしたね。

つまり、かなり剛の者たちを育成していた、ということがあるのかもしれません。

ついつい京都での抗争や戊辰戦争ばかりを考えてしまいますが。

 

 

 

 

 


【コロナに負けるな!】第3弾 中部方面音楽隊「威風堂々(鶫真衣)」いまこそ音楽の力で心をひとつに

2020-06-19 13:05:47 | 平和を考える

本来であれば2020年は東京オリンピック開催の年でしたので、日本は世界中に平和を呼び掛ける機会を得ていたのに・・・・

ここは、厚かましく、日本の平和を発信してみたいと思ったりします。

とりわけ北朝鮮に届いてほしいですね。


6月9日のまち 東京・国分寺で その7

2020-06-16 18:47:21 | 歴史あれこれ

医王山最勝院国分寺は、分倍河原の戦いで消失し、その後新田義貞の寄進で薬師堂が再建されたとか。

徳川幕府は薬師堂に領地を与えて保護したとのことですが、今回、薬師堂に立ち寄らずに残念(泣

何の下調べもなく、地図もなく出かけたもので・・・・

 

本堂は1733年(享保18年)に再建、現在の本堂は1987年(昭和62年)に改築とのことです。

境内に、万葉植物園がありました。

前住職の方が武蔵国分寺跡を訪れるひとのためにと万葉集」に歌われた植物を約160種も例歌とともに展示してくださったのだとか。

目につくところに、ところづらがありました。所沢の地名の由来の植物です☆

万葉集の歌は

皇祖神(すめろぎ)の、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む

ところづらについて 

①「野老(ところ)」のつる 

② (枕詞)同音を重ねて「常(とこ)しく」に、またつるをたどって「野老」を掘ることから、「尋(と)め行き」にかかる

 

所沢に薬師の道があったりしたとかなので、「尋め行き」というのは医師や薬を求めて、ということでしょうか。

それとも歴史上ので足跡など尋ね人のようなことでもあるでしょうか。

 

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その6

2020-06-16 16:25:03 | 歴史あれこれ

武蔵国分寺跡の北に少し行くと、医王山最勝院国分寺という真言宗豊山派の寺がありました。

その国分寺の楼門は、東久留米市の米津寺から明治28年(1895年)に移築されたものだとか。

この楼門もまた、何か語りたい雰囲気を持っているように思われました。

この楼門があったという米津寺(べいしんじ)について こちら

米津出羽守田盛については こちら

その父である米津田政は こちら

 三河以来の譜代の名門で徳川家の信頼が厚く、江戸北町奉行を20年余りも務め、江戸幕府初期の治安維持に力を発揮したようです。

 別名を柄木田勘兵衛 勘繰ると 唐木田(大陸出身を想像させて強面演出といったことも?)

 その中で、大鳥逸平事件というものでは、自分の息子の1人も取り締まりの対象になり、津軽藩!にお預けになったのだとか。

 大鳥逸平については こちら     旗本奴とは こちら

このほかにも、調べると多くのエピソードが見つかります。

米津氏一族は、徳川家の戦いで戦死した者もいて、江戸時代になって重用されたこともあって、現代では名前の検索で芋づる式に細かい歴史がわかってくる貴重な存在といえます。

江戸の防衛がすこしわかってくるような。

狭山・天岑寺で、旗本小笠原一族についても、同じような感想があります。→ こちら

なぜ、私はここに? とすぐ妄想モードに。

その人たちがもしかしたらゆっくり休んでいられないとか?